〈Langue de chat〉聖域化計画
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ルッツの為ならえんやこら。
331〈Langue de chat〉聖域化計画
燃ゆる月はその時々に寄って期間が異なる。一日で終わる時もあれば、数日続く事もある。今回は期間が長いようで、三日たっても燃ゆる月は終わらなかった。
当然ルッツの体調不良も続き、ベッドで寝ているか、テオに抱っこされているかのどちらかで、食欲も落ちている上夜泣きまでしていた。ヴァルブルガの処方した薬でルッツの頭痛は治ったのだが、強い倦怠感は取れなかったのだ。
「おはよう……」
「テオ、大丈夫?」
弱弱しい鳴き声を上げているルッツを抱いて居間に入って来たテオの顔色が白かった。二日まともに寝ていないので、流石に眠いのだろう。
「テオ、朝御飯食べたら寝ておいでよ。ルッツは俺が見てるから」
「うん、お願いして少し寝て来るかな……」
幾分ふらふらしているテオに、絶叫鳥の骨付き肉から出汁を取って作ったお粥の入った器を出し、孝宏はルッツを抱きとった。
「ルッツもご飯食べようか。柔らかい鶏肉の入ったお粥だよ」
「あい……」
目ヤニと涙で汚れた顔を、エンデュミオンが差し出した暖かいお湯で絞った布で優しく拭って綺麗にしてから、孝宏はルッツに〈精霊水〉を飲ませ、少し冷ましたお粥を食べさせた。
いつもなら自分で匙を持って大喜びで食べるのだが、ルッツは孝宏の膝に座って胸に凭れたまま食べさせて貰っている状態だ。
「やーなの」
いつもの半分程の量でルッツはお粥を食べるのを止めてしまった。本当ならもう少し食べて欲しいのだが仕方がない。孝宏はラルスの飲みやすい薬草茶をルッツに飲ませ、口直しに摩り下ろした林檎を混ぜて固めた林檎味のゼリーを食べさせた。林檎が好物のルッツは、これは残さず食べた。
「りんご」
「美味しかった? 沢山作ったから、また後で食べようね。アイスクリームも作ったからね」
「あい」
嬉しそうにルッツが頷く。食欲のない今は、食べたい物を何でもいいから食べさせる作戦なのだ。
テオもお粥を食べ終わり、エンデュミオンがコップに注いだアイスティーを飲み干して立ち上がる。
「ごちそうさま。俺は少し仮眠して来るけど、おうちの中に居るからな、ルッツ」
「あいー」
ルッツはテオが居なくなると不穏になるので、どこかにいく場合は必ず知らせておく必要があるのだ。テオは孝宏が抱くルッツの頭を優しく撫でてから、寝室に戻って行った。
孝宏はルッツを片腕で抱いたまま使った食器を水に浸けた。洗うのは後でまとめて出来る。
「燃ゆる月がこうも続くとはなあ。ルッツの状態を見るに、多分今晩もだと思うぞ」
エンデュミオンが前肢で頭を掻きながら唸る。燃ゆる月が一週間以上続いた記録はあるのだが、相当珍しいのだ。ルッツの様子を見る限り、今回はいつもよりも魔力の放出量が多い気がする。地下迷宮ではかなり強い種類の魔物が暴れ回っている事だろう。
「せめて寝られるようにならないと辛いよね」
具合の悪いルッツもまともに寝ていないが、看病しているテオも寝ていないのだから。幾ら頑健な〈暁の砂漠〉の民でも身体を壊す。
「空魔石に空気中の魔力を充填するのも、こう燃ゆる月が続くとなあ。でも大魔法使うと怒られるだろうしなあ」
下手にエンデュミオンが大魔法を使うと、エンデュミオンを領内に住まわせているアルフォンスが王に反旗を翻したと噂されかねない。そうなればリグハーヴスから〈異界渡り〉を保護するという名目で、孝宏を攫おうと画策する馬鹿も出かねない。
