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リグハーヴスの菓子職人

ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。

若き菓子職人の悩み。


38リグハーヴスの菓子職人


 領主館の菓子職人イェレミアスは悩んでいた。

 切っ掛けは領主館の騎士であるディルクがもたらしたモノだ。

「オーラフ」

 後片付けが終わる頃、ひょっこりと顔を出したディルクは、料理長オーラフに蝋紙で出来た紙袋を渡した。

「貰い物なんだけどさ、食べてみてよ」

「ほう、何だい?」

「フロランタンって言う焼き菓子だよ」

 領主館では公爵夫妻や客の分しか菓子は作らない。だからと言って、従業員が甘い物が嫌いな訳ではない。従業員宿舎の家族部屋に暮らすオーラフだって、家に帰れば妻が菓子を作っている。

 焼き菓子と聞いたイェレミアスは、耳をそばだててしまった。王都と比べればひなびた家庭菓子が多いのは致し方ないが、菓子職人としてイェレミアスは視界に入った菓子は口に入れる様にしていた。

 オーラフはナイフで焼き菓子を半分に切り、口に入れた。

「こりゃ凄い」

「やっぱりオーラフはそう言ったか」

 ディルクは吹き出した。

「これは売り物かい?」

「違うよ。でも美味しいだろ?()()()()にも食べてみて欲しくてね」

「ああ……」

 オーラフはディルクの企みに気付いたのか、ニヤリと笑った。

「有難うさん。そういや、いい加減お茶道具を買ったのかい。生活魔法が使えるんだから、自分で淹れた方が楽だろうに」

「んー、次の休みにリーンハルトと行ってくるよ。じゃあね」

 手を振って、ディルクは台所を出ていった。

「オーラフ」

 イェレミアスはディルクが去るのを待って、オーラフに駆け寄った。遠目でも見た事が無い菓子だったからだ。

「その菓子をくれ」

 珍しい菓子ならば、イェレミアスは自分が味見するのは当然だと思っていた。イェレミアスの師匠もその様にしていたし、彼は公爵の菓子職人なのだから。

「口の利き方を何とかしろ」

 呆れてオーラフは、ディルクの頼み事を無かった事にしてやろうかと思ってしまった。

 黒森之國くろもりのくにでは料理長と菓子職人が居れば、料理長の方が格が上である。全ての料理の責任を持つのが料理長だからだ。これが菓子屋で菓子職人しかないのであれば別だが、生憎イェレミアスは菓子屋でしか修行した事がない。勘違いしたまま職人になったらしい。

 オーラフは親方マイスターだが、イェレミアスが職人である事も、重要な違いだ。職人のイェレミアスはまだ弟子を取れないのだ。

 元々位階持ちの家の子供だと言うから、周りもなあなあで来たかもしれないが、オーラフはそうでは無い。

「その菓子を味見させて貰えませんか」

 渋々と言い直したイェレミアスに、小皿に乗せたフロランタンを押しやる。イェレミアスはフロランタンを手に取り、眺め回した。

「これは飴に木の実を絡めているのか……?しかしただの飴ではないな。土台は何だ?タルトの生地に似ているが……」

 見た目の解析をし終わった後、菓子の端を齧る。ぱっとイェレミアスの顔が上気した。

「何だこれは。カラメルの苦味はあるが、何かが違う。リグハーヴスに菓子屋があるのか!?」

 じろり、とオーラフが睨むと、丁寧な言葉で言い直す。

「リグハーヴスに菓子屋が出来たのですか?」

「いいや。菓子屋なんざあるのは、王都だけだよ。ここらじゃまだ各家庭で作るもんだからな」

「じゃあ、この菓子は?これを作った者は誰なんです?」

「さあな。今日はもう終わりだ。ご苦労さん」

 オーラフは座っていた三本脚の丸椅子から立ち上った。腕を天井に引っ張り上げ、腰の骨をぽきぽき鳴らしながら職場を出る。さりげなく<Langueラング de chatシャ>の紙袋はポケットの中に入れて出て来た。

(イェレミアスを悩ませろって所かね)

 オーラフは執事のクラウスから、食費に付いて注意を受けていた。通常通りの買い物しか注文していないオーラフは驚き、食料品店からの請求書を確認したところ、頼んだ覚えのない高級な製菓材料が勝手に注文されていた。オーラフがイェレミアスを叱り飛ばしたのは言うまでもない。食料品店にもイェレミアスからの注文は受けない様にと念を押す羽目になった。

