〈黒き森〉の密猟者(前)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
<黒き森>での罠猟は禁止されています。
87〈黒き森〉の密猟者(前)
その時、リュディガーは雷に撃たれた様な衝撃を受けた。
「キャー!」
思わずマリアンは叫んでしまった。青年が一人店に入って来て、マリアンの顔を見た途端ぶっ倒れたのだ。驚くなと言う方が無理だ。
「フラウ・マリアン?」
奥で布の整理をしていた職人のアデリナが表に出て来る。
「アデリナ!ドクトリンデ・グレーテルを呼んで来て!」
「……っ!直ぐに行って来ます!」
床に倒れている青年を抱き起こしているマリアンを見るなり、アデリナはそのまま店のドアを飛び出して行った。
「……呼吸はしてるわね」
マリアンは青年を横抱きにして、応接室まで運びソファーに寝かせた。平原族に比べると、華奢に見えても森林族は意外と力持ちなのだ。人狼や採掘族には負けるが。
自分より背が高い相手でも、痩せていれば大した重さではない。〈乙女〉としては男を横抱きにするのは、如何なものかと思わないでもないが。
「顔色が悪いわねえ」
服の下に怪我でもしているのかもしれない。ナイフや細身の剣を腰につけているので、冒険者だろうか。邪魔なので、剣帯ごと外してしまう。
「マリアン」
「ドクトリンデ、お願い」
診療鞄を持った魔女グレーテルが、応接室に入って来た。後ろにはマーヤを抱いたアデリナがいる。
「アデリナ」
「はい。マーヤ、向こうで飴をあげましょうね」
「はいです」
察してくれたらしく、アデリナはドアを閉め、マーヤを店側に連れて行った。
「おやおや、誰かと思ったらリュディガーじゃないか」
「お知り合い?」
「同じ集落でね、弟みたいなもんさ」
森林族には集落が幾つかある。主に髪の色が金髪か黒髪かで、森林族には二系統あるのだが、特に不仲と言う訳ではない。系統は関係無く婚姻もする。
グレーテルは黒髪系統、マリアンは金髪系統だ。リュディガーも黒髪だった。
「この子は〈治癒〉が苦手でね。それなのに冒険者をしているもんだから、時々うちに顔を出していたんだが。服を脱がすから手伝っておくれ」
「ええ」
森林族でも〈治癒〉が苦手なものはいる。マリアンも苦手だ。そういった体質の者は、何か手に職を付け、集落を出る事が多い。
グレーテルとマリアンでリュディガーのコートとシャツを脱がすと、腕に血がじっとり滲んだ包帯が巻いてあった。シャツにも血が付き、穴が開いている。良く見るとコートにも穴がある。コートの色が濃いので、血の汚れが目立たなかっただけだった。
「まだ血が止まってないね。これは矢尻の傷か……何か薬が塗ってあった様だ。罠かね?」
包帯を取り、傷口を確かめグレーテルが呟く。しかし、それ以上は詮索せず、傷口を水の精霊魔法で念入りに洗浄し、〈治癒〉で傷を塞いだ。薄く傷痕を残して〈治癒〉し、グレーテルはマリアンを見た。
「血の気がかなり足りない様だ。済まないが、ここで暫く療養させてやってくれないか?あたしが毎日往診に来るから」
「構わないわよ。ドクトリンデだと、動かすのも大変よね。マーヤも居るんだし」
森林族でも筋力は男の方があるのだ。マリアンは心は乙女だが、身体は男だ。
リュディガーはマリアンの手で客間に移され、意識が無い間にグレーテルの手も借りて着替えさせられたのだった。
リュディガーが目を覚ました時、部屋の中は暗かった。枕元の小物箪笥に載っている光鉱石のランプが、一つ点いているだけだ。
「気が付いた?」
穏やかな声が降って来て、明るい色の髪をした森林族のとても綺麗な青年が覗き込んでくる。まあ、見た目では幾つか解らないのだが、多分リュディガーより歳上だろう。同族同士で、何となく解るのだ。
リュディガーは瞬きした。
「……月の女神シルヴァーナに、召されたのか?」
「死んでないわよ。ドクトリンデ・グレーテルが〈治癒〉したんだから」
「姉さんが?」
「覚えてない?うちは仕立屋の〈針と紡糸〉よ。入って来るなり倒れるから吃驚したわよ。お薬飲める?炎症止めですって」
半身を起こし枕で背中を支えて貰い、リュディガーはコップの底に入った薬湯を飲んだ。
「……」
顔を顰める。美味しくない薬湯なのを思い出した。グレーテルの嫌がらせではないと信じたい。
「はい、白湯よ。あと、口直しにこれ」
薬湯のコップの代わりに温めの白湯のコップを渡され、空いていた掌の上に白っぽい塊を載せられた。
白湯を口に含み、白い塊を目に近付けると、それは薔薇の形の砂糖菓子だった。有難いので素直に口に入れる。上品な甘さが口の中に広がった。
「何か食べられそう?あなた随分血が足りなくなってるそうよ。食べて栄養付けないと、ここを出て行けないわよ」
「腹は空いている……と思う」
「そう?じゃあスープ持って来るわね」
ベッド脇に置いてあった椅子に腰掛けていた青年が立ち上がり、部屋を出て行き掛けて振り向いた。
「私はマリアンよ。お気付きかもしれないけれど、心は乙女なの。気に障ったらご免なさいね」
「いや、全然気にしないから大丈夫だ。俺はリュディガー。薬草採集冒険者で樹木医だ」
「有難う。うちには職人のアデリナも住み込みでいるの。明日会わせるわね」
マリアンが微笑み、部屋を出て行く。
静かな足音が遠ざかって行くのを聞きながら、リュディガーは目に掛かる前髪を払い掛け、自分が着替えているのに気が付いた。夜着代わりにバスローブを着せられている。
(姉さんかな?それともマリアン?)
