魔熊とコボルト達
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
領主館のコボルト達と顔合わせ。
353魔熊とコボルト達
もふりと柔らかい物が顔に当たり、プラネルトは目を覚ました。まだ部屋の窓の外は暗い。
「……〈光球〉」
そっと光の精霊に頼んで弱い明かりを灯して貰う。
「エアか」
魔熊のエアネストがプラネルトの頬におしめを着けたお尻をくっ付けるようにして寝ていた。子供だからか寝相が凄い。掛け布団からはみ出しているので寒いのか丸まっている。
「エア、風邪引くぞー」
抱き寄せて胸の上に乗せてやれば、エアネストはじわじわと身体を伸ばし、プラネルトの上で腹這いになった。
「良い子だね」
エアネストの柔らかい毛で覆われた頭を撫でて、プラネルトも目を閉じる。
ちなみにエアネストがおしめを着けているのは、昨夜の温泉帰りに「寝る時はおしめをした方が良いの」とヴァルブルガが言ったからだ。どうやら、エアネストはプラネルトが思っていたよりも月齢が低かったようだ。歯の状態や歩き方で、ヴァルブルガには解っていたのだろう。
「日中はトイレに行きたい時教えてくれるけど、寝てる時は無理だと思うの」と、ヴァルブルガは鮮やかな手付きでエアネストにおしめを着けて、ずれないようにモコモコとしたパンツも履かせたのだった。
ぐるぐるとエアネストの喉が鳴る音が小さく聞こえる。
こんな赤ん坊を放り出すとは、野生の世界は厳しい。
「おあ……」
エアネストが小さく何か呟いた。四本の前肢で、プラネルトの来ているパジャマをきゅうっと握る。
「大丈夫だよ。お休み」
「……」
すんと鼻を鳴らし、エアネストは漸く深い寝息を立て始めた。どうやらプラネルトがどこかに行くのではないかと気にしていたようだ。これではきっと森の中ではゆっくり寝られなかっただろう。
赤ん坊は親の鼓動の音で安心すると言うし、プラネルトはそのままエアネストを胸の上に乗せたまま眠りについたのだった。
「おはようございます。エア、どうかしました?」
朝になり、身支度を整えてプラネルトとエアネストが居間に入って来たのを見て、孝宏が寄ってきた。
「……」
エアネストは上の腕でプラネルトの首に抱き着き、下の腕でカーディガンにしがみ付いていた。明らかに拗ねてます、という風だったのだ。
「朝起きたらおしめが濡れていたのが気にいらなかったみたいだ。エア、綺麗に洗ったろー?」
「うー」
ぐいぐいとプラネルトの首に頭を擦り付けてから、エアネストは孝宏に前肢を伸ばした。
「抱っこ? ご飯食べよっか」
孝宏は笑ってエアネストを受け取り、台所に向かった。台所のテーブルではテオと、半ば寝ているルッツが朝御飯を食べていた。
「お早う、ルト。エアも元気そうだね」
「お早う。眠り浅かったけど、途中から俺と一緒に寝るのに慣れたみたい」
「野生の子だからねえ。おっと」
テオがヨーグルトの器に顔を突っ込みそうになったルッツの頭を受け止める。
「ルッツ起きて。それとももうご馳走様する?」
「たべゆ……」
青黒毛にオレンジ色の毛が混じる前肢で目を擦り、ルッツが口を開ける。テオが器に残っていたヨーグルトを匙で集め、ルッツの口に入れてやる。温めのミルクティーのストローを咥えさせ、飲んだのを確認してから口を拭いてやり、テオはルッツを抱き上げた。
「もう一回寝かせた方が良さそうだ。昨日エアと遊ぶのを楽しみにして中々寝なかったんだよ。少し寝たら元気に起き出すと思うから、後でルッツと遊んでね、エア」
「お」
「テオ、ルッツ寝かしてきたらいいよ」
「ヒロ、食器さげなくてごめんね」
「ううん、気にしないで」
テオがルッツをつれて台所を出て行き、孝宏がエアネストを片腕で抱いたまま、使った食器を流し台に下げる。
「さてと」
孝宏は子供用の椅子の一つにエアネストを座らせた。テーブルの端に置いてある布が敷き詰められた籠の中では、グリューネヴァルトとレーニシュが丸くなって寝ていた。レーニシュが居ないと思ったら、こっちに来ていたらしい。
ぺちぺちとテーブルを叩くエアネストの頭を撫で、襟が汚れないように胸にスタイを掛けてやる。
「直ぐご飯作るからね」
孝宏はチーズ入りのオムレツを作り、パンとコンソメスープと一緒にテーブルに置いた。温室で採れたベリーのボウルもデザートに置く。
「サラダはハムで巻くか」
細く切った野菜を生ハムでくるりと巻いてオムレツの皿の端に乗せた。これならエアネストは手掴みで食べられるだろう。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
「おー」
お祈りしているのか解らないが、エアネストはプラネルトのお祈りの後に声を上げた。それから生ハム巻きの野菜を掴んで食べ始める。