 子供の徒弟だって料理長の許可が無い食材を注文したりしない。イェレミアスのいた店では随分と勝手をさせて貰っていた様だ。

(二等文官サマがなんぼのもんだ)

 決まった予算の中でり出来ない料理人など、使えやしない。高級な素材で美味い物を作れるのは当たり前であるが、金が湧いて出る訳でも無い。

 <Langue de chat>で菓子を作っている店員は、普通の材料で作っているだろう。それでいてあれだけ美味いのだ。

(さあ、どうなる事やら)

 くつくつと喉を鳴らし、オーラフは愛妻の待つ部屋へと戻って行った。


 領主家預かりとなったイグナーツは、休日以外は毎日せっせと地図の清書にいそしんでいた。地図を描くのが趣味でもあり、特に苦にはならない。

「イグナーツ、そろそろ時間」

「はーい」

 イグナーツはペン先のインクを端切れ布で拭き、ペン置きに戻した。椅子から立ち上がり簡易台所へ向かう。今、仕事部屋の中は香ばしい甘い香りが広がっていた。

「よいしょ」

 手を洗ってから鍋掴みを手に嵌め、オーブンを開ける。熱い空気がむわりと溢れ、香ばしい香りが強くなる。天板の上には、綺麗に焼けたスコーンが並んでいた。狼の口と呼ばれる生地が焼け伸びた部分もしっかりある。

「はい、籠」

 天板を金具で引き出し、ゲルトが差し出す布巾が敷かれた籠の中に、焼き立てのスコーンを入れて行く。

 丁度良く湧いた薬缶のお湯で紅茶シュヴァルツテーを淹れ、引っ繰り返した砂時計と一緒にソファー前の硝子テーブルに運ぶ。テーブルには既にクロテッドクリームや苺のジャムの瓶も並んでいる。

「一休みしましょうか」

「ん。今日の恵みに」

「今日の恵みに、月の女神シルヴァーナに感謝を」

 食前の祈りを捧げ、焼き立てのスコーンを手に取る。半分に割ってクロテッドクリームと苺ジャムを乗せ、齧る。

「美味しいですね」

「うん」

 お菓子を作った事が無かったイグナーツだったが、つがいが人狼であるところから、必要に迫られて作る様になったのだ。

 人狼は良く食べるのだ。どうやって燃焼しているのか解らないが、結構食べる。しかし、共同生活している以上、一人だけ大量に食べる訳にはいかない。その為ゲルトは空腹で居る事が多かったらしい。

 食事と食事の間に何か摘まめるといいとこぼしていたので、<Langue de chat>に行った時に思い切って孝宏たかひろに相談してみたのだ。そうしたらいくつか簡単なレシピを譲ってくれた。

「でも公爵や本職の料理人や菓子職人に渡しちゃ駄目だよ」と忠告付きで。現物を渡したりするのは良いらしいので、一階にある騎士の詰所にクッキーを差し入れしたりしている。肉体労働の彼らも、腹は空きがちだとゲルトに聞いたからだ。

 イグナーツとゲルトは仕事中は仕事部屋にこもり切りなので、結構好き勝手にしている。食器や保冷庫を買って来たので、二、三日に一度は菓子を作っていたりする。

 菓子を間食に取る様になってから、ゲルトは体調が良くなったらしい。孝宏は「血糖値低くなってたんじゃないかな」と言っていたが、人の身体には糖分も必要なのだそうだ。

 大体十時と三時にお菓子とお茶を摘まみ休憩を取り、本を少し読む。それがイグナーツとゲルトの日課になっていた。


 菓子を焼けば香りがする。連日、もしくは数日ごとに何処からともなく甘い香りがすると、領主館では誰もが気付き始めていた。騎士に関してはイグナーツとゲルトに直接菓子を差し入れして貰っているので、誰が作っているのを知っていたが、わざわざ報告する様な事でも無いと思って居た為、領主ですら知らなかった。リグハーヴス公爵は頻繁にイグナーツの仕事部屋に来たりしなかったからだ。

 そしてその噂はイェレミアスにも伝わった。

 まだフロランタンの解析に手間取っていたイェレミアスは、手っ取り早い領主館の菓子の香りの探索に出る様になった。

 これが別館の従業員宿舎の家族部屋なら話は分かるが、本館の中から香りがすると、メイド達が言っていたのだ。

 本来料理人や菓子職人は、公爵や執事に呼ばれでもしなければ、台所や食堂以外の場所には出ない。しかし、もともと準貴族である位階持ちの家に産まれたイェレミアスは、その辺りをすっかり失念していた。位階持ちは個人の物であり、世襲制ではないのだが。

