領主館の預り人(後)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
人狼の扱いは難しいのです。
37領主館の預り人(後)
朝食の後、イグナーツとゲルトは仕事部屋として与えられた部屋に向かった。
すると、それを待ち兼ねていたように、執事が現れ、ワゴンに乗せた上質な紙とインク一揃いを運んで来た。
「足りなくなりましたら、ご遠慮なくお申し出下さい」
完璧な角度で腰からお辞儀をし、執事が部屋を出て行く。ゲルトは執事を見送りドアに鍵を掛けた。
「地図は機密だから」
「はい」
それはイグナーツも解っている。
イグナーツは改めて部屋を見回した。寝室の倍はある部屋の中央に、大きなテーブルが置かれている。壁際の扉付きの棚には、イグナーツが書き貯めた地図がしまってあった。この棚の鍵もゲルトが首から下げていた。
休憩が出来る様にか、ソファーと低い硝子テーブルも簡易台所の近くに置かれていた。
イグナーツは簡易台所に近付き、流し台の上にある飾り棚を開けてみた。
「空っぽかあ」
戸棚の中には何も入っていなかった。手や筆を洗う以外の目的は考慮されていないらしい。しかし、コンロのレバーに触れてみれば、ちゃんと熱鉱石は交換されていて、使用可能だった。簡易台所と言っても、オーブンも付いている。本来は側仕えの控え部屋なのかもしれない。
「薬缶とお茶道具用意したら、ここでお茶飲めますね」
「そうだな」
隣に立つゲルトの尾が左右に振られている。本心から賛成らしい。人狼は尻尾が素直すぎる。
「街に下りた時に雑貨屋に見に行こう」
「はい」
午前中いっぱい掛けて、イグナーツとゲルトは地図を階層一階から順番通りに並べ替えた。それを十階層毎に分けて細く区切ったら棚に入れて行く。地図には階層数が書いてあるが、固定階層では無い変動階層は、白い紙に階層の数字を入れておく。これで階層の勘違いを防げるだろう。
「地図だけでも面白いな」
「そうでしょう?」
地下迷宮の階層には、基本の石積壁の迷路の他に、何故か沼やら砂漠、雪原も稀に出現する。地下の筈なのに。階層の広さもまちまちだったりする。
魔物が魔石を持つからなのか、アイテムの入った宝箱は存在せず、まずミミックだと思って間違い無いと言うひねくれた地下迷宮でもある。
しかしながら、階層毎に地下迷宮を脱出出来る魔方陣がある親切設計なのだ。ただし、一度出ると階層一階からやり直しである。
実力を伴わないと、深部へは行けないのだ。
階層には魔物が出て来ない安全地帯があり、そこでは商人が店を開き、宿泊する冒険者に食料などを提供している。たまに安全地帯が無い階層もあるので、要注意だが。
イグナーツの地図にはそれらの全てが記されていた。
元々イグナーツは〈黒き戦斧〉ではなく、別のパーティーに所属していたが、地図作製の能力をヨハンに知られ、無理矢理移籍させられたのだ。元居たパーティーは既に解散している。
「昼御飯を食べたら、街に下りよう。天気が良いから」
「はい。お茶道具買いに行きましょう」
地図の清書は到底一日二日で出来ない。公爵の要求しているものは、美麗でかつ実用的な物だろう。
(清書は一度では済まないだろう)
五十階層までの地図はリグハーヴス公爵が秘匿するだろうが、王家が派遣する魔物狩り隊の使用する十五階層までの地図は、献上される筈だ。勿論、派遣隊にもそれぞれ必要になる。
(縮小型も要ると言われるだろうか)
派遣隊に余り大きな地図は持ち運びに不向きだろう。イグナーツの地図は一般的な本の大きさで書かれてはいるのだが。
黒パンとこってりとした茶色のシチューの昼食を食べる。
「ここの食事に甘い物は出ない。騎士団では昼食に出る様だが」
「そうなんですか」
公爵家族にしか、菓子は作られないのだそうだ。少し不満そうなゲルトに、甘い物が好きなのかと思う。
