聖人の噂
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
野性の聖人(仮)が出たようです。
334聖人の噂
「たうたう」
くいくいと法衣を引っ張られ、フォンゼルは視線を落とした。
「どうしました?」
フォンゼルの膝に鼻先を乗せて見上げている、リットの黒褐色の毛で覆われた頭を撫でる。
「たーう」
リットが自分の後ろにあるティーワゴンを指差す。その上にはティーコージーを被ったティーポットとカップが置いてあった。ティーワゴンの二段目にはスコーンとジャムやクリームの器も見える。休憩しろと言いたいようだ。
「有難うございます。美味しいお茶を頂きましょうか」
机の上に広げた書類を汚す訳にはいかないので、テーブルとソファーが置いてある一角に移動する。
本来司教には当然の事ながら執事や側仕えがいるのだが、フォンゼルには南方コボルトのリットが憑いているので、執務室の世話からは外れて貰っている。それでも執事達を使わない訳にはいかないので、居住棟での世話は彼らにお願いしている。
「今日はプラムのジャムですか。綺麗な色ですね」
「たうー」
少しの果物があれば一回食べる分のジャムを作ってしまうリットだ。置いてあるカードには『エンデュミオンの温室で採れたプラムのジャム』と書いてある。
フォンゼルの師であるマヌエルは大魔法使いエンデュミオンと友人であり、隠居後はエンデュミオンの暮らすリグハーヴスへと移住した。正確にどこに住居を構えたのか教えて貰っていないが、こうして時々果物や香りのよい香草で作ったシロップなどを送ってくれる。エンデュミオンが小物を送れる大きさの転移陣が刺繍された布をマヌエルに一対くれたらしく、片方をフォンゼルに渡して行ったのだ。おかげでフォンゼルはマヌエルと頻繁に手紙をやりとりしていた。
ミルクティーに蜂蜜を入れているリットを見ながら、先程まで読んでいた書類の内容を頭に浮かべる。それは近々行われる、フォンゼルの巡行の予定表だった。
流石に全ての教会を回る事は出来ない為、今回は各領の中心となる街にある教会へ行く。リグハーヴス以外は領内に幾つか大きな街があるので二、三日掛けて回る場所もある。リグハーヴスは大きな街は一つだけで、後は村規模なのだ。
但し、王派筆頭のアルフォンス・リグハーヴス公爵が治める土地であり、エンデュミオンやその主である〈異界渡り〉が暮らす。最近になって古代の地下神殿も発見されたとあって、リグハーヴスでも数日逗留する予定だ。
なによりリグハーヴス女神教会には聖人と〈女神の貢ぎ物〉がいる。教会関係者でも一部しか知らない、久し振りに見出された聖人である。
黒森之國で聖女と言えば、王家の血筋の女性が代々務める役職である。しかし聖人は市井の中から現れる。
聖人は信心深い平民に現れる事が圧倒的に多く、他人に自分の幸運を分け与えるという性質上、短命であると言われている。そもそも、聖人にはその自覚がないという。
聖人を見出す唯一の方法は、聖人の専属護衛たる〈女神の貢ぎ物〉が見付けだすのみなのだ。記録によれば〈女神の貢ぎ物〉に巡り合えた聖人は、比較的長い寿命を得ている。
月の女神シルヴァーナの祝福を得た者として、教会としては大々的に聖人を祭り上げたいところだろうが、聖人は虚弱である。故に、これまで〈女神の貢ぎ物〉に見出された聖人は、殆どが表舞台に立っていない。何しろ王家の姫君が聖女という立場にあるので、滅多に現れない聖人の影が薄いのだ。
〈女神の貢ぎ物〉は〈暁の砂漠〉の民から女神の託宣で選出されると言われているが、いつの間にか〈女神の貢ぎ物〉は〈暁の砂漠〉の民からの人質扱いとなり、満足に聖人探しも出来なくなった事も、聖人が見付からない最大の理由だっただろう。過去には聖人と共にあった〈女神の貢ぎ物〉が政争で処刑され、まもなく聖人も儚くなったと記録されている。偶然なのか天罰なのか、その後数年間黒森之國は不作に喘いでいる。