木竜グリューネヴァルトもいるし、リグハーヴス全域に防御壁を張る位大した魔力を使わないが、それこそ戦を起こす事態になるので面倒臭い。エンデュミオンは孝宏と平和に暮らしたいのだ。
現在グリューネヴァルトは王都のフィリップとモーリッツの元に居るが、そろそろ戻って来る頃だろう。
「……あれを試してみるか」
「何かあるの?」
「聖域を作れば空間が区切られるから楽になるかなと思ってな」
「聖域?」
「でもエンデュミオンは聖属性がないから、誰か呼んでこないとならないが。テオとルッツの事だし、イージドールを呼んで来る。その間ルッツにはこれを付けさせておこう」
エンデュミオンはうっすらと緑色をした水晶を結び付けた緑色の革紐を、ルッツの首に掛けた。
「これ地下神殿の水晶?」
「うん。聖属性だからな。じゃあ行って来る」
エンデュミオンは〈転移〉で教会へ跳んだ。今なら朝のお務めが終わる頃だろうと、聖堂へ行く。主席司祭のベネディクトが体調を崩しやすい為、早朝に聖堂で行うお務めは副司祭のイージドールが担当している事が多い。
エンデュミオンが聖堂に現れた時、イージドールとイージドールの小さな黒いケットシーであるシュヴァルツシルトは、赤いクッションに膝を付いて祈りの最後の句を言い終わった所だった。
イージドールが手に持っていた、〈星を抱く月〉のメダルが付いた翡翠の球が連なる数珠を司祭服の隠しに入れ立ち上がる。イージドールの隣で赤いクッションに座っていたシュヴァルツシルトがくるりと振り返り、エンデュミオンに前肢を振った。
「おはよ、えんでゅみおん!」
「おはよう、シュヴァルツシルト。イージドール」
「おはようございます、エンデュミオン。どうしたんですか? こんなに早く」
イージドールがシュヴァルツシルトを右肩に乗せ、エンデュミオンの前に膝を付いた。そうしないと見上げるエンデュミオンの首が疲れるからだ。
「燃ゆる月になって三日目だろう? 実はルッツが空気中に増えた魔力に中てられて具合が悪くてな。看病しているテオも二日寝てないんだ」
「それは困りましたね。聖属性の〈浄化〉をすれば一時的に回復するんですが……」
「一時的だと〈浄化〉する方も大変だろう? ちなみにイージドールは聖域を作れるか?」
「聖別出来ないと司祭になれませんからね、出来ますよ。媒体が何かあればやりやすいんですが」
聖域とは部屋などの空間を聖別するのである。簡易的な物としては聖別した塩と聖水でも出来る。
「媒体は豊富にあるから、一寸きてうちで聖域を作ってくれないか?」
「豊富にって……ありますね」
思い当たったイージドールが苦笑する。
地下神殿は聖属性の塊の水晶と聖水の溜まった地底湖なのだ。そして地下神殿の正式な管理者はエンデュミオンである。
「朝食の後で良いから、〈Langue de chat〉に来てくれると助かる」
「解りました。後ほど伺います。ルッツはお風呂が好きでしたよね? 聖水で沐浴してあげると楽になると思いますよ」
「ならば聖水でお茶でも淹れるか?」
「それも効くと思います」
大聖堂の聖職者が聞いたら目を剥きそうな提案だが、イージドールもエンデュミオンも大真面目である。
イージドールの約束を取り付けたエンデュミオンは、直ぐに〈Langue de chat〉へ帰還したのだった。
「ただいま。孝宏、あとでイージドールとシュヴァルツシルトが来てくれるぞ」
「おかえり、エンディ。何か用意するものある?」
