東風来たりて(後)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
エンデュミオンの独断で、出張配達も致します。
55東風来たりて(後)
〈跳ねる兎亭〉も右区にあるので、ルリユール<Langue de chat>は比較的直ぐに見付けられた。青銅の吊り看板が下がっている。
『猫……?』
桔梗宮知晴の目には猫が本を読んでいる様に見えた。
(ケットシーとは猫の事なのか?)
はて、と首を捻りつつ顔高に硝子窓のあるドアを開ける。
ちりりりん。
涼やかなドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターに赤みの強い栗色の髪の青年と、三毛で折れ耳ハチワレの猫が居た。カウンターの端に前肢を掛けている。
(猫、だよな)
猫にしては少し頭が大きい気がするが、大きな猫もいる。
「こんにちは。あの、こちらでは物語の本があると聞いたのですが」
「ございますよ。失礼ですが、お客様は倭之國の方ですか?」
「はい、そうですが」
「少々お待ち下さい」
赤毛の青年は、カウンターの奥にあるドアに半身を入れて、中に居るらしき者に声を掛けた。
「孝宏!」
「はーい」
店の奥から現れたのは、黒髪の少年と、鯖虎柄の立って歩く猫だった。
『猫又!?』
『あ、日本語だ。って事は倭之國の方ですか?』
戦く知晴に、少年は笑い掛けた。
『この子達はケットシーと言って、妖精なんですよ。正確には猫とは違うみたいです。黒森之國に猫は居ませんよ』
『そ、そうなんですか』
少年の膝元に立っているケットシーは、知晴をキラキラと光る黄緑色の瞳で見上げていた。少年と同じお仕着せを着ていて、可愛いが気の強そうな顔をしている。
カウンターに居る方のケットシーは、動かずじっと知晴とコンラートを見ている。
『私は倭之國大使、桔梗宮知晴と申します。こちらは補佐官のコンラートです』
『宮様ですか?』
『いえいえ、桔梗宮家は華族でも領地の無い下級樹族と変わりませんから』
『倭之國には貴族がいるんですか?』
問われて知晴はハッとした。倭之國の言葉を喋るこの少年が、倭之國人の筈が無いのだ。
この世界ではまだ國同士の旅行は認められていない。黒森之國で倭之國人は知晴しか居ない筈なのだ。
ならば、彼こそが〈異界渡り〉だ。
『ええと、すみません。俺は倭之國については良く知らなくて』
知晴が呆れたと思ったのか、少年が困った顔になる。
『いいえ、あなたは倭之國の方では無いのですね?』
『違います。俺は塔ノ守孝宏と言います』
『塔ノ守、ですか。我が國にも同じ姓の家がありますよ。神官の家柄ですが』
『そうなんですか』
倭之國の塔ノ守家について、孝宏は何も知らないらしい。
『孝宏、孝宏』
足元にいるケットシーが、孝宏の膝を前肢でぽんぽんと叩く。
『立ち話もなんだ。座ると良い』
『あ、そうだね。あちらにどうぞ』
孝宏は知晴とコンラートを、棚で区切られた奥のテーブルと椅子がある場所へ案内した。客は他に居なかった。
『お茶をお持ちしますね』
孝宏とケットシーがカウンターの奥に消えると、コンラートが知晴に疑問の眼を向ける。
「何を話されていたんですか?」
コンラートは倭之國語は話せない。
「いえ、彼の名前を教えて貰ったんですよ。倭之國にも彼と同じ家名があると知って驚いたのです」
「では彼が〈異界渡り〉ですか。黒森之國には家名を持つ者は限られていますから」
王家と公爵意外の家名を持てば、それは異國人だ。
「お待たせしました」
暫くして孝宏が盆を持って戻って来た。紅茶のカップと焼き菓子の載った皿を、テーブルに置く。
「ヘア・知晴は、お仕事でこちらに?」
孝宏は黒森之國語に切り替えて聞いた。どうやらコンラートは、倭之國語が解らなそうだと判断したらしい。
「はい。先程公爵に<Langue de chat>の事を聞いて、寄らせて頂きました。こちらに物語の本があるそうで」
「ああ、黒森之國に物語の本はありませんからね」
「倭之國では不自由していなかった物ですから、どうにも落ち着かなくていけません」
「解ります」
頷き合う知晴と孝宏に、コンラートは不思議そうな顔をしていた。
「まずはお茶をどうぞ」
『頂きます』
コンラートも食前の祈りを唱える。
知晴はブラックのまま紅茶を飲み、クッキーを割って口に入れた。
「美味しいです。これに似た菓子を中宮様に頂いた事があるのを思い出しました」
「中宮様ですか」
『ええ。とても珍しいのですが、ご自分で御台所に立たれる方なのです。暁光帝の中宮様は貴人なのですが』
黒森之國に変換し難い単語があるので、倭之國語で知晴は言う。
『貴人?』
『殿方なのですよ。御名は皓様と』
『航?』
この字です、とテーブルの端に知晴が指で書く。