おしめを付ける月齢の幼児だと知って焦ったが、歯があるので柔らかい物ならなんでも食べられるとヴァルブルガに聞いてほっとした孝宏である。魔熊の場合は蜂蜜も気にせず与えて平気らしい。
スプーンと前肢を全て使って食べているエアネストにはおいおい食事の仕方を教える必要がありそうだが、好き嫌いなく食べているのでそちらの心配はなさそうだ。
「エアネスト、起きたの?」
とことことヴァルブルガが台所にやってきた。
「うん。今ご飯の最中」
「よいしょ」
ヴァルブルガは唐突に椅子に登り、白パンを一切れ掴んでエアネストの下の前肢に持たせた。するとエアネストは上の前肢でスプーンを使い、下の前肢でパンを千切って食べ始めた。
「……なるほど」
「パンか……」
エアネストの食事の仕方については一瞬で決着がついてしまった。
「あのね、今日温室に領主館のコボルト達が来ると思うから、エアネストを連れていったらと思ったの」
ヴァルブルガがブルーベリーを一粒エアネストの口に入れてやりながら言った。
「有難う。行ってみるよ」
「領主館のコボルト達は南方コボルトが多いから、エアネストは喜ぶと思うの。南方コボルトと魔熊の子供は似ているから」
特にバーニーが、と孝宏は心の中で付け足した。
「じゃあヴァルブルガは下に行くの」
自分がやった偉大な仕事に気付きもせずに、ヴァルブルガはイシュカの居る一階の工房に下りていった。
エアネストは綺麗にご飯を平らげた。身体の大きさが近いルッツと同じ量で良さそうだと、孝宏は頭の中にメモする。
口の周りと前肢を濡らした布で綺麗に拭いて、スタイを外してやる。それ程食べ零しをしないのは、来たばかりの頃のシュネーバルと似ていた。
孝宏はエアネストの頭に掌を乗せた。
「ゆっくり大きくなりなよ、エア」
エアは月齢の割りに賢過ぎる。本当ならもっと甘えて良い時期なのだ。
「美味しいおやつ作っておくから、プラネルトと温室で遊んでおいでよ」
「お!」
「ヒロは?」
プラネルトが子供用の椅子からエアネストを抱き上げた。
「俺はお昼とおやつの用意をして、店番しますよ」
「昨日戻って来たばかりだろう。疲れてないか?」
「うちルリユールだから、そんなに忙しくないんですよ。いや、イシュカとカチヤは仕事してますよ? 店番としては忙しくないって事なんですけど」
黒森之國は娯楽としての本はとても少ないのだ。だから、庶民はそれ程ルリユールで製本を頼まない。どちらかと言うと、普段はイシュカの作る手帳や帳面の方が売れるのだ。孝宏が貸本で書いた小説で、少しずつ娯楽小説の存在は広まって来ている筈なので、そろそろ書き手が現れてもいいのではないかと思うのだが、発表する場も印刷を請け負う店も少ないのもあり、中々現れない。
「そう言えばエンデュミオンは?」
「リグハーヴス公爵のところ。ヘア・ダーニエルに書いて貰った、エアを預けるよーって言うお手紙を届けに行ってます。族長からのお返事はまだでしょ?」
「早くても明日かなあ」
リグハーヴスから〈暁の砂漠〉へ精霊便を飛ばすと、北の端から南の端へと距離がある。プラネルトの処遇をどうするのか、族長の一族で話し合いが行われるだろう。何しろ、テオだけでなく、プラネルトも地元を出る事になるのだ。族長継承候補者が二人も地元を離れるのは珍しい。
〈暁の砂漠〉の民族も妖精や精霊を大切にするので、きっとエアネストを守る選択をするだろう。
後片付けをする孝宏に台所から送り出され、プラネルトはエアネストを抱いたまま廊下に出た。
トントンカラリとヨナタンが機を織る音が聞こえてくる。機織り職人のコボルトが里を離れるのは稀有だ。しかし、ヨナタンが居るから、リグハーヴスのコボルト達はコボルト織の服が着られるのだ。
階段を下り、一階の台所横のドアから裏庭に出る。ひんやりとした空気を肺に吸い込み、プラネルトは噎せた。〈暁の砂漠〉でも陽が落ちた夜には気温が下がるが、北のリグハーヴスのものとは質が異なる。
(風邪に気を付けた方がいいかな)
雪もかなり積もると言うし、防寒具も揃えなければ。
プラネルトは温室のドアを開け中に入った。二重扉の内側は春の陽気だった。
温室の手前は薬草園になっていて、エアネストを遊ばせるのなら奥の芝生の広場だろうと灌木の間の小道を抜ける。
広場からはちゃぷちゃぷと水音がしていた。
「誰か来てる?」
「お?」
〈精霊水〉が沸いている水盤の所で、修道女姿の南方コボルトが、水竜キルシュネライトの寝床の丸石を洗っていた。くるりと振り返り、プラネルトとエアネストににっこりと微笑む。
「おはよう」
「おはよう。あれ? 教会から来たの?」
なぜ修道女姿のコボルトがいるのか解らず、プラネルトは立ち止まった。
「ううん。シュトラールはこの奥の隠者の庵にマヌエルと住んでるの」
