カシュと人魚
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
人魚は雄と雌がいます。
386カシュと人魚
カシュは庭師コボルトだ。ハイエルン公爵領のコボルトの里から、紆余曲折あってリグハーヴス公爵領の領主に同族の仲間数人と一緒に引き取られた。
領主のアルフォンス・リグハーヴス公爵は、元気でいるなら好きな事をしていいとばかりに、コボルト達に制約を与えずに領主館に住まわせてくれている。だがコボルトは生来働き者なので、皆自分の出来る仕事をやるようになった。
カシュは庭師なので、領主館の庭や畑の手入れを手伝っているが、領主館にもきちんと庭師がいるので、カシュが余り手伝うと仕事を奪ってしまう。手持ち無沙汰で困っていたカシュに、ケットシーのエンデュミオンが「エンデュミオンの温室や薬草園の手入れを任せてもいいか」と言ってくれた。
エンデュミオンは趣味で温室や薬草園を作ったので、庭師のカシュに手が足りないところを補って欲しいようだった。
勿論カシュは二つ返事で引き受けた。
それからカシュは、魔法使いギルドに出勤するヨルンとクーデルカ、彼らと一緒に行くクヌートに、〈Langue de chat〉に送って貰って温室や薬草園の手入れをするようになった。
エンデュミオンの温室は、手前側の料理用の野菜畑と香草畑の方は、幸運妖精のシュネーバルとシュネーバルの愛玩植物であるマンドラゴラのレイクが世話をしている。カシュが世話をするのは、主に水竜キルシュネライトが棲んでいる〈精霊の泉〉がある方の果樹広場だ。
キルシュネライトは長らくフィッツェンドルフ公爵領の水辺を護っていた水竜だが、前領主よる不遇に遭いすっかり愛想を尽かしていたのだ。そこでエンデュミオンがリグハーヴスに勧誘したらしい。普通、何処かの守護をしていた竜を別の土地に勧誘したりしない。リグハーヴスの街に水竜が居なかったからそこに納まったとはいえ、既にリグハーヴスにはエンデュミオンの木竜グリューネヴァルトが居たのである。グリューネヴァルトがエンデュミオン個人と契約している属性違いの木竜だったのも幸いしたのだろう。
キルシュネライトは気難しい雌の水竜だが、きちんと挨拶をすればカシュが庭仕事をして物音を立てようが気にしないで寝ている。時々丸くて濡れた時に色や模様の綺麗な石を見付けた時に、キルシュネライトの寝床に入れておけばなお機嫌がいい。
今日も双子のクヌートとクーデルカに〈Langue de chat〉に送って貰ったカシュは、まずは母屋の裏玄関のドアをノックして、そこに居た店主イシュカの徒弟カチヤに挨拶をしてから温室に向かった。
カチヤはコボルトと親和性が高い性質があって、コボルトは皆カチヤが好きである。因みに孝宏とイシュカは妖精全般に好まれる性質がある。だからなのか、孝宏は日中幼い妖精達を預かっているようだ。中々貴重な体質である。
「ふんふーん」
鼻歌を歌いながら薬草畑の雑草を抜き、カシュはまとめた雑草を籠に放り込んだ。これは後で肥料を作っている木箱に入れるのだ。
「少しお腹空いたな」
〈Langue de chat〉に来る時は、いつも領主館の騎士詰所で賄いさんをしているタンタンがおやつとお茶を持たせてくれる。〈Langue de chat〉の母屋に行けば孝宏がお昼ご飯を食べさせてくれるのだが、お昼までにはまだ時間がありそうだ。
薬草畑は小川に近い。古い大きな樹が並ぶ木立の間の短い小道を抜けると、丸太を半分に切って埋めた階段がある。この階段を下りれば小川に向かって桟橋が作ってあるのだ。
桟橋と言っても舟を付ける為のものではないだろう。こんな〈黒き森〉の深い場所に舟で来る酔狂な者はいない。ケットシー達も舟は使わない。多分今のカシュのように、前肢や道具を洗ったりする為に作られたのだろう。
