エッダとカミルとトマトケチャップ
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
家業を持つ家の子は、早くから修行に入ります。大抵は親を親方にします。
57エッダとカミルとトマトケチャップ
「父さん、俺<Langue de chat>でパン作りを教わっても良い?」
夕食の席での息子カミルの衝撃発言に、カールは持っていたバターナイフを取り落とした。
「一寸、カミル!」
月の日学校から帰って来た後、いつになく大人しくしていると思ったら、何を言うのか。固まっている夫の代わりに、ベティーナは息子を窘める。
「あんた自分が何を言っているのか解ってるの?」
「解ってるよ。俺、父さんのパンを凄く美味しいと思ってる。だけど、ヒロのパンも凄く美味しいと思う。両方覚えたいんだ。ヒロは俺に教えても良いって言ってくれた。……父さんと母さんのお許しが出たらだけど」
「ヘア・ヒロはパン屋の親方じゃ無いのよ?」
「でも、職人と同じかそれ以上の事を知ってるよ。黒森之國以外のパンの事も」
「何!?」
一般人の外國旅行が出来ないこの世界では、輸入品以外では他國の食物を知る事は無い筈なのだ。
「一寸待ってて」
カミルは自分の部屋に行き、ケチャップの小瓶を取って来た。そのまま台所に行き、孝宏が作ってくれたピザトーストを再現する。
黒森之國では、ペティナイフの様な小さなナイフで、日常の料理を作る事が多い。カミルでも腸詰肉を切る程度の調理は出来る。
厚目に切った白パンにケチャップを塗り、腸詰肉とプランターから採ったバジルを載せ、チーズを削り器でその上から散らす。
天板にパンを載せ、オーブンに入れた。こちらも時々ベティーナに、料理の見張りを頼まれる事があるので使える。
ケチャップが塗られていない部分のパンが狐色に焼けたら取り出し、揚げ物の油を吸わせる為に置いてある、ざら紙を一枚皿に敷きその上に載せた。
「はい。食べてみて」
カミルに出されたピザトーストに、カールとベティーナは顔を見合わす。
黒森之國ではサンドイッチはあっても、この様にパンに何かを載せて焼く、と言う料理は無かった。
昔は、堅焼きの平パンが皿代わりだった時代もあるが、パンを含めた料理では無い。
それに、パンはあくまでも主食なので、そのまま食べるのが当たり前なのだ。サンドイッチと言う料理も、店できちんと売り始めたのは、カールが最初だろう。
それまでは、家庭で残り物を手軽に片付ける為の食べ方だったのだから。
カールとベティーナがピザトーストを切れ込みから半分に分け、それぞれチーズが溶けて垂れた端から齧る。
「これ……」
「何だ、この酸味のあるソースは?」
カミルは赤いソースが入った広口の小瓶をテーブルに載せた。
「トマトで作るんだって。ケチャップって言ってた。これの作り方も俺に教えてくれるって」
「お前に、なんだな?」
孝宏は今まで料理のレシピを公開していない。勿論料理人がレシピを秘匿するのは不思議では無い。カールだって、パンの材料配合は秘密だ。それを教えると言うのならば、限定した人間にだけだろう。
「そう。俺とエッダが教えて貰って作る」
「何でエッダなの?」
エッダの家は大工だ。
「エッダは大工にならないから、俺とパン作るんだって」
カールとベティーナは同時に噎せた。
エッダは大工のクルトとアンネマリーの娘だ。可愛らしく性格も良いし、賢い。
「カミル、あんた隅に置けないわね……」
元々幼馴染みとはいえ、最近仲良くしていると思えば。
(それとなくアンネマリーに言っておいた方が良いわね)
ベティーナはカミルが毎回<Langue de chat>帰りに、エッダを家まで送り届けていて、クルトとアンネマリー公認になりつつあるのを、この時まだ知らない。
「ヒロは、黒森之國風のパンは父さんの方が美味しいから、教えないって言ってた」
基本のパンはカールから習え、と言う事だろう。
「お前はヘア・ヒロに学びたいんだな?」
「うん」
「じゃあ、明日から俺の夕方の仕込みと、朝の焼き作業を手伝え」
「良いの?」
今までは手伝わせて貰っていなかったのだ。
