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王太子とローズ・アップルパイ

ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。

エンデュミオンに、黒森之國で行けない場所はありません。


60王太子とローズ・アップルパイ


 王太子レオンハルトから本が戻って来た翌日、孝宏たかひろは革袋に入れた新しい本と共に、籠を用意した。籠の中には蝋紙に包まれたローズ・アップルパイが十個ばかり入っている。

 レオンハルトは返却して来る時に、本の感想等を書いた手紙を挟んで来るのだが、その中で本と共に送った菓子は専属騎士とメイド、塔の魔法使いと一緒にお茶のおやつにすると書かれていたからだ。

 ならば、クッキー(プレッツヒェン)ばかりでなく、たまには違う物も送ってやろうと思ったのだった。

「今日はエンデュミオンが持って行く」

「行っても大丈夫なの?」

「ああ。一寸覗いて来る」

「気を付けてね」

「うん。<転移陣。王宮の魔法使いの塔>」

 居間の床に置いた革袋と籠の横に立ち、エンデュミオンは転移陣を呼び出した。銀色の魔法陣が床に浮かび上がり、一瞬でエンデュミオンを目的の転移陣に移動する。

 王宮の離れにある魔法使いの塔は、一階に転移陣がある。薄暗い塔の一階の床にぼんやりと光る転移陣に出たエンデュミオンは、風の精霊(ウィンディ)に頼んで本の革袋とアップルパイの入った籠を浮かせて貰う。ケットシーの腕は短い。両方は持てないのだ。

 塔の壁を伝って上へとぐるりと伸びている階段を、エンデュミオンはゆっくりと登った。二階の部屋のドアノブに手が届かないので、木の精霊(エルム)に頼んで蔦を伸ばし、一応ノックをしてからドアを開けて貰う。

「……」

 ドアの向こうは居間になっていた。居心地の良い居間だが、床にはあちこちに魔法書や衣服が落ちている。ソファーには黒いローブを毛布代わりに、魔法使いの青年が寝ていた。

 エンデュミオンは無言のままソファーまで行き、眠りこけている魔法使いの額を思い切り前肢で引っ叩いた。

「痛いっ!」

 魔法使いの青年が飛び起きた。人狼らしく立派な小麦色の尻尾の毛が心なしか逆立つ。

「何か今チクッてした!虫!?」

「エンデュミオンの爪だ」

「うわっ」

 足元に居たエンデュミオンに、青年が飛び退く。

「お前がフィリーネの弟子のジークヴァルトか?」

「ええと、もしかして大師匠おおせんせいですか?」

「エンデュミオンだ」

「ハジメマシテ」

 額を撫でつつ、ジークヴァルトは内心呻いた。可愛い鯖虎柄さばとらがらのケットシーだが、中身は決して可愛くないに違いない。

「今はお前がここに住んでいるんだろう?」

「はい」

 ぎらりとエンデュミオンの黄緑色の瞳が光った。

「本を棚に入れて、脱いだ服は一か所に纏めてから、風呂に入って来い」

「う……はい」

 三日風呂に入っていなかったのがばれたのだろう。ジークヴァルトは素直にエンデュミオンの言う事を聞いて、部屋を片付け風呂に向かった。

 綺麗になったテーブルの上に、本の革袋と籠を下ろし、エンデュミオンは山になっている洗濯物を魔法で洗った。魔法使いならば簡単な魔法の筈なのに、随分とジークヴァルトはものぐさらしい。

