ハノと小熊
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
エアネスト、嫌な時ははっきりと意思表示。
383ハノと小熊
寝起きのふわふわした意識の中で、ハノの耳にとてとてという軽い足音が聞こえてきた。
同室のキーランドにしては軽い音に、昨日コボルトの誰かを泊めたっけ? とぼんやり思う。領主館のコボルト達は、騎士達と一緒にお風呂に入るので、時々そのままお泊りに来るのだ。
毛布の端が引っ張られる感覚の後、何かがぽすんとハノの腹の上に乗る。
「はーのっ」
「ん!?」
予想外に舌足らずな幼児の声に、ハノは一気に目を覚ました。
「エア?」
「おっ」
目の前にハノの腹の上に馬乗りになった、良い笑顔の魔熊エアネストがいた。鍛えている騎士の腹の上に小熊が乗った程度ではびくともしないが、何故エアネストが居るのかが解らない。エアネストは宿舎ではなく、離れの寮で主のプラネルトと雷竜レーニシュ、騎士のシェンクと暮らしているからだ。
「可愛い子ちゃん、何で俺の部屋に居るの?」
「お?」
エアネストが首を傾げる。エアネストはまだ殆ど喋れないので、当然答えはない。
「あれ? ここ俺の部屋じゃない?」
エアネストの背後に見える天井や壁が、自分の部屋のものではないとハノは気が付いた。つまりエアネストが居るのなら、逆に自分がシェンクとプラネルトの寮に居るのだ。
「……泊まった記憶ないんだけど……」
「おあ」
ハノの上に腹這いになって抱き着いてくるエアネストの頭を撫でながら唸る。エアネストがぐるぐる喉を鳴らす。ご機嫌のようだ。
「あっ、エアネストどこ行った?」
緻密な飾り彫りのある衝立の向こうから、プラネルトの声が聞こえた。どうやら目を離した隙に、エアネストがこっちに来てしまったらしい。
「プラネルト、こっちにエアいるよー」
ハノが呼ぶと、すぐにプラネルトが衝立の横から顔を出した。
「エア、ハノ起こしちゃ駄目って言っただろ」
「ぶー」
エアネストがプラネルトから顔を背けたまま唇を鳴らした。不機嫌な時や否定する時、エアネストはよくこうする。結構はっきり意思表示するので面白い。
「丁度俺が起きた時にエアが来たんだよ」
「それならいいけど。昨日から何度も登ろうとしていたから止めてたんだよ」
プラネルトが聞き捨てならない事を言う。
「昨日? あのさ、何で俺ここに居るの?」
ハノが最大の疑問を口にした途端、プラネルトが時折緑にも見える榛色の瞳を丸くした。
「もしかして覚えてない? ハノ、昨日大怪我してキーランドにここに担ぎ込まれたんだよ。一週間は安静が必要だから、そのまま泊まる事になったんだけど」
「はい!?」
「巡回警備の最中、石食み鳥の落とした石を避けようとして石段から落ちたんだよ。怪我はアインスが〈治癒〉してくれたけど、腫れがまだ残っているから無理に動かないでね。さっきまでキーランドが付いていたけど、今は二階で仮眠して貰ってるよ」
「……あー、結構重症だった感じ?」
「結構ね。エンデュミオンが丁度いて良かったよ」
「うわー、何があったか聞きたくねえー」
「あははは」
顔を顰めたハノに、プラネルトが笑う。朗らかな様子だが、いつもは細かく編んでいる蜜蝋色の長い髪を、今日は緩く一本に編んでいるだけだった。エアネストの世話に加えて、ハノにも気を遣ってくれていたのだろう。
「お腹空いてない? スープ温めるから食べて、薬湯飲もうか。薬湯はラルスの薬湯だから味は保証するよ」
「うん、頼むよ」
「エア、良い子にしてるんだよ」
「お」
プラネルトが台所へと去っていく。
「……記憶ないわー」
アインスはしっかりと〈治癒〉してくれたらしく、痛みはないが、身体のあちこちが疼いている。右足首は包帯で固定されているようなので、ここが一番怪我が酷かったのだろう。
「んんー」
ぐりぐりと毛布越しに頭を擦り付けているエアネストを、ハノは撫でる。もともと良く抱き着いて来るエアネストだが、いつもより執拗にくっついている気がする。
「エア、心配してくれて有難うな」
「お」
多くは語らない小熊は、ふすんと鼻を鳴らした。心配してくれる位には、時々遊びにくるハノの事を、気に入ってくれていたようだ。