「お前も八つになるしな。勉強の方もちゃんと続けろよ」
「うんっ」
まだ子供の身体のカミルに、一日中仕事をさせるつもりはない。当面は仕込みの手伝いだ。どの様にして酵母やパン生地を作るのか、一連の流れを覚えさせるのだ。
「朝早いからな、夜更かしするなよ」
「うん」
こうして、カミルは孝宏にパン作りを習う許しを得たのだった。
孝宏も店番やクッキー作りがあるので、カミルとエッダが教えを受けに行くのは、陽の日の前日である土の日に決まった。
当日もカミルは早起きしてカールのパン焼きを手伝った。重い物はまだ持てないので、焼けたパンを耐火布の手袋をはめて、籠に移していく。焼き立てのパンはパリパリと音を奏でた。
丸籠に生地を一度入れて網目を付けて焼いた丸く大きな白パンと黒パンは、主食として一番の売れ筋だ。皮はパリッと中はもちもちとした〈麦と剣〉の自慢の品だ。
カミルは売り場の窓口にいるベティーナの元へ、せっせとパンを運んだ。
白パンと黒パンを細長く焼いた物も、間におかずを挟め、弁当に出来るので、買い求める人は多い。早朝の開店と同時に売れるのは、これらのパンで、職人の出勤時間になると、品が変わる。
今度は、細長く焼いた白パンと黒パンに切れ込みを入れた物を用意し、ベティーナが作ったジャムや、ハムやチーズを客の好みに合わせて挟み、ざら紙に包んで売る。
主食の大丸パンは、大きさや値段が領主により決められていて銅貨一枚だ。毎日の様に買わねばならない物なので、値段は安い。
それに比べてサンドイッチは銅貨二枚だ。中に挟む具材の分値段は上がるが、朝の弁当を作り損ねた者や、端から作らない者などは、食堂で食べるよりは銅貨一枚程安いので、給料日前などは良く売れる。
サンドイッチの客の流れが止まったら、カミル達の朝御飯だ。仕事前に蜂蜜入りのミルクティーを飲んでいたが、すっかり腹ぺこだ。
「カミルが手伝ってくれると楽だわあ」
焼けたパンをカミルが運んで来るので、ベティーナが焼き場と売り場を行ったり来たりしないで、客の相手が出来る。
「そお?」
サンドイッチ用のパンに孝宏に貰ったケチャップを塗り、そこにハムとチーズ、マッシュポテトを詰め、カミルは齧り付く。
「一段落着いたから、少し寝てから<Langue de chat>に行って良いわよ」
「うん」
早起きさせる分、ベティーナはカミルに、仮眠を取らせていた。寝入ってから30分位したところで起こしてやる。余り日中に寝かせても、夜眠れなくなるからだ。
「行って来まーす」
顔を洗ってさっぱりしてから、カミルはエッダを迎えに出掛けた。
ちりりりん。
「こんにちはー」
「来たか」
<Langue de chat>のドアを開けると、エンデュミオンが待ち構えていた。こいこいと前肢で招く。誘われるままに、カミルとエッダは二階の台所に入った。
「いらっしゃい」
台所で孝宏は腕捲りしたお仕着せに胸当てのある黒いエプロン姿で、トマトを洗っていた。結構量がある。
カミルとエッダも持って来たエプロンをして、手を洗う。
「今日はね、トマトケチャップを作るよ」
このトマトはヴァイツェア産だよ、と孝宏は笑った。今の季節、ヴァイツェアかフィッツェンドルフでしか、トマトは出来ない。
「潮風があるから、フィッツェンドルフのトマトの方が甘いと思うけど、火に掛けるからね」
孝宏はペティナイフでトマトの先端に×と切れ込みを入れる。
「どうするの?」
「茹でるんだよ。『湯剥き』って言うんだ。エンディ訳して」
「つまり、軽く茹でて皮を剥くんだ」
エンデュミオンは翻訳要員なのだ。
「皮を剥いてどうするの?」
「口当たり良くなるでしょ?」
黒森之國では普段トマトの皮を剥いたりしない。カミルもエッダも驚いてしまった。
孝宏は二人にも手伝わせてトマトの皮に傷を付け、鍋に沸かしていたお湯で何度かに分けてトマトを湯通しした。トマトの皮が剥けてきたら、冷たい水に掬って移す。
「こうするとね、ほら」
水の中から取り出したトマトは、簡単に薄皮が剥けた。剥いたトマトは深鉢の中に入れておく。
「これをミキサーに掛けると楽だけど、無いのですり下ろします」
