ハシェと最上級解毒薬(下)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ハシェ達がやって来ます。
393ハシェと最上級解毒薬(下)
ハシェに薬を届けてから一週間後、森番小屋から精霊便が〈Langue de chat〉に届いた。エンデュミオンが封筒を開けて便箋を開く。
「エンツィアンからだ。夕方に温泉に入りにくるからヴァルブルガにハシェの診察を頼みたいってさ」
「ハシェ、良くなっているといいね」
ボウルに小麦粉を振り入れながら、孝宏が言った。今日のおやつのブルーベリーたっぷりのカップケーキ作りだ。
「あれで効かなかったら、また他の物を捜すしかないからなあ。今度はグリューネヴァルトの鱗を試してみるかな」
「薬効あるの?」
「竜の鱗はそれぞれな。木竜の鱗は病気に効くんだ。でも霊薬の素材だからおいそれと使えない。効きすぎてもいけないからな」
霊薬となると、瀕死状態に使うようなものなのだ。物持ちが良いエンデュミオンは自然に落ちたグリューネヴァルトの鱗も集めて持っている。
今回の静成草(聖属性)は新種になるので、薬の代金は貰っていない。というか貰えない。薬草師ギルドに認定されていないからだ。ラルスも解っていて薬を作ってくれている。
もしこれでハシェに劇的な効果があれば、薬草師ギルドに黙っている訳にいかないので、ラルスに頼んで報告しなければならないだろう。
問題があるとすれば、静成草はヴァイツェア公爵領の固有種だという点だ。つまり──他の領地では栽培をするのを禁止とまではいかなくても、栽培を遠慮する植物なのだ。そもそも上手く根付かない。エンデュミオンとカシュが育てられたのは、静成草の生育状況を知っていた事と、魔素が豊富で安定している〈黒き森〉のケットシーの里だったからだろう。
静成草(聖属性)がヴァイツェア公爵領でも栽培が可能だと確認されれば、私的に使うのは問題ないとしても、エンデュミオンは販売する事が出来ない。勝手にリグハーヴス公爵領で栽培したのを咎められないのをよしとしろといわれて終わりだ。勿論最初から儲けるつもりはないのだが。
面倒なのは、静成草(聖属性)がヴァイツェア公爵領で栽培が出来なかった場合だろう。可愛がっている者の為に趣味で作るのは良いが、強制的に作らされるのはまっぴらごめんである。勿論ハルトヴィヒはそんな事を言わないだろうが、他の長老たちに言われそうだ。
「イシュカにお願いだなあ」
静成草(聖属性)の有効性が確認されたら、イシュカにヴァイツェア公爵ハルトヴィヒに手紙を書いて貰わなければ。薬草師ギルドに知らせる前に、ヴァイツェア公爵領で栽培出来るか試作して貰うのだ。聖水は……なければエンデュミオンが提供しよう。
「ミヒェル、お願い」
「はーい」
オーブンから顔を出したミヒェルの口にブルーベリーを入れてやり、孝宏は天板を任せる。火蜥蜴が居ればタイマー要らずである。
エンデュミオンはイシュカの工房に向かった。
「おうい、イシュカ」
「なんだい、エンディ」
イシュカは束ねた紙を糸で綴じていた手を止めて振り返った。ヴァルブルガも窓辺の椅子に座り、コサージュの花を編んでいた手を止める。
「夕方に森番小屋の一行が来ると精霊便が来た。ヴァルブルガにはハシェの診察をして欲しいそうだ」
「はあい。午後に里の回診に行くから一緒に診察するの」
「それでもしハシェが回復していたら、静成草(聖属性)が問題になって来る。イシュカにハルトヴィヒ宛に手紙を書いて貰わないといけないかもしれない」
「あれってヴァイツェア公爵領の固有種だっけ? 上手くいけば向こうに利があるんだし、大丈夫じゃないかな」
黒森之國で一番薬草を栽培しているのは、ヴァイツェア公爵領なのだ。新種が手に入るとなれば、色めき立つだろう。
「聖水で育てなければならない点で、教会との交渉が必要かもしれん」
聖水は教会で売っているものだからだ。エンデュミオンは地下神殿の管理者なので、野放図に聖水を利用出来るのである。
「ああ、聖水を使うから教会で育てるって話になるかもしれないって事か?」
「教会ががめついとそうなるが、今の司教はフォンゼルだからそうはならないと思う。ハルトヴィヒなら教会に寄進しているだろうし」
そもそも沼蛇の毒による後遺症が浄化出来る薬草は画期的であり、患者は喉から手が出る程欲しいものだ。それに研究したのはエンデュミオンとカシュだし、薬という形にしたのはラルスだ。
エンデュミオンとしては患者に正当な金額で提供出来るのなら文句はない。
