聖女の帰還
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
フィッツェンドルフは港街であり、船乗りが多く住んでいます。土産物屋では檸檬塩飴が船乗りに人気です。
42聖女の帰還
エルネスタは<Langue de chat>の棚から手帳を選ぶ様に言われた。
「レシピ集にすれば良いですよ」と孝宏が言うので、檸檬色の革の手帳を選んだ。それにイシュカがエルネスタの名前を箔押ししてくれた物を持ち、孝宏とエンデュミオンに付いて台所に向かう。
「エルネスタ、まず手帳に自分の名前を書いて」
エンデュミオンに言われるまま、最後の頁に持ち歩いている万年筆で名前を書く。青いインクが乾いた頃、エンデュミオンが自分の右前肢の肉球をぺろりと舐め、名前の上に押し付ける。
「<ケットシーの鍵を>」
ぱあっと一瞬手帳が光った。
「これでエルネスタ以外は開けないから、大丈夫」
「凄い……」
そこらの魔法使いとは桁違いの魔法だ。それなのに孝宏は驚きもしなかった。ただ単にエンデュミオンが使う魔法の高度さを知らないだけなのだが。
「シスター・エルネスタ。聖都の人が好きな物ってありますか?」
「檸檬は良く料理に使います。絞って蜂蜜とお湯に溶いて飲んだりします」
レモネードは飲む様だ。
「聖都や対岸のフィッツェンドルフは港街ですから、柑橘類は良く摂ります。遠出をする船乗りは、特に気を付けて柑橘類を取らなければなりません」
『壊血病予防か』
だから檸檬を良く使うのだ。予防食がそのまま普段の生活に定着したのだろう。
「じゃあ、檸檬味のクッキーにしましょう。材料を言いますから、書いて行って下さい」
材料は檸檬の皮とレモン汁、砂糖に油、小麦粉にアーモンド粉だ。それぞれのグラム数も教える。
「計量はきちんとして下さい」
黒森之國にも料理用の計量器や計量スプーンがある。
「では作って行きます」
孝宏は檸檬の皮を洗ってすりおろし、他の材料も量って皿に盛った。大き目の陶器の鉢を取り出し、材料を入れて混ぜて行く。まとまった生地をテーブルに広げた蝋紙に麺棒で伸ばす。
「で、これの登場です」
孝宏は蓋つきの籠の中から、先日雑貨屋で見付けた英之國からの輸入品のクッキーカッターを取り出した。店で出すものは丸型で抜いているが、おやつ用のは色々な型で抜いていた。その中でこれはぽってりとした三日月だった。大きさは円の状態で掌位ある。
「可愛い三日月ですね」
「教会のお菓子に三日月って良いかなと思って」
女神シルヴァーナに祈りを捧げた後に食べる三日月なら、女神の祝福を身の内に入れた気がするだろう。
生地を三日月のクッキーカッターで抜き、天板に並べ、オーブンに入れて焼く。十数分でレモンクッキーは焼き上がった。薄っすらと焼き色の付いた白っぽいクッキーだが、作っている間も、焼き上がってからも檸檬の香りが爽やかだ。
「これを一つずつ紙袋に入れて、礼拝帰りの信者さんに渡せば良いですよ」
「良い香りですう」
天板に載って冷めるのを待っているレモンクッキーの香りを、エルネスタが胸一杯に吸い込む。
「日曜礼拝の信者さんて、何人位来られるんですか?」
「聖都は島ですから、普段は五十人位でしょうか。でも温泉があるので、湯治に来られたり女神の塔の教会に各地から礼拝に来られる事もあります」
黒森之國の南側は雪が少ないので、収穫が終わった秋から冬にかけて、天気のいい日は礼拝に来る観光客があるらしい。本土と船でしか一般客は行き来出来ない為、湾内が荒れるような天候の日は、船が出ない。
そんな話をしていたらクッキーの粗熱が取れたので、エルネスタとエンデュミオンに一つずつ渡す。
「うん、檸檬だ」
「爽やかで美味しいです。これは港街の人も好きな味です」
「良かった。甘さが足りないなら、片面に細かい砂糖を付けて焼いても良いですよ。じゃあ、これはシスター・エルネスタにあげますね。俺はまた買って来れば良いので」
孝宏は洗って水気を綺麗に拭いた三日月型のクッキーカッターを、紙袋に入れてエルネスタに渡した。
「宜しいんですか?」
