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エンデュミオンと爪研ぎ板

ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。

ケットシーだって爪を砥ぎます。


59エンデュミオンと爪研ぎ板


 夜、孝宏たかひろと一緒にエンデュミオンは風呂に入る。

 何故かと言うと、エンデュミオンは清潔好きだが、風呂が苦手なのだ。バスタブに浸かるとほぼ固まるので、必ず孝宏と一緒に入って洗って貰うのだ。

 ヴァルブルガとルッツは風呂好きなので、ケットシーでも個体によって違うらしい。

 浴布で粗方身体の水気を拭いて貰うと、エンデュミオンは自分と孝宏の毛を風の精霊(ウィンディ)に頼んで乾かした。

 孝宏がパジャマを着るのを待って、台所に行く。

『はい、お水』

『風呂上がりの水は美味い』

 水分補給をした後、エンデュミオンは台所と続きの居間にとことこと歩いて行き、壁に立て掛けてある板の前で、孝宏を待つ。

『爪研ぐの?』

『うん』

 孝宏に板を床に置いて貰い、エンデュミオンはカリカリと音を立てて爪を研ぐ。

Langueラング de chatシャ>に住むと決まって、すぐに孝宏はエンデュミオンの爪研ぎ板を大工のクルトに貰って来た。爪研ぎ板と言っても端切れ板なのだが、専用の板がなければ、むずむずしたケットシーが何処で爪研ぎするかなど、解ったものではない。

 板面が荒れて来たらかんなで削って使っているのだが、ケットシーが三人になり使用頻度が上がったので、板は大分薄くなっていた。

(服を着ていないケットシーが爪を研ぐ姿は、まんま猫だな……)

 満足するまで爪を研ぎ、エンデュミオンは自分の爪をにゅっと出したまま出来映えを確かめた。気に入った仕上がりだったのか、爪をしまい、横でしゃがんでいた孝宏の膝に抱き付く。

『もう良いの?』

『ああ、すっきりした』

 板を壁に立て掛け直し、孝宏はエンデュミオンを抱き上げた。

『エンディ、新しい爪研ぎ板をヘア・クルトに貰って来ようか』

『そうだな。随分薄くなったな』

『明日行って来ようか。テオがお店手伝ってくれるって言ってたし』

『うん』

 孝宏が少し抜けても、テオとカチヤが居れば、お客にお茶が出せる。

『お礼作らなきゃね』

 貰うのは端材の為、クルトはお金を受け取ってくれないので、お菓子等を作って渡している。

(冷凍しているパイシートあったな)

 明日はパイを焼こう。そう決めて、孝宏はエンデュミオンと寝室へ行ったのだった。


 翌日、孝宏は開店準備の後、二階の台所で冷凍していたパイシートを使って、ミートパイとアップルパイを焼いた。

 ミートパイは凶暴牛と哀愁豚の合挽き肉をトマトソースでセロリや玉葱などと一緒に煮込んだ物を、焼き型に敷き込んだパイシートに詰める。伸ばしたパイシートで蓋をして、ナイフで飾りを兼ねた切れ込みを入れる。葉の形のクッキーカッターでパイシートを抜いた物を貼り、照りを出す為に卵の黄身を塗ったミートパイをオーブンで焼いている間に、紅い皮の林檎アプフェルを薄く切り砂糖とレモン汁、シナモンで軽く煮る。

 黒森之國くろもりのくにの民は林檎が好きだ。旬は九の月から十一の月だが、冷鉱石の保冷庫で保存し、流通しているので、ほぼ年中手に入る。

(良し、あれやってみよう)

 スマートフォンに保存していた、お料理サイトに載っていたレシピだ。アップルパイなのだが、焼き上がると薔薇ローゼの花の様に見えるのだ。見た目が綺麗だし、切り分けなくても良いと言う利点がある。

 パイシートを切り、冷まして水気を切った林檎のスライスを巻いていく。

(素敵過ぎるレシピだなー)

