持久走とおやつ事件
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竜を激怒させる案件は。
344持久走とおやつ事件
竜騎士訓練二日目は、竜騎士の身体能力確認だった。普段から走り込みをしている訳ではないが、年少組妖精を追い掛けている孝宏は広場を体感的に四キロ程走ったところで止めた。ダーニエルからは「走れるところまでで構わない」と最初に告げられているので、各々自分の限界で走るのを止めるのだ。
プラネルトが涼しい顔で軽々と走っているのは、民族的な体力の違いもある筈だ。そう思いたい。
「お疲れさん。結構頑張ったんじゃないか?」
にやりと笑った闇竜ヴェヒテリンに迎えられる。
「普段子供達を追い掛けてるんでなんとか」
孝宏は真面目に答えたのだが、ヴェヒテリンが吹き出した。人型の彼女は表情が豊かだ。
「俺は防犯上一人で外に出して貰えないんで、運動って言うとうちの子達追い掛ける位なんですよ。ケットシーやコボルトの子はすばしっこいんで」
鬼ごっこに参加すると、結構大変である。
「確かにタカヒロは攫いやすそうだな。華奢だし、吾でも片手で持てそうだ」
「持たないでください」
見た目は孝宏と身長の変わらない引き締まった身体の女性騎士の姿をしているヴェヒテリンだが、腕力は確実に孝宏の方が負けていると知っている。なにしろヴェヒテリンは闇竜である。
孝宏が華奢と言われるのは、そもそも黒森之國の人達と骨格からして太さが違うからだ。成人男性と比べて一回り違う。孝宏の身体つきは黒森之國の少年サイズなのだ。
「孝宏、水飲むか?」
見学中の幼竜姿の竜達がいる場所から、エンデュミオンが孝宏を呼ぶ。
「うん」
孝宏は運動着の胸元をぱたぱたと引っ張りながら、そちらに異動した。
「果実水でいいか?」
「うん」
エンデュミオンが渡してくれたのは、〈精霊水〉に果物とミントで風味を付けた物だった。冷やしたものを〈時空鞄〉に入れておいたやつだ。コップ一杯分を飲み干し、息を吐く。
「久し振りに長距離走ったかも」
「リグハーヴスの街中を走る訳にもいかないしな。囲壁の外ならテオに付き合ってもらわないと危ないだろう」
騎士団や冒険者ギルドに運動場はあるのだが、孝宏は一般人である。
「今回の事で準竜騎士という扱いにはなるだろうから、リグハーヴスの騎士団からは歓迎されるだろうがなあ」
時々差し入れに行くし、以前倒れた団長マインラートを看病したりしているので、騎士団員とはそれなりに顔見知りなのだ。彼らは〈Langue de chat〉の客でもある。
「剣も振れないし、魔法も使えないけどね。俺が出来るのは拠点の炊飯係位だよ……」
「食事が上手いと士気は上がるんじゃないか?」
「そうだといいけどね。お、プラネルトも戻って来た」
まだまだ余裕ありげな表情で、汗一つかいていないプラネルトは、孝宏達の元に来るなり「長距離走って飽きるよねー」と宣った。
「大抵の人は、飽きる前に疲れるんだ」
エンデュミオンが呆れた顔でプラネルトに果実水のコップを渡す。
「有難う。わ、何これ美味しい!」
一口飲んで、プラネルトが目を瞠る。
「〈精霊水〉に果実とミントの風味を移したものだな」
「うちでも檸檬とミントは入れたりするけど、他の果物も美味しいね」
〈精霊水〉で驚かないのは、〈暁の砂漠〉の長のオアシスにも〈精霊水〉の泉があるからだろう。
「レーニシュ達も寛いじゃって……」
プラネルトが苦笑するのももっともで、幼竜化した竜達は芝の上に広げた敷物の上で、エンデュミオンが出したおやつを食べたり転寝をしたりと自由に過ごしていた。本日は竜を使った訓練がない為、お休みなのだ。
木竜グリューネヴァルトと雷竜レーニシュ、木竜ラプンツェルは、エンデュミオンの近くでふわふわの毛布に埋まって寝ている。おまけにグリューネヴァルトが来ていると知った火竜アルタウスまで一緒に寝ていた。
