王子と灰色の毛玉(上)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
孝宏、毛玉と会う。
378王子と灰色の毛玉(上)
「エンデュミオン、お手紙来たの」
散歩に行こうと魔熊エアネストに孝宏が靴を履かせているのを見ていたエンデュミオンに、ヴァルブルガが封筒を持って一階の居間に入ってきた。
〈Langue de chat〉に関しては、運んで来た手紙は誰に渡してもいいと風の精霊は思っているようで、窓から見える人に渡していく。孝宏とイシュカの二人は精霊が見えないので、封筒が宙に浮いているように見えるらしく、時々窓の外で封筒を持って待っている風の精霊にぎょっとしていたりする。
「有難う、ヴァルブルガ。誰からだ?」
エンデュミオンは封筒を受け取った。片方は青い封蝋で片方は赤い封蝋だった。赤い封蝋を見たエンデュミオンの鼻の頭に皺が寄る。
「マクシミリアンか……」
エンデュミオンは赤い封蝋の手紙を後回しにし、青い封蝋の手紙を爪の先で開封した。
「こっちはロルツィングか」
「蚊遣り香足りそう?」
ロルツィングからの手紙が気になっていたのか、そのまま居たヴァルブルガが訊いてきたので、エンデュミオンは手紙を渡した。
「一先ずは。だが定期的に蚊遣り草を送って欲しいと書いてある」
先日エンデュミオンの父親のフィリップとラルスの父親のモーリッツが〈暁の砂漠〉に到着したと、荷物用の転移陣を使って手紙が来たのだが、その手紙に熱砂病が流行の兆しがあり、蚊遣り香が足りないので材料となる蚊遣り草を送って欲しいと書いてあったのだ。
エンデュミオンはすぐにケットシーの里の王様ケットシーに頼み、〈黒き森〉に自生する蚊遣り草を集めて貰い、フィリップ達に送った。ヴァルブルガとラルスは蚊遣り香や熱砂病に効く薬草茶も作り、それも追加で送ったのだ。どうやら同時期にフィッツェンドルフでも熱砂病が発生し、行商人は移動が楽なそちらに集中してしまったという。
「発症した人は元気になったみたいで良かったの」
「ヴァルブルガが喚ばれる程の重症者は居なかったみたいだな」
重症者が出たら喚ぶ、とフィリップからの手紙に書かれていたのだが、初期症状で手当てが間に合ったらしい。
「お礼に干し果物を送るってくれるようだな」
フィリップの持つ荷物用転移陣を利用するので、週末に準備をしておいて欲しいと書かれている。日持ちのする干し果物は、ケットシーの里のケットシー達も好きなおやつだ。
「そしてマクシミリアンだな……」
厭そうにエンデュミオンが赤い封蝋の封筒を開ける。
「なんて書いてあるの?」
エアネストの靴の紐を結び終えた孝宏に、エンデュミオンは不満そうに唸った。
「王宮の執務室に来てほしいと書いてある。何で呼ぶのか書いておいて欲しいんだが」
「行ってくるの?」
「仕方がないから行ってくる。つまらない理由だったら呪ってやる」
「小指ぶつける位にしなよ?」
孝宏が苦笑いして、エンデュミオンの耳の付け根を掻いてくれる。
「俺はエアとマヌエル師の所に行ってくるね」
「うん。エンデュミオンも後で行く」
「おあ!」
「行ってくるな、エアネスト」
エアネストは出会ったばかりの頃より、よく笑うようになった。今やすっかりリグハーヴスに暮らす妖精達の弟分として可愛がられている。
エンデュミオンはエアネストの額を撫でて、マクシミリアンの執務室に〈転移〉した。
マクシミリアンの私室は一部が池の上にあり、エンデュミオンにとっては天敵である。だから執務室を指定したのは評価してやってもいいと思う。しかし、孝宏とエアネストと一緒の散歩を邪魔されたのは腹立たしい。