「静成草は木陰で栽培するものなんだ。環境的に精霊樹の森辺りじゃないと上手くいかない気はする」
「となると、フォルクハルトとフリューゲルしか育てられないじゃないか」
現在精霊樹の管理をしているのは、イシュカの腹違いの弟のフォルクハルトと彼に憑いている南方コボルトのフリューゲルなのだ。
「大量生産出来る薬草じゃないしな。だからこそ領主案件なんだ。沼蛇の毒も噛まれてすぐに通常の解毒薬を飲めれば後遺症は残らないものだし、必要量は多くはない筈なんだ」
後遺症が残っているのは、解毒薬を用意していなかった冒険者や、ハシェのように立場が弱い者達なのだ。
「どちらかというと、後遺症がある人を見付け出して使うって感じになるのか?」
「そうだな。魔女や医師の診療所に問い合わせて、救済する形になるだろう」
「そうなると、もう國で患者を捜して貰う事にならないか?」
「……マクシミリアンか……」
厭そうにエンデュミオンが王の名を呟く。
「効果があるって解ったら、父さんから陛下に進言して貰うよ」
「そうしてくれ」
今までの王と違うと頭では解っていても、やはり王と言うものが好きになれないエンデュミオンだった。
夕刻になり、裏庭に魔力の揺れを感じ、エンデュミオンは裏口のドアを開けた。森番小屋御一行の到着にニヤリと笑う。
「良く来たな」
「こんばんはー」
手前に居たエンツィアンが、ほんのりと光る魔石の嵌った杖を振って挨拶する。
「にーに!」
「シュネー」
エンデュミオンの後ろから出て来たシュネーバルが、エンツィアンに抱き着く。エンツィアンはシュネーバルの二番目の兄なのだ。
「ハシェ、脚の具合はどうだ?」
「まだ少し痺れが残っているけど、動かせるようになったんだよ」
杖で脚を支えているものの、ハシェが銀毛交じりの黒毛の尻尾をふさふさと揺らした。アメリを抱いたクレフとヘルマンもにこにこしているので、ハシェの脚はかなりの改善を見せたようだ。
「温泉に入って来るといい。今日は里の方にヴァルブルガがいるから診察して貰ってこい」
「うん。有難う」
「ヘルマン、アメリを頼む。俺はイシュカにナイフを納品して来るから」
鍛冶師でもあるクレフは、ナイフを〈Langue de chat〉に卸しているのだ。ルリユールである筈の〈Langue de chat〉には、小物を置いている棚があり、ペンやインクの他に、クレフのナイフやシュネーバルの幸運魔石付きの栞など、他の場所では手に入らない物が売られている。特に宣伝もしていないし、決して安価ではないのだが、毎月きちんと売れている。
エンデュミオンはクレフと一緒に母屋に戻った。水が苦手なので、どうしたって温泉について行く事は出来ない。
「エンデュミオン、杏茸のオイル漬けだ。ヘルマンが作ったやつ」
「お、有難う」
ヘルマンのオイル漬けは、そのままパスタソースにも出来るので〈Langue de chat〉では人気なのだ。クレフから瓶詰を受け取り、エンデュミオンは〈時空鞄〉に入れる。
イシュカの工房にクレフを連れていき、エンデュミオンは二階に上った。夕食の準備を孝宏がこちらの台所でしているからだ。
「孝宏、ヘルマン達来たぞ。それから杏茸のオイル漬けを貰った」
「美味しい奴だね! ハシェはどうだった?」
「大分良くなったようだ。かなり自然に歩いていた」
「良かったねえ」
孝宏はスープの鍋に蓋をした。今晩は鮭とほうれん草のキッシュと根菜たっぷりのコンソメスープに、温室で採れた果物のサラダだ。デザートは紅茶のシフォンケーキに、甘さ控えめのクリームを添える。
森番小屋御一行が遊びに来る時は、アメリがハイハイで思う存分遊べるように温室で食事をする事が多い。今日も温室ではテオとルッツが、毛布を広げたりテーブルを置いたりと準備をしてくれている。
エンデュミオンは出来上がった料理を受け取って〈時空鞄〉へと入れた。これで取り出した時には熱々のままだ。
「きゅっきゅ」
木竜グリューネヴァルトが小鉢にクリームとベリーを貰って舐めている。滅多に人化しないこの木竜は、今やすっかり孝宏に餌付けされている気がする。
「ヒロ、お店閉めてきましたよ」
ヨナタンを抱いたカチヤが居間に顔を出す。
「はーい。じゃあ温室行こうか」
孝宏はエンデュミオンを抱き上げた。エンデュミオンを警戒させずに抱き上げられるのは、孝宏だけだ。孝宏はエンデュミオンの事を可愛いケットシーとして認識している。他の誰もがエンデュミオンは大魔法使いだと言っても、凄い魔法が使えるんだなあ程度にしか思っていない。
