アインスとシュネーバルとラルス
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
エンデュミオンの過去の努力について。
326アインスとシュネーバルとラルス
目を覚ましたアインスは、見慣れない天井をぽけっと見上げた。
はて、ここはどこだろうと考えてから、そうだリグハーヴスに修行に来たのだと思い出す。
アインスがエンデュミオンとラルスから薬草師としての修業を打診され、了解してからは早かった。その日中に両親に修行の許可を貰って荷物をまとめ、エンデュミオン達がリグハーヴスに戻る時に一緒についてきたのだから。
エンデュミオンは〈Langue de chat〉の店主であるイシュカには前もって相談していたらしく、突然アインスが来ても歓迎された。客間が人族仕様でごめんね、と言われたがこちらは宿代も払わずに泊めて貰うのだから文句はない。
「弟子に掛かる経費は師匠が賄うべき」と言うのが黒森之國の一般的な考え方で、今回はエンデュミオンがラルスに頼んでアインスの修行を企画したので、エンデュミオン持ちなのだという。
話には聞いていたが、〈Langue de chat〉は一階に店舗のある二階建ての大きな家だった。元々家族数の多い人達が建てた家を、イシュカが買い取ったそうだ。
裏庭もあって、シュネーバルと孝宏の家庭菜園になっていた。裏庭にはエンデュミオンの温室も建っていて、到着早々シュネーバルに前肢を引かれて案内された。
様々な薬草の生えているハーブガーデンがあり、小道の奥には広場もあった。明らかに温室の外見より広かった。広場には〈精霊水〉の沸く泉があって、水竜キルシュネライトとシュネーバルの愛玩植物のマンドラゴラのレイクを紹介された。ここでアインスはシュネーバルに、レイク以外のマンドラゴラはもう連れて来てはいけませんと言い聞かせたのだった。本来であればマンドラゴラは専門職のコボルトが育てるものなのだ。〈黒き森〉からシュネーバルが拾って来たレイクはかなり賢い個体のようだったが、ものによっては辺り構わず叫ぶマンドラゴラだっているのだ。
その後、レイクと羊樹が一触即発だった件も聞いて、眩暈がしたアインスだった。
温室にはケットシーの里へと繋がる道と、元司教の隠者マヌエルと聖職者コボルトのシュトラールの庵へと続く小道も教えられた。何だか、他人においそれとは言えない秘密が増えていく。
〈柱〉であるエンデュミオンが動けば、やっぱり何かが起こるんだろうな、とアインスは無理矢理納得したのだった。
(良く寝てるなあ)
くうくうと隣で寝息を立てている、末の弟のシュネーバルを見て、アインスはふうと息を吐いた。いつもは孝宏やイシュカと一緒に寝ているらしいのだが、アインスが暫く一緒に住むと聞いて、ベッドに潜り込んできたのだった。
コボルト狩りが村にやって来て、駆け付けた人狼達が追い払ってくれる間にシュネーバルが行方不明になって、探し回った記憶にぶるりと震える。シュネーバルは森を彷徨った後に、偶然発動した〈転移〉で〈Langue de chat〉に紛れ込んだのだという。妖精犬風邪を引いていたと言うし、孝宏が見付けて保護してくれなかったらどうなっていたかと思う。小柄なままだが、以前よりは大きくなって真っ白な毛もふかふかになって本当に良かった。
カタン、とドアの向こうで物音がし始めた。家人が起き始めたのだろう。
もぞりとシュネーバルが寝返りを打って、アインスに頭をぐいぐい擦りつける。もうすぐ起きそうだ。
紅茶色の瞳を開けて、じーっとアインスを見詰めてから「にーに、おはよ」とシュネーバルが言った。
「おはよう、シュネー」
アインスも答えて、シュネーバルの頭を撫でて起き上がる。リグハーヴスの気候はハイエルンと余り変わらない。六の月は一年でも過ごしやすい気温だろう。ただし朝は肌寒い。
大半の部分を使っていない気がする人族用のベッドから、階段状の踏み台を使って下りる。途中で後ろから下りて来るシュネーバルを抱き上げて、一緒に床に下りた。
「ん、んー」
鼻歌を歌いながらシュネーバルがアインスと前肢を繋いでバスルームに向かう。これまた洗面台の前に置いてある踏み台に登って並んで歯を磨く。それから濡らした手拭いを絞ってシュネーバルを顔を拭いてやってから、漱いだ同じ手拭いでアインスは自分の顔も拭いた。使った手拭いは盥に入れておいていいと言われているので、軽く畳んで入れておく。
