人狼の秘密
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
各國はそれぞれの神様が決めた理があります。
362人狼の秘密
「ととさま」
キイ、と微かな音を立てて寝室のドアが開いた。ドアの隙間から、フュルとヨアヒムが顔を覗かせる。初めて会った時は痩せ細っていた双子は、今は随分と健康的な身体つきになった。二人はゲルトの従姉妹の子供だったが、毛色や目の色が同じだからか、双子を見た人は皆「ゲルトに似ている」と口を揃えて言う。
「かかさま大丈夫?」
「ああ、今は眠っているよ」
ゲルトは毛布に埋もれるようにして眠っているイグナーツの明るい麦藁色の髪を指先で梳いた。枕元では極東竜のピゼンデルが丸くなっている。
「今日はマヌエル師の所に行くんだろう? 行っておいで」
「うん」
頷くものの、フュルとヨアヒムの狼耳は神経質そうにぴるぴると動いている。
フュルとヨアヒムは週末の教会学校の他に、エンデュミオンの温室にも通って読み書きや魔法を教えて貰っている。温室から行ける隠者の庵に住む元司教のマヌエル師と聖職者コボルトのシュトラールにも、聖属性魔法を教えて貰っていた。
子供二人だけで領主館から丘の下にある街まで行かせるのは不用心なので、いつも南方コボルトの双子であるクヌートとクーデルカが温室に行く時に、一緒に連れて行って貰っている。
「〈Langue de chat〉に着いたら、エンデュミオンとヴァルブルガに往診を頼んでくれるか?」
「うんっ」
「解った」
ぱあっとフュルとヨアヒムが笑顔になる。ゲルトがいつ魔女を呼ぶのか、気になっていたのだろう。
「気を付けて行っておいで」
「はーい」
「行ってきます」
イグナーツの躾の賜物か、静かにドアを閉め、双子はクヌートとクーデルカとの待ち合わせ場所へと出掛けて行った。
静まり返る部屋に、すうすうとイグナーツの寝息が聞こえる。
このところイグナーツは体調を崩して、ベッドに居る事が多かった。だから今は仕事である地図の作成を休ませ、家事もゲルトが引き受けている。
ゲルトと一緒でなければ、移動する事も外に出る事も出来ないイグナーツの肌は白い。その肌が常よりも青白かった。
ゲルト達頑健な人狼とは異なり、イグナーツは平原族だ。そしてイグナーツは一般的な平原族の男に比べて小柄だった。
最初の頃「寝ていれば治るよ」とイグナーツは言っていたのだが、すぐにでも魔女を呼べばよかった。元々食が細いイグナーツは寝込むようになってから、更に食べる量が減ったのだ。
苛立ちに任せて尻尾を振れば、思いがけずに何かに当たった。
「え」
「にゃうっ」
ころんと床にエンデュミオンが転がったのが視界の端に入る。
「っ、すまない」
慌ててゲルトは椅子から立ち上がり、エンデュミオンを抱き起こした。〈転移〉してきたのに全く気が付かなかった。
「いや、出てくる場所が悪かった。ケットシーは柔らかいから大丈夫だ。ヴァルブルガ達には当たらなかったしな」
エンデュミオンの他に部屋の中には、ヴァルブルガとシュネーバル、アインスが居た。ヴァルブルガとアインスが魔女で、シュネーバルは魔女見習だ。
エンデュミオンは大丈夫と言ったが、背後からヴァルブルガが〈治癒〉を掛けていた。一瞬だけエンデュミオンの身体が淡い緑色の光に包まれる。
「フュル達に聞いたが、イグナーツの具合が悪いんだって?」
「数日前から気分がすぐれないようだ。食欲もないし、眠っている事が多い」
エンデュミオンとヴァルブルガが顔を見合わせる。アインスとシュネーバルは首を傾げた。
エンデュミオンがゲルトを見上げた。
「確認するが、一緒に暮らしているゲルト達の体調は問題ないんだな?」
「ああ、元気だ」
エンデュミオンが「うーん」と唸りながら、前肢で頬のあたりを掻いた。ちょっぴり毛が逆立つが、当人は気にならないらしい。
「つかぬことを聞くが、怒らずに答えて欲しい。イグナーツとの夜の営みはあるな?」
「番だからな」
「避妊しているか?」
「避妊する理由がない」
「解った。じゃあヴァルブルガに診察して貰おう。手伝ってくれ」
「あ、ああ」
ゲルトは眠っているイグナーツに掛けていた掛布団や毛布をめくり、ヴァルブルガが診察しやすいようにした。
「触るの」
ヴァルブルガが一言断り、イグナーツに柔らかそうなピンク色の肉球で触れていく。カルテにはエンデュミオンが万年筆で書き込んでいる。
「貧血が少しあるの。胸の音は正常。あとは」
ヴァルブルガがイグナーツのお腹に前肢を翳す。銀色の魔法陣が一瞬広がり、ぱっと橙色に輝いて消えた。
