魔熊と風邪
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
魔熊も風邪を引きます。
396 魔熊と風邪
魔熊のエアネストは、必ず人が居る〈Langue de chat〉に預けられる事が多い。
エアネストも孝宏とイシュカによく懐いているので、預けられる時にプラネルトの後追いもしない。普段なら。
孝宏が違和感を覚えたのは、プラネルトからエアネストを受け取った時に、「ぶー」と不満鳴きをしたからだ。いつもは機嫌よく送り出すのに。
騎士団の竜騎士の指導に行ったプラネルトは「昼には戻るよ」と、エアネストを撫でていった。
そのあとエアネストを台所の子供用の椅子に座らせて家事をしていた孝宏は、振り返ってやはりおかしいなと思った。
エアネストがテーブルに顎を載せて、ピスピスと鼻を鳴らしていたからだ。いつもならなにかと孝宏に話し掛けて来る。
「うーん」
孝宏は手拭いで手を拭いてから、エアネストを撫でた。耳の内側にも触れてみる。
「なんか……いつもより温かいような気がするんだよなあ。エア、抱っこさせて」
「お」
抱き上げて顔をじっと観察する。茶色い目がいつもより潤んでいる気がする。常ならしっとり濡れている鼻は、今日は乾き気味なのに鼻水が垂れていた。
「鼻水出てる、よね?」
「うー」
「怠いよね?」
「うー」
いつもと反応が違う。これは駄目だと、孝宏はエアネストを抱いたまま、ヴァルブルガの診療所に向かった。
改装したばかりのヴァルブルガの診療所は、待合室にも診察室にも苺の飾り彫りのあるベンチが置かれ、中々可愛らしい。
エンデュミオンが魔改造して空間を広げたので、奥になった診察室には、釣り鐘状の花の形をした光鉱石のランプがあり、明るく温かい色味で室内を照らしている。
ヴァルブルガは診療室で、編み物をしていた。丁度患者は居ないようだ。
「ヴァル」
「なあに?」
振り向いたヴァルブルガに、孝宏はエアネストを前に出す。
「エアネストが鼻水出ているんだけど、診て貰っていいかな」
「座って座って」
ヴァルブルガに勧められ、孝宏は診察用のベンチにエアネストを膝に乗せて座った。ヴァルブルガは踏み台に上って、エアネストの前に来る。
「痛い事しないからね」
「お」
ヴァルブルガはおとなしくしているエアネストの耳や鼻、口の中を見たあと、胸の音も聞く。舌を押さえた棒付きの喉飴をエアネストに渡しながら、ヴァルブルガが言った。
「季節の変わり目の風邪なの。夜にお布団蹴っちゃったのかな?」
「ぶー」
不満そうにエアネストが鳴く。風邪を引いたのは不本意のようだ。
「エンデュミオンにお部屋を暖める魔法陣組んで貰った方がいいかも」
「そうだなあ」
確かプラネルトとエアネストの同居人のシェンクは喘息持ちだった筈だ。暖炉はあるが、火蜥蜴は居ないので、夜には熱鉱石に灰を掛けてしまう。
「なんだ? 呼んだか?」
エンデュミオンが、開いていた廊下側の診察室のドアから顔を出した。
「エアネストのお薬取ってきて欲しいの」
ヴァルブルガが処方箋をエンデュミオンに渡す。エンデュミオンが鼻の頭に皺を寄せた。
「エアネスト、風邪か? 待っていろ、すぐ行ってくる。ついでにプラネルトにも知らせてこよう」
エンデュミオンは〈転移〉で姿を消した。孝宏はエアネストの頭を撫でてやる。
「エア、温かくして寝てようか」
「うー」
妖精の看病用に使う子供用ベッドにエアネストを寝かせ、足元に〈保温〉の刺繍がされた苺のぬいぐるみの湯湯婆を置く。これは一定以上熱くならないので、子供用にいい。当然ヴァルブルガのお手製だ。
