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薔薇の書

ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。

新刊、入りました。


6薔薇の書


 ちりりん。ちりん。

 ドアベルが鳴り、冷たい初冬の風と共に肩にショールを巻き付けたアンネマリーが入って来た。今日はエッダが一緒ではなく、彼女一人だ。

「いらっしゃい、フラウ・アンネマリー」

「ヒロ!これ素晴らしかったわ!」

 アンネマリーは胸に抱く様にしていた、薔薇色ローズ・ピンクの表紙の本を孝宏たかひろに突き出した。 

 イシュカとエンデュミオン以外は<孝宏>と呼び難いらしく、<ヒロ>と呼んで貰っている。

 彼女が持っているのは<Langueラング de chatシャ>の新刊だ。孝宏は女性向けの所謂いわゆるハーレクインロマンスを書いてみたのだが、生憎男しか居ない<Langue de chat>だ。女性の反応が欲しいと、先日エッダと訪れたアンネマリーに試し読みを頼んでいたのだ。

 無料で本が借りられるとあって、アンネマリーは二つ返事で試し読みを引き受けてくれた。

 タイトルは<薔薇の輪の下で>。黒森之國くろもりのくにに似た架空の國の領主の三男が、平民の娘と恋に落ちると言うハッピーエンドの物語だ。

 書く前にイシュカとエンデュミオンに確認したのだが、王族が平民の娘と結婚しても、正妃になる事などあり得ないらしい。妾か良くて側室止まりなのだそうだ。

 黒森之國の平民の娘は文字すら読み書き出来ない者も居る。それが場合によっては夫に代わって外交も行わねばならない正妃になど、逆立ちしたって慣れないと言う。

 他の王族や臣下の大反対にあう事は必須だし、針のむしろの生活になるだろう、と聞いた孝宏は、地位はあるが國の政治と家の継承問題からは遠い領主の三男、という位置付けにしたのだった。

 それでも、二人の身分差の葛藤や娘の見合い話などを絡めれば、結構読者をやきもきさせつつハッピーエンドへと導けたと自負している。

「これ、女性には楽しめると思うわ」

「有難う」

(一応、成人指定にしておいた方が良いかなあ)

 キスとハグ位しかしていない設定だが、これをエッダが読むのは明らかに早い。やはり成人指定にしておこう。黒森之國も成人年齢は十六歳だ。

「こういうお話、又読みたいわ」

『出来たら又試し読みしてくれる?』

 長い文は黒森之國語で言えないので、エンデュミオンに通訳を頼む。アンネマリーは「喜んで!」と言って、軽い足取りで帰って行った。


 エルゼはリグハーヴスの領主館で働くメイドの一人だ。十六になったばかりで、一番の下っ端メイドだ。キッチンでコックに付いて、洗い物や野菜の下拵えを主にしている。

 領主館では大抵の物は御用聞きが配達に来てくれるが、一寸ちょっとした物の頼み忘れなどは、エルゼが買いに行く。

 住み込みなので丘の上の領主館からエルゼが街に下りて来るのは、そう言ったお使いの時か、週に一度の交代で取る休日の時だけだった。

 領主のアルフォンス・リグハーヴス公爵と妻のロジーナ夫人は、真面目に働く召使達に優しい主だった。給金は月に一度まとめて支払われるが、それとは別に休暇の日のお小遣いにと銅貨三枚を与えてくれた。これは休日の前日に執事から渡される。

 このお金は貯めても良いし、街に下りて好きな物を買って来ても良いお金だった。

 エルゼも休日のこのお小遣いだけは仕送りに含めず、自分の為に使う事にしていた。

 お仕着せのメイド服の方がよっぽど仕立てが良いと思いながら、エルゼは私服の少し色褪せた青いワンピースを着て胸元の紐を結んだ。

 エルゼの家は貧しい。だから長女のエルゼは働いてお金を仕送りする為に、住み込みで働いているのだ。まだまだ着られるのだから、多少色が褪せていても我慢だ。肩から茶色い革のポーチを下げ、数年前に自分で編んだ紡いだままの毛色のショールを肩に巻き、エルゼは裏口から領主館を出た。

 領主館の使用人が住まう別棟はやはり賑やかだし、自分だけが休みで部屋に居るのも気になってしまうので、エルゼは休日には外に出る事にしている。

 領主館の囲壁の門を護る騎士に会釈をしてから、街へと続く並木道をゆっくりと歩いて下り、エルゼは石畳の感触を靴底で楽しみながら、店の陳列窓を眺めた。

 休日のエルゼの使えるお金は銅貨三枚だけだ。食堂で食事をすればそれで終わりだが、食事は領主館に戻ればまかないがあるので我慢だ。

 エルゼはいつも脚が向くまま路地を歩く。日中ならば危ない事は無いので、毎回順路を変えるのだ。

(あら?このお店は初めて見るわ)

 扉の所に<本を読むケットシー>の青銅の吊り看板が下がっている。

(<Langue de chat>って、何て読むのかしら?)