「っていうか、〈女神の貢ぎ物〉が処刑されると不作になるんですよねー」
「たう?」
思わず愚痴を吐き出したフォンゼルに、リットが半分に割ってクリームとプラムジャムを盛ったスコーンを差し出して来た。
「有難うございます」
受け取って一口齧る。甘酸っぱいプラムジャムが甘みの少ないクリームと、ほんのり甘くてほろほろと崩れるスコーンと合って美味しい。
聖人の研究はマヌエルと共に行っていたフォンゼルだが、本当にこの國は聖人の扱いがぞんざいだ。古い記録を研究すればするほど、聖人と〈女神の貢ぎ物〉の重要性が解る。
マヌエルが先王時代から繰り返し聖人と〈女神の貢ぎ物〉の重要性を王に説き、〈女神の貢ぎ物〉を聖務に集中させるようにしてから、黒森之國に天災による飢饉は一度も起こっていない。何処かで不作でも、國内で補える程度で済んでいるのだ。
イージドールの前任の〈女神の貢ぎ物〉は、聖人を見付けられなかったが天寿を全うした。次の〈女神の貢ぎ物〉を求められ、族長ロルツィングは相当の難色を示したと言うのは有名な話だ。なにしろその当時、族長直系子孫では、独身者がロルツィングの末弟と妹の遺児しか居なかったのだ。どちらもまだ子供だった事もあり、二人の親代わりをしていたロルツィングが手放すのを拒んだのだ。
結局当時司教だったマヌエルが〈暁の砂漠〉まで出向き、頭を下げてイージドールを託してもらったのだ。不当な理由でイージドールが死ぬような事あれば、即座に〈暁の砂漠〉は起つという聖約をして。
イージドールの後見人はマヌエルが立ち、きちんと神学校にも通わせ司祭の叙階までした。〈女神の貢ぎ物〉としては破格の扱いだったが、聖属性も含めた全属性をもつ精霊魔法使いに教育しないのは勿体無い、という理由をつけていた。
司祭になったあとに王都から離したのは、王都に居る方が政争に巻き込まれやすいからだろう。
イージドールとベネディクトは神学校時代から友人同士なので、イージドールはかなり早い段階から聖人を見付けていたが黙っていた訳である。エンデュミオンが気付かなければ、そのままだったと思うとフォンゼルでも胃の底が冷える。せめて後見人のマヌエルには伝えて欲しかった。
蜂蜜を入れた甘いミルクティーを飲み、フォンゼルは溜め息を吐いた。一度ソファーから立ち上がり、執務机の上から紙を一枚取って来る。
「リット、これどう思います?」
「たう?」
濡らした布巾で前肢を拭いてから、リットが紙を受け取り文面を読む。そして首を傾げた。
「たーう?」
なんで? と言ったのだろう。フォンゼルもそう言いたい。
「まあねえ、司教の巡行の時には毎回あるらしいんですよ。聖なる現象が起きているから巡行予定にいれてくれってね。マヌエル師の時もあったそうですからね」
それは教会で掴んだ噂話の報告書だった。聖なる現象と思われる事象があった場合、それが本当か嘘か教会は調査する。司教であり元真偽官のフォンゼルの元には、その調査前の情報がまず届けられる。
今朝届けられた報告書には『聖人に助けられた』という話が数件出ているという内容だったのだ。それもリグハーヴス以外で。
ベネディクトはリグハーヴス女神教会の主席司祭であり、更に余り身体が丈夫ではないので、会議で王都に来る以外はリグハーヴスから出たりしない。遠出する用事があれば、副司祭イージドールが代理で出掛けるだろう。
つまりこれはベネディクトの事ではない。
リットもベネディクトに会っているので、彼が聖人だと知っている。だから首を傾げたのだ。
「そもそもがおかしいんですよね……」
聖人は聖属性の塊で、他の属性は殆ど使えないのだ。〈浄化〉は上級まで使えたとしても、〈治癒〉はかすり傷程度しか治せない。毒に中ったのを回復してもらったのならまだ解るが、怪我を治して貰っているのである。しかも、祈りの間身体の周りが光っていたという証言もあるらしく、真偽官から報告が上がって来たのだ。