 蝋紙を敷いた天板の上にローズ・アップルパイを並べ、焼き上がったミートパイと入れ換えで、オーブンへ入れる。

 砂時計をひっくり返して、使った鍋等を洗おうとした孝宏の脚に、柔らかい物が抱き着いて来た。

『うわ』

 何かと思って下を見ると、青みのある黒毛にオレンジ色のさびが入ったケットシーだった。寝起きらしく、何も着ていない。

「ルッツ」

「ヒロー。ルッツおなかすいた」

「ご飯今作るね。テオはお店に居るよ」

「あい」

 テオは既に店に降りている。ルッツがテオを探さないのは、昨夜の内にきちんと説明を受けたからだろう。

 先に起きて部屋から出たテオを、後で目覚めたルッツが半泣きで探す事が何度かあり、学習した様だ。テオが同じ建物内にいると解っていて、尚且つ一人切りでなければ、ルッツは泣かなかった。寝起きは寝惚けているので、テオの元に〈転移〉すれば良いと思い付かないらしい。

 孝宏はルッツをケットシー用の椅子に座らせた。テーブルの上で粗熱を取っている最中のミートパイにルッツが気付く。

「パイ?」

「うん。でもこれはお礼にあげるやつだから、家用のは帰って来てから焼くね」

「あい」

 ルッツのご飯として、孝宏は黒パンシュヴァルツブロェートゥをスライスし、端が離れない様に切れ込みを入れた。

 黒パンに残していたミートパイのフィリングとチーズを挟む。オーブンは使っているので、フライパンでパンを熱する。軽く焦げ目が付き、チーズが溶けた位で出来上がりだ。

「はい、どうぞ」

 ミルクたっぷりのミルクティー(ミルヒテー)と、野菜がたっぷりのミネストローネも付ける。

「きょうのめぐみに」

 食前の祈りを捧げ、ルッツが木匙を握ってミネストローネを口に運ぶ。酸味のあるトマトスープにざく切り野菜がたっぷり入っている。

「んー。おいしー」

 ホットサンドにも齧り付き、少し熱かったのか、ミルクティーのストローを吸う。

 好き嫌い無く食べるルッツに、兎林檎を剥いてやり、砂時計の砂が落ち切ったのを見て、孝宏はオーブンからローズ・アップルパイを取り出した。

 テーブルでルッツが食事をしているので、コンロの上に天板を載せ、ローズ・アップルパイにスプーンの背でそっとあんずのジャムを塗る。

『これで粗熱を取る、と』

 一息吐こうと振り返った孝宏を、ルッツがぽかんとして見ていた。

「オーブンからおはなでてきた」

「これはアップルパイなんだよ、ルッツ。お花の形の」

 こちらは数があるので、一つをざら紙を敷いた皿に載せて、ルッツに出してやる。

「甘いから、ご飯食べた後でね」

「あい」

 ルッツが食事を取り終わる頃には、少し冷めるだろう。

 ゆっくりと残っていたホットサンドとミネストローネを片付け、ルッツはローズ・アップルパイを前肢でつついた。

「おはながりんご?」

「そうそう」

 ローズ・アップルパイを両前肢で持ち、ルッツはあーんと口を開け、はぶりと齧る。パイ生地の欠片が机の上にポロポロ落ちた。

「んんー」

 満足げな声を上げるルッツ。どうやら失敗しなかった様だ。机の上の欠片も、ルッツは肉球を舐めて拾い集めていた。

 お腹一杯でご機嫌になったルッツの顔と前肢を拭き、着替えさせてやれば、小さなケットシーは階段を後ろ向きに前肢を使いつつ降りて行った。身体が小さいので、前向きに降りるのは怖いのだろう。

 孝宏は調理器具と食器を洗い、粗熱の取れたミートパイとローズ・アップルパイを蝋紙で包み、端をキャンディの様に捻った物を、持ち手付きの籠に入れた。ヴァルブルガが刺繍した布巾を上に被せる。