黒森之國には王都位にしか菓子屋はない。菓子は家庭で作られるものだからだ。
四の月になり大分暖かくなった。深く積もっていた雪も、かなりの速さで溶けていた。
晴れの日が続いていたので、領主館から街へと下りる道はすっかり乾いていた。並木道の脇には溶けて黒ずんた雪が残っている。
「<Langue de chat>は、市場広場を右区側に一本入った路地にあるみたいです」
ショップカードに簡単な地図が付いていた通りに歩き、〈本を読むケットシー〉の青銅の吊り看板が下がる店に辿り着く。
ちりりりん。
ドアを開けると、上部に取り付けられたベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
「イグナーツ!」
青みのある黒毛にオレンジ色の毛が混じる、錆柄のケットシーがイグナーツに駆け寄って来た。飛び付こうとした途端、ゲルトに首根っこを掴まれる。
「みゃうっ」
イグナーツの目の高さに吊り下げられたケットシーの大きな耳がへにょりと伏せられ、琥珀色の眼にぶわりと涙が盛り上がる。
「みゃう、みゃうー」
「何やってるんですか、ゲルト!」
慌ててイグナーツはケットシーを抱き取った。
「わああ、済みませんっ」
カウンターに居て全てを見ていたテオは、急いでルッツの回収に向かった。
「ルッツ、いきなり飛び付こうとしたら驚いちゃうんだよ?」
「イグナーツ、きたのにー」
テオの腕に移ったルッツが、ぐりぐりと額を胸に押し付ける。
「人狼の小僧」
ゲルトの足下に来た鯖虎柄のエンデュミオンが、彼の膝をぺしぺし前肢で叩いた。
「ルッツはまだ幼いのだ。他意無くイグナーツに挨拶したかっただけだ。そう尻尾を膨らませるな」
「む……」
ゲルトは膝元にいる灰色のケットシーを見下ろした。黄緑色の瞳がキラキラと輝いている。
「……俺はゲルトと言う」
「エンデュミオンだ」
「あの?」
「エンデュミオンだ」
「解った。ここは安全だな」
ゲルトは警戒を解く。テオに抱かれたルッツの頭に掌を置く。
「驚かせて悪かった」
「ルッツもー」
客の紅茶を用意していて台所に居た孝宏は、丁度閲覧スペースに移動するイグナーツ達に遭遇し、ぽかんと空きそうになる口許を引き締めた。
(耳と尾が生えてる人、居るんだ!)
リグハーヴスで今まで会った事が無かった。
「ヒロ、イシュカ呼んで来て。イグナーツ達が来たって」
「解った」
孝宏はお茶の乗った盆をテオに渡し、一階の奥にある工房に行く。開いたままのドアを叩き、イシュカを呼ぶ。
「イシュカ、お客様。イグナーツと耳と尾が生えてる騎士」
「それは人狼だな。イグナーツの専属騎士になったんだろう」
イシュカは作業の手を止めた。イシュカの傍らの椅子に座っていたヴァルブルガも、床に下りる。
孝宏とイシュカ、ヴァルブルガは店の閲覧スペースに向かった。孝宏は途中でお茶を淹れるべく、台所に行く。
イグナーツとゲルトは商談に使う為に、いつもは札を置いてある席に座っていた。
「いらっしゃいませ」
「……ここには何人ケットシーが居るんだ?」
「三人」
ゲルトにイシュカの膝元に居るヴァルブルガが答える。
「俺が店主のイシュカです」
「イグナーツです。こちらはゲルト。僕に敬称は要りません」
「俺にも不要だ」
「承知致しました」
「今日はディルクに聞いてこちらに伺いました。近い内に仕事を頼む事になろうかと」
イグナーツは地図作製者だ。ならば地図を製本すると言う仕事だろう。
「そうですか、お待ちしております。俺の仕事は、あちらの棚の本を御覧になって頂けると、宜しいかと」
一度席を立ち、イグナーツとゲルトがカウンター前と閲覧スペースを区切る棚に行く。
「沢山ありますね」
丁度返却された本が棚に戻されたばかりだった。
若草色の本を手に取り、イグナーツは開いてみる。手触りも良く、丁寧に作られていた。
(あれ?)