 乾かした洗濯物をソファーの上に山にしたところで、一階入り口の扉の鍵が開く音がした。仕掛けが動くので、居間に居ても解るのだ。

 階段を上って来る三人分の足音の後、居間のドアが開く。

「ジークヴァルト、居るか?」

 最初に顔を出したのは騎士のハインリヒだった。その後ろにエンデュミオンが初めて見る侍女とレオンハルトが居た。

「エンデュミオン!」

「え!?こちらのケットシーが大魔法使い(マイスター)エンデュミオンなのですか?」

 驚くレオンハルトと侍女に、エンデュミオンが鼻の頭に皺を寄せた。

「エンディで良い。ジークヴァルトなら風呂だ。侍女が居るなら丁度良い。これを畳んでくれないか」

 ケットシーの手は洗濯物を畳むのに適しているとは言えない。

「わたくしはティアナと申します。エンディ」

 淑女の礼(カーテシー)で頭を下げてから、ティアナは手早く洗濯物を畳んで行った。あっという間に畳み終え、重ねた洗濯物を居間から行ける寝室へと運んで行った。

 ジークヴァルトが風呂から上がって来た時には、エンデュミオンと本を読むレオンハルトが並んでソファーに座り、ティアナが台所でお茶を淹れていた。

 もそもそと、ジークヴァルトが一人掛けのソファーに腰を下ろす。

「先程はお見苦しい所をお見せしました。今日は何かご用でしたか?」

「いいや。気紛れだ。レオンハルトの本を届けに来た」

 エンデュミオンならば、黒森之國くろもりのくにの中ならば、何処にだって飛んで行けるだろう。

「お待たせ致しました」

 ティアナがティーカップとティーポット、菓子皿を盆に載せて居間にも戻って来た。

 カップに紅茶シュヴァルツテーを注ぎ、各自に配る。エンデュミオンのカップだけ持ち手が二つあり、初めからたっぷりと牛乳ミルヒが注がれていた。そこに紅茶を追加するのだから、ぬるいミルクティーになる。

「今回はクッキー(プレッツヒェン)では無いのだ。孝宏がたまには違う物をと作ったアップルパイだ」

「パイですか。生地は開発されたものの、作れる菓子職人はまだまだ少ないそうですが」

 現在のところ、タルト型に生地を敷き込んで焼き上げた器に、果物やクリームを入れる菓子が主流だ。各店はフィリングの違いで、独自性を出そうとしていた。上流階級のお茶会用に、指先で摘まめる小さなタルト型も作られている。

 そう、パイ生地は〈食べられる器〉としかまだ使われていなかった。

 黒森之國ではパンを皿がわりに使っていた経験が根深いのである。

 ティアナの話を聞き、エンデュミオンはニヤリと笑って、籠の持ち手を前肢の肉球で叩いた。

「食べてみると良い」

 ティアナは藤細工の籠の蓋を開けた。中には蝋紙で包まれた物が幾つも入っている。一つずつそっと取り出し、菓子皿に載せて配る。

 エンデュミオンは、帰れば食べられるので断った。

 両端を捩ってある蝋紙をほどき、レオンハルト達は息を呑んだ。蝋紙の中には、一輪の薔薇ローゼが入っていた。

「これは……パイなのか?」

「パイ生地を使っているぞ。薔薇は使っていない。孝宏はローズ・アップルパイと呼んでいたが」

 薔薇からは林檎アプフェル肉桂シナモン、バターの香りが上って来る。本当に菓子なのだ。

「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」

 食前の祈りを早口で捧げ、レオンハルトはアップルパイに歯を立てた。土台の部分はパイでさくりと、上にはしっとりとした林檎が花開いている。

「美味いか?」

「ああ、とても」

「ふうん?」

 エンデュミオンは目を細め、カップの持ち手に両前肢の先を突っ込み、ちゃむちゃむと飲み頃のミルクティーを舐めた。

 ジークヴァルト達もアップルパイに口をつけ、目を見張っている。

 一つ目のアップルパイを彼らが食べ終えたのを見てから、エンデュミオンは思い付いた様に言った。

「レオンハルト、お前の弟は元気にしているぞ。エンデュミオンとヴァルブルガで名付けの祝福をしたからな。名前を着けたのは孝宏だが」

「弟……?私にはエトヴィン以外に弟は居ないが」

 レオンハルトが怪訝そうな顔になる。レオンハルト以外の者の顔がさっと強張るのを見て、エンデュミオンはソファーの座面を尻尾でピシャリと叩いた。

「先頃産まれたリグハーヴス公爵の息子は、マクシミリアン王の庶子フィッツロイで、お前の腹違いの弟だ。王家の色を継いでいるから、下手に里子に出せずにアルフォンスが引き取ったのだ。側妃の養子にでもなったら、継承権騒ぎになるからな」

