リグハーヴスの記者
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
黒森之國には新聞記者が居ます。
51リグハーヴスの記者
リグハーヴスの街には新聞社がある。毎週三回月水金と発行される紙の両面に印刷された新聞を発行している。
内容としては一面がリグハーヴスの情報で、もう一面が王都などリグハーヴス以外の領の情報だ。リグハーヴス以外の情報は、発行日の前日に精霊便で各領の新聞社から送られて来る。それを元にリグハーヴスの情報を含めて構成を決めて活字を組み、印刷機で刷るのだ。
ニコラは<リグハーヴス通信>の記者だ。活字拾いの徒弟から、漸くこの春記者に格上げされた。
明るいオレンジ色のワンピースの胸元のリボンをきちんと結び、象牙色のボレロを着て、腰のポーチに記者の証である黄色の腕章を入れる。
黒森之國では記者は身分を明かして取材をしなければならない。勝手に風評記事を載せたりすれば、騎士団に摘発されるのだ。
事件の匂いがする場所は騎士団が潜入して入る事もあり、記者が邪魔になる場合もあるからだ。もしそれで犯人を取り逃がしでもしたら、領主から記者は勿論新聞社もキツイお叱りを受けるだろう。
(つまり証拠があれば良いのよね)
ニコラが最近聞きつけたのは、<ヴァルブルガ>というレース細工師の噂だった。
春光祭の少し前から現れた<ヴァルブルガ>のコサージュは、繊細な細工で草花を作り出していた。小さな白革で<Walburga>と刻印されたタグだけが付いている。
春光祭の市場広場でも胸に付けている女性は幾人か見掛けたので質問したが、一人として誰が作ったのか教えてくれなかった。
どうやら仕立屋マリアンの<針と紡糸>から紹介されるとまでは判明したものの、店の前に張ってコサージュを頼みに来た客に話を聞いたが、皆マリアンが受注していた。<ヴァルブルガ>に紹介される条件が解らない。
(何なのよーっ)
思わず路地脇でしゃがみ込み、ニコラはオレンジ色に近い色の髪を、動き易いように三つ編みにした頭を抱えた。
「大丈夫?」
ぽん、と言う音と共に目の前に影が落ちて来て、子供の声が聞こえた。
「え……?」
顔を上げたニコラの前に、ハチワレのケットシーが居た。折れ耳の付いた頭をこてんと倒し、ニコラを見ている。襟元に幅広の緑色のリボンを結んだ白いシャツに、黒地に白のピンストライプのベストに黒ズボン。履き口に折り返しのある、柔らかそうなモカシンブーツを履いている。
黄緑から中心に行くにつれて濃い緑になる大きな瞳に、ニコラが映っていた。
「ヴァル?」
「イシュカ」
ヴァル、と呼ばれたケットシーが上を見上げ、つられてニコラも顔を上げると、そこにある窓から赤みの強い栗色の髪の青年が覗いて居た。ケットシーと同じ様な緑の目をしている。
イシュカは路地にしゃがんでいるニコラに気付いた。
「ご気分でも悪いんですか?」
「あ、いえっ。あれ……?」
慌てて立ち上がったニコラは立ちくらみを起こし、再び路地にへたり込んだ。
ちりりりん。
ドアベルを鳴らし、イシュカが建物の中から出て来る。
「す、すみません。立ちくらみです……」
「失礼しますね。店に運びます」
「ひゃっ」
座り込んだままのニコラをイシュカは抱き上げた。孝宏がドアを押さえ、声を掛ける。
「イシュカ、ドア押さえておくから入って」
「有難う、孝宏」
店内に入り、イシュカは空いていた緑色のソファーにニコラを寝かせた。
「失礼します」
孝宏がニコラの靴を脱がせて膝を軽く立て、クッションを突っ込む。それから下半身に膝掛を掛けた。起き上がりたいが耳鳴りがして気持ち悪く、ニコラは目を瞑った。
「すみません……」
「このまま少しお休みになっていて下さい。ヴァル、見ていてね」
「解ったの」
近くで先程のケットシーの声が聞こえた。小さな柔らかな物の感触が額に載る。
