魔熊と診察
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
魔熊、ヴァルブルガと会う。
351魔熊と診察
エンデュミオンとテオ、プラネルトが話し合っている間に、孝宏は廊下の奥にある工房に顔を出した。
「ただいまー」
「お帰り、孝宏」
「お帰りなさい」
作業の手を停め、イシュカとカチヤが孝宏に笑顔を向ける。工房の中にヴァルブルガとヨナタンは居なかった。
「ヴァルブルガとヨナタンは二階?」
「ああ。〈針と紡糸〉に卸す編み物をしているよ。シュネーとアインスはラルスの所から戻って来ていたら居るかな」
魔女兼お針子のヴァルブルガと機織り職人ヨナタンは、冬になると〈針と紡糸〉で売る既製品の毛糸の靴下やセーターを編んで卸している。眠り羊の毛糸製品は毎年人気で、マリアンとアデリナだけでは手が足りないからだ。
「あのね、竜騎士でテオの従兄弟のプラネルトと雷竜のレーニシュ、それと訓練中に見付けた魔熊の子供も一緒に来たから」
「まゆう?」
「腕が四本ある熊の魔物の先祖返りだって言ってた。見た目は魔熊なんだけど、聖属性で妖精に近いんだって。可愛いよ。多分、プラネルトに憑くんじゃないかな」
言葉は理解していない筈なのに、魔熊はプラネルトの言う事には従い甘えていた。レーニシュさえ反対しなければ、プラネルトに憑くだろう。
「野生の魔熊は古い書物に出て来る位で、かなり珍しいぞ?」
イシュカは古い本の修繕も行うルリユールなので、意外と昔の伝説などを知っている。
「うん。今は地下迷宮に居るみたい。ヴァルブルガに診察して貰った方がいいよね」
「そうだな。何を食べていたか解らないし」
「かなり賢い子なんだけどね」
普段人が入らない豊かな森だったから、群れから外れても生きていけたのだろう。
「よし、俺も着替えてこよう」
「ヒロ、お茶淹れましょうか?」
「んー、魔熊の事でバタバタしそうだから、午後のお茶になりそうかな」
魔熊の聖属性の認定を貰うと言っていたから、早めに動きそうだ。
孝宏が工房から廊下を取って返して行くと、エンデュミオン達も話がまとまったようで、廊下に出て来た。
「孝宏」
「ほい」
孝宏はエンデュミオンを抱き上げた。
「プラネルト、客間に案内します」
「有難う」
孝宏は先に階段を上り、魔熊を抱いて、頭にレーニシュを乗せたプラネルトを客間に導いた。グリューネヴァルトの姿が見えないが、仲の良い火蜥蜴ミヒェルの所に行ったのだろう。
「階段の下と、二階の廊下の奥にバスルームがあるので自由に使って下さい。お風呂は後で温泉に行きましょう」
「温泉?」
「近くにあるんですよ」
きっと驚くだろうなと思うが、竜と契約しているテオの従兄弟なら耐性がある筈だ。
「着替えたら一度居間に来てくださいね。その子ヴァルブルガに診察して貰った方が良いと思うので」
「魔女だったかな?」
「そうです。今まで何食べていたか解らないので……」
「ああ……」
場合によっては虫下しが必要になる恐れもあると、プラネルトも気が付いたようだ。
「?」
当の魔熊は不思議そうな顔でプラネルトを見上げている。そんな魔熊の後頭部をプラネルトは一撫でした。
「解った、着替えたら行くよ」
「じゃあ後で」
孝宏はエンデュミオンと一緒に自分の部屋に戻り、竜騎士の騎士服を脱いだ。エンデュミオンの騎士服も脱がせ、綻びがないか確かめる。
「特に取り外す物もないから、このまま洗っても大丈夫かな?」
「そうだな、エンデュミオンが後で洗っておこう」
脱いだものを入れておく籠に訓練中の着替えをまとめて〈魔法鞄〉から取り出して山にする。いつもの服に着替えると、何だかほっとした。エンデュミオンにもいつものシャツとズボン、セーターを着せる。
「そういえば、プラネルト冬服あるのかな」
「王都の気温に合わせた物しかないかもしれんな。竜騎士服が防寒着のようなものだし」
竜騎士の騎士服は特殊な布で作られていて、上空でも身体に寒さが伝わり難いのだ。
着替えた孝宏とエンデュミオンはバスルームで顔と手を洗い、居間に移動した。
「ただいまー」
「帰ったぞ」
「お帰りなの」
「……」