 窓から見えるのは、居心地の良さそうなテーブルとソファー。そこにぴょこんと灰色のケットシーが顔を出した。

「きゃっ」

 向こうも窓の外を覗いたらエルゼが居たのでびっくりしたのだろう。黄緑色の目を大きく開けて瞬きした後、前肢で手招きした。

「えっと……」

 エルゼが窓を指差し首を傾げると、こくこくと頷き手招きする。入って来いと言っている様だ。

(折角のお休みだし……)

 たまには違う事もしてみようと、エルゼは<Langue de chat>のドアを開けた。


『孝宏、お客さん』

『ん?』

 窓の外を覗きに行ったエンデュミオンが、唐突にそんな事を言うので、棚を乾拭からぶきしていた孝宏は聞き返してしまった。

 ちりりん、りん。

 ドアベルが鳴り、孝宏と同年代位の少女が入って来た。根元の色が濃い金髪をしている。大きな青い瞳が孝宏とカウンターのイシュカを交互に見た。

「いらっしゃいませ」

「あの、こちらのケットシーに……」

「いらっしゃいませ」

 とことことエンデュミオンが閲覧スペースからやって来た。どうやら窓の外で見掛けて、招いたらしい。イシュカは少女に微笑んだ。

「この店はルリユール。製本と痛んだ本の修復をしています。そちらの棚の本は試し読みが出来ますので、宜しければどうぞ。貸本もしていますので」

「えっ、こんな綺麗な本を借りられるんですか?」

「一回一冊で代金は銅貨三枚、期限は二週間です。お早目の返却であれば、期間内に無料でもう一冊借りられますよ」

「銅貨三枚……」

 少女はぎゅっとポーチの紐を握った。彼女にしてみれば、銅貨三枚は安くないのだろう。

 孝宏はゆっくりと棚にある本を説明した。

「この棚の本は、子供でも読める物語です。上の棚の本は、成人された女性にお勧めの本です」

 蜂蜜色と若草色の本はエッダでも手が届く高さの棚に入れてあるが、薔薇色の本は彼女がまだ届かない高さの棚に入れてある。そこには棚に入れたばかりの<薔薇の輪の下で>が二冊入っていた。

 少女はそっと薔薇色の本を手に取った。

「借りて行かれますか?」

「あ、お願いします」

「ではこちらでお名前とお住まいをお伺いします。俺は店主マイスターのイシュカ。こちらは店員の孝宏とエンデュミオンです」

 少女の名前はエルゼと言って、領主館のメイドだった。貸出手続をするときびすを返し掛けたので、イシュカはエルゼを呼び止めた。

「フラウ・エルゼ、お時間があればあちらで一休みされて行かれませんか?お茶(シュヴァルツテー)お菓子(プレッツヒェン)をサービス致します」

「こっちこっち」

 良く見ると灰色にそれより少し濃い縞模様のあるケットシーが手招きする。緑色の布張りのソファーに腰掛けて間も無く、黒髪の少年がお茶とお菓子を運んで来た。

 おしぼりで手を拭いて、紅茶に砂糖を一つ入れ、ミルクを注ぐ。焼き菓子を割り、齧ってみるとほんのりと甘く、胡桃が入っていた。

(美味しい)

 働き始めてから、お菓子は久し振りだった。作る手伝いはしても、自分の口には入らない。

 冷たい風で冷えた身体に、熱いお茶は有難かった。濃くなり過ぎない淹れたてのお茶も久し振りだ。下っ端メイドは残り物で最後に食事を摂るからだ。量は充分だが冷めているのが残念だったが、たまにこんな美味しい物を口に出来るとほっとする。