エアネストの横には、魔熊の編みぐるみも置いてやる。
「ケットシーやコボルトには移らないと思うの」
つまり季節性のアレルギーみたいなものだろうと、孝宏は納得した。
「薬貰ってきたぞ」
ぽん、とエンデュミオンが〈薬草と飴玉〉から戻ってきた。孝宏が受け取って、淹れるために台所へいく。
「プラネルトも早めに戻るだろう。竜騎士達に早く帰れと言われていたから」
リグハーヴスの住人は、妖精を大切にするのだ。プラネルトはたまに騎士団にもエアネストを連れて行っているので、騎士達にも可愛がられている。
「エンデュミオン、プラネルト達の家って室温を保つ魔法陣ある?」
「いや、ないかもな。あの家は暖炉が燃えていれば暖かいんだがな。プラネルトが戻ってきたら、改造に行くか」
改造と言ってしまっているが、他人の家を魔改造するのはいかがなものか。
「建物自体弄る訳にはいかないから、ええと、これに彫るか」
流石に本人も自覚はあるらしい。エンデュミオンは〈時空鞄〉に前肢を突っ込んで、魔銀の塊を取り出した。魔法を使って横五センチ、縦十センチ程の板状に切り出して縁を整え、そこに魔法陣を刻み込む。
「これを壁に掛けてもらえば、熱鉱石に灰を掛けても、室温が一定に保たれるぞ」
「エンデュミオン、これギルド登録すればいいの」
ヴァルブルガが魔銀の板の端にエンデュミオンに穴を開けさせ、吊り下げ用の革紐を結びつけながら言う。
「これをか?」
「リグハーヴスの冬は寒いから」
〈Langue de chat〉は暖房器具があるので、一定温度に出来るのだが、暖炉しかない家だと、明け方は室温が下がって寒いだろう。
「魔法使いギルドと商業ギルド、どっちだろうな?」
「両方に知らせた方がいいかも。どちらかのギルドに来てもらったら?」
「そうするか」
エンデュミオンは魔銀の板を、エアネストが寝ている子供用ベッドの毛布の上に乗せた。
「こんなもんかな」
孝宏は熱湯を注いだガラス製のティーポットの中の薬草茶を、匙でほんの少し掬って味見した。濃さとしてはこんなものだろう。林檎の風味と蜂蜜のような甘さがある。子供用の薬草茶だ。
桃のシロップ煮も二切れ小皿に取り、孝宏は薬草茶をカップに入れて運んだ。
「エア、美味しいお薬だよ。甘いよ」
「うー」
カップと小皿の乗った盆をテーブルに乗せ、孝宏はエアネストを抱き起こした。
ヴァルブルガが、エアネストが飲みやすい温度に薬草茶を冷ましてくれたので、カップを支えて口元に当ててやる。
ぺろ、と舌先で薬草茶を舐め、エアネストはそのままちゃぷちゃぷと舐め続ける。味は気に入ったようだ。薬なのでそれほど多くない薬草茶を舐め終わった後に、桃のシロップ煮を食べさせて寝かせる。
「今は熱がそれほど高くないけど、夜には上がるかも。でも肺の音は綺麗だし大丈夫」
ヴァルブルガがエアネストを肉球で撫でる。身体は成体の大きさだが、エアネストは赤ん坊である。可愛がられ大事にされる時期なのだ。
エアネストが寝息を立て始めた頃、プラネルトと雷竜レーニシュが軽く息を弾ませて帰って来た。
「エア、熱出したって聞いたけど。俺、全然気付かなかったよ」
溜め息を吐いて、プラネルトはエアネストが寝る子供用ベッドの横にしゃがんだ。レーニシュもベッドの縁を掴んで停まり、エアネストの顔を心配そうに覗き込んでいる。
「うちに来てから熱が上がったみたいなの。朝御飯はちゃんと食べた?」
「いつもと変わりない量を食べていたよ」
赤ん坊のエアネストは黒森之國語を殆ど喋れないので、ヴァルブルガがプラネルトに質問してカルテに書き加える。