火竜アルタウスは王宮の魔法使いの塔に居る人狼の魔法使いジークヴァルトの竜である。ジークヴァルトがエンデュミオンの孫弟子なので、何度か会っているうちにすっかりグリューネヴァルトとも仲良くなっていた。
今日はツヴァイクはマクシミリアン王と仕事で、ローデリヒ王子もレオンハルト王子と一緒の講義があるらしく訓練に参加していない。しかしちゃっかりラプンツェルは参加していた。
「凄く頑張ってるなあ。騎士って鍛え方違うねえ」
広場では残った竜騎士達が競うように走っている。多分彼らは既に十キロ位走っている筈だ。孝宏は周回遅れで走っていたのである。
(体力ゴリラだよね、この國の騎士って)
王都騎士団はその中でも精鋭部隊なのである。
「だけどこの後も訓練あるからね。ほどほどにしないと。それを含めた〈自分の限界〉だと俺は思うんだけど」
プラネルトが肩を竦める。果実水を飲み干したコップを水の精霊魔法で洗って、プラネルトがエンデュミオンに返す。エンデュミオンはコップを受け取って頷いた。
「ま、そうだろうな。ヴェヒテリンが言葉の上っ面の理解で満足する性質とは思えんからな」
「聞こえてるぞ、エンデュミオン」
こちらを振り返らずにヴェヒテリンが声を投げつけて来る。しかし否定をしないのだから、そういう事なのだろう。ちなみに王弟ダーニエルは平然と先頭で走っている。
「あの人が止めないし速いから、誰も止まらないんじゃないの……?」
孝宏の呟きに、誰も反論しなかった。
その後更に広場を二周して、ダーニエルは休憩を告げた。
「水が欲しければこちらに来い!」
ヴェヒテリンの呼び掛けで、走り終わった騎士達が集まる。因みに水はレバー式の注ぎ口が付いた中樽で、エンデュミオンが〈時空鞄〉に入れていた〈精霊水〉だ。甘い物が苦手な騎士もいるだろうから、こちらはレモンバームと薄荷で風味を付けた水である。
「おお、結構減ったな」
木皿に盛っておいたクッキーは二、三枚残っているだけだ。店で出しているクッキーの残りを袋詰めしてエンデュミオンの〈時空鞄〉に保管して貰っていた物だが、竜達は木皿に盛っていた分を分け合って食べ尽したようだ。グリューネヴァルト達はいつもお菓子を食べているので、一枚だけ食べて譲ってあげたのだろう。クッキーを抱えて齧っている幼竜達の姿が可愛い。
「皆もう少し食べられそう? お腹にご飯の分の余裕残しておくんだよ」
孝宏に向かって色とりどりの幼竜達が一斉に鳴く。実際、本体が大きいので幾らでも食べようと思えば食べられるのが竜である。幼竜で食べているのは、その方が長く楽しめるかららしい。
昨日は大きな姿でいた彼らだが、グリューネヴァルト達が貰っていたお菓子に興味津々だったらしく、彼らは一晩竜舎でどうやったら孝宏からお菓子を貰えるか考えたようだ。
お菓子が欲しいが大きいままだと孝宏に近付けない。じゃあ幼竜になればいいじゃないか! という結論になったのだと、朝からずらりと広場に並んで孝宏を待ち構えていた竜達の言葉をヴェヒテリンが要約してくれた。
しかし勝手に与える訳にはいかないのでとやんわり断ろうとした孝宏に、ヴェヒテリンがダーニエルや竜の世話をする従騎士の許可を既に取っているとにんまり笑った。それほど食べてみたかったらしい。
きゅうきゅうとおねだりの鳴き声で合唱されては、孝宏も断れなかった。
ヴェヒテリンもお菓子を欲しがったので、彼女には種類違いが十枚入ったクッキーの小袋を渡してある。ヴェヒテリンは訓練を指揮する手伝いをしているからだ。
竜の誇りはどこ行った、という感じだが、リグハーヴスの竜達も似たようなものだから慣れている。
まだ訓練は続くので、木皿にもう少しお菓子を出してあげようと孝宏が腰のポーチに手を伸ばす。〈魔法鞄〉は中に手を入れると内容物が頭に浮かぶのだ。
「えーと、俺の方に何入ってたかな」
