リグハーヴスの〈木葉〉
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
黒森之國にも、密偵が居ます。
83リグハーヴスの〈木葉〉
一口食べたケーキの皿を、カサンドラは押し退けた。
「違うわ。もっとふわふわとした生地だったわ、味も違うし。下がって良いわ」
試作のケーキを運んで来た菓子職人を下がらせ、カサンドラは不機嫌を露にする。
「んもう、何で作れないのよ。菓子職人でもない子が作った物なのに」
再現している菓子職人は、原形の菓子を食べていないのだ。すぐに再現出来なくても不思議はないのだが、カサンドラは子供の頃から思い通りになる事に慣れていた。
「フラウ・カサンドラ。ヘア・エメリヒがおいでになりました」
「兄上が?通して頂戴」
カサンドラの兄エメリヒは位階三位をも持ち、文官として王宮で働いている。
エメリヒはカサンドラの居間に入って来て、ソファーに腰を下ろした。
「また無い物ねだりですか?フラウ・カサンドラ」
親兄弟でも王の妃に対しては、丁寧な態度を取るのだ。
「兄上!」
カサンドラは子供の様に頬を膨らませた。
「無い物ねだりではありませんわ。実際あったんですもの」
「ですが、リグハーヴスの〈異界渡り〉なのですから、王宮には招聘出来ませんよ。王と聖都が認めません」
双方が〈異界渡り〉はリグハーヴスにあるべし、と言う決定をしている。しかも、ケットシーが憑いている。よりにもよってエンデュミオンと言う名前の。
「同居している他の二人のケットシーにもなつかれているとの報告が、〈木葉〉から来ています」
〈木葉〉とは密偵だ。公爵や上位の準貴族ならば、各地に駐在させているだろう。エメリヒも〈木葉〉を幾人も雇っている。彼らは一般人と同様に生活し、情報を収集する。
「では、彼と同じ技術を持つ者は居ないのかしら」
「居ない訳では無いみたいですよ。未成年の子供を弟子にしている様です」
「あら!」
カサンドラが両手を打ち合わせた。
「なら、その子達をローデリヒの妾にすれば良いわ。王族の妾になれるんだから、文句は無い筈よ。〈異界渡り〉から技術を伝えられるのを待って、王宮に呼べば良いわ」
「生憎ですが無理ですよ。その弟子達は婚約して教会に届け出をしていますからね。月の女神シルヴァーナの許可済みです」
月の女神シルヴァーナが許可したものは、王でも覆せない。
「それに王妃様が紹介した以上、〈異界渡り〉はあの方の専属になっているでしょう?」
「じゃあリグハーヴスだけが独り占めって事じゃないの!」
「レシピも公開していないのですから、仕方がありませんよ。売り出せば富が得られると言うのに、余程欲が無いと思われます」
「でも、聖都には焼き菓子のレシピを渡しているのよ?」
聖女が王宮に挨拶に来た折り、彼女の侍女である修道女がレモン味の焼き菓子を作り、王のお茶会に提供していた。
そのレシピをカサンドラは当然欲しがったが、〈異界渡り〉との約束だからと譲っては貰えなかった。
今では〈女神の焼き菓子〉と称され、聖都の女神教会に礼拝する信者に無料で配られていると言う。つまり、聖都に行かなければ手に入らない。
「せめてレシピが手に入れば良いのに……」
むくれた妹にエメリヒは苦笑する。
「〈木葉〉に探らせてみますが、王様にこの件でねだり事などなさらないで下さいよ」
妹の我儘をマクシミリアンが許しているのは、カサンドラに与えられた予算の範囲内で済ませているからだ。勿論エメリヒも目を光らせている。
第一王子のローデリヒが王太子にならなかったのは、このカサンドラの性格が大いに影響しただろう。
だが、〈異界渡り〉となると話は別だ。例えリグハーヴスから動かなくても、黒森之國に恩恵を与えるかもしれない存在なのだ。
下手な事をすれば、カサンドラの立場にも影響する。
カサンドラの居間を退室し、エメリヒは大きな溜め息をついたのだった。
リグハーヴスの女神教会に居る修道士ヨハネスは、精霊便を読み雇い主の妹を呪いたくなった。
(いかん)
エメリヒの〈木葉〉だが、ヨハネスは真っ当な修道士なのだ。勿論〈木葉〉をしているので、ヨハネスと言うのは本名では無いが、修道士になる時に通り名を変える事は認められている。出家する理由は様々だからだ。
ヨハネスはフィッツェンドルフ出身の修道士で、親がエメリヒの邸で働いていた縁で、〈木葉〉として赴任したリグハーヴスで密偵をする事になった。
(<Langue de chat>のレシピを手に入れられないかだと?無理に決まっているだろう)
精霊便を読み返し、毒吐きたくなる。が、修道士たるもの、汚い言葉遣いは控えるものとされている。口には出さずに堪える。