シュトラールと言うコボルトは首を振って、昨日ケットシーの里に行ったのとは別の小道を指差した。
「マヌエルって元司教のマヌエル師?」
「そう。マヌエルはエンデュミオンの友達なの」
引退した司教は隠者となるが、何処に移住するのかは大抵明かされない。マヌエルはエンデュミオンの伝手で、リグハーヴスに移住したのだろう。
(族長は知っているんだろうなあ……)
ロルツィングはテオの居場所を把握してからは、こまめに連絡を取り合っている筈だ。それに今はイージドールもリグハーヴスに居る。
「俺は〈暁の砂漠〉のプラネルト。この子はエアネスト」
プラネルトはエアネストを芝生の上に下ろしてやった。
「お? お?」
柔らかな芝生を踏んで、エアネストがシュトラールに近付く。すんすんと匂いを嗅いでから、すりすりと頭をシュトラールに擦り付ける。シュトラールもエアネストを撫でる。
「可愛い。聖属性みたいだから、その内マヌエルかシュトラールが聖魔法教える事になるのかな?」
「この子、魔法使えるの?」
「コボルトに似ているけど、魔熊だよね? 魔熊は魔法使えるよ。まだ赤ちゃんだから、もう少し先だけど」
やはり見る者が見れば、エアネストが赤ちゃんだと解るようだ。
「誰か来る」
シュトラールの呟きとほぼ同時に、ポポン! と空気を揺らしてコボルト達が現れた。
良く似た魔法使いの杖を持った二人。片耳が折れているのと、他のコボルトより大きな個体、何故か手拭いを首に巻いているのもいるが、全員が南方コボルトだった。
「あ、もう来てる! プラネルトとエアネストだよね!」
魔法使いの杖を持ったコボルト達がエアネストに駆け寄る。
「タンタンとノーディカは来れなかったんだけど。クヌートだよ!」
「クーデルカだよ!」
そっくりだがクーデルカの耳の先が白い。
「たうたう!」
「この子はアルスだよ」
片耳の折れたコボルトは黒森之國語が話せないようだ。
「カシュ!」
「バーニー!」
カシュは首に手拭いを巻いているコボルトで、バーニーは一番大きなコボルトだった。
「小熊……?」
思わずプラネルトは呟いてしまった。
「バーニー、良く言われる」
バーニーは恐ろしく小熊に似ていた。つまり、魔熊のエアネストに非常に似ていた。
「エンデュミオンに聞いてきた。魔熊の子がいるって」
「おあー!」
エアネストは目を輝かせて南方コボルト達を見ていた。自分とそっくりな存在を見るのは初めてだったのだろう。一人ずつの匂いを嗅いで頭を擦りつけている。あれはエアネストなりの親愛の表現なのだろう。特にバーニーには抱き着いていた。
「たうたう、たうたう」
アルスがプラネルトに話し掛けてくるが、意味が解らない。隣に居たカシュが通訳してくれた。
「アルスは司書で写本師だから物知り。野生の熊の先祖返りの魔熊の伝説は古い説話集に幾つかあるから写して持って来たって。親が大きいから、赤ん坊としては大きいんだけど、〈精霊水〉で育つと、コボルトサイズで成長は止まるみたい」
アルスが肩から斜め掛けにしていた〈魔法鞄〉から、薄い帳面を取り出してプラネルトに差し出した。
「有難う」
カシュが、バーニーに抱き上げられているエアネストを見ながら言った。
「地上の魔熊はあの子だけだと思う。コボルト、特に南方コボルトは魔熊と姿が似ているから、一緒にいれば目立たない」
「うん、有難う」
「あんなに可愛い子を放り出すなんて、コボルトなら考えられない」
カシュがしゅるりと首から手拭いを取り、ビシッと音を立てて両前肢で力強く引っ張る。どうやらカシュはお怒りの様である。コボルトはとても愛情深く子育てをする種族だ。
「皆で育てるの手伝うから大丈夫」
「助かるよ」
年下の親戚の面倒を見た経験はあるが、子育て初心者のプラネルトには有難い。
「エアネスト、ほら虹だよ!」
「蝶々も飛ばすよ!」
「おあー!」
クヌートとクーデルカが魔法をエアネストに見せ始めた。プラネルトが見た事もない魔法を使っている。恐らく幻影魔法の一種だろう。ぺちぺちとエアネストが二対の前肢で拍手しているが、あの拍手は誰に教わったのやら。
王族や貴族が嫌いな癖に一足先に領主館に行き、コボルト達に根回しまでしてくれるエンデュミオンには頭が上がらない。
幻影の蝶々を追い掛けて回るエアネストを見守りながら、プラネルトは人の良いエンデュミオンに感謝した。
おしめを濡らしてテンション下がっちゃうエアネストです。
おしめの布は、リグハーヴスのバロメッツ布を使いこんで柔らかくなったやつ。
使い古しの布だけど、贅沢な布だったりします。でも吸収率は抜群で漏れも無し!
コボルトはドライなケットシーに比べて、子供を大切に育てます。
魔熊のエアネストは似ている南方コボルトに特に可愛がられると思われます。