「おめでたなの。具合が悪かったり眠いのは悪阻」
「妊娠!?」
「心当たりがあるだろう? 避妊していないんだから」
エンデュミオンがカルテから顔を上げずに、縞々の尻尾でゲルトのふくらはぎを叩いた。
「あるが、雄同士だと中々出来ないと聞いている」
「ゲルトの一族は余り他種族と混血していないんじゃないのか? だとすれば原種に近いから、他種族を孕ませる能力が高いだろうな」
確かにゲルトの一族は里から余り出ないので、人狼とばかり婚姻していた。平原族と番になったゲルトや従姉妹が珍しいくらいだ。
ヴァルブルガはアインスとシュネーバルにも、妊娠を確認するらしい魔法陣を使わせてみたが同じ反応を示した。
「平原族が自分よりも魔力が多い人狼の子供を身籠っているから、負担が大きいの。まずは貧血の改善と、何でもいいから食べられる物を食べるようにして欲しいの」
「こってりしたものは無理だろうから、まずは飲みやすいスープかな。作り方はクーデルカかタンタン、ノーディカに聞けばいい。あとは果物の蜜煮を置いて行く。口当たりがいいからな」
赤や黄色、黄緑色の果物の蜜煮が入った瓶詰を、エンデュミオンが〈時空鞄〉から出して床の上に並べていく。
「他に食べたい物で孝宏が作れる物なら言ってくれ。作ってもらうから」
「ああ。助かる」
エンデュミオンはイグナーツに毛布を掛け直しているヴァルブルガを振り返った。
「ヴァルブルガ、妖精鈴花は大丈夫か?」
「大丈夫なの。魔力回復薬も出して」
「解った。ゲルト、イグナーツに妖精鈴花のお茶を淹れて飲ませろ。妖精鈴花の砂糖漬けも胸具合が悪いのに効く」
ごとりと乾燥した妖精鈴花の青い小花がびっしり入った瓶が追加される。続けて糖衣を纏った妖精鈴花の瓶と、青い蜂蜜の入った瓶、魔力回復薬の小瓶も追加される。これだけで一財産になる筈だ。
「こんなにして貰っていいのか?」
「何を言っている。子供は宝だろう。それに弟か妹が出来れば、フュルとヨアヒムも喜ぶぞ」
「う!」
シュネーバルが透明な鉱石で出来た指輪を持って来て、ゲルトに押し付ける。ゲルトは小さな白いコボルトから指輪を受け取った。透明な指輪は時折七色にちらちらと光る。
「幸運魔石の指輪だ。イグナーツに着けておいてくれ。安産のお守りだ」
「有難う」
「エンデュミオンはアルフォンスに、イグナーツの妊娠を伝えて来る」
「いいのか?」
本来ならゲルトが報告に行かねばならない。
「イグナーツの傍に居たいだろう? これから竜騎士訓練もあると思うが、その時には付き添いを付けてくれるようにアルフォンスに頼んでおく」
エンデュミオンはそう言って〈転移〉して行った。
「ゲルト」
柔らかい声でヴァルブルガがゲルトを呼ぶ。
「イグナーツのお世話について教えるの。まず異変を感じたらすぐにヴァルブルガかエンデュミオンを呼んでね。薬草魔女のドロテーアにも診て貰うけど、急な時はヴァルブルガ達の方が速いから」
「ああ」
本来は薬草魔女の方が正式な産婆である。リグハーヴスにはドロテーアとブリギッテがいるが、彼女達は同居しているケットシーの薬草師ラルスに頼まなければ〈転移〉出来ないし、もし往診に出ていたら領主館まで来るのに時間が掛かる。
「悪阻が落ち着くまで眠る事が多いと思うけど、食事は起こして食べさせてね。栄養は取らないといけないから。イグナーツが起きていられるようになっても、重い物は持たせないで」
「……すまない、メモを取らせてくれ」
忘れてはいけない事ばかり言っている気がする。ゲルトは慌てて紙とペンを取りに行った。
ちなみに、イグナーツの往診に来る度に、ヴァルブルガの父親教室が開催されるのだが、ゲルトはそれをまだ知らない。
ぽんっとエンデュミオンはアルフォンスの執務室に〈転移〉した。
「お邪魔するぞ」
「どうかしたか? エンデュミオン」
休憩中だったらしく、アルフォンスはソファーに座って、両脇にいる笹かまケットシーのカティンカとキメラのココシュカを撫でていた。良く撫でて貰っているからか、カティンカもココシュカも毛並みが良い。
「言っておくがエンデュミオンが何かやらかした訳ではないからな」
エンデュミオンはアルフォンスの向かい側にあるソファーによじ登った。エンデュミオンも毎回アルフォンスの胃を痛めつけに来ているのではない。多分。
アルフォンスが怪訝そうに言った。
「では別の誰かがやらかしたのか?」
「やらかしたといえばやらかしたのかもしれんが……。さっきゲルトに呼ばれたんだ」
「ゲルトに?」
「イグナーツが体調を崩したからと、ヴァルブルガと診察を頼まれたんだ」