『この御名は暁光帝が下賜されたもので、元々は二之君様と言う御名でした』
名前と言うより、二番目の若君と言う意味だ。個人の名前が無かったのだろう。
『男性が嫁ぐ事もあるんですね』
『色々と決まり事がありましてねえ』
皓が中宮に収まるまで、色々とあったのだ。文官の〈間〉として、知晴は飛び回ったものだ。華族と言う立場の〈間〉は、際どい噂を拾いやすい。華族同士の宴の席での情報収集は、樹族や平民の官吏には難しい。
その分、知晴は長く〈間〉の職にはいられなかったのだが。誰が暁光帝桃李に情報を流しているのかばれる前に、知晴は倭之國から離れる事になったのだ。
「では、本棚にご案内します」
知晴とコンラートが一服したところで、孝宏はカウンター側にある本棚に、二人を案内した。
「全て黒森之國語になっているんですが、読めますか?」
「勉強にもなりますし、なんとか頑張ります」
知晴は苦笑した。
「黒森之國風に合わせた話が多いんですが、こちらは倭之國風のお話です。細かいところは違うでしょうけれど」
孝宏は青紫色の本を棚から抜いて、知晴に差し出した。
『〈竜胆、物語〉?』
『はい』
頁を開き、黒森之國語を目でゆっくりと追っていく。それは下級貴族の娘が殿上人の青年に見初められる話のようだった。
実際の倭之國との差異は、華族が花の名前、樹族が樹の名前で無い所位だ。
「これは、どなたが?」
「俺が書きました」
「あなたが!?」
コンラートの方が知晴より驚いている。倭之國では女流作家もいる位なので、知晴は特に驚かなかったのだが。
「これがあなたの能力ですか」
「能力かどうかは解りませんけど」
「いえ、良く王宮や聖都があなたを引き抜かなかったと思いますよ」
その時、知晴はコンラートの背後で、鯖虎柄のケットシーの黄緑色の眼がぎらりと光るのを見てしまった。
(成る程、これは連れていくのは無理だろうな)
猫又と同類に違いない。左近衛府少将・蒼樹笹舟と柊重幸にも猫又が傍にいたが、天照や月読と親密だったと聞いている。
猫又も呪うと言うし、ケットシーも似たり寄ったりだろう。
(君子危うきに近寄らず、だな)
黒森之國にとって、孝宏は価値があるが、ケットシーが傍にいて眼を光らせているので、手出しは出来ないのだ。
「こちらの本はお借りしたら、いつまでに返せば良いのでしょう」
「一回一冊銅貨三枚で、二週間借りられます。二週間経ったら自動的に返却になりますから、王都に持って行かれても良いですよ」
「それは有難いです」
カウンターでイシュカと言う名前だと言う店主に、貸出手続きをして貰う。すると、カウンターからにょきっと、鯖虎柄のケットシーが顔を出した。
「もし他の本も借りたかったら、その本が戻ってくる時に手紙を付けろ」
「転移陣無いんじゃないのか?エンディ」
イシュカにケットシーはニヤリと笑った。
「住所が解れば、エンデュミオンが飛べる」
「もしかして届けてくれるんですか?」
「特別サービスだ」
「有難う。エンデュミオン」
エンデュミオンはフンと、鼻を鳴らした。
「持って行く本はこちらに任せて貰う」
「どんな本でも読みますから、構いませんよ」
〈竜胆物語〉の入った革袋を手に、知晴はコンラートと<Langue de chat>を出る。
『倭之國の言葉に飢えたら、又いらしてください』
『ええ。そう致しましょう』
手を振る孝宏とエンデュミオンに手を振り返し、知晴はコンラートと並んで路地を〈跳ねる兎亭〉へと戻る。
「ヘア・トモハル、頼みがあるのですが」
「はい、何でしょう」
「私に倭之國の言葉を教えて下さい」
「構いませんが……?どうなさったんですか?」
「いえ、あなたとヘア・タカヒロが、楽しそうに話している内容が解らなくて悔しいといいますか……」
知晴は思わず吹き出してしまった。少し仲間外れ感を味合わせてしまった様だ。申し訳ない。
「黒森之國の言葉は難しいですが、倭之國の言葉は面倒ですよ?」
「あなたとは長い付き合いになるでしょうから、ゆっくりと覚えます」
大使は一度赴任すると、簡単には帰國出来ないのだ。そして補佐官は大使のお目付け役でもある。
「解りました。私もこの本を読んで解らない言葉をあなたに教わりましょう」
夕陽が影を長く伸ばす石畳を、知晴とコンラートはのんびりとした足取りで宿まで帰った。
リグハーヴス公爵領視察後、桔梗宮知晴は倭之國の帝、暁光帝桃李に充てて報告書を送った。
その中には、リグハーヴス公爵領の〈異界渡り〉塔ノ守孝宏の名前が記され、報告書を桃李から「読め」と渡された皓が、『篤典だけじゃなくて、孝宏も来てるの!?』と驚愕した事を、孝宏は知らない。
ちょっぴり『チェンジリング。』のスピンオフ的なお話でした。
エンデュミオンは、倭之國の言葉を話す知人が孝宏に居ても良いよね、程度の感覚です。
時々孝宏のお手紙付きで、本を届けに行くエンデュミオンなのでした。