孝宏の弟子二人が婚約したと知ったのは、偶然司祭ベネディクトの手伝いをしている時に、彼らの父親が手続きをして行ったからだ。
その時にはカミルとエッダが孝宏の弟子になったとはヨハネスは知らず、後になり息子と娘及び、孝宏のレシピを流出させない為だろうと気付いた。
エンデュミオンが入れ知恵をしたのか、先手を打ったのだ。確かに、貴族や準貴族に対抗するにはそれしかないのだ。
何しろ所有者でも無いのに、〈異界渡り〉と婚姻する事は王でも出来ない。以前の〈異界渡り〉の場合は、所有者が王に移っていたからこそ、妃となったのだ。
〈異界渡り〉の代わりに、その技術を伝えられた者を手に入れたいと求める輩がいるのは想定内だろう。
「兄弟ヨハネス、出掛けますよ」
「はい、司祭様」
私室のドアがノックされ、慌ててヨハネスは修道服の袖の内側に作ってある隠しに手紙を入れた。
ドアを開けると、司祭ベネディクトが待っていた。手には紙が入った布袋を持っている。
ベネディクトは黒い修道服に頭巾を身に付け、ヨハネスはその上から袖無しの白い貫頭衣を着ていた。二人とも腰には真鍮鋼の鎖の先に〈星を抱く三日月〉のメダルを下げている。修道士の証だ。
「袋をお持ちします」
「有難うございます、兄弟ヨハネス」
ベネディクトはリグハーヴス生まれの修道士で、聖都で修行の後に司祭として地元に戻って来た純粋な修道士だ。彼は月の女神シルヴァーナとリグハーヴス公爵、そしてマクシミリアン王に仕えている。
当然、月の女神シルヴァーナの思し召しと伝えられる〈異界渡り〉は、聖都の決定通りにリグハーヴスで保護すべしと考えているだろう。
今日は、十二の月に行うバザーに出す品を募るお願いに回るのだ。バザーの売り上げは教会付きの孤児院に寄付される。
リグハーヴスにも孤児は居る。冒険者である親が地下迷宮に入る間はと預かったが、そのまま迎えに来なかった子供を数人面倒を見ているのだ。
修道士・修道女見習いとしているが、読み書き計算を学ばせ、本人の希望があれば職人の徒弟にもなれる。
リグハーヴス公爵夫妻からの寄付もあり、孤児院の子供達の衣食住に不足はなかった。
だが育ち盛りの子供なので、栄養のある物を食べさせたいとベネディクトは考えており、バザーでの寄付は有難いのだ。
こんな孤児院は珍しいと、ヨハネスは知っている。
ベネディクトとヨハネスは十一の月に入ってから街を少しずつ回り、バザーへの品物の寄付を頼んでいた。
寒風吹く中こうして歩くのも、修行の一つと考えているのか、ベネディクトは嫌な顔一つせず、一軒一軒笑顔でバザーについて書かれた紙を渡し、説明している。
品物を提供して貰う場合は、半銀貨一枚から三枚程度の物としている。
街の住民も皆信者であり、毎年の事なので鷹揚に頷いている。
品物でなくても、幾ばくかの寄付でも良いのだ。もしくはバザーで欲しい物を買えば、それが寄付になる。
<針と紡糸>は毎年、冬服や毛糸で編んだ手袋や靴下を子供達に直接寄付して貰っている。
「今年も採寸に行かせて貰うわ」と笑顔で言う仕立屋マリアンに、ベネディクトとヨハネスは礼を言い、店を出る。
「<Langue de chat>には、今年は頼めるでしょうか」
去年は開業したばかりであり、ベネディクトも何か寄付してくれとは頼めなかったのだ。
ちりりりん、りん。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、親方イシュカ」
カウンターには、赤みの強い栗色の髪の青年が居た。
「どうぞ、休んでいかれてください」
イシュカはベネディクトとヨハネスを閲覧用の席に案内した。会釈した孝宏がカウンターの奥に入って行く。
「十二の月に行うバザーのお話に来たのですが」
ベネディクトの言葉に、ヨハネスはバザーの日取りが書かれた紙をイシュカに渡す。
「はい、フラウ・マリアンに聞いています。うちもご協力させて頂きますよ」
「それは有難うございます」
「俺の作った手帳と、孝宏の菓子、ヴァルの編み物と刺繍ですね」
「そんなに宜しいのですか?」
ベネディクトとヨハネスは驚いた。
「ヴァルは器用なんですよ。作るのが楽しいみたいで、いつも作ってます」
そのヴァルブルガは〈予約席〉で編み針を動かしている。どう見ても自分と同じ位の大きさの、象牙色のケットシーの編みぐるみだ。
「もしかして、あれはバザーに出されるのですか?」
「この間作っていたのはマーヤにあげていたんですが。ヴァル、それはバザーの?」
「うん」
こくりとヴァルブルガが頷いた。
「それはそれは、かなり人気になりそうですね」
ベネディクトはにこにこしているが、ヨハネスは争奪戦にならないか不安になった。
「いらっしゃいませ、司祭ベネディクト、修道士ヨハネス」