「エンデュミオンが楽しみにしている孝宏との時間を削る事になったんだから、呪ってもいいか?」
「来るなり物騒だな、エンデュミオン」
顔を引きつらせるマクシミリアンに、エンデュミオンはフンと鼻を鳴らした。
「孝宏に小指をぶつける程度の呪いは許可して貰っている」
「仕事が滞るので、呪わないで貰えると助かるなあ」
肩に光竜ゼクレスを乗せたツヴァイクが、執務机の上の書類を整えながらおっとりと言う。
「仕方がない、ツヴァイクに免じて許してやろう」
「お前達、私の扱いが酷くないか?」
「通常運転だ」
「そうそう」
顔合わせのじゃれ合いを済ませ、エンデュミオンは執務室にあるソファーによじ登った。マクシミリアンも執務机の椅子からソファーに移って来る。
エンデュミオンは尻尾の先で、ソファーをぱしぱしと叩いた。
「で、用件はなんだ? マクシミリアン」
「レオンハルトの件なんだが。あの子のケットシーがどうにかならないかと思ってな」
「それなら、レオンハルトが成人して〈黒き森〉にくれば、ちゃんとケットシーが憑くと思うぞ?」
レオンハルトは基本的には素直な子供だ。定期的に貸本を届ける時に会う事もあるが、王太子に任ぜられてからは、勉強も武術も頑張っているようで、あれなら大丈夫だろうとエンデュミオンは思う。
「それを早められないか? 兄のローデリヒは木竜を得ただろう? レオンハルトはまだ成人するまで数年ある。出来れば王太子のあの子にも、信頼出来る友人を得ていて欲しいのだ」
護衛騎士と専属侍女が付いているとはいえ、彼らはツヴァイクと違い対等な関係では無い。ローデリヒは臣籍降下が決まっているとはいえ、いまだにローデリヒを王にと願う臣がいない訳ではないらしい。ケットシーが憑けば、レオンハルトに悪意を持つ者を判別出来るのは間違いない。
だが、ケットシーも個体差があるので万能ではない。
「言っておくが、ケットシーは必ず役に立つ訳ではないぞ? 年齢も性格も持っているスキルも、千差万別だからな」
「それでもケットシーは主を裏切らないだろう?」
「そりゃあな。裏切る前に、主の敵を呪い潰すぞ」
ケットシーは可愛いだけの妖精ではない。
「だからいいんだ。それに道を外れそうになれば、正道に戻してくれるだろう」
「それでも聞く耳を持たなければ、ケットシーから見放されるだけだな」
ケットシーは黒森之國が滅ぶ道には賛同しない。それは妖精や人族の死活問題にもなるからだ。主を守る為に、否と言う。
エンデュミオンは前肢を組んだ。
「うーん、レオンハルトを里に連れていくのはいいが、場合によってはまだ生まれていないケットシーが相棒の時もあるから、今回見付からないかもしれないぞ?」
「その場合は、都合がつく時に何度か連れて行ってくれないか」
「解った。まずは一度連れて行ってみよう。森を歩くから動きやすい格好で準備させてくれ」
「すぐに用意させよう」
マクシミリアンが手紙を書き、侍従に持たせレオンハルトに届けさせに行く。
エンデュミオンはレオンハルトが来るまで、〈暁の砂漠〉とフィッツェンドルフの熱砂病について報告して時間を潰す事にしたのだった。
エンデュミオンが王都に〈転移〉した後、孝宏はエアネストと温室へ向かった。家の中だと六つ足で歩いていたりするエアネストだが、身体強化すれば二足でも歩く。今は散歩の時間に、靴を履いて二足で歩く練習をしているのだ。
身体強化をすると魔力を消費するので、練習後はエアネストと触れ合う時間が多い孝宏と一緒に、〈魔力回復飴〉をおやつに舐めるまでが日課である。
よっちよっちと幼児らしい歩き方をするエアネストと芝生の生えた広場に入る。
─あら、お散歩?