(なんだ、この甘い香りは)

 ふわふわと漂って来る香気に、イェレミアスは階段を上がり本来は領主の家族や子女が暮らす為の棟に入り込む。

 現在の所リグハーヴス公爵夫妻には子供が居ないので、客間として使っていたり、空き部屋になっている為、メイドの行き来も少ない。

 棟の奥まった場所にある部屋に、イェレミアスは辿り着いた。辺りは人気が無く物音も聞こえないが、甘い香りは一番強くこの部屋から出ている様だ。

 イェレミアスはドアをノックした。しかし返事は無い。

 地図を扱うと言う重要性から、イグナーツの仕事部屋の鍵は、ゲルトとリグハーヴス公爵、公爵腹心の執事クラウスしか所持していなかった。そして、公爵と執事はノックの後、自分で鍵を開けるのだ。

 簡易台所もある為、仕事中はバスルームを使う時以外、イグナーツとゲルトは部屋の外に出ないし誰も入れない。掃除も彼らがしている。

 鍵を持つ三人とイグナーツ以外は、メイドですら廊下の掃除以外では近付かない。

(何故返事が無いのだ)

 部屋の中に人の気配は感じる。しかし、誰も返事もしないし出ても来ない。再び握った拳を上げたイェレミアスの肩に、ポンと手が置かれた。

 振り返ると微笑みを湛えているが、目が笑っていない執事クラウスが立っていた。

 一部の隙もない黒い執事服に白手袋。その白手袋を嵌めた指の長い手が、イェレミアスの肩に食い込んでいた。

 リグハーヴス公爵の執事クラウスは、主と共に地下迷宮に潜れる程の剣技と魔法を使える。見た目は美形で長身痩躯の為、強く見えないのだが、それすらも武器である。

「何をしておいでですか?こちらは料理人が立ち入る事など出来ない場所ですよ」

「私は菓子職人だ。あまい香りがするだろう、ここで菓子を作っている筈なんだ」

「それがあなたがここに居る理由になるとお思いですか?料理長に無断で散財したかと思えば、今度は邸の奥を彷徨うろつくなど、一体どういう躾をされて来たのですか」

 ぎらりとクラウスの薄い灰色グラウの目が光った。

「私は位階二等家の子息だぞ」

「ならばお宅であなた方家族が、お抱えの料理人や菓子職人にしていた対応を思い出しなさい。今はあなたが菓子職人なのですから、その対応をされる側ですよ。イェレミアス、あなたは位階を持たない平民ですからね」