どうやら各地を巡礼している者の中に、〈治癒〉能力のある者がいるようだ。身体の周りが光るという事象があるので、もしかしたら聖属性があるのかもしれないが、実際見てみないと判断出来ない。
フォンゼルは報告書の下部に『該当巡礼者を見付けだし、まずは気付かれないように調査すべし』と朱筆で書き込んだ。
既に聖人が存在する以上、偽物か二人目の聖人かのどちらかだ。
「聖人が二人いた試しはあったのか……?」
もし二人居た場合、〈女神の貢ぎ物〉はどうなるのか。頭の痛い問題だ。
「マヌエル師とリグハーヴス公爵に連絡を入れておいた方がいいでしょうね」
「たう」
頷くリットを撫で、つかの間の癒しを貰うフォンゼルだった。
急ぎの決裁が必要な書類に目を通し署名したアルフォンスは、図書室の暖炉の前の肘掛け椅子に座り、〈Langue de chat〉から借りた本を読んでいた。
夏季に入ったというのに肌寒い今日のような日は、暖炉に熱鉱石が燃えている。温かい暖炉の前の敷物の上では、キメラのココシュカと笹かまケットシーのカティンカ、南方コボルトのアルスが鉱石図鑑を一緒に眺めている。彩色された鉱石図鑑では、幸運魔石の頁が開かれていた。
幸運魔石は幸運妖精だけが作り出せる魔石で、非常に稀少だ。身に着けると幸運値を上昇させるお守りになると言われている。幻の魔石、と図鑑には書かれているが、どこぞのルリユールでは栞の飾り石として、普通に売られている。アルフォンスも〈Langue de chat〉から何度か本を借りるうちに、ヨナタンが織ったという栞を貰ったが、当然それにも付いていた。エンデュミオンが言うには、お得意様へのお礼に名前入りの栞を渡しているらしい。
(売れば目の前に金貨が積まれる幸運魔石をお礼で渡すとは……)
妖精の価値観は、人族とは違うのだと改めて突き付けられる。エンデュミオンは元々森林族だった筈なのだが、今ではすっかりケットシーの習性に馴染んでいる。森林族の頃から浮世離れていたからかもしれない。
すっと図書室のドアが開いて、ティーワゴンを押した執事のクラウスが入って来た。濃い灰色の髪に黒い執事のお仕着せを身にまとっているので影のようだ。
クラウスは図書室の中にあるテーブルの脇にティーワゴンを停め、ティーポットの横に置いてあった小振りの魔銀の盆を持ってアルフォンスの元へとやって来た。
「御前、精霊便です」
「有難う」
白い封筒と渡されたペーパーナイフを手に持ったアルフォンスは、封筒の裏に押された封蝋に目を止めた。
「銀の封蝋にシルヴァーナの紋章?」
銀色の封蝋に〈星を抱く月〉の紋章は、教会からの手紙である。しかも差出人の署名は流麗な飾り文字でフォンゼルと記されていた。つまり司教本人からだ。
「巡行の日程が決まったのか? それならリグハーヴス女神教会から連絡が来そうなものだが……」
巡行で寄る地元の教会に日程が記された手紙が届き、それを持って司祭が領主に知らせに来るのが通例なのだ。
アルフォンスは怪訝に思いつつ封を切り、ペーパーナイフをクラウスに返してから、封筒から便箋を抜き出した。
手紙には時候の挨拶の後、近々巡行を始める予定ですとは書いてあるが、日程には触れていない。内心首を傾げつつ、読み進める。
「んん?」
「たう?」
「ぎゃう?」
「ああい?」
アルフォンスの声に、アルス達も図鑑から顔を上げた。
「猊下はなんと?」
クラウスに促され、アルフォンスはトンと指先で便箋を叩いた。
「クラウス、どうやら聖人が現れたそうだぞ」
「聖人は司祭ベネディクトでは?」
「それは間違いない。エンデュミオンが確認しているからな。どうやら野に散っている真偽官が収集した噂話に聖人の話があったらしい。司教フォンゼルは元々真偽官だったお方だ。現在調査中との事だが、リグハーヴスに〈女神の貢ぎ物〉のイージドールがいるので知らせてくれたそうだ」
〈暁の砂漠〉の民で聖職者にあるのはイージドールただ一人なので、知識さえあれば彼が〈女神の貢ぎ物〉だと解る。
「マヌエル師にも連絡したと書いてあるから、エンデュミオンにも話は伝わるだろう」