「キャウー」
今日は玉石の敷き詰められた寝床にいた水竜キルシュネライトとマンドラゴラのレイクが、声を掛けて来た。
「うん。マヌエル師のところまで。この間集めて貰った蚊遣り草の事も報告したいし」
─水が淀むと熱砂病が出るわ。シャルンホルストに水路の水の循環を点検させないと。
シャルンホルストはフィッツェンドルフの若い水竜だ。
「エンデュミオンが帰って来たら、手紙を書いて貰おうか」
─そうね。
フィッツェンドルフは領主も変わったばかりで若いし、前領主が随分と領地を脆弱化させてしまった経緯がある。きっと大変だろうな、と孝宏は心配になった。
「キャン」
「あれ、レイクも来るの?」
「キュ」
レイクが水盤から出て、付いて来ていた。そっと、蔓を伸ばしてエアネストの前肢と繋ぐ。
「おあ」
いつも一緒に遊んで貰っているので、エアネストも慣れていて嬉しそうだ。
隠者の庵へと続く小道をよっちよっち歩いていくエアネストとレイクの後を、孝宏はゆっくりと追い掛ける。
隠者の庵もケットシーの里の範囲内にあるので、危険はない。
高い古木に囲まれた広場に建つ隠者の庵には、今は前司教マヌエルと聖職者コボルトのシュトラールが暮らしているが、日中はケットシー達もやって来て畑仕事をしている。
今日も賑やかなのだろうと思っていたのだが、隠者の庵は珍しく静かだった。
「あれ? 里で何かあったのかな」
温泉に行くような時間でもないので、もしかするとケットシーの里で赤ん坊が生まれて祝福しに行ったのかもしれない。もし事件が起きていれば、マヌエルはエンデュミオンに知らせに来るだろう。
「おあ?」
「キャウ?」
エアネストとレイクが何かを見付けて突き出した。
「どうしたの?」
孝宏が二人の後ろから覗くと、そこには使い古された灰色の毛布のような物があった。
「んん?」
もぞりと毛布が動く。
「んにゃあ」
灰色の毛布はケットシーだった。孝宏が使い古された毛布と見間違えたのは、ケットシーが毛玉だらけだったからだ。
ごろんと寝返りを打ったが、灰色のケットシーはそのまま寝続ける。おかげで背中側も腹側も毛玉だらけだと確認出来た。
『やべえ、丸刈りレベルじゃん』
思わず日本語で口に出してしまったくらいには、毛玉だらけだった。これは最早緊急事態である。魔女の緊急招集必須案件だ。
「えー、ヴァルブルガとシュネーバルとアインスにお知らせです。急患です。至急隠者の庵までお越しください」
魔石があっても簡単な魔法しか使えない孝宏だが、顔馴染みの妖精を喚ぶ事は出来る。取り敢えず魔女三人に声を飛ばしたので、あとはこのケットシーを逃がさないようにしなければならない。
ヴァルブルガが里の定期検診をしているのに、この状態のケットシーがいるのだ。つまり、定期健診から逃げ回っている個体に違いない。
寝たままでいてくれればいいが、間近で見詰め続けるエアネストとレイクの視線と気配に気付かない程ケットシーは鈍くなかった。
「にゃ……にゃう!?」
目を開けた途端近くに居た孝宏達に、灰色のケットシーは飛び上った。
「待った!」
逃げ出そうとする灰色のケットシーを孝宏は咄嗟に捕まえた。
「うにゃあー!」
「痛っ」
前肢を振り回した灰色ケットシーの爪が孝宏の腕を掠めた。一瞬緩んだ孝宏の腕から、灰色のケットシーが飛び出す。
「あっ」
「キャウ!」
「にゃあ!」
