教会へ行こう(前)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
教会は観光場所でもあるリグハーヴスです。
398教会へ行こう(前)
リグハーヴスも冬の季節に入った。まだ雪は降っていないが、風は冷たく鼻先が冷える。
「ぶー」
先程から寒風を避けるようにプラネルトの胸元に顔を伏せながら、エアネストが不満鳴きを繰り返していた。
「ぶーって言わないでくれないかな。エアが歩いたらいつまでたっても教会行けないよ? シュヴァルツシルトとモンデンキントと遊ぶんだろ?」
「お」
領主館の寮を出てすぐに自分で歩くと主張したエアネストを抱っこしてなだめつつ、漸くリグハーヴスの街に下りて来たプラネルトは、ヒヨコ色の丸い耳付きフードを被った後頭部を撫でてやる。
今日は非番だったが、教会に用事があったのだ。街に暮らす魔物の血を引くものは教会で聖別されたメダルを常に身に着けているが、更に定期的に教会司祭と面会しなければならない。
エアネストは聖属性の妖精化した魔熊である。今更魔物に転化する事はないだろうとエンデュミオンにもお墨付きを貰っているのだが、一応月に一回は面会に行く。叔父である司祭イージドールに会う理由にもなるので不満はないのだが、最近自分で歩きたがるエアネストに歩かせると、街に下りるだけで結構な時間が掛かる。天気が良い時なら付き合うが、冬場には少々辛い。
─あっ、リクとニコだよ。
プラネルトの頭の上に乗っていた雷竜のレーニシュが、小さな前肢でぺしぺしと髪を叩いてきた。市場広場の少し先を、黒い三角耳をピンと立てた、細身の人狼が歩いていた。リグハーヴスにいる黒髪の人狼は、現在リクだけだ。それに人狼にしては、倭之國の人間並みに華奢だからすぐに解る。
─リク~、ニコ~。
「レーニシュ!」
プラネルトの頭からレーニシュが飛び立ち、リクの頭の上に着陸する。止める間もなかった。
「うわっ。あれ、レーニシュ?」
驚いた声を上げたリクだったが、常に思念を開放しているレーニシュの声は覚えていたらしい。後ろを振り返り、プラネルトとエアネストに気が付くとふわりと破顔した。リクが抱いていたニコも笑顔で前肢を挨拶代わりに上げる。
速足でリクたちの元に行き、プラネルトは謝った。
「ごめん、レーニシュが驚かせたね」
「思念が先に聞こえていたから大丈夫。頭に乗られるとは思わなかったけど。ヘア・プラネルトは買い物?」
「いや、教会に行くところなんだ。それから俺に敬称は要らないよ」
「解った。俺も名前でどうぞ」
お互い騎士であり、階級も同等なので丁寧な言葉遣いは不要とは、前回会った時に言っていた。
「リク達はどこへ?」
「まだ街を見て回っていないから、散歩に出たところなんだ」
リクとニコも今日は休みらしい。それならばとプラネルトは教会へ誘う事にした。
「リグハーヴス女神教会へはもう行った? あそこの礼拝堂は立派だよ」
「まだ行ってみていないけど、確かに義兄さんの教会よりかなり大きいかも。あ、俺の兄の番が司祭なんだ。人狼だと司祭でも番が持てるから。ニコの親ね」
通常司祭は婚姻しないが、人狼だけは別なのだ。
「リグハーヴスの教会にはケットシーとコボルトが居るよ。二人共聖職者だけど」
「ニコ、会いたいな!」
ニコが目を輝かせた。
「教会の隣には地下神殿もあるから、見ていく? 綺麗だよ」
「見たい!」
「おあ!」
「エアネストはハーネス着けてね。落っこちると危ないから」
小熊でも魔熊である。意外と力があるので、橋の上ではしゃいだら地底湖に落ちそうで怖い。
「リグハーヴスの地下神殿って有名だったっけ? 俺は聞いた覚えがないんだけど」
「いや最近だよ、発見されたのは。ここの司祭が偶然見付けて、管理者がエンデュミオンだと解ったんだ。古代の〈柱〉の神殿だよ」
「え、公開していいの?」
「今はエンデュミオン自体が〈柱〉だから問題ないみたいだね。収益は孤児院に還元しているみたいだし」
学院に行きたければ行かせてやるぞと、エンデュミオンは孤児院の子供達に約束しているのだ。そもそも小金持ちのエンデュミオンである。地下神殿の収益を孤児院につぎ込んでも痛くも痒くもないのだろう。
ニコは行く気満々だが、リクはどうなのだろうかと思ったが、膝丈の外套の下にある黒毛の尻尾が揺れていた。興味ありのようだ。
─ねえねえ、リクに番はいないの?
