<Langue de chat>のラング・ド・シャ
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
<Langue de chat>の焼き菓子は、毎日孝宏が作っています。味は日変わりです。
47<Langue de chat>のラング・ド・シャ
マヨネーズは卵と酢、そして油で主に作られる。
『今朝のマヨネーズは贅沢に卵黄で作ったからなー。卵白が余っているんだよね』
『マカロンだったか?あれでも良いのではないか?』
『店に出すには、クッキーっぽくないかなあって』
『確かに』
孝宏は翌日店に出すクッキーを、夕食の後に作っていたのだが、カチヤが徒弟に入り店で接客をする様になったので、午後の時間を少し貰う事にしたのだ。
店で出す物なのだから、勤務時間に作れるのならその方が良い、と言うのがイシュカの考えだった。何時間も掛かるものでは無いので、それならと孝宏も製作時間を貰う気になったのだ。
エンデュミオンは孝宏が奥に居ても店に出ていたりするのだが、今日はエッダとカミルがもう帰っているので、孝宏と一緒に引っ込んで来た。これでもし大魔法使いフィリーネでも来れば呼び出されるのだろうが、その時はその時だ。
孝宏のクッキーはその時ある材料で作られる。「無いな」と思っても、買いに行けるのは翌日なのだから、ある物で作るのだ。
そして今日は卵白が保冷庫にあった。卵黄を使わない菓子とくればマカロンだが、店に出すのはクッキー縛りなので、ここはアレだろう。
『ラング・ド・シャだな』
『店の名前か?』
『ううん。そう言う名前のお菓子があるんだよ。クッキーみたいで、もっと軽い焼き菓子なんだ』
『ほう』
台所でエンデュミオンと二人きりなので、日本語というかこちらの世界では倭之國の言葉で話しながら、道具を揃えて行く。黒森之國語だと孝宏はゆっくりとしか話せないからだ。
『要るのは卵白とバターとグラニュー糖と薄力粉とあればバニラエッセンス、と』
柔らかくしたバターとグラニュー糖をすり混ぜ、そこに卵白を少しずつ入れて混ぜて行く。ハンドミキサーが無いので、ひたすら混ぜてふんわりする様になったらバニラエッセンスと薄力粉を入れて木べらで混ぜる。
『絞袋っぽい物ないしなあ。蝋紙で代用するか』
黒森之國蝋紙は優秀で、水や油を弾いてくれるのだ。天板に敷いて焼いてもクッキーがくっつかなくて良い。言わばクッキングシートだ。
蝋紙を三角錐にくるりと丸め、生地を入れて軽く上部を捩じり、蝋紙を敷いた天板の上に絞り出して行く。
余熱をしたオーブンで数分焼き、温度を下げてさらに数分焼いてから、熱鉱石を熱するのを止めて数分放置してから取り出す。
『良し、どうかな』
金具で引っかけ天板を取り出し、平たい籠の上に蝋紙ごと乗せて粗熱を取る。縁が薄っすらと茶色く染まった、柔らかな象牙色のラング・ド・シャが焼き上がっていた。
いつものクッキーと同じ大きさになる様に焼いたので、ラング・ド・シャとしては大きいサイズだ。
ケットシー用の椅子に立って覗き込んでいるエンデュミオンの尻尾が、そわそわと動いている。
『まだ温かいけど、食べてみる?』
『うん』
一枚エンデュミオンの口元に運んでやる。ラング・ド・シャは脆いので、柔らかさを知らないと、割ってしまうと思ったからだ。
さくり、と一口分がエンデュミオンの口の中に消える。
『!』
ぴんっとエンデュミオンの尾が立った。気に入った時の反応だ。あんこを食べた時と同じなので間違いない。
孝宏の手を両前肢で押さえ、さくさくとラング・ド・シャを食べ切り、くるくると喉を鳴らす。
『美味い』
『このままでも良いし、間にガナッシュを挟んでも良いんだ。ガナッシュ挟んだ方が崩れ難いかな』
『ほう』