「さっきも桃のシロップ煮を食べていたし、食欲はありそうなの。消化に良いもの食べさせてあげて」
「解った」
「俺、今日の分のお粥作ろうか? 〈魔法鞄〉に入れていけばいいよ」
孝宏に出来るのは料理位だ。プラネルトはなるべくエアネストの側に居たいだろう。
「頼んでもいいかな?」
「うん。すぐ作るね」
孝宏が鍋を取り出し、粥の支度を始めると、エンデュミオンがプラネルトに室内を保温する魔法陣について説明を始めた。
「え、これ魔道具なのか? こんなに小さいのに?」
「部屋の温度を管理するだけだからな。部屋のどこかに掛けておいて、たまに魔力を入れてやればいい。エアネストが布団を蹴飛ばしても、風邪を引かないくらいの室温にはなる」
大体摂氏二十三度くらいだろうな、と米を研ぎながら孝宏は思った。魔道具をエンデュミオンの父親のフィリップとモーリッツに見せたら面白がるだろう。
鶏の出汁を効かせた粥を作り、土鍋に入れたままプラネルトに渡す。エアネストの薬包と、桃やロシュのシロップ煮も忘れずに。
エアネストを子供用ベッドに寝かせたまま、エンデュミオンがプラネルトとレーニシュを〈転移〉で、領主館の離れに送って行った。
夕方、領主館のイグナーツとゲルトの子供達の子守から帰って来た、フィリップとモーリッツは、エンデュミオンが渡した室温管理の魔道具に興味津々だった。
「父さん、これは〈保温〉の魔法陣の応用だからな。大した事はないぞ」
「魔法陣の中の単語を変えれば、家全体を管理出来るのは凄いな」
「転寝しても寒くない」
「モーは何か被って寝ろ」
「眠いと忘れちゃうんだよ」
相変わらずなモーリッツだった。
「これ、イグナーツのところにも一つ欲しいな」
「それを持っていって良いぞ。すぐ作れるし」
「じゃあ、貰う」
フィリップが室温管理の魔道具を、〈時空鞄〉に嬉しそうにしまう。
フィリップとモーリッツは、久し振りの子守をとても楽しんでいる。イグナーツとゲルト、子供達の事が随分と気に入っているようだ。暫くはリグハーヴスに居付くだろう。
「それにしても、魔熊の坊やは具合が悪いのか。まだ赤ん坊だろう」
フィリップが鼻の頭に皺を寄せた。そっくりな顔をしたエンデュミオンが尻尾を揺らす。
「引き始めの風邪だから、ラルスの薬ですぐに良くなるだろう。食欲はあるようだし」
「食べられるなら、治りは早いな。ロシュはあるのか? あれは栄養がある」
「シロップ煮にしたのがあるから渡したよ」
「足りなければ取って来てやろう。フィリップとモーの穴場がある」
フィリップとモーリッツが顔を見合わせて笑う。どうやら二人で育てた木があるようだ。
植物を栽培する趣味があるのは、フィリップもらしい。似た物親子だ。エンデュミオンの弟のグラッフェンも、大工クルトの家の庭で家庭菜園を手伝ったり、森で茸狩りをしたりしているとエッダに聞いていた。ケットシーは食べられる茸しか取らないので、毒茸判定をしているらしい。
一日一日寒くなり、風邪を引く者が出て、秋だなあと孝宏は思う。北にあるリグハーヴスはもうすぐ雪が降り、冬になるだろう。
冬服を見直して、足りないものはヴァルブルガか〈針と紡糸〉に頼まなければ。裏庭の冬支度も、シュネーバルと相談してやろう。
甘いミルクティーをカップに注ぎながら、孝宏は冬支度の算段をするのだった。
風邪っぴきエアネストです。
基本的に、必要だから作る感じのエンデュミオンの魔道具。
多分昔作った魔道具も、今も使われているものがありそうです。
建物を魔改造するのは昔からで、王宮の隣の魔法使いの塔も、エンデュミオンが魔改造したものです。