シュネーバルと自分の身体をブラシで梳かしてから、再び前肢を繋いで客室に戻り、服を着る。シュネーバルの今日着る服も昨夜の内に用意してあったので、少し手伝ってやりながら着替える。シュネーバルの着ている服が、縞模様以外なのにコボルト織なのは、この家にコボルト織の織子ヨナタンが居るからだ。最近ではヨナタンの織った布を見た里のコボルト達も、縞模様以外の布にも挑戦している。
着替えたらシュネーバルと一緒に居間に行く。落ち着いた色合いの家具が置かれている居間にはイシュカとヴァルブルガがいた。イシュカは新聞を片手にソファーに座っていたが、ヴァルブルガは鉱石暖房の傍にいた。ケットシーはコボルトよりも寒がりが多い。
台所には孝宏とカチヤ、エンデュミオンとヨナタンが居るのが見えた。昨日の内に、ルッツは朝に弱いと聞いていたので、姿が見えなくても疑問に思わない。
「おはよう」と挨拶を交わして、台所に向かう。
「アインス、お手伝いするよ」
「有難う。このレタス千切ってくれる?」
「うん」
水魔法で前肢を洗ってから、ボウルに入っていた瑞々しいレタスを一口大に千切る。それに孝宏は若菜を足し、甘酸っぱい黄色い柑橘の実と適当に砕いた胡桃を入れる。ドレッシングは檸檬汁とオリーブ油、塩と胡椒と少しの砂糖を混ぜたものを、エンデュミオンが真剣な顔で作っている。途中で木竜グリューネヴァルトに胡桃を摘まみ食いされていたりするが。
カチヤとヨナタンは黒パンと、紅茶の香りのする薄茶色のパンを切って籠に盛っていた。
スープの鍋は熱の魔法陣が刺繍された布の上で温められていて、焜炉では孝宏が鉄の浅鍋で目玉焼きを焼いていた。もう一つの浅鍋では奇妙な形の腸詰肉を焼いている。半分に切られた腸詰肉の片方の端に幾つもの切り込みが入れられていて、熱が通るとそこが反り返っていた。
「たこしゃんぶるすちょ」
「たこ?」
隣の椅子に登っていたシュネーバルが嬉しそうに前肢を打ち合わせているが、たことは何だろう。
「蛸は海に居る生き物だよ。ハイエルンは山だから、店にあっても加工された物かもね」
「そうなんだ」
海のあるフィッツェンドルフからの海産物は輸送費が掛かるので、ハイエルンでは値段が高い。だからハイエルンの食卓では殆どお目に掛からないのだ。食べてもホッケなどの魚を開いて干物にした物になる。もしくは燻製にした鮭だ。
ご飯が出来上がる頃に、まだ半分寝ているルッツをテオが連れて来て朝御飯になる。テオとルッツは軽量配達屋をしていて、黒森之國中を飛び回っているので、帰宅した翌日はいつもこんな感じらしい。ご飯を食べている内に、次第にルッツが目を覚まして行くのが面白い。
エンデュミオンが蛸の形の腸詰肉をフォークで刺しながら言った。
「アインス、ご飯を食べたら〈薬草と飴玉〉に送って行こう」
「うん」
アインスは頷いて、紅茶の香りのパンを齧った。細かな紅茶の葉が入っていて香りが良い。パン屋のパンなのかと思ったら、孝宏が焼いたパンだった。
紅茶に使っている水も〈精霊水〉だろう。何だか朝から浄められている気がする。
「しゅねーばるも!」
「ああ、シュネーバルも一緒にな」
シュネーバルは魔女と薬草師の修行を少しずつ始めていた。エンデュミオンはきちんとシュネーバルの適性を調べてくれていたらしい。氷魔法が得意なのは、師匠のヴァルブルガと同じだとか。よもや凍土の魔女ヴァルブルガが師匠だとは思わなかった。他にアインスの家族で氷魔法が得意なのは母親のヴィオレットと弟のエンツィアンだ。アインスは一般的な魔女に多い水魔法と木魔法が得意だった。
朝食の後、〈薬草と飴玉〉が開店する時間に合わせて、エンデュミオンはアインスとシュネーバルを連れて〈転移〉した。
「来たか、エンデュミオン」
「うむ、連れて来たぞ。宜しく頼む」
〈薬草と飴玉〉ではラルスが待ち構えていた。エンデュミオンは〈Langue de chat〉の店番があるからと、二人を置いて帰って行く。アインスが思うに、エンデュミオンとラルスは双子のように、お互いの思考がある程度読めるらしい。会話がなくても成り立っているのだ。そして本人達には自覚がない。
エンデュミオンに置いて行かれたアインスとシュネーバルに、ラルスは店にあるドアを前肢でさした。
「そっちから入って来るといい。今ブリギッテに開けて貰うから」
「どうぞ、こっちから入って」
ラルスの言葉とほぼ同時に、ブリギッテと呼ばれた少女がドアを開けた。シュネーバルは顔見知りなのか、尻尾を振ってブリギッテに走って行く。アインスも後を追い掛けた。
「有難う」
アインスはブリギッテに声を掛けてからドアを抜けた。このドアは店舗から母屋に入るドアのようだ。