孝宏はガナッシュを作り、店に出す前に挟む事にした。勿論、ガナッシュを挟んだ状態の物を、エンデュミオン他全員に味見させた。どの焼き菓子を出すか、孝宏は必ず食べさせるのだ。
イシュカもラング・ド・シャという菓子があると知らなかったので、「最初にこれを出せば面白かったな」と言ったのだが、卵黄ばかりが余ってしまうので、いつも作るには遣り繰りが難しい菓子なのだった。
春は徴税の季節である。農家など現物支給で支払う者でない限り、前年分を春に払うのだ。
各ギルドに所属している者は、各ギルド所属の文官が徴税官として前年の収入を確認して回り、税額を書いた納付書を交付する。それを持って自分の所属するギルドに行って支払うのだ。ただし定住していない者が多い冒険者は、自分で受けた仕事の明細を持って冒険者ギルドに行き、税額を計算して貰う事になっている。
大概の者は何かしらのギルドに入っている事が多いが、誰の扶養にもなって居らず、かつギルドにも所属していない者も稀に居る。ギルドに所属していない者は、教会で解る魔道具の戸籍簿があるので、抽出されたリストで領主の文官が赴くのだ。
黒森之國では産まれた者は、月の女神神殿で洗礼を受ける。その時に教会に登録されるのだ。ギルドに加入すると、各ギルドの意匠が戸籍の頁に表示される。魔道具の戸籍簿は、全ての月の女神教会で情報が共有されている。
神殿の戸籍簿では、現在どこに住んでいるのかまで解るのだが、悪用防止の為、司祭と領主以外は閲覧出来ない。
黒森之國で納税は義務であり、支払えなくても、支払えない理由を徴税官に述べなければならないのである。どこに居ても徴税官が来るからだ。
それ故、人々は間も無く開催される春光祭を楽しむ為にも、さっさと納税をしにギルドへと赴くのである。
ちなみにギルドを掛け持ちしている場合は、メインにしているギルドで支払えば良いのである。ちなみに遺産収入には課税はされない。
<Langue de chat>の場合は、テオとルッツだけが冒険者ギルドへ行き、他の者達は商業ギルドから来た徴税官に税金を計算して貰う。
開業して初めての徴税になるので、徴税官にも初めて会う。
朝一番に<Langue de chat>にやって来たのは、ブルクハルトと言う小柄の老徴税官だった。孝宏が「シュナウツァー犬に似ている」と思う白髪交じりの灰色の髪をしていた。
「去年の一の月から十二の月の分ですね」
イシュカの場合は前の店で勤務していた時の給料明細と、開業してからの帳簿だ。孝宏やケットシー達は開業からの給料明細を、カチヤの場合は去年は収入が無いので納税は無しだ。<Langue de chat>はケットシーにもちゃんと給料を払っている。
所得税の他には炉税と人頭税が定額分だ。<Langue de chat>の場合は炉税一軒分と人頭税が五人分だ。テオとルッツは個人事業者になるので、自分達で人頭税を払う。
「では確認させて頂きますね」
ブルクハルトは持って来ていた鞄の中から、紙と万年筆、それと明らかに算盤と思われるものを取り出した。
『算盤?』
「おや、これをご存知ですか?倭之國の計算機なのですよ」
電卓などが無い世界なので、恐らく覚えてしまえば効率がいい計算機だろう。しかし、黒森之國語で九九を覚えたのだろうか。発音するだけで舌を噛みそうになるので、孝宏は計算する時は日本語でやっている。
「どこかで売っていますか?算盤」
「輸入雑貨店ならばあるでしょう。王都になりますが」
「王都ですか」
出来れば王都には行きたくない孝宏である。
ブルクハルトはクリップ代わりに木製の洗濯挟みで留められた明細を捲りつつ、ぱちぱちと音を立てて算盤を弾いた。検算もしつつ合計額を出し、納付額を算出する。手際良く全員分の計算を済ませ、納付額を書くだけに様式が印刷された納付書に、万年筆で納付者の名前と金額を書いて行く。