見掛けはポーチでも、孝宏の〈魔法鞄〉もやたらと物が入っている。エンデュミオンとヴァルブルガが作ってくれたので、時間停止機能もある優れものだ。多分買うと物凄く高い筈だ。
「おい! 竜に何食わせてるんだよ!」
「うわ!?」
「孝宏!」
いきなり押しのけられて孝宏は芝の上に転がってしまった。芝が柔らかいので怪我はなく、慌てて起き上がる。
一人の騎士が青い風竜を掴みあげようと手を伸ばしていた。しかもクッキーを抱えている状態の幼竜を。
「待って!」
「馬鹿!」
孝宏とエンデュミオンの制止は間に合わなかった。
「痛ってえ!」
騎士は風竜にがぶりと指を噛まれた。叫んで騎士が尻もちをつく。それでも唸り声を上げた風竜は離れない。咄嗟に腕を振ろうとした騎士にエンデュミオンの叱責が飛ぶ。
「動くな!」
命令に従う訓練を受けている騎士らしく、びたりと動きを止めたのは流石だ。
「お前は馬鹿か! 食事をしている竜から獲物を奪おうとするなんて何を考えている! 下手をすれば指を食いちぎられているぞ!」
「こいつは異物除去の為に、途中で餌を取り上げる訓練をしてる!」
「通常の食事と孝宏の菓子を比べるな! そもそも竜は自分で異物に気が付くから必要ない訓練だ! やるなら世話係に異物を教える訓練だ!」
エンデュミオンは騎士の頭を引っ叩いた。
「ったく世話を掛けさせるな。孝宏、頼む」
「うん」
激怒している風竜を騎士の指から離さないとならない。孝宏は尻もちをついたままの騎士の隣に行って芝に膝を付いた。そっと騎士の指に食いついて宙に浮いている風竜の身体を掌で支える。この状態でも小さな前肢でクッキーを抱えているのが凄い。
ぐるぐると唸り声を上げている風竜の身体を指先で撫でながら声を掛ける。
「大丈夫、誰もクッキー取り上げたりしないからね」
唸ったままで風竜が孝宏を上目遣いで見上げた。
「俺、他のお菓子も持っているんだけど食べたくない? チーズケーキとかフィナンシェとかガトーショコラとか琥珀糖とか半生に乾かしたオレンジや林檎にチョコレートつけたやつもあるんだよ」
風竜の唸り声が止まり、ぱたりと尻尾が動いた。
「美味しくない物咥えてたら、美味しい物お口に入らないよ? ぺっ、しようか。ね?」
ぱか、と風竜の口が開いた。騎士の指には小さな牙の痕が並び、ぷくりと赤い血が浮き出てくる。
「良かったな、手加減して貰えてて。〈洗浄〉〈治癒〉」
さっさとエンデュミオンが騎士の指を治療する。
「きゅるっきゅるっ」
風竜の方は孝宏の手に頭を擦り付けていた。
「いい子だねえ」
再びクッキーを齧り始めた風竜を撫で、孝宏はそっと元居た敷物の上に戻してやった。風竜以外の幼竜が、じっとりとした眼差しで騎士を見ているのが怖い。孝宏は彼らの気をそらす為に声を掛けた。
「皆、おやつ追加するよー」
歓声を上げて幼竜達が木皿の前に集まる。孝宏は〈魔法鞄〉に右手を突っ込みながらエンデュミオンと視線を交わした。
(そっちは宜しく!)
孝宏の言いたい事は伝わったらしい。というか、物凄く良い笑顔をしたダーニエルが騎士の後頭部を平手で叩いた後、ヴェヒテリンが襟首を掴んで引き摺って行ったのだ。ヴェヒテリンはもう片方の腕で、小脇にエンデュミオンを抱えていた。
「おい、この運び方はなんだ、ヴェヒテリン! 孝宏そこにいろよ!」
「きゅっきゅー!」
慌てたグリューネヴァルトが彼らの後を飛んで行く。
「休憩、長引きそうだな……」
騎士の誰かがぽつりと呟いた。
竜舎の竜達、孝宏のおやつを貰う為に頑張りました。
幼竜姿で(ヴェヒテリンは人型)で待ち構える竜達です。
お店で残るクッキーは家でのおやつ分以外はエンデュミオンが保管しています。
そこからお使い物や非常時のお礼などに使われます。
実は孝宏も一寸怒っています。突き飛ばされたし、騎士がご機嫌だった風竜を怒らせたので。
孝宏は天然の妖精・精霊・幻獣ホイホイです。一度会った竜達はほぼ全員孝宏のお願いを聞いてくれたりします。本人に自覚ないのが幸いだったり……。