リグハーヴスの薬草魔女
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
リグハーヴスに薬草魔女がやって来ます。
86リグハーヴスの薬草魔女
北東の街リグハーヴスはうっすらと雪が積もっていた。本格的に積もる前に到着する事が出来た様だ。
市場広場の裏路地にある、一階が店舗になっている一軒家の前で、ブリギッテは立ち止まった。
「おばあちゃん、ここじゃない?」
「そうね」
後ろから歩いて来た六十歳頃の上品な雰囲気の女性が微笑む。ブリギッテの祖母、ドロテーアだ。
「じゃあ荷物をお運びしますよ」
馬車降り場でトランク運びを請け負う荷物運びの青年が、荷物を積んだリヤカーをドアの前に停める。
「着いたのか?」
リヤカーから小さな影が飛び降りる。実際は影ではなく、黒いケットシーのラルスだ。鼻も肉球も、着ているフード付きのケープも黒いので、影の様に見えるのだ。一応ケープには銀色の糸で薬草の名前が沢山縫いとられているのだが。
ドロテーアが鍵を開け、ドアを開ける。半月程換気されていなかったらしい空気が、少し重く感じる。
「荷物はここで良いですか?」
ドアを入った場所にトランクや木箱を積んだ青年がドロテーアに訊ねる。
「ええ、有難う存じます」
「重い荷物があったら声を掛けて下さい。それか、この通りには仕立屋〈針と紡糸〉や、ルリユールの<Langue de chat>に男手があるので、声を掛ければ手伝ってくれますよ。あ、フラウ・マリアンは乙女ですけど」
最後の部分が意味不明だったが、この街の住人が親切だとは解った。
「さて、私は掃除を始めるから、ブリギッテとラルスは魔女グレーテルの所に挨拶に行って来て頂戴」
「おばあちゃんは?」
「私も後でお伺いするけれど、急ぎで必要な薬草があるかもしれないでしょう?すぐに出せる様に確認しておくわ」
「はあい」
ブリギッテはラルスを抱き上げた。ラルスはドロテーアのケットシーだ。眼の色が青と金色と片眼ずつ色が異なる、少し珍しい黒いケットシーなのだ。子供の頃から一緒なので、ブリギッテの兄の様な存在だ。
「丁度この向こう側ね」
来る時に通って来た市場広場に、魔女グレーテルの診療所があった。
「好い人だと良いね、ラルス」
「そうだな」
元々ブリギッテ達は南東のフィッツェンドルフで、薬草魔女の助産所をしていた。
薬草魔女とは昔ながらの薬草茶や薬草飴を用いた治療と、産婆を請け負う修業をした者の事だ。徒弟制であり、大抵は母から子へと受け継がれる。
ブリギッテはドロテーアの本当の孫ではない。孤児のブリギッテを引き取って孫として育ててくれたのだ。十三歳になったブリギッテも、薬草魔女として修業の身だ。
ラルスはドロテーアが若い頃、冒険者時代に〈黒き森〉で憑かれたケットシーだ。そもそも専門冒険者ではなく、薬草研究で〈黒き森〉に入っていたらしいのだが、ケットシーの集落に紛れ込んでしまったと言う。それからずっと一緒に居るのだ。
さくさくと浅い雪を踏み、ブリギッテはグレーテルの診療所に辿り着いた。診療所には、青銅の盾型看板に十字模様が透かし彫られている。これはどの診療所でも共通だ。
「こんにちは」
ブリギッテはドアを開けた。ドアの向こうは待合室になっていて、黒髪の少年が長椅子に座っていた。口元にハンカチを当てて咳をしている。そして、その少年の隣に鯖虎柄のケットシーが居た。
「ん?」
「お?」
鯖虎柄のケットシーとラルスの目が合う。そのケットシーは綺麗な黄緑色の眼をしていた。
すちゃっと鯖虎柄のケットシーが右前肢を挙げた。
「エンデュミオン!」
すちゃっとラルスも右前肢を挙げる。
「ラルス!」
ニヤリと鯖虎柄のケットシーが笑った。
「ふうん?久し振りだな」
「そうだな」
「エンディ、友達?」
けほ、と咳き込み少年が訊ねる。
「同じ頃に生まれたのだ。ラルスの方が随分早く〈黒き森〉を出たがな」
「そっか。俺は孝宏。宜しく。ええと、ラルスと、あなたは?」
「私は薬草魔女ブリギッテです。祖母とこの裏に薬草店兼助産所を開業しに引っ越して来ました。ラルスは祖母のケットシーなんです」
「あー、そう言えば薬草店閉まってたっけ。ドクトリンデが困ってたんだよね。俺も香辛料買えなかったし」