王家と公爵以外は家名が無い中で、孝宏の場合は家名がある。容姿もそうだが、これを見るだけで異國人だと解るだろう。この國には基本五つしか家名が無いのだから。
「こちらをギルドにお持ちになり、納税して下さい」
「有難うございます」
納付書を受け取り、イシュカがテーブルの上を片付けている間に、孝宏は台所に行った。紅茶を淹れて、ラング・ド・シャにガナッシュを挟み込む。盆にティーポットとカップ、ラング・ド・シャの乗った小皿、砂糖とミルクピッチャーを載せて店に戻る。
「一休みして下さい。ヘア・ブルクハルト」
孝宏はブルクハルトの前でカップにお茶を注いだ。ティーコージーを被せた一人用のティーポットを置き、カウンターに戻る。
先日良い形の二杯半ほど入る、一人用のティーポットを見付けたので買ってみたのだ。今まではカップで提供していたが、ポット提供とどちらが良いか、モニターしてみようと思って居る。因みにティーコージーは、キルト生地を買って来て、作ってみた。
(カップかポットか聞けばいいのかもしれないけどなあ)
領主館のキッチンメイド、エルゼの様にゆっくりする人はポットが良いかもしれない。
お茶の葉は、基本的には黒森之國で一般的に飲まれている、セイロンやアッサム系の茶葉にしていた。ミルクティーに合うからだ。ダージリンは渋みが出やすい。
ブルクハルトはまずはブラックティーで一口飲んでから頷き、ミルクと砂糖を入れた。それからラング・ド・シャを摘まみ、さくりと齧る。
「これは……」
領主館の菓子職人が作った焼き菓子を、何度か口にした事があるブルクハルトだが、これに似た物もその中にはあった。
(しかし、これは別物だ)
菓子職人が模倣しようとしていたのは、この店の菓子だろうと一瞬で閃いた。
「それはラング・ド・シャと言う焼き菓子ですよ」
「おや、お店の名前と同じなのですね」
「そうなんです」
孝宏は「偶然同じだ」と言う意味合いで言ったのだが、ブルクハルトは「店の名前を着けた菓子だ」と理解した。
軽い食感に、噛んでいる内に口の中で溶ける甘さ。この様な菓子をブルクハルトは食べた事が無かった。
(王宮でさえも、出て来はしまいな)
王宮の菓子職人ですら作っていない菓子を作る異國人とは。彼の腕を知れば、黒森之國中から、大金を詰んで勧誘が来るだろう。
(領主夫妻がこの店を目に掛けている理由が解ったのう)
彼は領主から<Langue de chat>の徴税報告を行う様に、命じられていた。
ブルクハルトはラング・ド・シャの口溶けを楽しみながら、ゆっくりとお茶を飲むのだった。
夕方まで、数件の徴税業務を終えたブルクハルトが領主館に戻り、領主夫妻に<Langue de chat>に行って来た報告をすると、彼らは出たであろう焼き菓子について聞いて来た。
素直にブルクハルトが「ラング・ド・シャという焼き菓子を戴いた」と言うと、領主夫妻にとっては未知の菓子だったらしく、彼は根掘り葉掘り説明させられたのだった。
後日、領主夫人ロジーナが<Langue de chat>に訪れた時に聞いてみるも、「材料の関係で毎日は出来ないんですよ」と孝宏に言われ、一体どんな珍しい材料を使っているのかと、彼女の憶測を呼んだ。ただ、卵の黄身と白身の関係だったのだが。
その日、ラング・ド・シャを食べ損ねた常連客の熱い要望により、孝宏はマヨネーズを作った翌日の焼き菓子はラング・ド・シャにする事にした。
そんな理由を知らない客達は、あの焼き菓子はいつ登場するのかと、賭けにも似た思いで<Langue de chat>に通うのだった。
<Langue de chat>でラング・ド・シャを作りました。
不思議な食感に待ち焦がれる人が続出しますが、卵白が余った時に作られる為、時々しか登場しません。
そしてちょっぴり算盤が欲しい孝宏です。