 ちなみに私は位階五等を頂いております。と学院騎士科卒のクラウスは、付け加える。ついでに言うなら、騎士科の他に文官養成科も卒業している。

「う……」

 イェレミアスは言葉に詰まった。

 修行をしていた店は実家にいた菓子職人に紹介して貰ったイェレミアスは、位階の高い父親が居るからと言う理由で優遇されていた。

 イェレミアスが親に泣き付けば潰されかねないと思われていたのだ。

「言葉遣いも正しなさい。あなたは騎士より身分が低いのですし、料理長はあなたの上司ですよ。台所で一番立場が上なのはオーラフです。勘違いしない様に」

 イェレミアスの二の腕を掴み、引き摺りながらクラウスはチクチクと小言を募る。

「見付けましたよ」

 台所に放り込まれたイェレミアスをオーラフは怒鳴り付けた。

「何やってんだ!奥様のお茶の時間だぞ、菓子はどうした!」

「え!?」

 台所の壁に掛けられた時計は午後三時になっていた。リグハーヴス公爵夫人は、午後にお茶とお菓子を嗜む。

 菓子の香りを追いかけ回していたイェレミアスは、当然何の用意もしていない。

 真っ青になるイェレミアスに溜め息を吐き、クラウスはオーラフに言った。

「心当たりがありますから、メイドにお茶の準備を始めさせて下さい」

 クラウスは繊細に編まれた菓子籠と、縁にレースが付いた布巾を二枚取り、台所を出て行った。


「さっきノックされなかった?」

 お茶のお代わりをゲルトのカップに注ぎながら、イグナーツは首を傾げた。

「さあ」

 聴力に優れた人狼の耳で、イェレミアスとクラウスのやり取りを全て聞いていたゲルトがとぼける。

 トントントン。

 軽いノックの後に、鍵穴に鍵が差し込まれ、クラウスがドアを開けた。

 紙や画材が広がる部屋の中央のテーブルから、奥にある簡易台所まで灰色の鋭い視線が舐める。

「ヘア・クラウス」

 イグナーツはソファーから立ち上がり、頭を下げた。

「見ない間に随分居心地良くなりましたね」

 苦笑しながらも視線を走らせてテーブルの上の仕事の進み具合を確認し、クラウスはイグナーツとゲルトの元まで部屋に入って来た。

「色々買って来てしまいましたが、いけませんでしたか?」

「いいえ。お茶道具位用意しなかったとは、私も失念しておりました。申し訳ありません」

 ゲルトの視線がぶすぶすとクラウスに刺さる。「用があるなら早く言え」と無言で催促されている。

「奥様のお茶の時間なのですが、菓子職人に不都合がありましてね。菓子があれば分けて頂きたいのです」

「え?いえ、僕の作った物を奥様になんて」

 慌ててイグナーツが手を振る。

「台所に全く菓子の作り置きがないのですよ。今から作るには時間がありません」

「どうせこれに手を入れて別物みたいにするんだろう?」

 ソファーに座ったまま、ゲルトが籠の中のスコーンを指差す。

「いえ、菓子職人には触らせません。オーラフにさせます」

「なら良い」

「良いの?ゲルト」

「俺は又明日イグナーツに作って貰うから」

 ゲルトの許可が下りたので、イグナーツはクラウスが持って来た籠にレース付きの布巾を敷いて、まだ温かいスコーンを三つ盛った。

「半分に割ってクロテッドクリームとジャムを付けて召し上がって下さい。果物があれば添えても宜しいかと」

「解りました。助かりました」

 籠にもう一枚の布巾を上から掛け、クラウスは仕事部屋を出て行った。

「良かったのかな……?」

「煩い事を言って来たら蹴り出してやるから安心しろ」

 ゲルトはイグナーツの腰を引き寄せ、ソファーに座らせる。ゲルトだってイグナーツの仕事中は邪魔をしないのだ。休憩中位はくっついていたい。

 本当に蹴り出しかねないゲルトに、イグナーツは少々不安になるのだった。


 部屋付きのメイドがワゴンに乗せたお茶を運んで来た気配を感じ、リグハーヴス公爵夫人ロジーナは読んでいた薔薇色の表紙の本から顔を上げた。本を閉じ、傍らに控えている専属メイドに渡す。

 メイドはロジーナに濡れた手拭きを渡し、彼女が手を拭いている間に、ティーテーブルの上に茶器や菓子籠を用意して行く。

 菓子籠の中には素朴な焼き菓子が収まっていた。

「こちらは半分に割って、クリームとジャムを付けて召し上がる菓子との事です、奥様」

 深い紅色のお茶を花模様の白磁のカップに注ぎ、メイドがそっとロジーナの前に置く。

 クロテッドクリームの他、苺やあんず、桃、柑橘ママレード、薔薇と言ったジャムが幾つか並べられている。小さめに切られた果物を盛った器もあった。

 食前の祈りを捧げ、ロジーナは言われた通り、焼き菓子を半分に割り、クリームと苺ジャムを端に乗せ口に運ぶ。

「ん」

 焼き菓子はほろりと口の中でほどけた。バターの香りがして優しい甘さ。そこに濃厚なクリームと夏に作られた砂糖を効かせた苺ジャムが混ざる。

「美味しいわね」

 唇に付いたクリームを、ロジーナはナプキンでそっと押さえた。

 いつもは砂糖細工や飴細工が乗ったケーキ(クーヘン)タルト(トルテ)なのに、今日は随分と趣向が異なる。

(あのイェレミアスが作ったのかしら)

 ロジーナとイェレミアスは位階第二等の親を持つ者同士、子供の頃顔を合わせた事もある。

 イェレミアスは次男であり、学院に入らず菓子職人の徒弟に入ったと聞いた時には驚いた。しかも自分の使用人になるとは。

 勤め始めて二ヶ月程だが、そつの無い菓子を作ってはいる。ただし台所の月間予算を食い潰す程の高価な材料で作っていたと言われると、首を傾げたくなる。

(それ程美味しいと思わないのよね)

