フィルとモー、ヴァイツェア公爵領へ
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
その頃あの二人はと言うと。
367フィルとモー、ヴァイツェア公爵領へ
王都からヴァイツェア公爵領へと山を越える頃には冬になっていたが、山の峰をヴァイツェア側に少し降りれば寒さは緩み、雪も消える。
フィリップは毎年冬には〈黒き森〉の里に帰るか、暖かな南側で逗留するように旅路を選んでいた。なにしろ、フィリップが決めなければ、相棒のモーリッツはバロメッツのジルヴィアに任せてとんでもない場所に行ってしまう。
「フィルー、お腹空いたー」
ジルヴィアの毛を目の粗いブラシで梳いていたモーリッツが、ぐうーっとお腹を慣らす。
「もうすぐ終わるから。そしたらご飯にしよう」
フィリップは午前中にモーリッツと採取した薬草を整理していた。ちなみにモーリッツはジルヴィアと遊んでいる訳ではない。薬草整理の間、ジルヴィアを押さえていて貰わないと、薬草を食べに来てしまうのだ。紐で木に繋いでおいてもジルヴィアは薬草を食べさせろと迫って来るので、モーリッツに気を逸らして貰うのである。
フィリップは種類ごとにまとめていた薬草を、それぞれ巾着袋に入れた。薬草の名前を書いた札を巾着袋の紐に付け、赤い〈魔法鞄〉に入れていく。全部の巾着袋を〈魔法鞄〉に入れたら、エンデュミオンの持つ転移陣と相互転移出来る簡易転移陣が描かれた布を広げ、〈魔法鞄〉を乗せて魔力を流す。
転移陣から〈魔法鞄〉が消えたのを見て、フィリップは小さく息を吐いた。鞄の中には昨日書いた不足している食料などを書いた手紙を入れてある。暫くしたら別の〈魔法鞄〉が戻って来るだろう。
フィリップは普段使いしている茶色い革の〈魔法鞄〉に前肢を突っ込んだ。一食分に小さく丸めて焼かれたパンと腸詰肉を、一寸考えて四人分取り出す。バターとマスタードの瓶と、黒いスキレットも。
先程お茶を作ったので、出しっぱなしにしていた魔石焜炉の上にスキレットを乗せる。地面が出ている場所なら焚火も出来るが、ここは落ち葉だらけだった。山火事は避けたいので、低いテーブルの上に魔石焜炉を置いて調理する。
過熱したスキレットの上に腸詰肉を四本転がす。長さのある腸詰肉は、リグハーヴスの肉屋アロイスのもので、檸檬風味だ。
ちらりとフィリップは少し離れた所にある繁みに視線を向けた。
実は先程からそこに二つの気配があるのだ。しかし、敵意がないので放って置いていた。
ザザ、と風向きが変わり、フィリップの元に繁みに居る者達の会話が聞こえて来た。
「お客さんかな」
「知らせる?」
「エンデュミオンに似てるよね」
「ラルスに似てるよね」
まあ確定だろうと思う。フィリップは繁みに向かって声を掛けた。
「もうし、そこにいるのは〈Langue de chat〉の温室から、ヴァイツェア公爵直轄地に移住したコボルトか?」
ぴたりと会話が止まる。
「フィリップはエンデュミオンの、こっちのモーリッツはラルスの父親だ。ハルトヴィヒへの手紙を預かっているから案内して貰えないか?」
「エンデュミオンの親?」
「ラルスの親?」
ガサガサと音を立てて、茂みから北方コボルトと南方コボルトが一人ずつ出て来た。二人共腰にナイフを付けているので、採取系か狩猟系のコボルトらしい。
「匂いを嗅いで確かめていいぞ」
「そうする」
「そうする」
近付いてきたコボルト達は、フィリップとモーリッツの匂いを嗅いだ。親兄弟だと匂いが似ているので、記憶にある匂いと照合するのだ。
こくりとコボルト達は頷いた。
「知ってる匂いだった」
「案内する」
「まあ、その前に腹ごしらえだ。食べていかないか?」
スキレットの上では腸詰肉がじゅうじゅうと音を立て、美味しそうな焦げ目がつき始めていた。肉と檸檬の香りが辺りに広がっていた。
じわりとコボルト達の口元が濡れる。このコボルト達だってお昼御飯前だろう。
「ご馳走になる」
「お腹空いた」
コボルト達はぺたりと敷物の上に座った。ジルヴィアの前に、川べりで摘んだクレソンの入ったボウルを置いたモーリッツもやって来て座る。