 側妃の息子である第一王子は、継承権を剥奪されているのと同じだ。庶子フィッツロイであろうが王の血を引き、正式な妃の養子となれば継承権を要求出来る。

「〈無かった事〉にしようとしているのかもしれんが、お前も王になる者ならば知っておけ。お前の弟の名前はヴォルフラムと言う。世間的にはリグハーヴス公爵の嫡子だがな」

「ヴォルフラムの実の母親は?」

「王をたばかったからな。出家の上聖都(シルヴィアナ)に送られたぞ。子供は死産した事になっている」

「そうか……」

 ティーカップのミルクティーを綺麗に舐め尽くし、エンデュミオンはテーブルに置いた。

「責任は王にもある。だからエンデュミオンは〈無かった事〉にはしない。レオンハルトは同じてつを踏むな」

「解った」

「リグハーヴスのヴォルフラムについては心配するな。ヴァルブルガもルッツも気に入った様だから」

 レオンハルトはヴァルブルガと言う名前を知らなかったが、どうやらケットシーらしい。いつの間にか増えたのだろう。

「じゃあ、エンデュミオンは帰る。孝宏が心配するから」

 籠は本と一緒にしておいてくれれば、自動返却に含まれるから、と言い置いてエンデュミオンは転移陣を呼び出すと帰って行った。


「あんなに簡単に転移陣を使われるとなあ」

 床や地面に刻まれた転移陣を使わず、呼び出した物を使うとは。魔法使いとしては上級のジークヴァルトだって簡単には出来ない。

 レオンハルトは専属の部下に視線を向けた。

「……父上に庶子フィッツロイが居たのは、知っていたか?」

「メイドは噂好きですから。表立ってそんな事を言えば命が幾つあっても足りませんけれど」

 王が〈無かった事〉にしようとしているのだから。

「ケットシーの加護を得たのなら、ヴォルフラムは大丈夫なのだろうな。伯父上が引き取られたのだし」

 アルフォンス・リグハーヴス公爵は、レオンハルトの母親エレオノーラ王妃の兄だ。エレオノーラは信頼して兄に庶子フィッツロイを預けたのだろう。

 レオンハルトはアップルパイをもう一つずつ彼らで分け、残りを持って王妃エレオノーラの居室に向かった。

「母上」

「いらっしゃい。レオンハルト」

 エレオノーラはティーテーブルでハンカチに刺繍をしていた。上流階級の夫人達にはハンカチに刺繍を刺すのが流行していた。勿論自分で刺さず、侍女や職人に作らせる者も多い中、エレオノーラは自ら針を持っていた。

 裁縫道具を入れている籠に作りかけの刺繍や針山を戻し、侍女に片付けさせ、レオンハルトに椅子を薦める。

「母上、人払いを」

「わたくしとレオンハルトの専属以外は下がりなさい」

 部屋の中には、ティーテーブルの近くに侍女二人と、ドアの内側に騎士が二人残り、それ以外は廊下に下がって行く。

「ティアナ」

「はい」

 レオンハルトが声を受け、ティアナはエレオノーラの侍女とお茶の支度に行った。戻って来た時には、茶器と蝋紙を取り菓子皿に載せたローズ・アップルパイを運んで来る。

 侍女がそれぞれの主の前に菓子皿とティーカップを置く。

「まあ、綺麗。これはどちらの菓子屋ですか?」

「リグハーヴスのルリユールの店員が作ってくれた物です」

「ルリユールが?」

「母上もお聞き及びかと思いますが、リグハーヴスの〈異界渡り〉です。貸本を送ってくれる時に、菓子も送ってくれるのです。今回は、ケットシーのエンデュミオンが持って来てくれました」