孝宏が紅茶と小皿に載せた焼き菓子を運んで来た。
「ヘア・ヒロ、十二の月のバザーにご協力下さるそうですね。有難うございます」
「俺はお菓子の瓶詰めですけどね。司祭様、こちらは孤児院の子達のおやつにして下さい」
「クッキーだ」
孝宏の横に居たエンデュミオンが、抱えていた紙袋をベネディクトに渡す。
女神教会に孤児院が併設されていると知った孝宏は、ベネディクトが<Langue de chat>に顔を出す度にクッキーを渡す様になっていた。
「子供達が喜びます」
教会では乾燥果物以外の甘味が殆ど無い。たまに孝宏がくれる焼き菓子は、子供達が心待ちにしている物だ。
イシュカと孝宏がカウンターに行き、エンデュミオンはヴァルブルガが居る〈予約席〉の椅子によじ登った。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
食前の祈りを唱え、お茶と焼き菓子を頂く。
今日の菓子は初めて見るものだった。ラング・ド・シャとも違うが軽い生地の間に、チョコレート風味のクリームが挟んである。さくりとしていて、それでいてもっちりとした歯触り。
「ヘア・ヒロ、この菓子は?」
思わずヨハネスは訊ねてしまった。
「それはダッグワースです。卵白があったので作ってみました。マカロンより作るのが楽なんですよ」
そのマカロンなるものも解らないのだが、またもやベネディクトやヨハネスが知らないものを作ったらしい。
「ここの焼き菓子は日替りですから、次にこれと巡り会うのはいつか解りませんね」
にこにこしながら、ベネディクトがお茶を飲む。
「バザーでは、色んな焼き菓子を詰め合わせた瓶詰めにしますから、今回は<Langue de chat>のお客様ではなくても手に入れられるかもしれませんよ」
「おやおや、<Langue de chat>の場所は混みそうですね」
個人で提供する場合は、それらをまとめた台で売るが、店が提供する場合は、店毎で台を受け持つのだ。
「お菓子の瓶詰めはお一人様一つ、一家庭一つまでにしますけど」
「そうですね。その方が宜しいでしょう。皆にヘア・ヒロの菓子を楽しんで貰いたいですからね」
ベネディクトは欲の無い発言をする。そして本心でもそう思っているのだ。
確かに、買い占めする者がいそうだ。カサンドラだけではなく、他の領地の公爵や準貴族達が、<Langue de chat>の作り出す物に注目しているに違いないのだから。
(レシピを聞き出すのは無理だ)
エンデュミオンの視線が先程から痛い。実は孝宏のケットシーであるエンデュミオンは、ヨハネスが来る度に決して視線を外さないのだ。完全に〈木葉〉だとバレていると思われる。
(大魔法使いに抜け駆け出来ると考える方がおかしいだろう!)
目の端でエンデュミオンがニヤリと笑うのが見えた。ヨハネスが考えている事がお見通しなのだろう。
お茶を飲み終え、ついでにと安い方の手帳をベネディクトが買ってから、<Langue de chat>を後にする。
血筋が入っていたり、皺のある革を使って作られた手帳だが、上質の革で作られた手帳と何ら遜色が無いのが、イシュカの仕事だ。何度開いてもかがり糸が解れる事もない。
一度使えば他の手帳は使えないと、繰り返し買う客が多いと言う。
「さて、行きましょうか」
「はい」
クッキーの分重くなった布鞄を持ち、ヨハネスはベネディクトの後を追った。
リグハーヴス公爵領〈木葉〉ヨハネスから、エメリヒに宛てて届いた精霊便には、十二の月のバザーの日取りと「<Langue de chat>の菓子の詰め合わせ瓶が御所望ならば、誰か買いに来て下さい」と記されていた。
ヨハネスが「御一人様一つまで」と書かなかったのは、人数を送って来ての買い占めを防ぐ為である。
カサンドラの命で買い占めなどした日には、エンデュミオンに呪われるだろう。カサンドラに対する王の心象も悪くなる。
(それにこれ以上エンデュミオンに睨まれたくない)
あのキラキラした黄緑色の瞳が、夢に出そうなのだ。
悪い事をしていないのに、礼拝堂で祈りを捧げてしまいたくなる。
お陰で日々の聖務に励んでしまう、ヨハネスだった。
フィッツェンドルフ出身の側妃カサンドラの兄エメリヒの<木葉>ヨハネス。
本職の修道士ですが、リグハーヴスで見聞きした事をエメリヒに知らせています。
が、エンデュミオンが孝宏と<Langue de chat>に来たのが運の尽き。確実にエンデュミオンに<木葉>だとばれています。
はっきり言って、カサンドラがエンデュミオンに呪われるのは兎も角、自分が呪われるのは割に合わないと思って居たり。
<Langue de chat>に行く度、ケットシー達の視線にさらされるヨハネスでした。