 相変わらず王都では甘い菓子が持て囃されている様だ。甘ければ正義、と言うのは<Langue de chat>のクッキーの美味しさに目覚めてしまったロジーナには不満だ。

 それに比べて今日の焼き菓子はどうだろう。焼き立ての温かさもあるが、小麦やバターの味がしっかりと感じられ美味しい。

「クラウスを呼んで頂戴」

 呼びつけられたクラウスは、常と変わらない隙の無さだった。

「お呼びでしょうか、奥様」

「この菓子は菓子職人が作った物かしら?」

「いいえ。今日は別の者が作っております」

「美味しかったわ。明日もその者に作らせて」

 クラウスが眉を曇らせた。

「いいえ、奥様。それは無理かと存じます。彼は菓子職人では無く、今日だけ急遽融通して頂きましたから」

「どういう事なの?」

「イェレミアスの準備が間に合わず、イグナーツが作った菓子を譲って頂きました」

「イグナーツって、預り人の?」

「はい」

「じゃあ、レシピがあるわね。それを貰って菓子職人に作らせて」

「一応聞いてみますが、料理や菓子のレシピは作り手の宝です。断られましたらお諦め下さい」

 どの職人にも秘匿する物はある。クラウスはロジーナに念を押し、慇懃に頭を下げた。

「解ったわ」

 クラウスはアルフォンス・リグハーヴス公爵がロジーナと結婚する前から仕えている執事だ。お嬢様育ちのロジーナにも、駄目なものは駄目だとハッキリと言う。

(その方が良いけど)

 公爵夫人になってまで、甘やかされていては困る。

 暫く待っていると、イグナーツの元に伺いを立てに言っていたクラウスが戻って来た。

「奥様、作るのは構わないそうですが、レシピは譲れないそうです。イグナーツがレシピを譲って貰った方から止められているそうです」

「誰から貰ったレシピだったの?」

「<Langue de chat>です」

「よりにもよって、あそこなの……」

 リグハーヴス公爵から〈異界渡り〉の疑いが濃厚な上、ケットシーが三人も居る<Langue de chat>には、余計な事はしてくれるなと言われている。

「解りました。イグナーツには時々私にも菓子を分けて下さいと伝えて下さい。それで充分です」

「承知致しました」

「それとイェレミアスには、もっと勉強して貰わないといけませんわね。こちらを一つ渡してあげて下さる?」

 焼き菓子の一つを小皿に移し、最後一つ残った籠をメイドからクラウスに渡して貰う。

「承知致しました」

(おやおや中々手厳しい)

 王都で修業をして来たイェレミアスには、公爵夫人からの駄目出しは、かなり堪えるだろう。


 スコーンを下げ渡されたイェレミアスは、フロランタン共々解析を始める。

 失敗した物を捨て様としたのをオーラフに見付かり尻を蹴り飛ばされ、「食える物なら食堂に出せ。食堂に出せないものはテメエで食え」と叱責されたイェレミアスは、食べられはするが微妙な代物を食堂の端に置く様になる。

 それらは甘い物に縁が薄い独身従業員の目に留まり、毎日きちんと片付いた。

 高名な菓子職人の出来合いのレシピばかりをただ作って来たイェレミアスにとって、レシピの解析は困難を極めた。

 その間にもベイクドチーズケーキなるものや、ケークサレなる焼き菓子が下げ渡され、イェレミアスの鼻をばっきばっきに折っていった。

(リグハーヴスと言う辺境の方が、豊かな菓子のレシピがあるとは……)

 結局イェレミアスは〈何となく似てはいるが違う物〉しか作り出せなかった。新たな物を生み出すセンスが、イェレミアスには無かったのだ。

 イェレミアスは一菓子職人として、黒森之國で手に入る既存のレシピを収集し、領主夫人の好みに合わせた甘さを抑えたケーキやタルトを丁寧に作って、公爵夫妻に出す様になる。

 そして安価な材料で出来る家庭菓子を、毎日食堂に一種類置き始めた。集めたレシピで各地方の家庭菓子を作った為、四領出身者に好評を博す。


 その頃になって、漸くイェレミアスはオーラフに尻を蹴り飛ばされなくなったのだった。



菓子職人イェレミアスと預かり人イグナーツと騎士ゲルトの日常です。

孝宏の菓子は本人の知らぬ所で、様々な人に影響を与えているのでした。

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