ヴァルブルガがおっとりと顔を上げ、ヨナタンがしゅっと右前肢を上げる。二人の間には丸い毛糸玉の入った籠が置かれており、せっせと編み針を動かしている。まだシュネーバルとアインスは〈薬草と飴玉〉のラルスの所から戻っていなかった。
「待たせたかな?」
居間に魔熊を抱いたプラネルトが入って来た。後ろから、すいーっとレーニシュが飛んで来る。
「魔熊!?」
ヴァルブルガが大きな緑色の瞳を丸くして、いつにない素速さで編んでいた物を籠に入れて立ち上がった。〈時空鞄〉に前肢を突っ込み、診療鞄を取り出す。
「こっちにきて座って。エンデュミオンはカルテお願い」
「ああ」
差し出されたカルテ用の紙を挟んだ紙挟みを、エンデュミオンが受け取る。
プラネルトはヴァルブルガの前に腰を下ろし、胡坐をかいた上に魔熊を座らせた。
「お?」
「悪いところないか診て貰おうな」
上を向いた魔熊の顎の下をプラネルトが指先で撫でる。
「お名前は?」
「俺はプラネルト。この子はエアネスト。そこの雷竜はレーニシュ」
どうやら魔熊の名前はエアネストになったらしい。元気いっぱいの、と言うような意味がある。愛称はエアだろう。
「エンデュミオン、説明して欲しいの」
「竜騎士訓練で王都の野営訓練場を囲む森の中から出て来たんだ。回りに他の熊は居なかったから、この子だけ群れから外れたんだと思う。孝宏に杏茸のクリーム煮を作ってくれと強請る位には賢い」
「……うん」
ヴァルブルガは頷き、エアネストを撫でながら耳や目に異常がないか診察していく。いつもなら棒付き飴で口を空けさせるのだが、野生の魔熊だと思い出したのかそこで手が止まる。
エンデュミオンは〈時空鞄〉からオレンジを薄切りにしシロップ煮にした後表面を乾燥させた、干しオレンジの入った硝子瓶を取り出した。透き通ったオレンジがステンドグラスのように美しい逸品である。孝宏が趣味で作る物なので、稀にクッキーと共に店に出る稀少品である。ちなみにオレンジの半分にチョコレートを付けた物もあるのだが、幼児の魔熊なのでオレンジのみの方を取り出す。
「はい、お口開けてー」
「おー」
ヴァルブルガが瓶から干しオレンジを一枚取り出し鼻先に翳すや、エアネストが口を開けた。
「虫歯はなし。全部乳歯。口の中に傷もなし。はい、どうぞ」
「お!」
オレンジを口にしたエアネストがゆっくり咀嚼している間に、ヴァルブルガはプラネルトに補助して貰ってエアネストの胸の音を聞く。
「うん、胸の音も大丈夫。前肢も診せて欲しいの」
ヴァルブルガは焦げ茶色のコボルトの編みぐるみを取り出した。エアネストの半分くらいの大きさの編みぐるみをそっと差し出す。
「お?」
「エアネストにあげるの」
「おー」
あげる、という単語が解った様子はないが、エアネストが嬉しそうに四本の腕でコボルトの編みぐるみを抱き締めた。編みぐるみの腕やお腹を掴んだり押したりして感触を確かめ、黄色い魔石釦の目を突いている。
「四本の腕は自在に動かせる……」
プラネルトの胡坐の中で、肢もぱたぱた動かしている。
「うん、健康体なの。でもお腹が痛くならない虫下しの薬草茶を処方するから、飲ませてほしいの」
「やっぱりそうだよね」
プラネルトが苦笑いする。
「かなり賢いけど、火を通したものは食べてないと思うの」
魔熊の親は普通の熊だった筈なので、火を熾した生活はしていない。ケットシーなどの生まれつき叡智がある妖精もいるが、魔熊は元々本能で動く獣型の魔物である。
「それからこれあげるの」
ヴァルブルガは〈時空鞄〉からオフホワイトのカーディガンを取り出して、プラネルトに渡した。
「カーディガン?」
「プラネルトの見た目が寒いの」
プラネルトは厚地とは言えシャツだけで上に何も羽織っていなかった。カーディガンを受け取ったプラネルトがぽかんと口を空ける。
「これ……眠り羊の毛糸じゃないか?」
「暖かいの」
「いや、眠り羊の毛糸って防具……」
ぽん、とエンデュミオンがプラネルトの二の腕を叩いた。
「気にしたら負けだぞ。受け取っておけ」
「……有難う」
その一瞬で色々と悟ったらしいプラネルトが礼を言ってカーディガンを羽織る。オフホワイトのカーディガンには身頃に模様編みが施され、釦は松ぼっくりの形の木釦だった。
