燃ゆる月
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
リグハーヴス限定気象病。
330燃ゆる月
孝宏は〈Langue de chat〉の店員だが、相変わらず見本本用の物語も書いている。
黒森之國の夜は静かなので、寝室の向かいにある孝宏用の書斎で、寝る前に原稿を書いている事も多い。
書斎には書き物机の他に、今まで書いた本がイシュカにより装丁されて収められた扉付きの本棚と、布を張り替えたばかりの寝椅子も置いてある。
寝椅子はこの家の元家主が物置に置いて行ったものだったが、使いこまれて布が擦り切れていたので、大工のクルトに頼んで修理をし、ヨナタンのコボルト織を張り直して貰ったのだ。群青色の地に小さな白い霰模様が散っている布で可愛らしく仕上がった。
「ん?」
その寝椅子に座って孝宏の書いた原稿を読んでいたエンデュミオンが顔を上げた。孝宏も振り返る。
「あれ、ルッツ?」
既にテオと寝室に行った筈のルッツが、ドアの隙間から顔を覗かせていた。妖精達が開けられるように、孝宏達は大抵部屋のドアを少し開けておく癖がある。
「どうしたの? 起きちゃった?」
孝宏は椅子から立ち上がり、しゃがんで両手を広げた。抱っこするよ、の合図だ。
「ヒロー」
殆ど足音を立てずにルッツが部屋の中に入って来て、孝宏に抱き着く。成体になっている筈なのに、幼いケットシーのような綿毛っぽい毛がぽやぽやとあるルッツの身体を抱き締め、孝宏は寝椅子に居るエンデュミオンの隣に腰掛けた。
「ルッツ、お茶少し飲む?」
「あい」
孝宏は寝椅子の横に置いてあるネストテーブルの上に用意してあった水差しから、アイスティーをコップに移した。今日はアップルティーのアイスティーだ。
「どれ、氷を作ってやろう」
エンデュミオンがコップに肉球を当てると、カランと音を立てて氷が一つ水面に浮かんだ。孝宏はストローをコップに挿してルッツに渡す。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
ルッツはストローを咥え、ちゅーとアイスティーを飲んだ。どうやら喉が渇いていたらしい。ルッツは寝ると朝まで起きない事が多いので、こんな夜中に目を覚ますのは珍しい。現に、今も眠そうではある。
「それ飲んだら、テオの所に連れて行ってあげるからね」
「あい」
黒森之國の家は王宮や貴族や準貴族のお屋敷でもないと、天井にシャンデリアのような照明はない。部屋や廊下には光鉱石のランプがあるだけというのが普通だ。
孝宏のように夜に本を読んだり文字を書いたりする者は、光鉱石のランプの明度を上げればかなり明るいが、通常は夕食を摂って風呂に入れば寝てしまうものなのだ。廊下に常夜灯のない家も多い。
〈Langue de chat〉は廊下にもランプがあるが、夜目が効くケットシーでも、幼いルッツだけで部屋に戻すのははばかられる。
「もしかして……」
エンデュミオンが寝椅子から下り、書き物机の前にある椅子伝いに机に登り、カーテンを捲った。
「エンディ?」
「うん、やっぱり今晩は燃ゆる月だ」
「燃ゆる月?」
「黒森之國で燃ゆる月、つまり赤い月の晩は〈地下迷宮の底〉が開く晩なんだ。前にもルッツは燃ゆる月の夜に目を覚ましてた筈だ。〈地下迷宮の底〉が開くと、いつもより空気中の魔力が濃くなる」
「ルッツはそれを感じ取ってるの?」
「そうだろうな」
魔力に鈍い孝宏には解らないものだ。
「エンデュミオンも、一寸髭の先がむずむずする」
センサーのような髭で感じ取るものなら、尚更孝宏には解らない世界である。〈地下迷宮の底〉はいつ開くか解らないらしいので、感じ取れる方が凄い。
「ギルドでの新人講習もやっているし、何事もないといいが」
以前〈地下迷宮〉から魔物が出て来た事件があり、矢面になるリグハーヴスに緊張が走ったのは孝宏も覚えている。無害な吸血鬼マーヤや、気弱な淫魔ライヒテントリットのような魔物ばかりではないのだ。
「ルッツ、お部屋戻ろうか?」
「あい……」
うとうとし始めたルッツからコップを受け取ってネストテーブルに戻し、孝宏は青黒毛にオレンジ色の錆が入った小さな身体を抱き上げる。
孝宏は部屋を出て、余り足音を立てないように気を付けて、自分の部屋の隣にあるテオとルッツの部屋に向かう。テオとルッツの部屋のドアはルッツが出て来た時のまま、中途半端に開いていた。
そろりと孝宏が部屋に入ると、「ルッツそっちに行ってた?」とベッドに横になったままテオが囁いた。流石に起きていたようだ。