「エンデュミオン、ですか」

 エレオノーラは兄のアルフォンスから手紙で、領内に〈異界渡り〉とエンデュミオンが居る事は知らされていた。しかし、王宮までやってくるとは思いもよらなかった。

「エンデュミオンは私の()()が元気でいると、教えてくれました」

「聞いたのですか?」

 レオンハルトの含みのある言葉に、エレオノーラは持ち上げ掛けたカップを置いた。

「はい。エンデュミオンは〈無かった事〉にはしないそうです。私に同じ轍を踏むなと警告を」

「そうですか」

「ヴォルフラムにはケットシー達が加護を与えたそうなので、元気に育つでしょう。会うのが楽しみです」

 エレオノーラは、庶子フィッツロイに〈重き石(ヴォルフラム)〉と言う意味の名を着けたと、アルフォンスから知らされていた。リグハーヴスから動かない、と言う意味にも取れる。

 ヴォルフラムが庶子フィッツロイだと勘づいている者達に、王への翻意は無いと表しているのだ。

「兄上とロジーナには負担を掛けてしまいます。彼らに迷惑がこれ以上掛からない様に、レオンハルトも気を配って下さい。カサンドラの動きにも注意が必要です」

「はい。母上」

「あの人もエンデュミオンにばらされるとは思わなかったでしょうね」

 くすりとエレオノーラは笑った。加護を得る為、アルフォンスはエンデュミオンに説明したのだろう。そうでもしなければ、あの隠居した大魔法使いは梃子てこでも動かなかったに違いない。

(可愛らしいが頑固だと、兄上の手紙にありましたものね)

「レオンハルト。この事は秘密ですよ?」

「解っております、母上。この部屋には薔薇があるではありませんか」

 菓子皿の上に載る、薔薇が。

「では、秘密のお話は終わりにして、頂きましょうか。良い香りね」

 甘い林檎の香りが食欲を誘う。

 食前の祈りを唱え、エレオノーラはナイフとフォークを持ち、上品にローズ・アップルパイに手を付けた。

「美味しいわ。パイ生地をこんな風に使うだなんて、初めてね」

 王宮の菓子職人もタルトの器としてしか使っていなかった物を。芸術品の様な菓子にするとは。

「孝宏は菓子職人でも料理人でもないそうです」

「あらあら。黒森之國の職人なら、彼の技術を欲しがるでしょうにね」

「技術を売ったりする気は無い様です。孝宏にそれだけの技術があると、まだ気付いている人が少ないのでしょう。彼が居るのは小さなルリユールですし、弟子を取るかどうか……」

 レオンハルトは孝宏がカミルとエッダを弟子にした事をまだ知らなかった。

「ケットシーとリグハーヴスの領主が目を光らせて居ますからね」

 リグハーヴス公爵領に居る以上、一番最初に〈異界渡り〉の恩恵に預かるのはリグハーヴスでなければならない。他の領の者がちょっかいを掛けて来た場合、リグハーヴス公爵は異を唱える権利がある。

 実際の保護主はイシュカでありエンデュミオンでもあるのだが、〈異界渡り〉が居住する土地の領主もまた、彼の所有権の一部を有する。

 アルフォンス・リグハーヴス公爵は、〈異界渡り〉である孝宏に自由な生活を許しているが、これは稀な事なのだ。勿論、孝宏を幽閉などしようものなら、エンデュミオンに呪われるからだが。

「孝宏は、お菓子の注文をしたら、受けてくれるでしょうか」

「量にもよると思いますが」

 取り寄せ自体は、転移陣を使えば可能だろう。

「今度のお茶会に、このお菓子を出したいものですね。手紙を書いてみましょうか」

 王妃や側室、貴族、準貴族の出る茶会は、腹の探り合いでもあるが、新しい物を公表する場でもある。

 そこにこの菓子を出せば、皆の度胆を抜くだろう。

(ふふ、面白いでしょうね)

 自分の出身領に降りた〈異界渡り〉がどの様な人物なのか、会ってみたいと思うエレオノーラだった。



エンデュミオン自らお届けに出掛けました。

レオンハルトは愚かでは無いので、忠告です。

黒森之國では薔薇がある部屋で語られた事は秘密扱いとします。


薔薇を天井から吊るしたり、ドアに飾った部屋では「そこで語られたり、行われた事は全て秘密ですよ」という意味がある、エジプトの逸話から拝借。


薔薇のパイはクックパッド他、お料理本「あっ!妄想グルメだ!」(いとうりえこ)KADOKAWA を参考にしました。

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