「巡礼の間に買いには行けないでしょう?聖女様の側仕えをなさっている様ですし」
「有難うございます。ヘア・ヒロ」
孝宏は皿にレモンクッキーを盛り、エンデュミオンとエルネスタと店に戻った。
「お待たせしました」
声を掛けると、聖女一行は慌てて読んでいた本から顔を上げた。
「ごめんなさい、夢中になっていたわ」
「レモンクッキー焼けましたよ」
孝宏は皿をフロレンツィアのテーブルに置き、別の皿に取ったレモンクッキーをディルク達にも配った。ケットシー達も欲しがったのであげる。孝宏のクッキーに慣れている彼らは三日月型のクッキーを直ぐに齧って喜色を浮かべていたが、フロレンツィア達は皿に盛られた薄い色のクッキーをしげしげと眺めた。
「これがレモンクッキー?」
「はい。聖都やフィッツェンドルフで馴染みがある檸檬風味のクッキーです」
「頂くわ」
フロレンツィアは細い指先でレモンクッキーを摘まみ、桜色の唇に持って行く。さくりと音を立てて齧る。
檸檬の酸味と香りがフロレンツィアの口に広がる。間違いなく美味しい。思わず声が上擦る。
「こ、このレシピを戴いたの?エルネスタ」
「はい、聖女様。聖都に戻りましたら、日曜礼拝の信者達の為に焼きますわ」
エルネスタは胸に檸檬色の手帳とクッキーカッターを抱き締めた。
「ううむ、これの為に聖都に来る信者が増えるかもしれん」
「誠に」
額を突き合わせる聖女一行に、孝宏は頭を掻いた。
「お口に合いましたか?」
「ええ、大変美味しいですわ。本当に宜しいのですか?レシピを戴いて」
「先程の約束の通り、シスター・エルネスタがレシピを管理して、レシピも現物も売らなければ良いですよ。もし約束を破ったら、俺はあなた達の身の保証はしません」
「エンデュミオンが呪うからな」
孝宏の膝下で、エンデュミオンが「ふふっ」と笑った。
よくよく考えてみると、<Langue de chat>に居た客は全員領主館に帰る者達ばかりだったので、馬車を呼ばずとも皆で歩いて帰る事になった。
聖騎士団長ボニファティウスは難色を示したが、最高齢のユルゲンが「大した距離でも無かろうに」と言ったので、それで決着が付いた。
彼らは読みかけの本を借り、エルネスタも一冊選んで借りて行った。本の色によって話の傾向が違う事を説明し、読みたい色を返却する本にメモで挟んでくれれば、まだ読んでいない物を送ると決めた。
「聖女」
「フロレンツィアと申します」
「フロレンツィア、一寸耳を貸せ」
「はい」
フロレンツィアはしゃがんでエンデュミオンと視線を合わせた。鯖虎柄のケットシーがフロレンツィアの耳に口を寄せる。髭がくすぐったい。
「礼拝している時に光の粒が降りるのは、真摯に祈る者への女神シルヴァーナの祝福だ。王家の血筋では無くても祝福は与えられる。民へ恐怖心を与えるだけだから、一々聖都に連行するなと教会に知らせろ」
「それは、女神様のお言葉ですか?」
「ああ。王家と女神への不満が募るだけだと何故気付かない?」
祝福の光が降りた者は、強制的に聖都で修道士や修道女にさせられているのだ。
「暴動が起きる前に辞める事だ。無理矢理仕えさせられている者の不満が煩いそうだ」
月の女神シルヴァーナは人前には滅多に姿を現さないが、可愛がっているケットシーの集落には度々遊びに訪れる。そこで以前ぼやいていたのだ。
人々は女神に願いを祈る。現状に不満がある者は、その場所からの解放を願う。自らの祝福が元で聖都に連行されたと恨み言を言われるのは、女神としては不本意極まりなかったらしい。
「本気で女神シルヴァーナに叱られる前に、な」
「……はい」
事前に王から注意を受けていたとは言え、やはりエンデュミオンは恐ろしい存在だ。人懐こいルッツや、イシュカから離れないヴァルブルガとは全くの別物だ。
それなのに。
「エンディ」
「孝宏」
<異界渡り>の少年に呼ばれるなり、エンデュミオンは直ぐに駆けて行った。抱き上げて貰って、嬉しそうな顔になっている。今ここでフロレンツィアを凄んでいたのは誰か別のケットシーではないかと思う。
「聖女様は、明日にはもう移動ですか?」
「ええ、王都へ向かいます」
「お気を付けて」