「うん、喉乾いてたみたい。お茶少し飲んだよ」
「有難う」
孝宏からルッツを受け取り、テオがベッドに寝かせる。すうすうとルッツは寝息を立てていた。このまま朝まで寝てくれそうだ。
「エンディが燃ゆる月だから起きたんじゃないかって」
「〈地下迷宮の底〉か……。気を付けた方が良さそうだね」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
そっと部屋を出て、孝宏はドアを細く開けた状態で閉めた。
翌朝もルッツは寝起きからぐずり気味だった。テオの胸に顔を押し付けたまま朝御飯も食べない。ルッツは機嫌が良い時が多いので、珍しいといえば珍しい。
「ルッツ、大丈夫?」
アインスが心配そうな顔をしているが、先にルッツを診ていたヴァルブルガが「大丈夫」と請け負う。
「昨日から〈地下迷宮の底〉が開いているから、気持ち悪いみたいなの」
「髭の先むずむずしてるやつ?」
「そうそう」
アインスも髭の先がむずむずするようだ。
「ハイエルンだとここまで感じないんだけど」
「うー」
シュネーバルもぽやぽやと生えている髭を前肢で押さえているので、違和感を感じているのだろう。
「ルッツにはあとで食べやすいものあげるから大丈夫だよ。ほら、今日はラルスの所に行くんでしょ?」
「あ、遅くなっちゃう」
「う!」
アインスとシュネーバルが器に残っていたベリー入りのヨーグルトを口に入れ、お茶を飲む。
ラルスの所で薬草と調合について勉強している二人は、週に何度か〈薬草と飴玉〉に通っているのだ。
「行ってきます」
「いってきましゅ」
慌てて二人は〈転移〉して行った。シュネーバルの口元にジャムが付いていた気がするのだが、きっとラルスかブリギッテが気付くだろう。
「ふーむ、地下迷宮がどんな状況か、エンデュミオンが聞いて来よう。クロエかヨルンが知っているだろうからな」
エンデュミオンは髭を肉球で撫で、魔法使いギルドに〈転移〉して行った。
イシュカが居間の窓を開ける。
「教会の鐘も鳴っていないし、大丈夫だとは思うが……」
災害レベルだと教会が鐘を鳴らして住人に知らせる決まりがある。今のところ街の中は静かだ。
朝食の後、イシュカとカチヤは店を開ける準備をしに一階に下りた。ヴァルブルガはそのまま居間に残り、レースで花を編み始める。ヨナタンは機織りをしに部屋へと行った。
孝宏は鰹節で出汁を取り、ふんわりかき卵の入ったおじやを作った。ほんの少し生姜の搾り汁を入れ、葱を散らす。炊いた米を保冷箱に小分けにして入れておいたのですぐに出来た。小鉢に少し取り、木匙で掬って軽く息を吹きかけて冷ます。
「ルッツ、おじや食べない?」
「あい……」
もそもそとテオの膝の上で向き直ったルッツの口に、孝宏はおじやを入れてやった。
「……」
ゆっくり咀嚼し飲み込んで、ルッツは口を開いた。少しずつおじやを食べさせ、小鉢一杯分はお腹に入れてやる。
「残りはお腹空いたら食べたらいいからね」
「あい……」
再びもそもそとテオの方に向き直るルッツの目は、いつもの半分程しか開いていない。
「ルッツ、頭痛かったりする?」
「あい……」
『もしかして、気圧の変化みたいな感じなのかな』
「なに?」
孝宏の日本語での呟きに、テオが訊き返して来た。そう言えば気圧について、黒森之國で聞いた事がなかったなと、孝宏は思う。つまり黒森之國語での単語を知らない。
「ええと、空気中の魔力が多いのがね、天気が悪くなる前に具合が悪くなるのと近いのかな? って思ったんだよね。雨が降る前に頭が痛くなるやつみたいのね」
「ルッツは空気中の魔力が濃いと具合が悪くなる?」
「なのかなあって。確か耳の中の血流が悪くなる事で、頭痛や眩暈、身体の怠さが出るんだって。眩暈の薬や耳の血流を良くする薬で改善するらし──うわ、ヴァルブルガ!?」
居間にいた筈のヴァルブルガが、いつの間にか孝宏の真横に居た。きらきらとした緑色の大きな瞳で、ルッツの特徴的に大きな耳を凝視している。
「ヴァルブルガ?」
「ラルスの所に行ってくるの」
ぽんっとヴァルブルガが姿を消す。薬の相談に行ったのかもしれない。
「砂漠は晴れた日が多いから、聞いた事がなかったな……」
テオがルッツの後頭部を撫でながら呟いた。テオの生まれは〈暁の砂漠〉だ。
「俺は雨が数日続いたりする国で生まれたから。それでもこれが病気だって言われるようになったのは最近だったと思う」