フィリップは丸いパンにナイフで切れ込みを入れて間にバターとマスタードを塗り、腸詰肉を押し込んだ。長い腸詰肉がパンの端からはみ出す。
「コップはあるか?」
「ある」
「ある」
コボルトやケットシーは大抵自分の食器を持ち歩いている。
フィリップは四人のコップに蜂蜜玉とミルク玉を一つずつ入れてから、熱い紅茶を注ぎ込んだ。各自飲み頃に冷やして貰う。
「今日の恵みに」
全員で唱和して、腸詰肉に齧り付く。ぷちりと腸詰肉の皮が弾けて、口の中に肉と檸檬の風味の膏が広がる。
「アロイスのお肉?」
「そうだ」
「美味しい」
コボルト達は尻尾を振りながらパンに齧り付いている。このパンは全粒粉混じりの白パンで、孝宏が作ったものだろう。これも美味しい。
食べながら、コボルト達は北方コボルトがロリン、南方コボルトがケルビーと言う名前だと教えてくれた。どちらも猟師コボルトで、今は採取をしながら森の手入れをしているのだそうだ。
昼食を食べ終わる頃にエンデュミオンからの〈魔法鞄〉も届いたので、早速フィリップは中から一食分ずつに小分けされて蝋紙で包まれた焼き菓子を取り出した。
「わあ、ヒロのケーキだ!」
「久し振り!」
ロリンとケルビーが嬉しそうに焼き菓子を受け取る。
「パウンドケーキかな?」
オレンジ色のものが混ぜ込んであるパウンドケーキだった。オレンジ色のものは初めて食べる味がした。干した果物のようだ。
「このオレンジの美味しい」
「これなんだろう」
ロリンとケルビーは特に気に入ったようだ。
「手紙が入っていると思うから、後で読んでみる。何か書いてあると思うから」
大抵何を送ってくれたのか、エンデュミオンは書いてくれている。
食器を洗い、広げていた道具類を片付けて〈魔法鞄〉にしまい、その〈魔法鞄〉を〈時空鞄〉に入れる。
身軽になった所で、ロリンとケルビーに先導して貰い、ジルヴィアの綱を引きながら、フィリップとモーリッツは麓へと降りるのだった。
麓に降りた所は、コボルトの家が数件建っている集落になっていた。コボルト達がヴァイツェアに来てから作られたらしく建物が新しい。コボルト達は皆出払っているようだ。
そこからきちんと草が刈りこまれた道を進んでいくと、噴水のある庭に出た。小振りの二階建ての家もある。
「ここは?」
「ここはイシュカのお母さんのエデルガルトのおうち」
つまり、エデルガルトの建物の敷地内にコボルトの集落があるようだ。
ロリンとケルビーは芝の上を歩いて、家の開け放してある掃き出し窓まで行った。
「フリューゲル来てるー?」
「なあにー?」
家の中から南方コボルトが出て来た。
「ハルトヴィヒとフォルクハルトの方のお客さんだよ。泊りはこっちかもしれないけど」
「おきゃくさん?」
掃き出し窓から顔を出したフリューゲルが、フィリップ達を見てどこからの客か気付いたのだろう。すぐに外に出て来た。
「フリューゲルだよ!」
「フィリップだ」
「モーリッツだよ。この子はジルヴィア」
「わう。ハルトヴィヒもフォルクハルトも、べつのやかたにいるからあんないするね」
「有難う」
フリューゲルは家の横の小道を通って、家の正面に回った。それから前庭から続く渡り廊下を進んで行く。
イシュカの母親は側妃だった筈で、本館ではなく離れに暮らしているようだ。
一度広い玄関広間に出てから、フリューゲルは迷いなく別の渡り廊下を選んで歩いていく。どうやら途中で場所を惑わす仕掛けがされているようで面白い。
渡り廊下の先に現れたのは大きな建物だった。これが領主の館なのだろう。
フリューゲルはひょいひょいと階段を上って、館の奥の方まで進んで行く。これは居住区域か執務室まで行くんじゃないのかな? とフィリップが危ぶみ始めた所で、フリューゲルは止まり、目の前のドアをぺちぺちと叩いた。
「おきゃくさんだよー」
ガチャリとドアが開いた。中からどこかイシュカに似た森林族の青年が顔を出す。
「フリューゲル、お客さんって……」
青年がフィリップを見て「エンデュミオン!?」と口走る。
「いや、エンデュミオンの父親のフィリップだ」
律儀にフィリップは訂正した。似ている事は否定しない。目の色以外は鯖虎柄の毛並みもそっくりなのだから。
「入って頂きなさい」
部屋の奥からもう一人の声がした。青年が頷き、「どうぞ」とドアを大きく開けてくれる。