「水晶と聖水と聖別された塩位だと思うから、エンデュミオンとイージドールで用意出来るな。イージドールがルッツを聖水で沐浴させたらいいと言っていたぞ。飲み水にも聖水を使おう。空いている水差しはあるか?」
「あるよ」
夏場は冷たいお茶を作り置きしておくので、蓋付きの水差しは幾つかあるのだ。
「これを地底湖に繋げよう」
地底湖では幾つかの場所に聖水の沸く場所がある。エンデュミオンは水差しの底に魔法陣を描き込み、人が出入りしない場所にある聖水の泉と繋げた。これでいつでも聖水が満たされている水差しの完成だ。
イージドール以外の聖職者が見れば気絶しそうな聖具に変わった水差しから、孝宏は薬缶に聖水を注いだ。孝宏にしてみれば、水が湧く便利な水差しである。
「エンデュミオンはこれでバスタブに水を溜めて来る。水を温めたら呼びに来るからな」
「うん」
孝宏は片腕でルッツを抱いたまま、お茶の用意をし始めたのだった。
イージドールとシュヴァルツシルトが朝食を食べ終え、ベネディクトに出掛ける理由を告げて〈Langue de chat〉に赴いた時、エンデュミオンに案内された二階のバスルームで、ルッツは孝宏に聖水風呂に入れられていた。
「様子はどうですか?」
「聖水に入ったら元気になりましたね」
バスルームを覗き込んだイージドールに、孝宏は振り返って笑った。白いバスタブの中で、ルッツはぱしゃぱしゃと水面を叩いて遊んでいた。一緒にバスタブに入っているヴァルブルガが、ルッツの耳の周りを撫でている。
「テオフィルは?」
「さっき寝に行ったばかりなので、まだ起きないと思いますよ」
ルッツを預けても安心な者達ばかりなので当然だろうなと、イージドールは頷いた。
「イージドールこんな大きさでいいのか?」
そこに孝宏と使っている寝室に行っていたエンデュミオンが、生成りの布で出来た巾着袋を持って来た。黒森之國で良く使われている、一般的な巾着袋だ。
「見せて頂けますか?」
イージドールは巾着袋を開いて中を確かめた。巾着袋の中には長さ五センチほどの水晶が幾つも入っていた。全てが聖属性だ。これは地下神殿を見付けた時に拾い集めた水晶の一部だろう。
「ええ、充分です。聖別した塩は持って来ましたので、あとは聖水ですね」
「これどうぞ」
孝宏が何故か蓋つきの水差しを差し出して来た。翼のない竜の模様が描かれた青い染付の白い陶器は倭之國からの輸入品だが、どうみても普通の水差しだ。
「イージドール、それに聖水が入っているんだ。いつでも使えるように、地底湖にある聖水の泉の一つと繋げた」
「何やっているんですか」
「持ち運べるから便利だろう? ギルベルトの部屋にも聖水の泉を作ってやったが、それの簡易版だな」
「大騒ぎになりますから、秘密にしておいて下さい」
これが聖都や大聖堂に知られたら、大騒ぎになる。とんでもない聖具だ。
「ベネディクトの為に一つ作ってやろうか? これでお茶を作れば、邪気が払えるから健康にいいぞ。聖職者ならより効果は高い筈だ」
「……お願いします」
聖属性を持つ聖職者に聖属性のアイテムは非常に相性がいいのだ。司祭館の台所に置こうとイージドールは決めた。本来ならば聖都か大聖堂で恭しく祭礼の時に使われる代物だが、エンデュミオンの顔には「これは実用品です」と書いてある。作ってくれるのなら作って貰おう。エンデュミオンがベネディクトの為に、と言ったのだから個人所有になる。
「では早速聖域を作りましょうか。どの範囲で作りますか? 媒体があるので広くても大丈夫ですよ」
「部屋だけに聖域を作ってもルッツが移動出来ないから、どうせなら〈Langue de chat〉の敷地内を聖域化してくれないか? 敷地内に入った者も〈浄化〉されるだけだから害はないだろう?」