「スープ持って来たよ。エア、こっちおいで」
「ぶー」
「おやつあげるから。ハノがご飯食べている間だけだよ」
「お」
のそのそとハノの腹の上からエアネストが動く。起き上がったハノの膝の上に食器の乗ったお盆を置き、プラネルトはエアネストをベッド近くにあったソファーに座らせた。何だか古めかしい意匠のソファーだが、趣味が良い。この家でこんなソファーは初めて見た。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
「おあ」
プラネルトがエアネストのおやつを持って来るまで待って、ハノはスープにスプーンを入れた。とろりとしたクリーム色のスープは、ジャガイモのポタージュのようだった。拳大の白パンが一つと、シロップ煮の果物が付いている。丸一日近く寝ていたらしく、軽めの食事だ。
「この果物、なに?」
硝子の器に盛られているのは、白や赤、黄色に黄緑をした杏のような果物だった。
「ロシュだよ。朝ハノの様子を見に来たエンデュミオンが置いて行ったんだ。アインスとシュネーバルは午後から往診に来るって」
「ロシュ!?」
ロシュは地下迷宮で採取されるという、珍しい果物だ。王都では結構な値段で取引されるが、四領ではほぼ見ない。
「なんかね、ケットシーの里で趣味で栽培しているみたい」
「地上でも栽培出来るの?」
「魔力濃い場所なら生えるのかもね」
「成程」
ケットシーは各個趣味があるが、エンデュミオンはどちらかと言えば園芸が趣味のようだ。ケットシーの里周りで色んな植物を植えている気がする。美味しい野菜や果物に関しては、植えておけば暇なケットシー達が世話をしてくれるらしい。
「王都で売ったら一儲けだよな」
「自家用なんだよね、エンデュミオンだから。はいエア、あーん」
「おあー」
ぱか、と開いたエアネストの口に、フォークで刺したロシュをプラネルトが入れる。あぐあぐと咀嚼し、「んま」とエアネストが上の前肢で頬を押さえた。こういう仕草はルッツを見て覚えて来ている気がする。
ゆっくりと食事を終え、プラネルトが淹れてくれた痛み止めの薬湯を飲む。ラルスの薬湯も香草茶も飲みやすい調合になっていて、大変有難い。〈薬草と飴玉〉がリグハーヴスに来る前は、苦い薬湯に苦しめられていたのだ。
薬湯の後に白湯を貰いハノが飲んでいると、プラネルトが「キーランドにハノが起きたって教えて来る」と二階に上がって行った。恐らく、プラネルトのベッドで仮眠させているのだろう。シェンクの姿がないので、今日は仕事のようだ。
プラネルトが二階に行って数分後、階段を駆け下りて来る足音がした。
「ハノ!」
「んぎゃっ」
勢いよく現れたキーランドに、エアネストがソファーから跳び上がる。
「お前、普通に来いよ。エア驚いてるじゃん」
「すまん、エア」
「ぶー」
不満を示すエアネストを撫でてから、キーランドはその場にしゃがみ込んだ。
「あー、良かった……。ちゃんとハノが起きるか心配だったんだからな」
「大袈裟だなあ」
「バッカ、お前死にかけたんだぞ!? エンデュミオンが居なかったら女神様の御許に行ってたんだからな!」
「嘘ぉ!」
キーランドの剣幕に、ハノは顔を引き攣らせた。
「俺は〈蘇生薬〉で魂を引っ張り戻す瞬間を初めて見たぞ」
「何であるんだよ、〈蘇生薬〉!」
「普通にエンデュミオンが出してた。躊躇いなく使ってたぞ」
「一寸! 薬代幾らだよ!」
「エンデュミオンは魔女じゃないから〈蘇生薬〉代は要らないそうだ。そもそもリグハーヴスの場合は騎士の医療費は領主持ちだけどな」
躊躇いなく〈蘇生薬〉を持ち出すエンデュミオン。恐ろしい。
「エンデュミオンは魔女の資格はないけど、魔女と同等の事は出来るらしいよ。四肢欠損も生やせるみたいだし。はい、キーランド。白湯だよ」
プラネルトがキーランドに白湯の入ったマグカップを渡す。
「あ、有難う。……大魔法使いだもんな、エンデュミオン」
見た目は目付きの悪い鯖虎柄のケットシーだが。大魔法使いのケットシーが孝宏という主持ちなのが、かなり異例である。リグハーヴス公爵も國自体も孝宏の庇護を表明しているので、現在エンデュミオンは大人しくしている。時折何かしらやらかしてはいるが、過去の恨みで王都を襲撃もせず、現在の王とはそこそこの仲を保っているらしい。