「あなたにも女神様のご加護がありますように」
銀色の光の粒が、フロレンツィアと孝宏を包んだ。女神の祝福が降りたのだ。そして、それは孝宏が月の女神シルヴァーナに認められている証でもあった。
領主館へと着いたフロレンツィアは、すぐに領主アルフォンス・リグハーヴス公爵へと面会を求めた。
「かの少年の審問を終えて来ましたわ」
「いかがでしたか?」
「間違いなく<異界渡り>です。黒森之國に、いいえこの世界に無い知識を有している様です。ですが、ケットシーに憑かれて守られておりますし、女神様の祝福も確認致しました。危険は無いでしょう。その様に王にも報告致しますわ」
「そうですか、それは良かった。あの少年はリグハーヴスの宝ですから」
くすりとフロレンツィアはアルフォンスの言葉に、唇に笑みを刷く。
「<物語を創造する能力>と<料理と菓子作りの能力>ですわね?」
「ええ。王都や聖都に幽閉するには惜しい能力です。自ら広め様とはしないが、自然に広がって行くのは気にしない大らかさもある」
「リグハーヴス公爵、こちらを召し上がってみてくださいませ」
フロレンツィアはエルネスタにレモンクッキーを用意させ、ティーテーブルの上に出させる。
月の形の淡い色合いのクッキーから昇る檸檬の香りに、アルフォンスがハッとなる。
「これはもしかして」
「ヘア・ヒロにレシピをこのエルネスタが譲って頂きました。レシピの公開は禁じられましたけれど」
「何と……」
孝宏が現在レシピを譲ったのはイグナーツとエルネスタだけである。どちらもレシピの公開を禁止されている。
「これは爽やかな焼き菓子ですね」
「聖都シルヴィアナに日曜礼拝に訪れた信者に配る為の菓子ですわ」
「ほう」
孝宏の菓子はレシピを公開しないが、多くの人に向けて供される。イグナーツも公爵夫人ロジーナに頼まれ、快く公爵家のお茶会に使う菓子を提供していたりする。アルフォンスもそこで漸く、孝宏がイグナーツに渡したレシピの菓子を口に出来たのだった。クッキー以外にも菓子のレシピを持っていた事に驚愕したものだ。
「これを王家の者が口にしたら、彼のレシピを欲しがるでしょうな」
「ええ。ですがヘア・ヒロがリグハーヴスに居住するのは、女神様の思し召しの様ですわ。マクシミリアン王もそうお命じです」
もし、誰かが孝宏に手を伸ばして来たら、それは王命に背いた事に他ならない。
「リグハーヴス公爵も、ヘア・ヒロと<Langue de chat>を見守って下さいますようお願い致します」
「承知致しました」
アルフォンスは椅子から立ちあがり、床に片膝を付いてフロレンツィアに受諾の意を示した。
聖女一行は翌日リグハーヴス公爵領を発ち、教会巡礼をしながら数日後王都に到着する。
エルネスタは聖騎士団の見張りが付いた台所でレモンクッキーを作り、王のお茶会に献上した。
聖女フロレンツィアの報告を受けたマクシミリアン王は、正式に孝宏を<異界渡り>と認定したが非公開とした。孝宏の生活を脅かす可能性が大であり、ケットシーに呪われる者が、増発しそうだからだ。
地元リグハーヴスに関しては勘付いている者も多いが、特に問題は起きていないので、リグハーヴス公爵に様子見をさせる運びとなった。
聖女の巡礼は無事に終わり、フロレンツィアは聖都へと帰還した。
そして次の日曜日。
礼拝に訪れ聖女のミサが終わった後、祭壇で礼拝し木箱に半銅貨を寄進した信者達は、礼拝堂の出口で修道女から白い紙の小袋に入った物を渡された。
黄色い三日月のスタンプが押された紙袋の中身は、半面に細かな砂糖が付けられた三日月型の焼き菓子だった。
黒森之國の細かな砂糖は光を反射してキラキラと輝く特性がある。聖都のイメージの檸檬風味の三日月型の焼き菓子は、月の女神シルヴァーナと聖女フロレンツィアの祈りの姿と重ね合わされ、<女神様の焼き菓子>と呼ばれるようになる。
聖都の女神教会でないと手に入らない<女神様の焼き菓子>の噂は、一度は礼拝に行って食すべし、と信者達に密やかに広まって行くのであった。
聖都の女神教会にレモンクッキーを伝授です。聖都でしか配られていないので、一寸した名物になるのでした。