マリアンは驚く程綺麗な顔をしていた。いや、ただ綺麗なだけでは何とも思わない。物凄くリュディガーの好みだったのだ。
<黒き森>で怪我をした後、急いで風の精霊の力を借りてリグハーヴスまで戻って来た。冒険者ギルドに行く前に、眠り羊の毛糸でセーターを編んで貰えるのかだけ目に留まった仕立屋で聞こうとドアを開けたところまでは覚えている。どうやらそこで強烈な貧血を起こしたらしい。
「……っ!拙い、ギルドに知らせないと」
光鉱石のランプの暖かな明かりの中で、部屋の中にある書き物机の横に、自分の荷物と剣が置いてあるのが見えた。
リュディガーは掛布団を捲り、床に立ち上がろうとして、そのまま崩れる様に倒れた。
(何……?)
一瞬目の前が真っ暗になった。床にぶつけた身体が痛い。呆然と床に転がっていると、マリアンが慌てて戻って来た。
「何やってるの!急に起き上がったら駄目なのよ。血が足りないって言ったでしょう」
「ここまでとは思わなくて……」
「ベッドに戻すわよ」
マリアンは力が入らず動けないリュディガーを軽々抱き上げ、ベッドに戻した。密着したマリアンから、微かに花の様な香りがした。
(あ、良い匂い)
こんな時にそんな事を思ってしまった自分を、リュディガーは少し反省する。
「頭ぶつけなかった?」
「大丈夫。膝からいったから」
「私、<治癒>が苦手なのよ」
そう言いながらマリアンはリュディガーの膝に手を翳した。
「水の精霊、木の精霊、癒して頂戴」
弱い緑色の光が掌の下に点る。少しずつ膝の痛みが消えて行く。はっきり言ってリュディガーの<治癒>より使える。リュディガーは本当に<治癒>が使えないのだ。
だからと言って水や木の精霊と親和性が無い訳ではない。やたらと木の精霊と親和性があるので、調和が取れず<治癒>が使えないらしい。
膝の<治癒>を終えて、マリアンはふうと息を吐いた。マリアンは余り精霊と親和性が無いのだろう。森林族には珍しいが稀に居る。
「何か欲しい物があったの?言ってくれれば取るわよ?」
「精霊便を出そうと思って、紙と書く物を」
「紙と、鉛筆でも良いかしら?」
「うん」
マリアンは書き物机の引き出しから、紙と鉛筆を取り出した。「硬い物が要るわね」と同じ引き出しから、古い説話集を持って戻って来る。
説話集を下に敷き、リュディガーは冒険者ギルドに手紙を書いた。折り畳んだ手紙を、リュディガーの手からマリアンが抜き取る。
「封筒に入れて冒険者ギルドに送っておくわ。スープ持って来るまで、良い子で寝てなさい」
「……はい」
子供扱いだ。リュディガーは大人しくベッドに転がった。起き上がって暫くすると頭がくらくらする。本当に随分血を失った様だ。
その晩はマリアンが持って来てくれた肉団子入りの野菜スープを食べ、リュディガーは眠りに付いたのだった。
翌日は朝食を食べ終えた頃、魔女グレーテルがテオと一緒に現れた。テオは青みのある黒毛にオレンジ色の毛が混じる錆柄のケットシーを抱いていた。
「死にそうな顔色からはマシになったね。看病してくれたマリアンに感謝おし」
「姉さん……」
相変わらず口が悪い。
「冒険者ギルドに行ったら、フラウ・トルデリーゼに話を聞いて来てくれって頼まれたんだけど、話して大丈夫?」
テオはリュディガーの友人だった。が、知らないうちにテオは、ケットシーに憑かれていたらしい。
「横になっていれば構わないよ。栄養のある物を食べて血を増やす以外無いからね」
グレーテルのお許しが出たので、テオは革のモカシンを脱がせたルッツをベッドカバーの上に下ろした。自分もベッドの端に腰を下ろす。
「この子はルッツ。ルッツ、リュディガーだよ」