気象病なら雨が降ってしまったり、天候が回復すれば体調が戻るが、空気中の魔力はどうしたものだろう。大きな魔法を使って消費すればどうにかなるものなのだろうか。しかしそんな事をしたら、色々と騒ぎになりそうだ。
「ルッツ、少し楽になる方法があるんだけど、試しにやってみる? 効くかは解らないけど」
「あい……」
どうやらかなり具合が悪いようだ。ヴァルブルガが薬を持ってくるまで、少しは気分が良くなればいいのだが。
(確か耳の付け根を揉むんだったよな)
孝宏は優しくルッツの大きな耳の付け根を揉み始めた。これは恐らく血流を良くするためのマッサージだろう。耳の付け根からはじめ、頭全体と肩の辺りも力を入れすぎないように、優しく優しくマッサージする。なにしろケットシーの身体は柔らかいのだ。
「あ、寝たかも」
テオの声にルッツを覗き込む。ルッツはテオに凭れたまま寝息を立てていた。
「効果あり?」
「みたいだ」
顔を見合わせ、孝宏とテオはほっと息を吐いた。
ぽんっと音が聞こえ、居間からエンデュミオンが台所に入ってきた。
「ただいま。ヨルンに聞いてきたが、地下迷宮は扉の封鎖に異常なしだそうだ」
〈地下迷宮の底〉が開くと迷宮の壁の色が変わるので、入口は〈地下迷宮の底〉が閉まるまで封鎖されるのだ。この封鎖がきちんと行われないと、魔物が外に出て来たりする。
「お帰り。それなら一安心だね。あのさエンディ、気になった事があるんだけどさ」
孝宏は気象病とルッツの症状の類似点から、空気中の魔力が増える事での体調変化についての仮説をエンデュミオンに伝えた。
「きっと地下迷宮が近いからリグハーヴスの辺りだけ魔力が濃いんだよね? それどうにかならないかなあって」
「単純に考えれば余分な魔力を消費すればいい。エンデュミオンが大魔法をドーンとやったら早いが、アルフォンスやマクシミリアンから怒られるだろうからな……」
それは物凄く怒られるだろう。
エンデュミオンは右前肢の肉球を顎に当てて暫し考えたのち、「空魔石に吸わせればいいのか」と呟いた。
「空魔石そんなにある?」
「あるのではないかな。通常なら使った魔石は、魔力溜まりのある場所に戻して充填するのだが、それなりに時間が掛かる。今のリグハーヴスは空気中の魔力が濃いから、魔法陣で魔力を集めてやれば魔石に充填出来るだろう。マクシミリアンにも今ならどんな魔石も充填してやると言えば、王都の守護に使っている魔石の予備を出して来るだろう。エンデュミオンはもう一度魔法使いギルドに行ってくる。双子とホーンも居たから協力して貰える筈だ」
エンデュミオンは再び〈転移〉して行った。魔法陣大好きコボルトがいるならば、のりのりで魔法陣を構築するだろう。
「ただいまなの」
エンデュミオンと入れ違いで、ヴァルブルガが戻って来た。
「眩暈と耳の血流を良くするお薬処方して貰って来たの」
「すぐに作るよ。薬草茶と同じ作り方?」
「うん。長めに五分位蒸らして。三食の後にお薬用のコップで一杯飲ませて」
お薬用のコップとは、白磁の湯呑み茶碗の事である。量が丁度いいからと、ヴァルブルガがお薬用として使っている。
早速孝宏は薬草茶を作ってルッツに飲ませ、テオと一緒に寝室へと送り出したのだった。
その頃エンデュミオンと魔法使いコボルト達は、大盛り上がりで魔法陣を構築して紙に描き、魔法使いギルドにあったありったけの空魔石を持ち出して魔力充填実験を繰り返していた。他のギルドや領主館の魔石をはじめ、お忍びでツヴァイクが持って来た巨大な魔石も魔力充填し、〈地下迷宮の底〉が開いた時に溢れる魔力の有効利用法を確立した。
ヴァルブルガは後日、魔女ギルドに『〈地下迷宮の底〉開放に際しての空気中の魔力量上昇が原因となる内耳血流減少による体調不良と治療について』という報告書を出した。調査により人族でも同様の症状を発症した者が多数いた事が発覚し、ヴァルブルガの報告書は魔女の間で引っ張りだことなるのだった。
今回はリグハーヴス限定気象病でした。
耳の大きなルッツ、どうやら繊細だったようです。
ノリノリで魔法陣構築していたエンデュミオンですが、周りにいたのが双子とホーン、クロエとヨルンだったので誰も止めずに実験していました。
空気中の過剰魔力の有効利用だったので、今回は怒られていません。ドーンとやっていたら物凄く怒られていたでしょう。
実はヴァルブルガ、結構論文を書いています。新しい病気や治療法を見付けたら、魔女や医師、薬草魔女には報告義務があります。
論文って、タイトル長いですよね……。