 孝宏はエプロンを取り、捲り上げていたシャツの袖を直してから、籠を持って店に下りた。


 居住区から店に出るドアは、カウンターの内側にある。一階の台所に行くのにもこのドアは使うので、開店中はいつも開けてある。

 カウンターにはイシュカとヴァルブルガが居た。閲覧スペースにテオとルッツ、エンデュミオンが居る。カチヤは台所だろう。

「イシュカ、ヘア・クルトの所に行ってくるね」

 爪研ぎ用の板を貰って来ると、朝食の時に伝えてあった。

「ああ。エンディと行くんだろう?」

「うん。研ぎ心地の好みがあるだろうし。エンディ、出掛けるよ」

 孝宏はエンデュミオンに声を掛けた。客に会釈をして、やって来たエンデュミオンを抱き上げる。

「行ってきます」

「気を付けてな」

 相変わらず、孝宏は一人きりで外出はしない様にしている。何しろ、黒森之國の人々に比べて、孝宏は華奢だ。簡単に拐われる、と言うのがイシュカとテオの総意で、大抵生ける防犯設備のケットシーの誰かと一緒に出掛けた。

 そんな訳で薄暗い細い路地には入らず、大きな路地を選んで行く。

 大工や鍛冶屋の工房は、街の中心部から少し離れた所にある。日中であれば、エッダやカミルも一人で出歩く位に治安は良いので安心だ。

 皮工房や紙工房は水を大量に使うので、街の外の川近くに工房が建っている。これらの職人は、工房の近くに家を建てて小さな集落になっていたり、馬や馬車で街の家と往復しているのだ。

 片手にパイの籠、片腕にエンデュミオンを抱いて、孝宏は右区レヒツにある大工通りに入った。ここは大工の工房が集まっている通りだ。あちこちから大きな声や、木を打ったり削ったりする音が聞こえてくる。辺りには削られた木の香りが立ち込めていた。

 大きな工房は徒弟の数も多い家を建てる大工だろう。しかし、孝宏はそんな大きな工房達を通り過ぎ、その半分もあるかないかと言う規模の工房に向かった。

 大工と言っても、クルトは家具職人なのだ。大勢の徒弟で賑やかな工房とは違い、繊細な仕事をする家具職人の工房は静かだった。

 まず、孝宏は工房の隣にあるクルトの家のドアを叩いた。

「はーい」

「<Langue de chat>の孝宏とエンデュミオンです」

 ドアが開き、アンネマリーが顔を出した。

「あら、どうしたの?」

「エンディ達の爪研ぎ用の板を貰いに来ました。大分薄くなって来たので。ヘア・クルトは今お仕事中ですよね」

「お昼が近いからそろそろ休憩よ。呼んであげるわね」

「有難うございます」

 アンネマリーは家から出て、工房のドアを軽く叩いた。

「クルト、そろそろ休憩しない?ヒロとエンディも来てるの」

「開けて良いぞ」

 中からクルトの声がしたので、アンネマリーは両開きのドアの片方を開いた。

 天窓から差し込む陽射しで、工房の中は明るかった。

 作業机の上には寄せ木細工らしき、細い棒が何本かあった。クルトは組み木をしていたらしい。組み木を薄く切り、貼り合せた物が寄せ木細工だ。傍らの床には作り掛けのチェストがあったので、この天板に寄せ木を貼るのだろう。根気のいる仕事だ。