そもそも自分の価値すら、きちんと認識していなさそうだが、それは孝宏と同じく魔法が使えないイシュカが側にいるからかもしれない。
エンデュミオンの温室では、芝生の上に敷いた毛布の上で、ルッツがころころと転がっていた。毛布の端にはテオが座っていた。ルッツはテオにぶつかると、逆方向に転がって行く。
温室で毛布を広げると、毎回ルッツがやるお楽しみなのだ。
「エンデュミオン」
テオがエンデュミオンを見て、思い出したように口を開いた。
「今日冒険者ギルドで聞いたんだけど、近いうちに司教フォンゼルがリグハーヴスに来るらしいよ」
「随分先送りになっていたな」
偽聖人事件の後始末などもあったからだろう。あえて公にはされていないが、フォンゼルは元真偽官であり、マヌエルよりも身の回りに危険が多い。フォンゼルに憑いている猟師コボルトのリットやエンデュミオンが、罠やお守りで襲撃や毒から守っていたりする。真偽官というのは恨みを買いやすいのだ。
フォンゼルはマヌエルの弟子だった筈なので、〈Langue de chat〉にも当然来るだろう。なにしろ、マヌエルの暮らす隠者の庵にはエンデュミオンの温室経由で行くのが一番安全で早いからだ。
「本決まりになったらベネディクトかイージドールが知らせに来るかな?」
地下神殿の視察もあるだろうし、エンデュミオンは当然呼ばれるだろう。孝宏にも面会したいという筈だ。
「皆で休憩中か?」
クレフと一緒に広場に入って来たイシュカが笑って言った。テオがよいしょと立ち上がる。
「ルッツ、テーブルを出すぞ」
「あいー」
ころんと前転して、ルッツは立ち上がった。テオに頼まれて〈時空鞄〉からテーブルを取り出して、毛布の上に置く。
エンデュミオンがスープ皿やスプーンを取り出していると、温泉に行っていたハシェ達が戻ってきた。
「ハシェ、こっちに座るといい」
脚に負担が掛からないように、低めの椅子にハシェを座らせる。イシュカの横に座ったヴァルブルガにエンデュミオンは訊いた。
「ヴァルブルガ、ハシェの脚はどんな具合だ?」
「このまま最上級解毒薬を塗れば完治するの。筋力戻せばちゃんと歩けるようになるの」
「それは良かった。では静成草(聖属性)の存在をハルトヴィヒに知らせねばならんな」
「そうだねえ」
ヴァルブルガがのんびりと頷く。
「と言う訳で、イシュカ頼む」
肉球を合わせるエンデュミオンに、イシュカが苦笑した。
「解った。明日にでも父さんに手紙を書くよ」
どんな内容であれ、イシュカからの手紙ならハルトヴィヒは喜ぶだろうから、エンデュミオンとカシュが勝手に静成草を研究した事はお目溢しして貰えるだろう。
「じゃあ晩御飯にしようか。エンデュミオンお鍋出してくれる?」
「うん」
エンデュミオンは〈時空鞄〉からスープの鍋やキッシュ、サラダを取り出した。冷たいお茶も取り出して、風呂上り組に渡す。
「アメリ、離乳食始まった?」
「少しずつ始めているよ」
「キッシュの中身を細かくしたの食べるかな? サラダはベリーをゼリーにして砕いてみたんだけど」
孝宏とハシェがアメリに離乳食を食べさせてみている。ヘルマンとシュネーバルは畑に植える野菜について話しているし、イシュカとクレフはペーパーナイフの意匠に付いて相談している。エンツィアンはヴァルブルガとハシェの治療に付いて検討しているし、テオはルッツにベリーのサラダを食べさせ、カチヤとヨナタンは根菜たっぷりのスープを幸せそうに堪能していた。
キッシュの鮭をぱくりと口に入れ、エンデュミオンはふくりと口元を膨らませた。
仲の良い者達で食事をするのはいいものだ。
エンデュミオンが森林族だった頃は、一人きりで食事をするかフィリーネと二人きりだった。それに比べて今はとても賑やかだ。
もう少ししたら、〈Langue de chat〉に薬草師リクと魔女ニコが来るし、今日は領主館に行っているが、上級魔法使いフィリップと魔道具師モーリッツも居る。
(長生きするものだなあ)
やたらと永いエンデュミオンの人生だが、今まで過ごした幸福な時間はとても短い。
せめて孝宏と過ごす間は、なるべく平穏に過ごしたい。
自分の存在自体が嵐のようなものだと、エンデュミオンは知ってはいるのだけれど。
「にゃ~」
「美味しい?」
「にゃっ」
ベリーのゼリーを食べて大喜びするアメリを眺め、もう少し〈柱〉を頑張るかと思いを新たにするエンデュミオンだった。
ハシェの脚は完治しそうです。
そうなると、爆誕させた薬草の処遇をどうにかしなくてはならないエンデュミオン。
……イシュカにお願いしました。
静成草(聖属性)は沼蛇の毒以外にも使える薬草です。穢れ系の怪我に効果的です。