「薬草店で普通香辛料は買わないんだ、孝宏」
エンデュミオンが呆れた声を出す。孝宏はウイキョウや山梔子の実を買いに行っていた。勿論、料理に使う為に。
染色をやる者も、薬草店で買い物をするので、体調が悪い者だけが一概に利用する訳ではないのだが。
かちゃりと診察室のドアが開いた。森林族の女性と茶色の髪の幼女が出て来る。
「ヒロ、これが薬だ。分包にしてあるから、濃い目のお茶にして食後に飲むんだよ。イシュカが解っているだろう」
「お大事にするです」
「はい。有難うございます」
孝宏は診療費をグレーテルに渡した。
「帰ったらちゃんとお休みよ」
孝宏は素直に頷いた。
「はい。フラウ・ブリギッテ、ラルス、またね」
「帰るぞ、孝宏」
床に銀色の魔方陣が現れ、孝宏とエンデュミオンの姿が消える。〈転移〉して帰ったのだろう。
「お待たせしたね」
ブリギッテとラルスは診察室の奥にある居間に通されていた。
「雪が積もる前に来られて良かったよ。後七日もしたら、かなり降って来るからね」
「そうなんですか……」
南生まれのブリギッテには、現在の積雪量でも初めて見る雪の量だ。
「場所換えをさせられたんだって?」
「ええ、そうなんです」
フィッツェンドルフで開業していたドロテーアだったが、開けている港街だけに薬草魔女より魔女と医師の方が需要が高かった。
そこにフィッツェンドルフ生まれでリグハーヴスで開業していた薬草店の店主が、冬の寒さに耐えられなくなり、生まれ故郷に戻って来たいと領主に連絡して来たのだ。新たに開業する場合は領主の許可が要るからだ。
しかし、住みやすい南部は人口密度が高い。丁度良い空き店舗は無かった。
フィッツェンドルフの領主は、魔女や医師でも代用の利く薬草魔女ドロテーアに、店を空けろと命じたのだ。
追い出されては仕方がない。ドロテーアはフィッツェンドルフを見限り、若かりし時に居住経験のあったリグハーヴスの、領主アルフォンス・リグハーヴス公爵に開業依頼を出した。すると、思いがけずリグハーヴス公爵は直ぐ様、精霊便でドロテーアの開業を快諾してくれたのだ。荷馬車の費用まで出してくれて、かなりの歓迎ぶりだった。
リグハーヴスには現在のところ、薬草魔女は居なかったのだ。そして薬草に詳しいドロテーアに、薬草店も引き継いで欲しいと精霊便には書いてあった。
在庫の薬草を運ぶのは面倒だったのか、前の薬草店の店主は、薬草を残していってくれた。勿論、その代金は支払ったのだが。
今頃ドロテーアが、薬草の保存状態を調べているだろう。
「リグハーヴスにはこれまで産婆が居なかったからねえ。これで妊婦も安心だ。魔女より産婆の方がお産に詳しいからね」
「こちらこそ、手に負えない時にはご助力下さい」
グレーテルはフィッツェンドルフの魔女や医師とは違って、とても気さくだった。
「そうそう、この子はあたしの養い子でね、マーヤだよ。魔物だけど、領主の許しを得ているからね、仲良くしておくれ」
「宜しくです」
「はい」
マーヤはラルスと並んでソファーに座り、焼き菓子を食べていた。焼き菓子の大きな瓶詰めがソファー前のテーブルに置かれていて、そこからグレーテルが皿に取り出してくれたのだ。
「その子はドロテーアのケットシーかい?」
「はい、そうです」
「エンディと同じ年頃かね」
「うむ。そうだ」
市松模様の焼き菓子を前肢に持って、ラルスが答える。
「ヒロとエンディが居る<Langue de chat>には、他にルッツとヴァルブルガと言うケットシーが居るんだよ。ヴァルもラルスと同じ年頃だろうね。ルッツはまだ子供さ」
「ほう」
「遊びに行くと良いよ。貸本もしているからね。それと、さっきのヒロは〈異界渡り〉だから、たまに変わった事をやらかすよ。この菓子もあの子が作ったのさ。〈クランプスの夜〉の休憩所と女神教会のバザーと続いたから、体調を崩したみたいでね」
「〈異界渡り〉……」
あっさりとグレーテルは言うが、本来は王都や聖都で保護される〈女神様の思し召し〉の筈だ。
「エンデュミオンが憑いているから、王でも手が出せないのだな?」
「そう言う事だね」
ラルスにグレーテルは笑って、薄紫色の菫の花の形をした砂糖菓子を前肢に載せてやる。
「エンデュミオンって、あのエンデュミオンなんですか?」