「大丈夫大丈夫」
さすさすと額を擦られる。あ、これはケットシーの前肢なんだ、と思った時にはニコラは意識を失っていた。
「……大丈夫。貧血を起こした後は体力を使うからね、眠っただけだよ。暫くしたら気が付くよ」
ふわふわと女性の声が聞こえた。この声は聞いた事がある。確か魔女グレーテルだ。この辺りの女性は皆彼女の診療所へ行く。
目を開けると、グレーテルとハチワレのケットシーが覗き込んでいた。
「気が付いたかい?ニコラ。気分はどうだね」
「……大分、良いです」
身体には毛布が掛けられていた。少し寒気がする。
「無理せずもう少し休んでおいで。ここの店なら迷惑だなんて思わないからね」
「ここは……?」
「ルリユール<Langue de chat>だよ。ヴァルが気付いて良かったよ。言っちゃなんだが、ちゃんと食事は摂っているのかい?」
「ええと、今日は寝坊して食べてないです」
グレーテルは目を剥いた。
「もう午後だよ?朝から何も食べてないのかい。若い子はちゃんと食べなきゃならないよ」
「うう……」
耳が痛い。徒弟の間は賄いが出たが、記者と言う<職人>になったニコラは、寮を出て小さなアパートで独り暮らしを始めたばかりだ。街には食堂もあるが、男の職人ばかりで気後れしてしまう。
そんな事をぽつぽつ話していると、孝宏が盆を運んで来た。
「南瓜のリゾットを作ったんだけど、食べられそうですか?」
「起き上がれそうなら、温まるから頂くと良い」
「有難うございます」
ニコラはソファーに起き上がり、毛布を肩から掛けた状態で、テーブルの上に載ったリゾットを見た。鮮やかな黄色のとろみあるソースに、粥程では無いが柔らかく煮込まれた米の姿が見える。細かく刻まれた玉葱とベーコンも入っている。
木匙で湯気の立つリゾットを掬い、軽く吹き冷ましてから口に運ぶ。
「美味しい」
「孝宏のごはんは美味しいの」
ソファーの隣に椅子を寄せて座っていたハチワレのケットシーが、ふくりと口元を膨らませる。
「そうね」
リゾットを食べ終わる頃には身体が温まっていた。食器を下げに来た孝宏が、ニコラとグレーテルにお茶と焼き菓子を置いて行く。
「ヒロ、応急処置をしてくれたんだね」
「貧血みたいでしたから。ヴァルもここでおやつ食べる?」
「うん」
「じゃあ、持って来るね」
孝宏がカウンターの奥に入って行く。
「応急処置?」
「貧血を起こした時はね、足を高く上げた方が回復が速いのさ」
「あの方は魔女や医師の知識を持っているんですか?」
「どうやらそうらしいね」
黒森之國では一般の人間は魔女や医師の知識は持ちえないものなのだ。孝宏の家族に魔女か医師が居たのだろうかと、ニコラは思った。
「はい、どうぞ」
孝宏が戻って来て、ケットシーの前ににミルクティーと焼き菓子を置く。
「今日の恵みに」
省略形だが食前の祈りを唱え、ケットシーが両前肢で持った林檎と肉桂の焼き菓子に齧りつく。幸せそうに焼き菓子を齧る姿が可愛い。
「あら?」
ニコラはケットシーのお仕着せの胸に留めてあるブローチに気が付いた。薔薇色の本を読む、ハチワレのケットシーのレース細工だ。白革のタグも付いている。
「それ、<ヴァルブルガ>の細工?」
「うん。ヴァルブルガ作ったの」
「可愛いわ」
「有難う。ニコラ、コサージュのお客様だったの?待っててね」
ケットシーは焼き菓子を食べ終え、ミルクティーを飲むと、椅子から降りてとことことカウンターの奥へと入って行き、戻って来た時には仕切りの付いた木箱を持っていた。
「どれが良い?」
九つに仕切られた木箱の中には、<ヴァルブルガ>のコサージュが収められていた。九つ全て違う草花を模したレース細工だ。
「え?もしかしてあなたが作っているの?」
「そう。ヴァルブルガが作っているの」
「ニコラ、この子の名前がヴァルブルガなんだよ」
