聖女の巡礼
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聖女は巡礼に出ます。
39聖女の巡礼
フロレンツィアは聖都シルヴィアナの聖女だ。
本来であれば聖都の聖女は國王の娘が就任するが、現王に娘が居ない為王弟の娘であるフロレンツィアが担っている。
聖女とは聖都の修道士・修道女達の長であり、月の女神シルヴァーナの声を聴く者とされている。しかし、フロレンツィアはいまだ女神シルヴァーナの声を聴いた事が無い。
就任式の時は幼かったので、修道女長の教えるままに、<女神の言葉>を口にしていただけだ。流石に十六歳になった今となっては、勝手に女神の言葉を紡いだりはしていない。女神の言葉を求めなければならない災害や戦などが幸い無く、フロレンツィアはひっそりと安堵していた。
<聖女>だからと言って、特別な力がある訳では無いのだ。フロレンツィアはただ黒森之國の平和を願って祈る毎日だ。
「聖女様、お手紙でございます」
フロレンツィアの側仕えの修道女エルネスタが、白い封書を持って部屋に入って来た。
聖女フロレンツィアは白いワンピース型の修道服に白いベールだが、修道女は濃紺の修道服にベール、修道士は黒い修道服にコイフというフードを着ている。見習いは総じて灰色の修道服にスカプラリオと言う貫頭衣だ。
「有難う」
銀の盆に乗せて差し出された封書を手に取り、裏返すと<鷲と王冠>の赤い封蝋があった。盆に手紙と一緒に乗っていたペーパーナイフで封を切る。
エルネスタが続き部屋にある側仕え用の部屋に下がるのを待ち、フロレンツィアは手紙を封筒から出した。
手紙は國王マクシミリアンからだった。今年、黒森之國の教会を巡礼しろという命令書だった。
巡礼は聖女が聖都シルヴィアナを出て各地の教会を回って礼拝する行啓だ。不作が続いた時や、災害の後に行われる事が多い巡礼だが、今は穏やかな御代が続いている筈だ。
(<異界渡り>が出現した可能性……?)
続けて書かれていたのは北東リグハーヴスに<異界渡り>が降りた可能性が強く、本人に審問をするのを許可する、という内容だった。ただし、王都や聖都に連れ帰る事は禁じ、<異界渡り>の現状生活を脅かす行動も慎めと書かれている。
(<異界渡り>とケットシーが三人同居しているとはどういう事なの)
一人に三人憑いている訳では無く、一人に一ケットシーなのだろうが。極め付けがケットシーの一人の名前がエンデュミオンと言うらしい。しかも、大魔法使いエンデュミオンと同一人物だと思われると記されているが、洒落にならない。
マクシミリアン王は、久し振りの巡礼に紛れさせ、<異界渡り>を見定めて来いと言っているのだ。
「エルネスタ、来て下さい」
「はい、聖女様」
衣擦れの音を立てて現れたエルネスタに、フロレンツィアは手紙をしまった封筒が載ったテーブルをトンと指先で叩いた。
「修道士長と修道女長、それと聖騎士団長も会議室に呼んで下さい」
「直ちに」
すぐさま集められたそれぞれの代表に、「王様からのご命令で巡礼に出る運びとなりました」と言えば、全員が目を剥いた。フロレンツィアが聖女になってから初めての巡礼だったからだ。
修道女長ザビーネが我に返り、咳払いをする。
「それは魔法陣での移動では無いのですね?」
「ええ。久し振りの巡礼になりますから、船と馬車ですわね。聖都から南回りにフィッツェンドルフ、ヴァイツェア、ハイエルン、リグハーヴス、王都の順番に回ります。大人数で行くつもりはありません。身の周りの世話はエルネスタで充分です」
「警備に十名は連れて行って頂きませんと。私も参ります」
壮年の聖騎士団長ボニファティウスもテーブルに乗り出す。司令官としては当然だろう。
「聖女の巡礼ですか。志願者が殺到しそうですなあ」
長老でもある修道士長ユルゲンが、面白そうだと言う様に口元を緩める。それをザビーネが不謹慎だと睨む。
「ユルゲンには同行して頂きたいと思っております。ザビーネは残って、皆の監督をお願い致します」
別にザビーネが口煩いから遠ざけたい訳では無く、理由はちゃんとある。ユルゲンは図書館司書なのだ。聖都に来てからずっと聖務の他は保管されている本を読み漁って過ごしている。<異界渡り>についても詳しいかもしれないと思ったのだ。
本土に渡る船の貸し切り予約、馬車や馬の手配、各街や集落への到着予定日等の連絡に半月ほど掛かった。
同行する修道女と修道士は二名ずつくじ引きで志願者から決めて貰った。これにユルゲンは含まれない。
四の月の半ばになり、漸くフロレンツィアは聖都を旅立った。