「リュディガー?」
ルッツがベッドカバーの上を歩いて手の届く場所に来たので、リュディガーは柔らかい毛を撫でた。大きな耳が可愛い。
「〈黒き森〉で怪我したんだって、トルデリーゼに聞いたんだけど」
「うん。いつもの様に薬草採集をしていて、罠に引っ掛かってね。低い位置に闘将蜘蛛の糸が伸ばしてあって、引っ掛かると矢が飛んで来る仕掛けだ」
「〈黒き森〉では罠猟は禁止だったよね?」
罠を仕掛けなくても、出て来る獣は冒険者ならあしらえる上、〈黒き森〉には國で保護する妖精が多数棲むからだ。妖精討伐は認められていない。
「罠があったのはケットシーが良く遊びに出て来る場所だった。辺りを探して罠を回収した後で、木の精霊に頼んで風景を少し変えて貰った」
リュディガーは道に迷わない。だから、ケットシーが居なくても〈黒き森〉を移動出来る。テオも持つこの体質を誰かが悪用した形だ。
「リュディガー並みに森の奥に行ける奴か。厄介だね」
リュディガーは自力でケットシーや他の妖精の棲み処にも行けるのだ。勿論、妖精達と友好関係を築き、見付け難い薬草を物々交換で貰ったりしている。
「罠は森を出た時に管理小屋に渡して来た。どうにも誰かに付けられている気がしたから、直ぐに風の精霊に頼んでリグハーヴスまで飛んで来たんだ」
「しかし、悪質な罠だな。矢尻に塗ってあったのは、血の止まりを遅らせる毒だ。リュディガーでこの状態なのに、身体の小さなケットシーならどうなっていたか」
グレーテルが腕組みをして眉を寄せる。魔女としては赦し難いのだろう。
「あ、ケットシーの王様に知らせなきゃならない。もし又罠が仕掛けられていたら危ない」
大事な所に連絡するのを忘れていた。どうにも頭に血が回っていない。
「リグハーヴス公爵にもだな。もう冒険者ギルドから行っているかもしれないけど。王様ケットシーの方は、<Langue de chat>に戻ってエンデュミオンに相談するよ。又来るね」
「おだいじにー」
リュディガーに抱き付いてから、ルッツはテオと下宿先だと言う<Langue de chat>に戻って行った。幼いケットシーに、正直かなり癒された。
ところで。
「姉さん、今エンデュミオンって言ってなかった?」
「ん?まだ会った事が無いのかい?<Langue de chat>のヒロに憑いているケットシーがエンデュミオンなんだよ」
大魔法使いエンデュミオンは、グレーテルやリュディガーと同じ黒髪系統の森林族だった。彼らより何百歳も歳上の森林族だったが。
「鯖虎で大きな黄緑色の眼をしているんだが、たまに目付きが悪くてねえ」
くすくすとグレーテルが思い出し笑いをする。
「その内見舞いに来てくれるかもしれないよ」
「え!?」
なにそれ怖い、と口に出そうになった。エンデュミオンは同族の森林族にも畏怖される、大魔法使いだったのだ。
六百年も王宮に囚われ、最期は正気でいられたのかも危ぶまれていた。その、エンデュミオンが。
(ケットシーになったとはなあ)
先程のルッツを思い出す。流石にあんなに無邪気ではないだろう。
「さあ、少しお休み。急に立ち上がったりするんじゃないよ」
どうやら昨夜の行動がバレている模様だ。
「姉さん、あの薬湯の味どうにかならないの?」
「甘味を付け様としたんだが、余計酷くなったから保留中だよ。薬草魔女のドロテーアとブリギッテに改良を頼んでみるよ」
「そうしてよ」
グレーテルはリュディガーの頭を撫でて、部屋を出て行った。
森林族の樹木医で採取者リュディガー登場。
魔女グレーテルの(大雑把に言って)甥です。
グレーテルの方が結構年上です(マリアンよりグレーテルの方が年上なのです)。