〈Langue de chat〉に出入りする魔物であるマーヤは、聖別されたメダルを持っている為、聖域に入れるので問題ない。入った瞬間魔物が消し飛ぶほどの聖域にするならば、かなり大きな媒体が必要になるのだ。
「解りました。では外ですね」
「うむ」
「あいっ」
巾着袋と水差しを持って、肩にシュヴァルツシルトを乗せたイージドールはエンデュミオンと外に出た。
「敷地の四隅に媒体を埋めます。地の精霊お願いします」
イージドールは敷地の角に立ち、地の精霊を呼んだ。ぽこっと土の中から出て来たモグラの姿をした地の精霊に、水晶と白い紙に包んだ聖別した塩を渡す。
「聖水をどうぞ」
小さな白い陶器の盃に聖水を注ぎ、地の精霊に渡す。地の精霊は嬉しそうに聖水を舐めた。ぽわっとモグラの身体が銀色に光る。聖水を飲み終えた地の精霊は水晶と塩の包みを抱えて土の中に戻って行った。イージドールは残り三か所でも同じ事を繰り返した。
「あとは裏庭で祈祷させて頂きます」
丁度建物の裏に回って来ていたので、そのまま庭を囲む錬鉄の戸を開けて裏庭に入る。イージドールは大体土地の中心に当たる家寄りの場所に立ち、聖水で濡らした数珠を振りながら祈祷を始めた。イージドールの足元では、シュヴァルツシルトが聖水で濡らした房状の鈴を鳴らして場を浄めていく。
イージドールが祈祷の最後の句を結び終えた瞬間、土地が聖域になったのをエンデュミオンも感じ取った。
「うむ、清々しいな」
「燃ゆる月の間、ルッツが敷地内から出ない方が良いのは変わりませんけどね。温室の中やケットシーの里も大丈夫だと思いますが」
月の女神シルヴァーナが降臨すると言われるケットシーの里は、聖域のようなものなのだ。
「エンデュミオンは聖属性がないからな、助かったイージドール」
「いえ、お役に立ててなによりです」
「シュヴァルツシルトもきちんと聖務をしているんだな。有難う」
「あいっ」
身体が小さいので大きなものは持てないシュヴァルツシルトだが、持っていた鈴は身体に合せて作られた物だった。頼んで作って貰った物か、聖具作りの出来る職人が寄贈した物だろう。
「何か空気変わったと思ったら、イーズ?」
「テオフィル、起きたのかい」
「いや、流石に起きるって」
二階の窓からテオが裏庭を見下ろしていた。
「イーズ、何したの?」
「ここの敷地を聖域にしたんだ」
「はあ!?」
テオが驚くのも当然で、一般住民の敷地内を通常聖域化はしない。
「テオ、孝宏にお茶を淹れて貰うから居間に来い。ルッツも元気になっている筈だ」
「えっ、本当!?」
すぐに窓からテオの頭が引っ込んだ。ルッツの元へ行ったのだろう。
「さあ、エンデュミオン達も二階へ行こう。帰りは送って行って、水差しに魔法陣を描いてやろう」
「有難うございます」
イージドールは両手の指を組み、エンデュミオンに頭を下げた。
裏庭から家に入るドアを開ける。二階からルッツの笑い声が聞こえて来た。
「全く、こうでなくては落ち着かん」
笑みを浮かべ、エンデュミオンは尻尾をぴんと立てたのだった。
可愛い弟分の為なら、聖域化くらいしちゃうエンデュミオンです。
エンデュミオンは唯一聖属性がないので、こればかりは他の人に頼みます。
マヌエルにも頼めるのですが、今回はテオの絡みなのでイージドールに。
お礼は聖水の沸く水差しです。
イージドールも可愛い甥っ子やそのケットシー、ベネディクトとシュヴァルツシルトに関しては、ちょっと基準がおかしいです(そもそも広範囲の聖域を簡単に作る時点でおかしい)。