「魔道具か妖精でもないと、持っている属性素質が解りませんからね。いざとなったらご出馬願うつもりでしょうか」
「だろうな。大魔法使いエンデュミオンの鑑定に否とは言えまい」
「……聖人がお二人存在する事などあるんでしょうかね」
「な、ないの」
ふるふるとカティンカが首を振る。
「ない?」
「ああい」
ケットシーは叡智を持つ妖精である。そのカティンカがないというのなら、前例はない。
「せ、せいじんひとりに、〈めがみのみつぎもの〉ひとり。いっしょう、あるじかえはしない」
「〈女神の貢ぎ物〉が二人居たら?」
「〈めがみのみつぎもの〉はかならずひとり。め、めがみのたくせんをうけた〈あかつきのさばく〉のたみだけ。そ、そういうことわり」
女神の理で決まっているので、聖人も〈女神の貢ぎ物〉も二人同時期に存在しないのだとカティンカは言った。
「ならば、噂の聖人は偽物には違いないのか」
「猊下もきっとお気付きではおられるんでしょうね」
「だろうな」
フォンゼルは真偽官であった以上、聖人についての知識はあるだろうし、マヌエルからも教えられている筈だ。
「司教フォンゼルの手紙によると、リグハーヴス以外で聖人の噂を拾えたらしい。ああ、勿論聖都にも行っていないだろうな。あそこで噂になればあっという間に捕まりそうだ」
聖都は聖女が治める聖なる祈りの島である。そんな場所で「聖人でござい」などとやらかせば、すぐさま巡礼者に囲まれて聖騎士に鑑定を受ける羽目になる。聖女には聖人ベネディクトの発見は、密かに知らされているのだから。
「聖都を避けるとなると、リグハーヴスに近付いていると?」
「リグハーヴスには〈女神の貢ぎ物〉が居るからな。公には聖人が既にいると知らされていない」
〈女神の貢ぎ物〉が聖人を選ぶと知っているとすれば、当然目指して来るだろう。
「聖人について一般の民は詳しくは知らない。逆にもし聖人についてある程度知っているなら、聖人を騙れるだろう」
「リグハーヴス以外では、ですけどね」
「はは、そうだな」
思わずアルフォンスは笑ってしまった。
リグハーヴスではエンデュミオン以外にもあちこちに妖精がいるのだ。その妖精全てがベネディクトが聖人だと知っている。もしも悪意があるのなら、相当やり難いに違いない。
フォンゼルもリグハーヴスに密かに真偽官を送って来るだろう。教会としても、聖人と〈女神の貢ぎ物〉は守りたいのだから。リグハーヴス公爵であるアルフォンスもまた、強い聖属性を持つベネディクトを庇護する所存だ。〈退魔〉の能力があるベネディクトがいるといないとでは、地下迷宮を有するリグハーヴスの守りが違う。
ベネディクトは〈豊穣の瞳〉を持つ南方コボルト、モンデンキントを育てている。そしてベネディクトには〈女神の貢ぎ物〉のイージドールとイージドールに憑いているケットシー、シュヴァルツシルトも付いている。その全てに強い聖属性があるのだ。全く持って、手放す理由はない。
エンデュミオンと司教との密約で彼らの異動はないとはいえ、アルフォンスも協力は惜しまないつもりだ。
「お茶を飲んだら、司教フォンゼルにお礼の手紙を書いておこうか」
「それが宜しいかと」
わざわざ知らせて来たのだから、フォンゼルはアルフォンスと友好関係でいたいのだろう。リグハーヴスにはマヌエルも暮らしている。
テーブルに乗せた皿に桃のタルトを切り分け始めたクラウスの足元に、ココシュカ達が走り寄る。アルフォンスは一人ずつ掴まえて椅子に座らせるべく、肘掛け椅子から立ち上がった。
百年単位ぶりで現れた聖人がベネディクト。
聖人は聖魔力を垂れ流している人なので、聖人の周りは簡易聖域みたいな状態です。
ベネディクトには〈豊穣の瞳〉をもつモンデンキントがいて、ベネディクトの能力を底上げしているので、現在リグハーヴス女神教会は清浄な地になっております。
そして、イージドールが来た事により、知らない間にベネディクトの寿命が延びているという。