 お茶とお菓子を食べた後で開いた薔薇色の本は、架空の國の領主家の三男と平民の娘の恋物語だった。誠実だが貧しい平民の娘が収穫祭で領主の三男と出会い、お互いに惹かれて行く経過が丁寧に描かれ、領主の三男の姉の妨害や娘の見合い話が持ち上がるなど、はらはらしながらページを捲る手が止まらなかった。ただ、エルゼはすらすらと文章が読める訳では無い。ゆっくりとしか読めないので、気が付くと随分時間が経っていた。

「いけない……」

「今はお昼過ぎですよ」

 エルゼが時間を気にしたのに気が付いたイシュカが教えてやると、少女は礼を言って立ち上った。

 領主館に戻らないとお昼ご飯を食べ損ねてしまう。午後からは部屋で本を読む事にする。寒いので午後に再び領主館から出るのは流石に億劫だ。

「ご馳走様でした。美味しかったです」

「他にも本がありますから、またいらして下さい」

「またね、エルゼ」

 タカヒロと言っていた少年は奥に入ったらしく、イシュカとエンデュミオンに見送られ、エルゼは薔薇色の本を胸に抱いて領主館への緩やかな坂道を上った。


 領主館に戻ったエルゼは一度自分の部屋に戻り、ベッドの枕の下に薔薇色の本を隠した。ヘレナと言う少女と相部屋なのだが、彼女は一寸遠慮が無い所があるのだ。

 それからキッチンに行き、残っていた賄いを食べてから再び部屋に戻った。

「続きはどうなったかしら」

 ベッドに腰掛け、エルゼは<薔薇の輪の下で>の続きを読み始めた。夢中で読んでいたらしく、読み終わってから初めて、いつの間にかベッド脇の小物箪笥に置いてある、暗くなると自動的に灯る、光鉱石のランプが点いていたのに気が付いた。

「エルゼ、あなた晩御飯食べないの?下りて来ないと片付けられちゃうわよ」

「あ、そうね。有難うヘレナ」

 ノックも無しにドアを開けたヘレナに、エルゼは慌てて本を枕の下に押し込んだ。

「すぐに行くわ」

「お風呂の順番ももうすぐよ」

「ええ」

 入浴の用意をするヘレナと入れ違いに部屋を出て、エルゼは冷めた夕食を済ませた。そして入浴の準備の為に急いで部屋に戻ったエルゼが見たのは、自分のベッドに座って薔薇色の本を読んでいるヘレナだった。勝手にエルゼのベッドから取ったのだ。

「ヘレナ……」

「これ面白いわね。読み終わったんなら、あたしが読んでも良いでしょ?」

 エルゼはそっと溜め息を吐いた。ヘレナはエルゼより二つ年上で、気が強く言い出したら我を通す性質だ。

「それは貸本で借りて来た物なのよ。期限内に返さなくてはならないから、読んだら私のベッドに戻しておいてくれる?」

「はいはい、解ったわ」

 召使用の風呂場に一緒に入浴しに行った後、ヘレナはエルゼが眠った後も本を読んでいた様だった。

 翌朝、眠そうな顔をしているヘレナに、エルゼはもう一度「読み終わったらベッドに戻しておいてね」と言い置いて、キッチンメイドの仕事に行った。

 しかし、夜になり部屋に戻ったエルゼのベッドに、薔薇色の本は無かった。戻って来たヘレナを問い詰めると、同期のメイドに貸したと言う。

「貸本で借りたんでしょ?期限内に返せば良いじゃなの」

「私が借りて来たんだから、責任があるわ。きちんと返して貰って来て」

 そう頼んだにも関わらず、薔薇色の本はメイド達の間を回し読みされ続けた。明日が次の休日になると言う日、ヘレナは「あの本ならメイド長が持ってるわよ」とエルゼに言った。

 仕方なく、エルゼはメイド長の元に向かった。早めに返せば銅貨三枚でもう一冊借りられるのだ。それにエルゼが借りた本なのだから、エルゼが責任を持って<Langue de chat>に返さなければならない。