「怪我自体はアインスが〈治癒〉したから安心してね。エンデュミオンは緊急時と四肢欠損以外は〈治癒〉しないようにしているみたいだから」
「魔女の仕事取っちゃうからなあ」
「治療費貰えないしね。まあハノの右足、アインスで手におえなければエンデュミオンが治していたと思うよ?」
「お前の右足、骨折して腱が切れていたしな」
「聞いてるだけで痛いんですけど!」
意識がなくて良かったのかもしれない。ハノは鳥肌が立った腕を擦った。
「まあでもハノは結構エンデュミオンに気に入られていると思うよ。ここにある物、全部エンデュミオンが出してくれたんだよ」
「そうなのか?」
「うん、丁度持っていたからって」
「……家具を?」
「うん」
「あれは驚いた」
プラネルトとキーランドが苦笑いする。
「ねる!」
ソファーから下りたエアネストが、床の上でベッドに手を伸ばしてぴょんぴょん跳ねた。
「はいはい、約束だからね」
プラネルトはエアネストを抱き上げ、ベッドの上に乗せてやる。
「はーの」
エアネストは再びハノに抱き着いた。そしてぐるぐると喉を鳴らす。
「ハノ、邪魔じゃなかったら一緒にいさせてやって」
「うん、いいけど」
可愛いエアネストと一緒に過ごせるなら、ハノとしても断る理由はない。
プラネルトがハノに囁く。
「ケットシーの喉を鳴らす音は怪我の回復に良いって言う説があるから、エアネストもやってるんだと思う」
エアネストは恐らく地上で唯一の魔熊であり、同族はいない。しかし幼いエアネストはコボルトやケットシーを同族だと認識している節がある。コボルトのバーニーが偶然小熊似なのもあるのだが、良く懐いている。
「はは、エアの喉ごろごろで早く治りそうだな」
そう冗談で笑っていたハノだったのだが。
「魔熊の喉を鳴らす音に効果があるかは解らないが、エアネストは聖属性だから魔除けにはなるんじゃないか?」
午後になってアインスとシュネーバル、ヴァルブルガを連れて来たエンデュミオンはさらりとそんな風に宣った。
「魔除け?」
「魂が抜けた体には、良からぬモノが入り込む場合がある。魂を引っ張り戻したばかりのハノも、まあ危ないからな。本能的にエアネストが側にいるんだろう。怪我が治るまでには落ち着くと思うぞ。もし何か入り込んでも、マヌエルが祓ってくれるから安心しろ」
「そんな事になってんの!? 俺の身体!」
「今は地下迷宮の底も開いていないし大丈夫だ。聖水置いていってやるから、それでお茶を飲むといい」
「エンデュミオン、簡単に聖水出さないでよ……」
エンデュミオンは地下神殿の管理者なので、聖水が汲み放題なのである。有難味もへったくれもない。
アインスとシュネーバルの指導魔女であるヴァルブルガの診察でも、一週間安静にしているようにと診断を下され、ハノはこのまま逗留が決まった。
「おっおー」
診察の間何処かに行っていたエアネストが、玩具の入っている浅い手提げ袋を引き摺って戻って来た。道すがら床に木製の果物やパンが点々と転がっている。どうやら飯事道具のようだ。
「エア、ハノのベッドに玩具をそんなに持ち込まない」
「ぶー」
プラネルトの注意に、エアネストが不満そうに唇を鳴らす。怒られても確実にハノのベッドに玩具を持ってくる気満々だ。
「ごめん、ハノ」
申し訳なさそうなプラネルトだが、ハノにしてみれば御褒美のようなものだ。
きっと楽しく賑やかな療養生活になるだろう。
エアネストの遊び友達(?)ハノです。
療養生活の間、エアネストと遊べるので一寸嬉しい。
蘇生薬が出てくると、借金生活になるかもと、大抵はビビる……。
現在はラルスの店で通常販売しているので、リグハーヴスで買うと、それほどお高くはなかったりします。
普通の蘇生薬の使い方は、ハノに使ったやり方なので、それ以外は適用外使用方法(エンデュミオンの治験)です。
現在マヌエルとシュトラールは、エンデュミオンの温室の祠を祭っているので、専属司祭みたいな事になっています。
彼らは普段、ケットシーと一緒に畑作ってたり、温泉入ったり、ケットシーの子守をしていたりしています。遊びにやってくるマンドラゴラの相手もしてくれています。