グレーテルは床に立つヴァルブルガの頭を撫で、ニコラに教えてやる。
「ケットシーだったのね……」
「ニコラ、ケットシー嫌い?」
初めから折れているヴァルブルガの耳が、さらに伏せられた気がした。
「ううん、好きよ。ただヴァルブルガがコサージュ作っているのを知らなかったの」
「ヴァルブルガ沢山作れない。だからマリアンが紹介するお客様だけに売る」
「そうだったの」
ケットシーが作るコサージュだったから、誰も制作者を広めなかったのだ。加護を得られるか呪いを得られるか、ケットシーは扱いが難しい。マリアンのお眼鏡に適った人間だけが、ヴァルブルガの元へ来られたのだ。
「でも、私フラウ・マリアンからの紹介じゃないのよ?」
「良いの」
「ヴァルが良いと言うなら、良いんですよ。フラウ・ニコラ」
カウンターから様子を見ていたイシュカが口添えしてやる。
人見知りが激しいヴァルブルガが自分から近付いたのだから、善人認定されているのだ。
「値段を聞いても良いかしら」
「銀貨一枚なの。後でギルドに振り込んでくれても良いの」
良い値段だ。にこにこ現金払いには、ニコラの財布の中身が足りない。ニコラは請求書を出して貰う事にして、タンポポのコサージュを選んだ。
ヴァルブルガは仕切りからタンポポのコサージュを取り出し、形を整えてからコサージュがすっぽりと入る木箱に入れてくれた。
「はい、どうぞ」
「有難う」
請求書はイシュカが書き、封筒に入れてくれた。
イシュカは飲食料や迷惑料を取らず、グレーテルも診療費を取らなかった。孝宏にお茶とお菓子を出して貰ったから、それで良いらしい。因みに彼女は偶然<Langue de chat>に寄ったのだそうだ。
「今度は本でも借りに来て下さい、フラウ・ニコラ」
「本、ですか?」
「<Langue de chat>では、一回一冊銅貨三枚で二週間本をお貸ししています。そちらの棚にある本をお借り頂けますよ」
カウンター側と先程居たテーブルやソファーがある側を仕切る棚には、何色かの本が並んでいた。
「ええ、是非」
閉店時間が過ぎていたので、ニコラは今日借りるのは遠慮して、魔女グレーテルと<Langue de chat>を出た。
「記事に書くのかい?」
店を出て数メートル歩いた所で、前を向いたままグレーテルが言った。
「いいえ。記者証を着けていない時の取材は、記事にしてはいけないんです」
「そうかい。<Langue de chat>の本はどれも面白いから、楽しみにしておいで」
そういう彼女の片手には、本が入った革袋があった。
「はい。そうします」
「それから、自分で作れない時は、右区の<麦と剣>に行くと良い。パンにおかずを挟んだサンドウィッチを持ち帰りで売っているから。あそこが一番美味しいよ。腸詰肉ならアロイスの肉屋だね」
アパートまでグレーテルに送って貰いながら、一人暮らしで覚えておくと良い店を教えて貰う。
「忘れないうちに言っておこうかね。さっきのコサージュには、<加護>が付いているから大事におし。ニコラはヴァルブルガに気に入られたようだね」
「ええ!?どの辺がなんでしょう?」
「正直だったからだろう」
ケットシーは気に入った者には<加護>を与える。
(今度お礼を持って<Langue de chat>に行こう)
本を借りて、手帳を買おう。
そして、編集長に企画案を出そう。街にある店を一つ一つ取材して、コラムにしたらどうかと。
<リグハーヴス通信>の記者ニコラ。胸に着けた明るい黄色をしたタンポポのコサージュは、誠実な取材と筆致と共に、彼女のトレードマークとなる。
リグハーヴスの新聞記者ニコラ、ヴァルブルガに気に入られています。
おっとりしているヴァルブルガに、毒気を抜かれる人は結構いたり。
<Langue de chat>の皆の癒しだったりします。