シュネーバルは一番近くにある開いていたドアの部屋へと入って行く。アインスが覗くと、そこは厨房施設と作業台、壁一面の薬草棚のある作業室だった。店のカウンターの後ろにも薬草棚があったが、良く使う薬草の在庫や使う頻度の少ない薬草、貴重な薬草はこちら側にあるのだろう。ふんわりと甘い香りが残っているのは、〈薬草と飴玉〉の名前の通り、飴の匂いが染みついているのに違いない。
店主の薬草魔女ドロテーアは、フィッツェンドルフで有名な薬草魔女だったそうだ。前領主の悪政の煽りを受けて、リグハーヴスに移住してきたと言う。
「どろてーあ!」
シュネーバルは作業室にいた初老の女性の長いスカートに抱き着いていた。女性のスカートに飛びついてはいけませんと、そろそろ教えないといけないかもしれない。
「いらっしゃい、シュネーバル。それにアインスね?」
「うん。シュネーバルの兄のアインス。宜しく」
ドロテーアに右前肢をあげ、アインスは挨拶をした。
「じゃあ始めるか。ブリギッテ、店番を頼む。何かあったら呼んでくれ」
「はーい」
「ラルス、店いいの?」
「ブリギッテも薬草魔女だから調薬は出来るんだ。ラルスの処方の仕方も教えてある」
魔女も薬草魔女も医師も薬の処方調薬は出来るが、専門職として薬草師がいるのである。
ドロテーアは今日は往診の予定がないので、患者が来るまではゆっくりしていると居間に行ってしまった。と言うか、気が散るからとラルスが追い出したのだ。
「アインスは資格を持った魔女で薬草師だから、一般的な魔女や薬草師が処方する薬については知っていると思う。アインスの魔法書を見せて貰ってもいいか?」
魔法書とは魔法使いコボルトの研究書だけではなく、魔女や他の職業のコボルトの研究書も指す。
「うん」
アインスは〈時空鞄〉から焼き鏝で模様が描かれた板で挟まれた分厚い魔法書を取り出した。状態保存の魔法を埋め込んであるが、ラルスは丁寧にアインスの魔法書を開いて中を確認してから言った。
「……うん、基本の処方だな。効果は間違いないんだが、味が考慮されていない奴」
「薬は苦い」
「だが苦いと飲めない者もいるだろう」
「それで研究を?」
「うむ。エンデュミオンが薬草に関しての知識を膨大に持っていたからな。子供の頃から聞き出しておいたものを、ドロテーアに憑いてから確認しまくったんだ。あの頃は毒草を食おうとしたら、エンデュミオンに容赦なく引っぱたかれたからな。ラルスは毒草は間違えない」
「……」
ラルスの薬草知識はエンデュミオンのスパルタ教育だった。毒草だけはラルスに食べさせないように、エンデュミオンは頑張っていたらしい。
確かケットシーとしてはエンデュミオンとラルスは同い年だった筈だ。アインスの目の前に、幼い鯖虎柄のケットシーが、同じく幼い黒いケットシーの後頭部を叩いて毒草を吐き出させる姿が目に浮かぶ。
目を離すと隣で毒草を食おうとしている幼馴染みが居たら、エンデュミオンのようなお節介で世話焼きなケットシーが出来るのだろうか。想像よりエンデュミオンが苦労している気がする。なんだか涙ぐましい。
ラルスは魔法書をアインスに戻し、自分の魔法書を〈時空鞄〉から取り出した。アインスの物よりも遥かに分厚い、新しめの蒼い革で装丁されたものだ。表紙に銀箔押しでラルスの名前が入っている。
「では、薬効が同じで入れ替え可能な薬草を教えていこうか。病気ごとの一回分ずつの基本的な処方もな」
「うん」
「う」
何も書かれていない紙を用意し、アインスとシュネーバルは万年筆を構えた。
ラルスに掛けたエンデュミオンの努力を無駄にしない為にも、真面目に授業を受ける兄弟だった。
アインス、エンデュミオンの過去の努力を知る。
エンデュミオンは生まれ変わったあと、長寿のケットシーだと知ってショックで暫く茫然自失でした。
育てるのが難しいと当時王様だったギルベルトに預けられ、やっぱり茫然としたままお世話されていましたが、そこにラルスも預けられる事に。
ラルスは植物に興味があって、草をむしっては口に入れてみる子供でした。
ギルベルトがいれば止めていた訳ですが、ギルベルトが不在の時に目の端で毒草を食べようとしているラルスに気付いたエンデュミオン、思わず引っぱたきます。
それからは「こいつ手あたり次第草食ってる!」と危機感を覚えてしまい、ラルスを追いかけては毒草を食べるのを阻止し始めるエンデュミオンでした。
ちゃんと「これは腹が痛くなるから食えない」「これは食ったら息が出来なくなって死ぬ」と解説しつつ阻止していたので、ラルスは薬草知識を身に付けたのでした。
エンデュミオンの世話焼きの発端は、ラルスです。