「病気か?」
アルフォンスが真顔になる。
イグナーツはリグハーヴス公爵家の虜囚である。しかし、人狼のゲルトの番でもある。人狼は番にとても執着する種族なので、番を喪ったりすれば色々と大変な事になる。
エンデュミオンは首を振った。
「いや、胎に子供が出来たんだ。妊娠初期で悪阻が重めだ」
「……イグナーツは男性だと思ったが?」
「男だぞ? ん? もしかして人狼族以外には失伝しているのか? 人狼は人族の保存の為の種族でもあるから、同性でも子供が出来るぞ。雄側が人狼である時に限るが、異種族で番った場合は、両親のどちらの種族でも生まれるんだ」
黒森之國の理では、母体の種族で生まれるのが通常だが、人狼だけは父方の種族も生まれる。
「雄の人狼は、相手の男にある子宮の名残と言われている器官を活性化させられるんだ。つまり子供を宿す胎を作るんだな。一度に生まれるのは一人もしくは双子までだと言われている。月の女神シルヴァーナの理の一つだ」
「イグナーツが妊娠したとなると……」
「ゲルトはイグナーツから離れないだろうな。そもそも男は女よりも苦痛に弱いから、難産になるし。竜騎士訓練の時は、ヴァルブルガ達でもいいし、領主館の妖精でも構わないから呼んで付き添って貰えばいい。アインスとシュネーバルの場合は研修にもなる」
アインスは魔女として経験が浅いし、シュネーバルは見習いである。人狼の子供を妊娠した患者を診るのは、ハイエルンに戻るアインスにとっては重要な研修になるだろう。
「イグナーツは中級魔法使いだが、寝悪阻になっていた。恐らく胎の子供は人狼か多胎、もしくはそのどちらも有り得る」
胎の子供がイグナーツから魔力や栄養を持って行ってしまっているので、本能的に眠る事で余計な消費を抑えているのだ。
「出産時もかなり難産になるだろう。男の出産は苦痛に耐えられなくて亡くなる者も少なくないんだ」
「ゲルトも子供達もいるんだ、イグナーツを死なせる訳にはいかないぞ」
「ドロテーア達とも相談するが、ヴァルブルガとエンデュミオンも立ち会うから死なせない。なにより今は臨月までイグナーツの体調を整えるのが重要だ。イグナーツより胎の子供の方が丈夫だと思うぞ? 子供が生まれるまでイグナーツは仕事が出来ないと思ってくれ」
「それは当然だろう。必要な物があればこちらで揃えよう。クラウス、その旨ゲルトに伝えてくれないか。手伝いはノーディカに頼もう」
「承知致しました、御前」
お茶を運んで来た執事のクラウスが頷く。ノーディカは普段厨房に居る家事コボルトだが、メイドのスキルもある。
「あ、あかちゃん」
「ぎゃう。赤ちゃん可愛い」
カティンカとココシュカが嬉しそうにイグナーツの子供に思いを馳せている。これだけ領主館に妖精達がいれば、子守に不足はなさそうだ。
「全く次から次へと……」
アルフォンスが溜め息を吐く。
「今回はおめでただから良いだろう」
イグナーツの地図製作は急ぐものではない。どちらかと言えば、イグナーツが悪用されないように、リグハーヴス公爵家が保護している面がある。それ程正確な地図を作成出来る能力者は貴重なのだ。
「無事子供が生まれたとして、扱いが難しがな」
虜囚であるイグナーツの子なので、リグハーヴス公爵家の紐付きになるのは確定だ。
「ゲルトに似れば騎士になるだろうが、イグナーツと同じ能力があればリグハーヴスからは出せない」
どちらにしても聖約が必要だ。
エンデュミオンはお茶を一舐めした。少し熱い。
「それは仕方がないな。元気でさえいれば、気にしない気がするが」
黒森之國では自分の暮らす領から出ないで一生を終える者は少なくない。仲睦まじい両親を見ていれば、リグハーヴスから出ようとは思わないのではないかとエンデュミオンは思う。
「生まれるのは夏頃だろう。楽しみにしていればいい」
イグナーツとゲルトの子供は、沢山の妖精達の祝福を受けて生まれるだろう。そんな子供が幸せにならない筈がない。
「……なにか企んでいるか?」
「いやなにも?」
エンデュミオンは素知らぬ顔で、飲み頃の温度になったお茶を舐めるのだった。
チェンジリングシリーズの一つであるこのお話も、神様の決めた理が幾つもあります。
人狼の理も、かなり前から決めていたのですが、やっとこ出てきました。
人狼の雄と他の人族の雄が番になった場合、双方の種族の子供が生まれてくる可能性があります。
異性同士だと母方の種族優先です。
黒森之國は人狼以外は異性同士でしか子供は出来ません。
人狼の國である草原之國はどうなの? は、神様の判断待ちかなと。でも生まれてくるのは人狼でしょうね。