そもそもエンデュミオンは水場には近付けないので、彼の幼馴染みの薬草師ラルスが作った気がする。
桟橋の杭に逆さに被せてあった、取っ手に縄を結び付けた小さな木桶を取り、カシュは川面に落とした。基本的にケットシーの里に流れる小川は狭く緩やかな流れが多く、ここも川底の水草が見える程澄んでいて、それほど深くはなさそうだ。
「おいしょ」
カシュは水の入った木桶を桟橋に引っ張り上げ、乾いた土の付いた前肢を洗い、頬かむりを外して水気を拭う。カシュは南方コボルトなので毛色が濃く、日除けに頬かむりをしている。ハイエルンでカシュと同じ農場で働いていた年老いた雇われ農夫が教えてくれたのだ。
違法に働かされていたカシュを気にかけて、良く食べ物を分けてくれたあの農夫は今どうしているだろうか。
溜め息を吐いて、カシュは桶の水を川に流した。桶の水気を切り、杭に被せる。
ぱしゃりと背後で水音がした。
小川には川魚が多く泳いでいるから、ここでも釣りが出来るかもしれない。ここにはエンデュミオンとラルス、養蜂師のバーニーとカシュ位しか来ないから穴場だろう。今度釣り道具を持ってバーニーと来ようと思いつつ、階段を上がろうとしたカシュに背後から声が掛けられた。
「ねえ、君ケットシー?」
「わう?」
カシュは振り返って目を瞬いた。
「大きな魚?」
桟橋に変わった魚が腰掛けていた。多分魚だ。上半身は人族に近いが、耳の縁が魚のヒレのようになっている。鱗は碧玉のような色で、フリルのようなヒレの縁も同じ色だ。魚と言われた相手は、尾の先で水面を叩いた。
「魚じゃないよ。人魚っていう幻獣」
「カシュはコボルトっていう犬妖精」
お互いの種族を確認し合う。
「僕はルンテシュテット。カシュ、グラウを知らない?」
「グラウ? ケットシーで? 毛の柄と目の色解る?」
グラウは灰色という意味だから、体毛に灰色があるケットシーだろう。しかし、里からグラウと言う通称のケットシーが巣立つと、また新たに生まれた灰色のケットシーの通称がグラウとなるので、元々の通称がグラウというケットシーは地味に多いのだ。
コボルトの「〇〇の家の〇番目の子」という呼ばれ方も長ったらしいが、ケットシーも毛色や目の色で呼ばれるので、紛らわしい。
ルンテシュテットは宙に視線を彷徨わせた。
「うーんとね、灰色で黒い縞があって、肉球も黒くて、目は鮮やかな黄緑色だったよ。時々目付きが鋭い子でね。小さい時からやけに賢かった」
「……エンデュミオンかな」
この辺りで会う、黄緑色の時々目付きの鋭い鯖虎のケットシーというと、エンデュミオン以外居ない。賢いもなにも、あれは伝説の大魔法使いの生まれ変わりである。
「エンデュミオン?」
「今は主を得たから名前がエンデュミオンに変わってるよ。後でここに来るんじゃないかな。近所に居るから呼んで来ても良いけど」
「急いでないから待とうかな。カシュは何してたの?」
「この上にある薬草園の手入れ。今は一寸お腹空いたからおやつ食べる所」
カシュはルンテシュテットの隣に腰を下ろし、腰に付けたポーチ型の〈魔法鞄〉から布巾に包まれた焼き菓子と水筒を取り出した。焼き菓子は一つ一つ蝋紙に包まれていて、食べやすくなっている。
今日のおやつは胡桃と刻んだデーツのパウンドケーキと、塩を振って乾煎りしたアーモンドだ。お茶は砂糖漬けの妖精鈴花の入ったほんのり甘い紅茶だった。予備のコップも持っていたので、ルンテシュテットの分もお茶を注ぐ。
「熱い物とか平気ならどうぞ」
「大丈夫、人魚は雑食だから。熱いのは少し苦手だけど」
ふーふーと息を吹きかけてから、ルンテシュテットは紅茶を啜って、「甘い!」と嬉しそうな顔になる。。
カシュは蝋紙を剥いて、パウンドケーキを齧る。相変わらずタンタンの作るお菓子は美味しい。先日はブランデーをたっぷり染み込ませたタンタン特製パウンドケーキを巡って、騎士隊員が本気で勝ち上がり式の試合をしていた。