「有難う」
ドアを押さえてくれている青年に礼を言って、フィリップとモーリッツはフリューゲルの後に続いて部屋に入った。当然ジルヴィアも付いて来る。さっと室内に視線を走らせたが、ジルヴィアの餌食なりそうな植物は床近くになかったのでほっとする。
この部屋は執務室だったようで、窓を背にして大きな執務机が置かれていた。そこから立ち上がったのは、ドアを開けてくれた森林族の青年と似た人物だった。外見は長期間若い森林族だが、妖精は相手の本当の年齢を感じ取れる。こっちのほうが年上かと、フィリップは判断した。
「ヴァイツェアへようこそ。私はヴァイツェア公爵ハルトヴィヒ。こちらは私の息子のフォルクハルトだ」
「エンデュミオンの父親のフィリップだ。こっちはラルスの父親のモーリッツとバロメッツのジルヴィア」
「モーリッツだよ」
「ンメエー」
ジルヴィアが挨拶代わりなのか、一声鳴く。
どうぞと低いテーブルを挟んで向かい合うソファーに案内され、よじ登る。ジルヴィアはソファーの横にうずくまった。
「おちゃどうぞー」
どこか行ったなと思っていたフリューゲルは、コボルトの身体の大きさに会ったティーワゴンを押してきて、慣れた手付きでティーポットからティーカップにお茶を注ぎ、テーブルに置いた。お茶を淹れ終わった後は、フォルクハルトの膝に乗せて貰っているので、どうやらフォルクハルトのコボルトらしい。
お茶を一口飲み、ハルトヴィヒが口を開いた。
「こちらには何か気になる事でもあったかな?」
「いいや、そういう訳じゃない」
フィリップは前肢を振って否定した。確かに本来なら〈黒き森〉に引き籠っているケットシーがヴァイツェアまでうろついていたら、疑問にも不審にも思うだろう。
「フィリップとモーリッツは旅をしながら薬草採取をしているんだ。場所や季節よって採取出来る薬草は違うからな。今年は越冬の場所をヴァイツェアに選んだんだ。この前まで王都にいたんだけど。一応照会状は持っているぞ」
フィリップは〈時空鞄〉から照会状を数通取り出して、ハルトヴィヒに渡した。イシュカとエンデュミオン、先日はマクシミリアン王まで書いてくれたから不足はない筈だ。
ハルトヴィヒは封筒に入った照会状を開いて、確認していく。マクシミリアンの照会状を見たハルトヴィヒが、紙面から顔を上げる。
「……イシュカとエンデュミオンまでは解るが、何故陛下まで?」
「この間暫く泊まらせて貰ったんだ。モーリッツが王宮の魔道具の修理を終わらせるまで動かないから」
「だって、随分修理と調整されてなかったんだもん」
ティーカップを抱えてお茶を舐めていたモーリッツが、不服そうな顔をする。そう言って王宮内を歩き回った挙句、ラルスに王宮の地図を送って、エンデュミオンに後始末させた犯人である。流石にフィリップも滅茶苦茶説教した。
「それでマクシミリアンと仲良くなって、照会状書いてくれた」
「なるほど……では雪が融けるまで我が家で過ごすといい。この辺りはたまに強い突然雨が降るから、屋外でのテント生活は余りお薦め出来ない。エデルガルトのところがいいだろうね」
「来る時にロリンとケルビーに案内して貰った」
「コボルト達の集落に来客用の空き家があるから、そこを使うといい。食料でもなんでも、足りない物があれば用意しよう」
「有難う。フィリップは魔法使いで薬草師だ。モーリッツは魔道具師だから、手伝える事があれば手伝おう。ハルトヴィヒが欲しい薬草を持っていたら分けるぞ」
欲しい薬草、と聞いてハルトヴィヒが身を乗り出した。
「妖精鈴花はあるかな? 南側では殆ど植生していなくてね」
「あれは〈黒き森〉の固有種みたいなものだからな」
フィリップは〈時空鞄〉に前肢を突っ込んだ。エンデュミオンに持たされているので、乾燥した物や、加工した物が瓶で幾つも入っている。
「どれが欲しい? これが乾燥した物、これが砂糖漬け、これが妖精鈴花の蜂蜜だな。それを飴にしたのがこれだ」
テーブルの上に瓶を並べていく。使いやすいように小瓶に入れられているので、それぞれ五つずつ出してみる。
「……どれも欲しいが。この量は初めて見たな」