リクの頭の上に腹這いになったまま、レーニシュが訊く。リクはぴょこりと耳を動かした。
「俺は人狼の姿をしているけど、実は限りなく先祖返りなんだ。人狼としての能力ってほぼないから、あんまり里ではそういった対象に見られないんだよね。番の匂いって解んないし」
─匂いは他の人族同士でも好きな匂いと嫌いな匂いがあるから、それと同じじゃないの~? 許せる匂いの相手とじゃないと付き合えないんじゃない?
「そういうものなの?」
リクは目を丸くした。そしてくるりとプラネルトに向き直り、ひょいと伸びあがって匂いを嗅ぐ。なぜプラネルトで確かめるのだろうか。
「……良い匂いがするね。蜂蜜みたいな匂い」
「エンデュミオンに貰った石鹸の匂いかな? 蜂蜜を練り込んだ石鹸をこの間貰ったんだ。エアも同じ匂いかも」
「えあ」
エアネストをリクに差し出して、匂いを嗅がせる。エアネストの額に鼻先を埋め、リクが匂いを確かめる。
「確かに。少し違うけど、蜂蜜の匂いがする」
「おあー」
実は今朝、エアネストのおしめが濡れていたので風呂に入っている。変な匂いがしなくて良かったと、プラネルトは内心胸を撫で下ろした。
なぜエンデュミオンが石鹸をくれたかといえば、孝宏が冬用の保湿効果があって良い匂いの石鹸を欲しがったので、錬金術師グラッツェルに依頼して作ってもらったらしい。一度に数種類それなりの量が出来上がったので、使いきれない分を知り合いに数個ずつお試しとしてくれたのである。
おそらく〈Langue de chat〉で今使っているのは、別の香りの石鹸なのだろう。
「プラネルトには番はいないの?」
「〈暁の砂漠〉の民も人狼と同じで結婚が早い方だけど、俺は次期族長がまだだしね。まあ、俺は長男じゃないし、家を継ぐ必要はないから結婚してもしなくても大丈夫なんだ」
とはいえ、テオフィルは限りなく結婚しなさそうだとプラネルトは思っている。なにしろルッツが憑いている。あのケットシーのお眼鏡に適う相手はそういないだろう。
─〈暁の砂漠〉の民は、同族以外とでも結婚出来るよ~。プラネルトはお薦めだよ~。
「それは解る」
「レーニシュ、王都で就職したばかりの人に……リク、何て言った?」
「プラネルトが番としていい人だよねって話。でも俺は吊り合わないだろ?」
─どの辺が~? 騎士で薬草師で〈浄化〉の〈天恵〉もあるって充分過ぎるんじゃない? うちのプラネルトの取り柄は頑丈で全属性の魔法が使えて、レーニシュの竜騎士だって事かな。可愛いエアネストもいるしね! 人狼とだって戦えるくらい頑丈だから、簡単には死なないよ!
「何で頑丈を強調するんだよ」
〈暁の砂漠〉の民は頑健である。それは確かだ。
─リクとニコが王都に帰っちゃったら遠距離になるけど、お休みの日にはレーニシュがびゅーんって飛んでプラネルトとエアネストを連れて行ってあげるよ!
「あのな、レーニシュ」
お前はどこのやり手婆だ。今までプラネルトが誰にも興味を示さなかったから、大人しくしていただけだったのだろうか。窘めようとしたプラネルトをレーニシュはリクの頭の上らキッと睨んだ。
─プラネルト! 良い子はさっさと唾付けておかないと横から掻っ攫われちゃうんだからね! リクの尻尾好きな癖に!