「美味しい餌があると訓練に身が入っていい」と騎士隊長のパトリックが笑っていた。彼は中々の策士である。あとでヴァルブルガに「無駄に怪我人を出さないでほしいの」と叱られていたが。
ケットシーの里の辺りは年中常春で、安定した天気だ。ケットシーは雨や寒いのが苦手だから、魔法なのか女神様の奇跡なのか解らないが、そんな事になっている。
木漏れ日が桟橋の上に落とす模様を眺めつつアーモンドを齧っているカシュの耳に、草を踏む軽い足音が聞こえて来た。
「おーい、カシュー?」
カシュを探す声はエンデュミオンだ。カシュは畑に向かって声を張った。
「エンデュミオン、こっち、桟橋の所に居るよ!」
「今行く」
階段の上にエンデュミオンが現れて、途中まで降りて来る。水が苦手なエンデュミオンは、桟橋まで来られないのだ。
「あれ? ルンテシュテットもいるのか。何年ぶりだ?」
自分に気付いたエンデュミオンに、ルンテシュテットが薄い膜の水掻きのある手を振る。
「久し振り。十年ぶりくらいかな? 繁殖期で南に行く子達が多くて、僕留守番部隊だったんだよ。それより主見付かったんだって聞いたよ」
「うむ。今の名前はエンデュミオンだ」
「エンデュミオンなんだ」
「元々エンデュミオンはエンデュミオンだからな」
「それ僕が聞いても良かったの?」
「構わん。もうあちこちでばれてる」
色々やらかしてるもんな、とカシュは温くなった紅茶を飲みながら思った。
「そっかー、うちの長にエンデュミオンが誕生してるって伝えなきゃなあ」
「エンデュミオンは水に近付けないから、そっちの里には行けないからな。里まで行くならうちに居る冒険者とケットシーに依頼してくれ。グリューネヴァルトに送らせるから」
「今のところは大丈夫だよ。前に作って貰った薬もまだあるし」
「ならいいんだが。ところで人魚は教会とはどういう関係だ?」
「教会? 北の人魚はのんびりしてて人を襲ったりしないから、敵対してないかな。そもそも〈黒き森〉のうちの里辺りに人来ないし」
北の人魚の里は、〈黒き森〉の奥深い湖にあるらしく、そこからこの小川までは繋がっているものの、冒険者にも危険で誰も行かないらしい。
「フィッツェンドルフの湿地帯にいる人魚は水竜と一緒にあそこを守っているから、領主一族以外と交流しないんじゃない? 湿地帯の人魚はセイレーン種だから人族には危険だし。〈暁の砂漠〉側の海に南の人魚がいるけど、あそこも行くのは〈暁の砂漠〉の民の竜騎士くらいかな。北と南は同種で交配するから知り合いだよ」
北と南の人魚は繁殖期に交配する親戚のようなものなのだろう。
「よくあんなところまで泳いでいくな」
「僕ら水の中の方が動けるからね」
呆れたエンデュミオンに、ルンテシュテットが笑う。
「教会と敵対してないのならいい。この近くの隠者の庵に元司教の隠者が聖職者コボルトと暮らしている。この辺りも稀に散歩に来るだろうから教えておく。人型になった時に素っ裸で歩き回るなよ? 変質者扱いされるぞ」
「服なんて持ってないよ」
「エンデュミオンが一緒の時に人型になれ。隠者の庵側だから、こちらに冒険者は来ないが、ケットシーの里には稀に冒険者が来る。邪な者は入れないが、もしもの時がある。人魚は人族から見れば美しいからな。気を付けないと」
「はーい」
美しいと言われてまんざらでもないらしく、ルンテシュテットは尾びれをびちびち動かす。
「そろそろ戻ろうかな。また遊びに来るね」
「次はエンデュミオンの主を紹介しよう」
「うん。カシュもまたね。お茶美味しかったよ。今度畑見せてね」
「うん。気を付けて、ルンテシュテット」
水飛沫を立てる事無くルンテシュテットが川に飛び込む。一度水から顔を出してエンデュミオンとカシュに手を振り、北の方へと鱗を煌めかせながら泳いで行った。
カシュはおやつの入っていた布巾を畳み、水筒とコップと一緒に〈魔法鞄〉に戻した。立ち上がり階段を上る。