孝宏は空鍋の上に笊を置き、その上で下ろし金を使いトマトをすり下ろした。笊に溜まったトマトはへらで潰し、種を取り除く。
「で、玉葱もすり下ろします」
カミルはトマトの後に玉葱を鍋に下ろし入れた。目に染みる。
「これで熱鉱石に掛けて、焦げない様に煮詰めて行くんだ」
ぐつぐつと煮えるトマトジュースは時々跳ね、きゃーきゃー言いながら半分まで煮詰めたところで、孝宏は砂糖と塩、月桂樹、ナツメグ、胡椒などの香辛料を投入した。それからまた水分を飛ばして行った。
「こんな感じだね」
緩いジャムの様にトロリとした辺りで、孝宏は焜炉から鍋を外した。
「熱湯消毒した瓶に入れます」
蓋をした瓶をお湯で加熱しておけば、更に密閉出来る。黒森之國では、ネジ式の蓋があるので重宝だ。
「そして、ここにパン生地があります」
孝宏は昨夜作っておいたパン生地を取り出した。ドライイーストは無いので、干し葡萄から作った酵母で、夜の間にゆっくり発酵させるのだ。
ちなみに、酵母作りはエンデュミオンと、精霊達に手伝って貰った。
孝宏はパン生地を天板の上の蝋紙の上で丸く平たく伸ばし、ケチャップを塗ってバジルと白いチーズを載せた。
天板をオーブンに入れ、暫くするとパンの焼ける香ばしい香りがして来た。
「良し」
がちゃりと金具を使って、孝宏がオーブンから天板を引き出す。
「わあー」
現れたのは鮮やかなトマトの赤とバジルの緑、チーズの白。
「これが〈マルゲリータ〉だよ」
まな板の上に蝋紙ごと移し、包丁で八等分に切り分ける。
「食べてみて。はい、冷たいお茶」
マルゲリータをカミルとエッダに薦め、孝宏は保冷庫から出した瓶から、コップに冷やした紅茶を注いだ。エンデュミオンは猫舌なので、少し冷めるのを待つ。
カミルは一切れ持ち上げてみた。たらりと伸びるチーズが熱々さを物語っている。
「熱っ」
齧りつくと予想通りの熱さで、ほんのりと甘く冷たい紅茶を慌てて口に含んだ。
「この間のピザトーストとは違う……」
「そうだね、こっちの方がもちもちしてる感じだね」
はふはふしながら、エッダもマルゲリータを堪能している。
「冷めても、オーブンで温めれば美味しいよ。具材も色々変えられるし。じゃあ、これを二人で作ってみてね」
「ええ!?」
「伸ばして具を載せるだけだから。出来たのは、お家にもって帰ると良いよ」
「が、がんばる」
カミルとエッダは、孝宏の作ってくれていたパン生地で何とかピザを焼き上げた。
「うん、上手だね」
孝宏は誉めてくれたが、パン生地を自分で作った訳では無いし、カミルの家の窯で焼いてみてどうなるのかは解らない。
そんなカミルの懸念に気付いたのか、孝宏は材料や分量を手帳に書き写させながら、謎掛ける様に微笑んだ。
「あのね、カミル。窯で焼くのならもっと短い時間で焼けるし、もっと美味しくなるんだよ?」
「本当!?」
「その辺はカミルが自分で勉強しないとね」
つまり、自分で窯を使い焼いてみろと言っているのだ。
「お父さんにも相談してごらん」
「うん」
孝宏がカミルに出した条件は、レシピはカミルとエッダが秘匿する事。
もしカールの許可が降り、店にカミルのパンを出す事になったら、一日に売るのは一種類にする事。
と、言った内容だった。カミルに渡した手帳の最初の頁にきちんと誓約を書かせた。当然、手帳はカミルとエッダしか開けない。
売るパンの種類を限定させたのは、主食となる黒森之國風パンの販売を阻害してはならないし、左区の〈麦と花〉に影響を与えるかもしれないからだ。
帰り道、カミルとエッダはピザの具に何を載せたら美味しいのかを、話しながら歩いた。
(他に何の具があるのか、次の時に聞こうっと)
まずは、このピザをきちんと作れる様になろう。窯で一人で焼けなければ、店には出せない。
エッダを家に送った後も考え込んでいたカミルは、自分の家を通り過ぎ、慌てて戻るのだった。
主食の丸い黒パンや白パンが主流の黒森之國。
今のところサンドウィッチは作っていても、菓子パンなどはありません(ジャム付きパンなら、家庭で作る)。
食事パンから作ってみている孝宏です。