聖都の港から対岸にあるフィッツェンドルフの港まで貸し切った船で向かい、そこから待たせておいた馬車で教会を巡礼しながら南へと進む。巡礼の場合、どんなに小さな教会にも礼拝に向かう。月の女神シルヴァーナに仕える聖女が訪れたか否かで、民の志気も変わる。
精霊の中でも木の精霊と水の精霊と特に相性のいいフロレンツィアは、頼まれれば気軽に<治癒>を施してやる。聖女の名を高める様に行えと言うのが留守番をするザビーネの指示だったが、治せる者なら治してあげたいと思うのが、フィロレンツィアの偽らざる本心だった。
精霊便で他の集落にも伝えられたのか、行く先々で聖女の<治癒>を受けたいという民が待ち構えていたが、彼女は厭な顔をせずに<治癒>した。
馬車での移動の間は、ユルゲンに話を聞いた。馬車は四人乗りなので、修道士たちで一つ埋まる。おのずとユルゲンはフロレンツィアとエルネスタと同じ馬車になるのだ。
「ユルゲンは聖都にある沢山の本を読んでいるでしょう?」
「そうですな」
聖都に納められている本は、女神シルヴァーナの御業を記した説話集の元になった、各地の伝説を収集した物だ。
ユルゲン達司書はその各地の教会から送られてくる伝説を年代順にまとめ、清書し本にしている。
教会司祭や修道女達、もしくはただの平民が起こした〈奇跡〉も、重要な収集案件だ。彼らが地方で〈聖人〉と崇められる前に、聖都に連れて来なければならない。
〈聖人〉と崇められるのは〈聖女〉だけで良いのだ。もし本当に奇跡の業が使えるのなら、〈聖女〉の指示で派遣されなければならないのだ。
「ユルゲンは〈異界渡り〉について何か知っているかしら」
「そうですなあ」
ユルゲンは髭の生えていない顎を指先でしごいた。髭の代わりに白髪の眉毛は長い。
「黒森之國に〈異界渡り〉が居たのは、儂が産まれる前ですな。その時は人狼の集落に降りたそうです。精霊や妖精と意思の疎通がはかれる能力を持っていたと言われています。集落の人狼と番になりましたので、表舞台には出ておりませんな」
「そうなのですか」
(妖精と仲が良いのは、今回の〈異界渡り〉とも共通しているのね)
「〈異界渡り〉はすべからく知能が高いそうです。黒森之國とは違った文化を持っているそうで、〈新たな物〉をもたらして彼らを保護した者に富を与えると申します。過去には〈異界渡り〉の所有権を巡って争いも起きています」
裁判記録がございました、とユルゲンは微笑む。
「急な巡礼命令だと思いましたが、〈異界渡り〉の審問でしたかな?」
「ユルゲンとエルネスタには言っても良いでしょう。リグハーヴスに疑いのある者が現れたそうです。ただし、〈異界渡り〉である確認を取るだけです。リグハーヴス公爵領から連れ出す事は許されていません」
「すると、〈奇跡〉を起こす能力では無いのですな」
「その様ですね。ケットシー憑きだと言うので注意が必要です」
「おやおや、ケットシーですか。一度会ってみたいと思っておりましたよ」
フロレンツィアの隣でエルネスタも頷いている。ちなみにエルネスタはユルゲンの妹の孫だ。
「この事は他言無用です。聖騎士達が勝手に行動するかもしれませんから」
「承知しておりますよ」
「はい、聖女様」
聖騎士団は聖都の守護する為の騎士団だ。四領の騎士団と同じ辺境騎士団なのだが、聖都と聖女を守護する為、この様な名前となっている。
聖騎士団は月の女神シルヴァーナと聖女と言う後ろ楯があるからか、自分まで力を持ったと勘違いしがちだ。常々聖騎士団長から諫めて貰っている。
黒森之國を支える塔は女神の塔の他に、ヴァイツェアの魔法使いギルド本部の塔と王都の魔法使いの塔もある。
この三つの塔に魔法の才のある者を常駐させて置くのだ。そして定期的に儀式を行い、塔の地下にある魔方陣に祈りと魔力を捧げる。
魔力とは、魔法使いが普段は使わないが体内に内包する力の事だ。
塔の他にはハイエルンの人狼の集落と、リグハーヴスのケットシーの集落に同じ様な魔方陣があり、彼らが管理している。
國に寄っては神が降臨し、巫子と番ったりすると言うが、月の女神シルヴァーナは滅多な事では姿を現さない。
つまり、逆を返せば黒森之國で女神が降臨すると、政に影響しかねないのだ。降臨の理由が祝福なら良し、王家への非難であれば國が滅びかねない。
〈異界渡り〉は月の女神シルヴァーナの思し召しだと言われている。
〈異界渡り〉が悪意に触れない様に気を配るのも、聖都の使命なのだ。
聖女フロレンツィアが巡礼の旅に出発です。
フロレンツィアはレオンハルトの従姉妹になります。