「メイド長」

 エルゼはメイド長の部屋の扉を叩いた。暫くしてドアが開いた。背の高い痩せぎすの中年女性が現れる。

「何ですか?こんな時間に」

 容姿に煩いメイド長が珍しく眼鏡を掛けている。きっと薔薇色の本を読んでいたのだろう。心苦しく思いながらも、エルゼは切り出した。

「遅い時間に申し訳ありません。薔薇色の本をお返し頂けますか?あの本は私が貸本で借りて来た本なのです。期限内に返却する約束なのです」

 メイド長は視線を彷徨わせた。それからきつい眼差しでエルゼを見た。

「その様な本をわたくしは存じませんよ。何か勘違いをしているのではなくて?」

「ですが……」

「もうお休みなさい」

 パタン、とエルゼの前でドアが閉じられた。ヘレナはこう言った事で嘘は吐かないので、メイド長が持っているのは間違いないだろう。だが、彼女は返す気がなさそうだ。

 メイド長は珍しい物が手に入ると、領主夫人のロジーナに献上すると言う噂がある。薔薇色の本も、きっとロジーナに渡すつもりなのだろう。

(酷いわ)

 <Langue de chat>なら誰でも貸して貰えるだろうに。

 エルゼは泣きたいのを堪えて部屋に戻った。「返して貰えなかったの?」と言うヘレナの無責任な言葉に胸が抉られる。誰のせいだと思っているのだ。

 毛布を頭まで被り、エルゼは嗚咽を漏らした。


 翌日、エルゼは色褪せたワンピースを着て、先週より冷たい風の中を<Langue de chat>に向かった。

 ドアベルを鳴らして店に入ると、孝宏とエンデュミオンが「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた。歓迎してくれている彼らに申し訳なくて、喉に熱い物がこみ上げる。

「あの、ごめんなさいっ。本を持って来られなかったの」

 堪え切れずにエルゼは泣き出してしまった。ぽろぽろと涙を流すエルゼに驚いた孝宏とエンデュミオンは、慌てて彼女を客の居なかった閲覧スペースに座らせた。

『ああー、又貸し防止も入れておくべきだったね』

 エルゼから話を聞いた孝宏は額を抑えて呻いた。

 館中で回し読みってなんなのだ。それに他人のベッドに隠してあった本を盗み読むとは最低ではないか。

『回し読みされそうな人には、借主しか開けられない袋作ろうか。あと認識カードとか』

『イシュカとエンデュミオンで作る』

 黄緑色の瞳をぎらぎらさせながら、エンデュミオンが尻尾を膨らませた。かなり怒っている。

「エルゼ、大丈夫。本は取り返せるから」

 ぽんぽんとエルゼの手の甲を肉球で叩き、エンデュミオンが言った。

「本当?」

「うん。<戻れ>」

 エンデュミオンが言葉を紡ぎ終わると同時に、円テーブルに白銀の魔法陣が浮かび上がった。次の瞬間、テーブルの上に<薔薇の輪の下で>が載っていた。エンデュミオンが悪い顔で笑う。

「強制回収した」

 本に魔法を組み込んだのはエンデュミオンだ。自分の力が含まれている物は、引き寄せられる。

「これで返却されたよ、エルゼ。今日も新しい本借りて行くよね?」

「でも、また取られたら……」

「今度ちゃんとしたのを作るけど、とりあえず何とかするよ」

 エンデュミオンはカウンターに行き、三本脚の丸椅子に登って、名刺サイズのショップカードを一枚取った。<Langue de chat>の店名と所在地が書かれたカードで、最近作った物だ。白い紙に深緑色の文字で印刷されている。

 ショップカードの裏にエンデュミオンは器用に万年筆の蓋を開けてエルゼの名前を書き、ぺろりと舐めた肉球をポンと押し付けた。閲覧スペースに戻り、エルゼにショップカードを渡す。

「借りた本にこれを挟んでおいて。エルゼ以外本が開けなくなるから」

 エンデュミオンは簡易型の鍵を作ったのだ。

 その日エルゼは恋愛要素のある<騎士と花の魔女>を借りて、お茶とお喋りを楽しんでから領主館に戻って行った。


 エルゼが<Langue de chat>に居る頃、公爵夫人ロジーナの目前で薔薇色の本が消え失せたと言う事件が起こったのだが、青くなったのはメイド長だけであり、無実のキッチンメイドにお咎めは無かった。

 そして<薔薇の輪の下で>はアンネマリーの友人達に口コミで広がり、リグハーヴスの女性達に薔薇色の革表紙のロマンス本シリーズは<薔薇の書>と総称され愛される事となる。



エルゼは孝宏と同じ十六歳のキッチンメイド。弟妹の為に働きに出て来ました。

週に一度のお休みを<Langue de chat>で過ごすのを楽しみしています。


フラウは女性への敬称。未婚・既婚関係無く、フラウです。

男性はヘアが敬称です。

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