その木釦はコボルトの釦職人シュトゥルムが習作として大量に作ったものだったりする。安くヴァルブルガに売ってくれたので、ヴァルブルガは〈針と紡糸〉に卸すカーディガンに使っているのだ。元手が安い釦なので、ほんの少しカーディガンの売値も下がると言う訳だ。本人は習作と言うが、シュトゥルムの釦は一級品である。習作の基準は素材の種類だけなのである。
「プラネルト、これをやるからエアネストとレーニシュに食べさせるといい」
エンデュミオンは干しオレンジの瓶をプラネルトに渡した。エンデュミオン自身は幾つかの瓶を〈時空鞄〉に入れている。
「いいのかい? 有難う」
─プラネルト、一枚頂戴。
「はいはい」
早速プラネルトはレーニシュに一枚せしめられている。エアネストの方はコボルトの編みぐるみに夢中だ。すりすりと頬ずりしている。
「エアネストの診察も済んだから、教会に行くか」
「教会?」
「聖属性の認定だ」
首を傾げたヴァルブルガに、エンデュミオンが説明する。
「確かに、それは受けておいた方が良いの。地上に居る野生の魔熊はとても珍しいの。殆どは長く生きられないから」
「それはどうして?」
訊ねたプラネルトに、ヴァルブルガが答える。
「群れから外れた幼い魔熊が生き延びられる可能性は低いの。エアネストはそれなりに温暖で、食べ物が豊かな森に居たから生きていただけなの。それに魔物として討伐される場合もあるの」
「そっか……」
「エアネストは偶然〈精霊水〉がある場所で群れが暮らしていたから、温厚で知性がある魔熊になったの。だからこれからも〈精霊水〉か聖水を飲ませた方がいいの」
「〈精霊水〉か。族長のオアシスにはあるけど……」
プラネルトが口籠る。普通、そこらへんに〈精霊水〉は湧いていないのだ。エンデュミオンが胸を張る。
「ああ、心配するな。〈精霊水〉も聖水も唸るほどあるから。うちの温室に〈精霊水〉があるし、教会の地下神殿に聖水が湧いているんだ」
「何で!?」
「〈精霊水〉はエンデュミオンが一寸〈黒き森〉から引いてきたんだ。聖水の方は古代の遺跡だから、元からあったものが最近発見されただけだぞ。一寸管理者がエンデュミオンなだけで」
「一寸じゃないよね!?」
「偶然遺跡を見付けたのはイージドールとベネディクトなんだ」
「あの人は何を見付けているのかな!?」
「リグハーヴスの観光資源に重宝しているぞ」
「うわあ……」
何してるのこの子、という眼差してプラネルトがエンデュミオンを見る。
「だからまあ、エアネストの〈精霊水〉に関しては心配するな。領主館にも〈精霊水〉があるから。そっちはエンデュミオンじゃないぞ。ギルベルトがやったんだ」
「ギルベルトというと元王様ケットシーか」
それは誰にも止められない。
「アルフォンスの健康にも良いから文句は言われなかったな……」
エンデュミオンが遠い眼差しになる。エンデュミオンと契約していても、孝宏が何かを命令する事はないので、何かやらかしたのを大抵は後で知る。
「教会に行くなら、エアネストにこれを着せてあげて」
ヴァルブルガが〈時空鞄〉から取り出したのは、フードにコボルトっぽい耳の付いた焦げ茶色のポンチョだった。裏にはタンポポのような黄色の起毛布が使われており暖かそうだ。
「服は〈針と紡糸〉できちんと仕立てて貰った方が良いと思うの」
「そうだな。仕立て代だけで作って貰えるからな」
エンデュミオンもヴァルブルガに同意する。
「え、布代は?」
「ヨナタンのコボルト織を反物で預けてあるんだ。だからうちの関係者は仕立て代だけで縫ってくれる。仕立屋としては、コボルト織を仕立てられるだけで光栄だとか言っていたが」
「……貴重な布だからね……」
「気にしたら負けだぞ?」
「エンデュミオンがそれを言ったら駄目だと思うんだよ、俺は」
溜め息混じりにプラネルトが呟く。しかし、直ぐに吹っ切ったのか、エアネストにポンチョを着せて「可愛いな!」と笑った。
エンデュミオンがやらかしたのを、孝宏は大抵後で知りますが、孝宏にクレームが来ることはほぼないと言う。
そして、孝宏もなにかとやらかしてはいる(無自覚)。
魔熊、エアネストという名前になりました。
次回は教会へ行きます。
遺跡を観光資源にするのは、黒森之國ではかなり異例なのです。