「そうだよ」
「しかもケットシーだからなあ」
口の中に砂糖菓子を入れ、ラルスは頭を掻いていたが、ぴたりと動きを止めた。きらきらと色違いの目が輝く。
「これも美味い」
「ふふ。<Langue de chat>で一休みすると、焼き菓子とお茶をサービスで出してくれるぞ」
「よし、行こう」
俄然ラルスは行く気になっている。
「しかし薬草魔女ドロテーアといえば、薬草茶と薬草飴で確かな腕を持つ者だろう。あたしも薬草飴はドロテーアから取り寄せていたんだよ。フィッツェンドルフ公爵は見る目がないねえ。リグハーヴス公爵は絶対フィッツェンドルフに戻さないよ」
「有難うございます」
ブリギッテも祖母の薬草魔女としての腕を信じている。
「丁度のど飴が切れていてね。もし手元にあれば、<Langue de chat>のヒロに一瓶届けておくれでないかい?棒つきで無くて良いから。〈本を読むケットシー〉の看板がある店だよ。請求はあたしにおくれ」
「はい。承知しました。後程、祖母も御挨拶に参ります」
「引っ越して来たばかりで忙しいだろうから、無理しないで良いんだよ。これを少し持っておいき」
グレーテルは瓶詰めの菓子を、紙に包んでくれた。ブリギッテが手を出さなかったのを、気付いていたのだろう。
「有難うございます」
「かたじけない、グレーテル」
「ヒロのお菓子は人に分けたくなるのさ。ねえ、マーヤ」
「はいです」
グレーテルとマーヤに見送られ、ブリギッテとラルスは診療所を出て帰途に着いた。
以前の看板が外された店のドアを開け、ブリギッテとラルスは「ただいま」とドロテーアに声を掛けた。
「お帰り、二人とも。薬草は全部無事だったわ。この薬箪笥を作った職人は腕が良いのね」
「良かったー。あのね、おばあちゃん、ドクトリンデ・グレーテルはとても好い人だったわ。それから<Langue de chat>のヘア・ヒロにのど飴を届けて欲しいって。ヘア・ヒロは〈異界渡り〉なの」
「<Langue de chat>にはケットシーが三人も居るのだ。あと、グレーテルに菓子を貰ったぞ」
「あらまあ」
ブリギッテとラルスの報告に、ドロテーアは目を丸くした。次いで笑い出す。
「リグハーヴスでは楽しくなりそうね」
「うんっ」
「うむ」
ドロテーアは、まだ床にあるブリギッテのトランクを指差した。
「まずは好きな部屋に置いてくると良いわ。換気に窓を開けてあるから寒いかもしれないけれど。その間に木箱からのど飴の瓶を出しておくから」
「はあい」
トランクの持ち手を掴み、ブリギッテは店の奥にあるドアに向かった。店舗の構造は何処も似たり寄ったりだ。大抵が二階が住まいになる。
家具は先に送り出しているが、リグハーヴスの倉庫に預けられ、時間差で届くのだ。
ブリギッテは階段を上り、角にある部屋の端にトランクを置いた。まだ家具がなく、がらんとしている。
二階に三つある寝室には全てバスルームがあるのは、事前に聞いていた。一階にも診察室に出来そうな部屋とバスルームがある。台所と居間も一階だ。二階の空き部屋は入院する必要のある妊婦に使える。基本的にはお産は在宅でするものだが、状態によっては預かる場合もある。
「まずはのど飴のお届けね」
急がないと家具が来てしまう。
(何だか良いところな気がする)
フィッツェンドルフでは、薬草魔女は居心地が悪かった。でも、リグハーヴスではそんな気がしない。
ブリギッテは階段を駆け降りた。
「ブリギッテ、階段は静かに降りなさい。危ないでしょう」
「ごめんなさい、おばあちゃん。これ持って行くの?」
「そうよ」
カウンターに載せてあった、茶色い飴玉の入った小瓶をブリギッテは手に取った。肩から下げていたポーチに入れる。
「ラルスと一緒に行きなさい」
「はあい。行こう、ラルス」
「うむ」
黒いケットシーを抱き上げ、ブリギッテはドアを開けた。冷たい空気を胸に吸い込む。
これから始まる新しい街での暮らしが、とても楽しみだ。
「降って来たよ、ラルス」
「今晩は積もるぞ」
薄い青灰色の空から、真っ白な雪の結晶が、ゆっくりと舞い降り始めていた。
リグハーヴスに居なかった薬草魔女(助産師さん)が登場です。
エンデュミオンとラルスは王様ケットシーに一緒に育てられました。仲良しです。