「お前ばらすなよ!」
「プラネルト、俺の尻尾好きなの?」
「俺は変質者じゃないから!」
「いや、尻尾くらいは孝宏も楽しそうに見てるし」
生えているものはしょうがないだろ、とあっさりリクが言う。塔ノ守一族は見掛けの割に意外と男らしい性格をしている。
「リク、プラネルトと付き合っちゃえば? 村の人狼でリクに気がある人居ない訳じゃないけど、村の人と番になったら、リク外に出られなくなるよね?」
今まで黙っていたニコが、前肢でリクの外套を引っ張って言った。プラネルトとしては、一寸聞き捨てならない。
「ニコ、それどういう意味かな」
「リクは先祖返りだから、本当なら村から出られないんだよ。でも人狼の姿だから、外の学校に行かせてもらえたんだ。だけど人狼の番が出来たらカイと同じで村から出られない」
「それは〈天恵〉があるからかな?」
「うん」
塔ノ守一族の〈浄化〉の天恵は、各地の領主が密かに喉から手が出るほど欲しがっているものだ。現時点では塔ノ守一族の直系子孫はカイとリクであり他は傍系になるが、どちらにせよ人狼の里からは殆ど流出しないのだ。
「もしかしてリクが王都騎士団に居たのって」
「村に戻ったら、また外に出られるか解らないからだよ。兄さんはロルフェ義兄さんが好きだから不満はないし、義兄さんと一緒なら何処にでも行けるからいいんだ。その、番う相手の性格によっては、村から出られないっていう話で」
「あー、そういう……」
「へぷしゅっ」
エアネストがくしゃみをした。市場広場に立ち止まったまま話し込んでいた。冷えてしまったのかもしれない。病み上がりなのに、風邪がぶり返しても困る。
「行こう」
リクを促して、高い鐘楼のある教会に向かって歩き始める。プラネルトの斜め下にあるリクの三角耳はぱたんと伏せていた。
「エア、リクが好きか?」
「お」
即答だった。エアネストの「お」は肯定である。
「俺で良ければ、付き合ってみるか? 次期族長の側近だから、名前だけでも虫除けにはなるだろうし」
「いいの!?」
ぴょんとリクの耳が立ち上がる。人狼は尻尾だけではなく、耳も感情豊かだった。
「いいよ。リクとニコが王都に戻ってしまった後の事は考えなくちゃいけないけど、レーニシュが居るし。他の人に疑われても困るよね、ええと〈時空鞄〉に入れていた筈だな」
全属性が使えるプラネルトは〈時空鞄〉も行使出来る。本当に大事なものは〈時空鞄〉にしまってあるのだ。
〈時空鞄〉に手を突っ込み、中から四角い澄んだ緑色の石が嵌った魔銀の指輪を取り出す。〈暁の砂漠〉の民は貴金属を多数身に着けているものだが、砂漠から離れて生活する者は、流石に目立つので全てを身に着ける訳にはいかない。
おまけにプラネルトは騎士であり、髪に付ける珠は硝子が殆どなのでそのままだが、価値のある石は立場的に普段はしまっていた。この指輪はプラネルトの個人財産の一つだ。〈暁の砂漠〉の民の特徴である光の加減で緑色に見える瞳にちなみ、相手に緑色の石の付いた指輪や腕輪を渡すのは特別な事である。
「はい、これ持っていて。石は小粒だから邪魔にならないと思う。邪魔にならない丁度いい指あるかな。なかったらタグをぶら下げている鎖に通すといいよ」
「あ、有難う」
リクは悩みつつ、右手の中指に指輪を通した。大きさ的に丁度いいのがその指だったらしい。
─やったー、プラネルトに春~。
「レーニシュ、リクの頭の上ではしゃぐなよ」
─ねえねえ、ロルツィングに手紙を書いても良い?
「止めろ、自分で書くから」
レーニシュに書かせたら、何を書くか知れたものではない。
「おっおー」
「エアも書きたいの?」
「お!」
〈暁の砂漠〉は暑い為、現族長ロルツィングには、顔見せ程度にしかエアネストと会わせていないのだが、膝に乗せて可愛がられたのだ。おかげで帰る頃にはすっかり懐いていた。
エアネストが書くのは文字ではなく、意味不明の絵になるだろうが、ロルツィングは喜びそうだ。
─イージドールにも教えないとね!
「あー」
これから教会に行くのだった。レーニシュを黙らせても、意匠を見れば、イージドールにはリクの持つ指輪が誰の者かすぐに解るだろう。そうなると、イージドールからもロルツィングに連絡が行きそうだ。
「リク、外堀が埋められるかもしれないんだけど、いいかな」
「え?」
「うちの人間の誰に会っても、族長に連絡が行く気がする」
そもそもの発端は、砂漠を出た切り殆ど連絡をしなかったテオフィルのせいなのだが、リグハーヴス在住の〈暁の砂漠〉の民の動向は、イージドールから定期的に族長に生存報告という形で届くのである。
「リクのお兄さん達にも会いに行かないとね。何処の馬の骨だって言われたら困るし」
「俺も兄さん達に手紙を書いておくよ」
「そうしてくれる? 流石に人狼と対決するのは大変そうだ」
例え相手が聖職者でも人狼は人狼である。殴られたら一寸痛そうだ。
人通りの少ない平日の教会前広場は、微かに甘い林檎の匂いがした。
プラネルトは三番目位の子供なのかなあ、と思っています。お兄さんがいます。
レーニシュが選んだ竜騎士が、族長の正式な側近ですが、他にもレーニシュより若い雷竜がいて交互に族長の竜騎士を選んでいるのかも。
基本的には次代側近は子供の頃から、竜と一緒に育ちます。
ロルツィングの側近の竜騎士には、別の雷竜が憑いています。