「前に俺が風邪を引いて咳が止まらないって手紙に書いた時、イシュカがくれた奴ですね。妖精鈴花の蜂蜜だったんだ。凄くよく効いたんですよ」
「私に報告してくれないかな、フォルクハルト……」
ハルトヴィヒがこめかみを押さえている。
妖精鈴花は珍しいので、調薬に使うのはエンデュミオンやラルス、ヴァルブルガと言った限られた者達だけだったりする。通常は花をお茶にする事が多い。お茶でも充分体調改善や、呼吸器疾患の軽減に効果があるのだ。
「冬の間世話になる礼だ。全部譲ろう。定期的に欲しいとなれば、エンデュミオンに頼むといい。蜂蜜は限られるだろうが、花の方は大丈夫だろう」
「何故、エンデュミオンなんだ?」
「妖精鈴花の大規模な花畑を管理しているのは、うちの息子だ」
「大魔法使いが花畑の管理……」
「最近は手伝ってくれる妖精がいるらしいぞ」
リグハーヴスに残ったコボルトの中に、庭師と養蜂師がいたのだ。彼らは里のケットシーに教えつつ、花畑の手入れをしてくれている。
咲いた花は摘花しないと枯れるので、せっせと摘んでは加工して、アルフォンスに飲ませたり、マクシミリアンに送ったり、〈薬草と飴玉〉に卸している。今は少しずつ薬草師ギルドにも回そうかと、ラルスが薬効をまとめている最中だ。
「年中乾燥する〈暁の砂漠〉には、テオを通じて出荷していると聞いているが、森に囲まれたこの辺りも乾燥するのか?」
「ヴァイツェアも冬になると乾燥してね。喉を傷める者が少なくないから助かるよ」
「そうか」
フィリップは子供の頃から妖精鈴花の花畑の手入れをしていたエンデュミオンを思い出す。最初はラルスと二人で。ラルスが里を出てからは、一人で黙々とやっていた。
空き地にまばらに生えていた妖精鈴花を、広大な花畑に変えたのはエンデュミオンだ。
いつか必要になると、解っていたのだろう。
「家に案内するから、荷を解いてゆっくり休むといい。そのうちエデルガルトに土産話でもしてくれると有難いが」
「ああ。遊びにいくよ」
フィリップは頷いた。モーリッツもジルヴィアを連れて、エデルガルトの家に散歩に行くだろう。
荷物を解いたら、まずは手紙を書かなければ。ふらふらしてはいるが、モーリッツも意外と筆まめで、里に居る番には定期的に手紙を書いている愛妻家である。
まだフィリップが里に戻っていなかった頃、モーリッツは一度ジルヴィアと行方不明になりかけて、物凄く怒られたらしい。それ以降、モーリッツは現在地を知らせるようになり、フィリップが里に戻ってからは、フィリップ同伴で旅に出るようになった。
勿論、モーリッツが自主的にフィリップに同伴を頼んだのではなく、モーリッツのポンコツ具合を知っている幼馴染みのフィリップがついていく事にしたのだ。
フィリップがいなければ、モーリッツはジルヴィアと薬草だけ食べて行き倒れるだろう。叡智があるケットシーでも、まれにこういった天才だが生活能力のないポンコツが産まれる。悪意もないし害もない、ただ生活能力がないのである。
幼馴染みのフィリップが、モーリッツも旅も嫌いでなかった事に少しは感謝して欲しい。
息子の幼馴染みになったラルスが良い子で、フィリップは月の女神シルヴァーナに祈りを捧げたというのに。エンデュミオンも子供の頃はラルスを追い掛けまわしていた気もするが、ラルスは成体になってもモーリッツのように手が掛からない。やはり、シルヴァーナには感謝の祈りを捧げねばならないだろう。
暫くは腰を据えてのんびり出来そうだ。ロリンとケルビーに、周辺の森を案内してもらってもいいかもしれない。
山の雪が融けるまでが、フィリップの休暇である。
世話焼きフィリップとポンコツモーリッツです。
漸くヴァイツェアに到着です。峠の雪が融けるまで、このままヴァイツェアで休暇です。
モーリッツは生活能力がないので、一人で里を出てしまうと野垂れ死にます。
里にいればご飯には困らないんだけど、放浪癖があるのでふらふらと里から出てしまうモーリッツに、きちんと準備して同伴しているフィリップです。
子供の頃、エンデュミオンがラルスを追い掛けまわしているのに、一応気が付いていたフィリップ。
ラルスが毒草食べたのみつけて、エンデュミオンが吐き出させていたとは、多分知らない。
ラルスはモーリッツと違って放浪癖はありません。