逃がした! と孝宏が思った瞬間、緑色の蔓が飛び込んで来て灰色のケットシーを簀巻きにした。
「キャウー」
心なしかドヤ顔に見えるレイクが、ふんすっと小さな身体で仁王立ちしていた。伝説のマンドラゴラの子株らしいレイクは、植物を自在に操れる。孝宏が灰色のケットシーを逃がしたのを見て、捕まえてくれたのだ。
「有難う、レイク」
「キャン」
レイクにお礼を言って、孝宏は芝生の上でびちびち跳ねている生きの良いケットシーに声を掛けた。
「捕まえたのは悪かったけど、毛玉取らないと病気になっちゃうよ?」
「にゃあん」
涙目で見上げられて心が痛むが、すでに皮膚炎になっていてもおかしくない状態だ。
「おあー」
「今ヴァル達来るから待っていようね、エア」
「お」
意外と肝が据わっているエアネストは、簀巻きしている蔓の上から、ケットシーをぽんぽん叩いている。
「ヒロ、どうしたのー?」
温室の方から、ヴァルブルガとシュネーバル、アインスが走って来た。
「急患だよ。毛玉が凄いの」
「ああっ、やっと見付けたの!」
灰色のケットシーを見るなりヴァルブルガが声を上げる。やはり、定期健診逃亡常習犯だったらしい。
「ヴァイス! 今日こそ健診するから!」
「ヴァイス……? この子灰色だよね?」
ヴァイスは白い、と言う意味だ。基本的にケットシーは主が名前を決めるまでは、体毛の色柄や特技などで通称が決まる。
ヴァルブルガが重々しく溜め息を吐いた。
「この子、白いの」
「……もしかして、汚れてるの!?」
これだけ汚れている上に毛玉だらけ。ヴァルブルガも探していた訳である。
「ちゃかひろ、そこいちゃい?」
「ん?」
シュネーバルが指差した孝宏の左腕に、赤い蚯蚓腫れが出来ていた。何か所かぽつぽつと血も滲んでいる。
「あー、さっきヴァイスを捕まえようとして爪が当たったのかも」
孝宏の返事に、ヴァルブルガの緑色の瞳がカッと開いた。
「シュネーバル、直ぐに孝宏の腕を丁寧に〈洗浄〉して。アインスは庵の台所を借りて、化膿止めの薬湯を作って孝宏に飲ませて」
「う!」
「はい!」
ごぽりとシュネーバルが水の精霊に頼んで呼び出した水球に、孝宏の左腕が包まれる。アインスはドアが開いたままの隠者の庵に走って行った。
「え? 破傷風とかあるの?」
「この状態のヴァイスの爪に引っ掛かれたなら、用心に越した事はないの。この辺りの土に破傷風の菌はないけど、炎症起こすかもしれないの。〈治癒〉すると逆に活性化する事もあるから様子見るの」
シュネーバルに念入りに蚯蚓腫れを〈洗浄〉された後、ヴァルブルガに軟膏を塗ったガーゼを当てられ包帯を巻かれる。
「今日はこのままで。明日までに腫れたり熱が出なければ、取っても大丈夫」
「エンデュミオンになんて言おう……」
心配症な鯖虎ケットシーは、孝宏の包帯を見て黄緑色の目を剥きそうだ。
「ヴァイス、エンデュミオンに丸刈りにされるかもしれないの」
ヴァルブルガの無慈悲な予想に、ヴァイスがびちびちと激しく跳ねる。
「ぴぎゃああ!」
「なるべく毛玉取りで頑張って貰うから!」
泣き叫ぶヴァイスを何故か孝宏が宥める羽目になるのだった。
灰色の毛玉、ヴァイス(本当は白い)。捕まったので、毛玉取られます。
ケットシーでも長毛種は総じてグルーミングがへたくそです。
ギルベルトも背中の手入れが出来なくて、誰かに手入れして貰っていました。
果たしてヴァイスは丸刈りにされるのか……!