「……人魚は自分の美しさに無頓着だから、人族を魅了するんだ。エンデュミオン達妖精は人魚の魅了に影響されないが」
だから本当は人族と会わない方がいい、と階段の先に立つエンデュミオンが呟いた。
「でもヒロは平気そうだよね」
「孝宏はなあ」
エンデュミオンが頭を掻く。
「多分人魚の方を魅了するんじゃないかな。イシュカもだが、魔力を体外に出せない分、純粋な内包魔力が濃いから、妖精や幻獣には魅力的に映るんだろう。カシュ達、外見の美醜を気にしないだろう?」
「うん。そういえば、エアネストがヒロを魔石代わりにしてたよね」
孝宏とイシュカは魔物にも美味しい魔力持ちと言う事だ。
「仕方ない、マヌエルにルンテシュテットの事を伝えておくか。湿地帯に人魚が居ると人族は知らないからなあ、それは言わないで良いか……」
「湿地帯って、あれがいるんだよね? その、レイクの」
「それも内緒な」
湿地帯には伝説のマンドラゴラが居るのである。それを竜と人魚が守っているのだ。妖精の中でも伝え知っている者は知っている。
「あれをどうにかしようとしたら大参事だよね」
「エンデュミオンなら断るな」
シュネーバルの可愛いレイクでも、かなり高度な魔法を使える。魔石を与えたのはエンデュミオンらしいので、責任の一端はある気がするが。
畑に上がり、カシュはエンデュミオンを手招きした。
「頼まれていた薬草、大分大きくなったよ。ほら静成草」
「おお、凄いな」
「これは木陰で根元を苔で覆わないといけないやつなんだよ」
苔の中からぴょこんと飛び出した新芽をカシュが指差す。
「そうだったのか。随分前に種だけを手に入れた物だからな。これが採取出来れば麻痺改善に効果がある薬になる」
「森番小屋のハシェの薬?」
「うむ。今使っている物よりも静成草の方が効果が高い筈なんだ。治療が遅かった分、麻痺の抜けが悪くてな」
温泉治療に来ているハシェにカシュも何度か会っているが、穏やかな優しい人狼の少年である。ヴァルブルガやエンデュミオンが〈治癒〉したにも関わらず麻痺が残っているというのは、かなりの難敵だ。
「より効果を高めるなら聖水で育てた方がいいかな。教会から貰ってこようかな」
「聖水ならあるぞ?」
エンデュミオンがおもむろに〈時空鞄〉から陶器の水差しを取り出した。
「地下神殿の聖水湖と繋いでいるから、好きに使え」
「……地下神殿の管理人ってエンデュミオンだっけ」
「うむ」
エンデュミオンは真顔で頷いているが、コボルトから見ても非常識な行動だと解っているのだろうか。有難く受け取るが。
「普通に飲めるから、飲んでもいいぞ」
「うん」
これでお茶を淹れたら有難いお茶になりそうだ。魔物だったら浄化されてしまう。
カシュは水差しの聖水を如雨露に移し、静成草と周りの苔に掛けていく。ラルスから頼まれている一般的な薬草は普通の水で育てないと効果が変わってしまうが、薬効の高さを求める薬草なら聖水は使えそうだ。
庭師は研究者でもある。色々試してみたくてうずうずする。
後日、瀕死の状態でも飲めば飛び起きそうな解毒剤が爆誕し、二人並んでラルスの事情聴取を受ける未来を、エンデュミオンとカシュはまだ知らない。
エンデュミオンとラルスは勝手に里回りを開墾しています。
人魚は尾びれを人の脚にも変えられますが、服を着ないと拙い事になるので忠告しています。
一般的に人魚は美しいので、悪い人族に見付かると売買されかねません。
妖精は外見に頓着しないので、人魚が美しくても気にしないのです。
孝宏もイシュカも「わー、綺麗だなー」位の反応しかしないです。魔法を使えない人の方が、そういった幻惑系に耐性があったりします。
ルンテシュテットは雄の人魚です。ケットシーのエンデュミオンよりは幾つか年上だったりします。
幻獣も長生きなので、ルンテシュテットの外見は十代後半くらいです。