「こんにちは。ケットシー達の爪研ぎ用の板にする様なものがあったら欲しいんですが」

「三人も居たら板も減るだろう」

 笑いながら、クルトが座っていた三本足の丸椅子から立ち上がった。

 工房の片隅に固めて置いてあった不揃いな端材の元へと、孝宏達を案内する。

「この中の木なら好きな物を選んで良いぞ」

「だって、エンディ」

「うん」

 エンデュミオンは床に下り、キラキラした瞳で板を厳選した。時々試し研ぎをしつつ、一枚選び出す。それをクルトが長方形に切って縁にやすりを掛けてくれた。

「有難うございます」

「有難う、クルト」

「いや、うちのエッダが世話になってるからな。<Langue de chat>で大工の手が要る時は、いつでも声を掛けてくれ」

「助かります。これ、おやつに召し上がって下さい」

 孝宏はアンネマリーに、まだほんのり暖かいパイの籠を手渡した。

「美味しそうな香りがするわ。有難う、籠はエッダに持たせるわね」

「はい」

 板を両手で持っているので、帰りはエンデュミオンも孝宏の隣をとことこ歩く。

 帰って行く二人を見送り、クルトはアンネマリーと工房のドアを閉め、家に戻った。

 今日はパン屋のカールの所に行っているエッダも、そろそろ戻って来るだろう。午後からは再びカミルと<Langue de chat>に行くのだろうが。

 板の端切れなど、何処ででも貰えるだろうに、孝宏は律儀にクルトの工房まで来る。

 エンデュミオンは端切れの中でも、質と香りの良い木を選んでいた。やはり妖精フェアリーだけあって、木には煩い様だ。

「ヒロのお菓子は美味しいのよね。何を作ってくれたのかしら」

 鼻歌を歌いながら、アンネマリーが台所で籠から蝋紙で包まれた物を出す。掌に載る大きさの物を幾つかと、皿一枚位の大きさの物だ。

 大きな方を皿に載せて、アンネマリーが蝋紙を開く。ふわりとトマトとセロリの香りが、クルトの鼻に届く。

「サクサクだわ」

 ナイフを入れたアンネマリーが驚いた声を出した。

 実は、パイ生地はまだ王都や貴族の邸などでしか供されていない。その為、クルトもアンネマリーもパイを知らなかった。

 半分に切ったパイの中にはトマトソースで煮た挽き肉とざく切り野菜が入っている。これにパンとスープがあれば、ちょっとしたご馳走だ。

「お昼ご飯、これで良さそうね」

「ああ。美味そうだな」

 皿を出して三角形に切り分けたパイを載せていると、エッダが帰って来た。

「ただいまー」

「お帰り。手を洗って来なさい。今日のお昼はヒロが作ってくれた物よ」

「美味しそう!」

 エッダはバスルームで手を洗ってから、台所に戻って来て、食器棚の引き出しからカトラリーを出してテーブルに並べる。

「ヒロが来たの?」

「ケットシー達の、爪研ぎ用の板を貰いに来たんだよ。そのお礼にってくれたんだ」

「こっちの小さいのは何?」

「まだ開けてないのよ。大きいのがお肉だから、違う物かしら」

 アンネマリーが、深皿に玉葱のスープを注ぎながら、「開けてみたら?」とエッダに薦める。

 カトラリーを並べ終えたエッダは、蝋紙の包みを一つ取り、捩ってある部分を解いた。

「わあ、綺麗」

 蝋紙の中に、薔薇の花があった。林檎と肉桂シナモンの甘い香りがする。林檎は赤い皮付きのまま使用しているので、うっすらと赤い花弁の様だ。

「まあ……」

「こりゃ、王様か領主様の食卓に出そうな菓子だな」

「ヒロ、これの作り方教えてくれるかなあ」

 弟子としては、気になるエッダだった。

「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」

 食前の祈りを捧げ、挽き肉の詰まったパイを食べる。

「美味しいー」

「野菜もたっぷり入っているのね」

「結構、腹に溜まるな」

 爪研ぎ用の板一枚に、一食分の料理とは。孝宏とエンデュミオンにしてみれば、それだけの価値がある物なのだろう。

「お花のお菓子も気になるよう」

「それは後でお茶を淹れて頂きましょう、エッダ」

「はあい」

「クルト、お代わりは?」

 アンネマリーが大振りのスプーンでパイを一切れ掬う。

「ああ、貰おうかな」

 皿に載せて貰った、まだ暖かいパイにナイフを入れ、クルトはケットシー達があの板で、交互に爪を研ぐ姿を想像し微笑んだ。


 午後になり、エッダが持って来た籠には、たっぷりとドライフルーツが入ったパウンドケーキが一本入っており、<Langue de chat>の住人を喜ばせたのだった。



爪を砥ぐエンデュミオン。見た目は猫です。鼻歌歌いながら研いでそうです。

もと森林族であろうが、現在の生態に順応しています。

「研ぐなら香りの良い木が良い」というのは、ルッツもヴァルブルガも同じなので、居間にある板はクルトの工房でも質の良い木の端切れです。

実は爪研ぎ用に、ちゃんと取り置いてくれています。

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