中表紙を開いてみると、目次の次の頁から読んだ事のない物語が始まっていた。
(説話集じゃないんだ)
「これ……」
ゲルトに話し掛けようとして隣を見ると、人狼は真剣に宵闇色の本を読んでいた。
「気になる本があればお借り頂けますよ。一回一冊銅貨三枚。貸し出し期間は二週間、早目のご返却なら期間内でもう一冊無料でお借り頂けます」
「借りる」
ゲルトは即決した。イグナーツのズボンをくいくいとルッツが引いた。両前肢を差し出すので、お仕着せを着た柔らかい身体を抱き上げてみる。
「あのね、この〈少年と~〉って付いているのはみんなフリッツとヴィムがでてくるの」
「続いているお話なんですね?一冊目はどれですか?」
「イグナーツもってるの」
「〈少年と癒しの草〉?では僕はこれをお借りします」
カウンターでイシュカに会員証を作って貰い、貸し出し手続きを取ってから席に戻る。借りた本は肩掛け鞄の中に入れた。買い物に行くつもりで来ているので、二人とも鞄を持って来ている。
「お茶をどうぞ」
孝宏が運んで来たお茶とクッキーの乗った小皿をテーブルに置く。
「ごゆっくり」
挨拶を終えたので、イシュカとヴァルブルガは工房に戻った。孝宏とテオはカウンターに入り、エンデュミオンとルッツは客の間を歩いている。
とことことルッツがやって来て、ゲルトの側で停まった。椅子から垂れているゲルトの尻尾をじっと見て、ひょいと自分の尻尾を横に並べる。
「いろにてる」
「形は似てないがな」
ゲルトはルッツを自分の膝の上に抱き上げて乗せた。ルッツはテーブルを肉球でぽんぽんと叩く。
「ヒロのおかし、おいしいよ」
「頂きますね」
イグナーツとゲルトはおしぼりで手を拭き、焼き菓子を手に取った。今日のクッキーはアールグレイにオレンジピールを刻んで入れてある。
「美味しい」
鼻から柑橘の香りが抜ける。甘さもしつこくない。
ぱさぱさとゲルトの尻尾が忙しなく左右に振れる。尻尾は嘘を吐けない。
「ほら」
ゲルトは小さく割った焼き菓子を、ルッツの口に入れてやった。
「おいしー」
「そう言えばルッツは、僕を知ってたんですか?」
他の客は窓際にいる魔法使いクロエだけだったので、イグナーツはそっと聞いてみる。
「ルッツめんとおしした」
「え?」
「イグナーツ、ませきおとした」
「見てたんですか? 」
「あい。イグナーツ、いいこ。ヨハン、わるいやつ」
イグナーツはゲルトの顔を見た。
(ケットシーのお墨付きって、このケットシーの事?)
イグナーツの言いたい事が解ったのか、ゲルトが頷く。
この小さなケットシーの証言が、イグナーツの行く末を決めたのだ。身体に震えが走った。ルッツ自身は大きな耳を時折ぴこぴこと動かして、嬉しそうにゲルトの膝の上にいる。
自分の発言が人一人の人生を決めたとは、気にもしていないだろう。
(ルッツの証言があったから、この待遇なのかな)
本来なら軟禁されていてもおかしくない。イグナーツは偶然見ていたルッツに、感謝しなければならないだろう。
ゆっくりとお茶を飲み、ルッツのつたない話を楽しみ、イグナーツとゲルトは<Langue de chat>を出た。
ゲルトに手を引かれ、食料品店と雑貨屋のある路地に向かう。
すれ違う街人は、市場広場の裁判を見ていた者も居る筈なのに、誰もイグナーツを咎めなかった。
〈黒き戦斧〉は街の人に被害を与えた訳ではない。まだ誰の物でも無かった魔石を地下迷宮から持ち逃げしたと言うのは、一般の住民には直接関わりの無い事件だったのだろう。
それに、イグナーツはリグハーヴス公爵に忠誠を近い、魔銀の魔道具を着けられている。リグハーヴス公爵には逆らえない事が解りきっているイグナーツは、恐れる対象にはならない。
地図作製者で後方支援魔法使いのイグナーツは体つきも華奢で、力仕事のパン屋や、肉屋の親方に片腕で負けそうな見た目なのだ。
「ゲルト」
「ん?」
「どんな茶器を買いましょうか」
「お揃いの」
「お茶の葉は何にしましょう」
「さっきの美味しかった」
「そうですね」
アールグレイと言う茶葉だと、ルッツがおしゃべりの中で言っていた。
「ふふっ」
髪の色が良く似ているゲルトがルッツを抱いている姿を思いだし、イグナーツは笑う。姿は全く違うのに、何処か似ていたのだ。
「どうした?」
「いいえ。こうしているのが良いなあ、と思って。また<Langue de chat>に行きましょうね」
二週間後には本を返却しに行かねばならない。無理な時は勝手に返却されるので、メモを挟んで置けば良いそうだ。
ぱさぱさとゲルトの尾が振られる。肯定の返事だ。口下手でも、尻尾は正直だ。
仲の良い人狼と平原族の番は、時を置かずして<Langue de chat>の常連となる。
イグナーツが甘い物に飢えがちなゲルトの為に、孝宏に菓子作りを教わり始めるのも、もう直ぐである。
エンデュミオンにしてみれば、ゲルトは小僧……。
<Langue de chat>のお客様は、それぞれ気が合うケットシーが居たりします。
ルッツはイグナーツとゲルト。二人が来る度(配達に行っていなければ)ルッツが挨拶に行きます。
リグハーヴスには人狼は少ないのです。冒険者としては居ますが、定住している人狼は何人も居ません。




