ライヒテントリットのお引越し
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ライヒテントリット、グラッツェルの家にお引越しです。
324ライヒテントリットのお引越し
ライヒテントリットが引っ越して来ると決まり、グラッツェルとゼクスナーゲルは大工のクルトの工房や、〈針と紡糸〉のマリアンに必要な物を頼みに行った。
ラルスも〈華の館〉女将やエンデュミオンに話を通してくれたようで、すんなりとライヒテントリットの引っ越しが決まった。
クルトは丁度納品したばかりで予定が空いているからと、職人総出でベッドや小振りの書き物机、椅子等を作ってくれた。ライヒテントリットの衣装櫃もリグハーヴスに来た時にクルトが作った物だったらしい。マリアンもアデリナとヴァルブルガとで、カーテンや寝具、ライヒテントリットの普段着を数枚誂えてくれた。
そんな訳で、グラッツェルとゼクスナーゲルは部屋にあった僅かな物を隣にある工房へ移し、丁寧に掃除をすればいいだけだった。
「おーい、お邪魔するぞー」
雑巾を洗って片付けていると、居間からエンデュミオンの声が聞こえた。
「エンデュミオン?」
慌ててグラッツェルが居間に行けば、エンデュミオンと大工クルトに憑いている北方コボルトのメテオールが一緒にいた。エンデュミオンが右前肢を軽く上げる。
「家具が出来たから届けたいと喚ばれたんだ」
妖精は一度行った場所でないと安全に〈転移〉出来ない為やりたがらない。だからグラッツェルの家を知っているエンデュミオンに案内を頼んだのだろう。
「精霊便をくれたら取りに行ったのに。わざわざ有難う」
「メテオールは〈時空庫〉持ちだから、家具を運んだ方が良いと思って」
メテオールが巻き尻尾を左右に振る。グラッツェルより年上のコボルトは、いつも機嫌よく仕事をしている。趣味が日向ぼっこで、いつも毛がふかふかだった。会うたびにゼクスナーゲルが抱き着いている。
グラッツェルは案内する為に、先に立って階段に足を掛けた。
「丁度掃除していたから助かったんだけどね。二階の部屋になるんだよ」
「結局使っていなかったのか、物置部屋」
「〈魔法箱〉くれたのエンデュミオンじゃん。あれ物凄く入るから、物置に置く物がないんだよ」
エンデュミオンや妖精達がグラッツェルに半ば押し付けた素材がたんまり入っているのに、まだまだ余裕がある〈魔法箱〉なのだ。
「ゼクスナーゲルは?」
「台所でお茶淹れてるよ。丁度休憩しようとしていたから」
台所はゼクスナーゲルの城である。
話しながら二階に上がり、工房の隣の部屋のドアを開ける。家具が何もないので広く感じるが、庶民の一般的な寝室の広さだ。
「窓のほうにベッドの頭が向いていた方がいいか?」
「そうだね、ドア側が脚の方が良いかな」
「ベッド出すよ」
メテオールが〈時空庫〉からにゅるりとベッドの端を出す。それをグラッツェルが引っ張り出して、エンデュミオンが軽量化の魔法を掛けて浮かし、置きたい場所へと移動する。書き物机や椅子、引き出し付きの衣装箪笥も配置する。
「グラッツェル、これベッド脇の小物置きに」
最後にメテオールが出したのは、優美な植物の茎が脚になっている小さなテーブルだった。テーブルの面は組み木細工で上から見ると開いたアネモネの花になっている。しなっているように見える脚の部分も勿論木で出来ている。
「うわあ、綺麗なテーブルだね」
「メテオールの習作で、今度商品図録に載せる予定だ」
「ライヒテントリットが喜ぶと思うよ」
ベッドの頭側の板にも、箪笥の扉にも、小さな花束に見える彫刻が彫られている。少し女性的な意匠だが、ライヒテントリットは綺麗な物が好きそうだった。着ていた服の趣味もそういった感じだったのだ。
「そうだ、ついでにマリアンから寝具類も受け取って来たぞ」
エンデュミオンがベッドの上に〈時空鞄〉からマットレスを出して乗せた。ずれたマットレスをグラッツェルが直し、上に薄い布団を乗せて敷布を掛ける。その上にもう一枚敷布と毛布、綺麗なクロッカス色のベッドカバーを掛けた。枕にも袋型のカバーを掛けて軽く叩いて膨らまし、頭の部分に置く。
「冬用の布団は箪笥に入れておこうかな」
「邪魔だったらライヒテントリットが持ってくる衣装櫃に入れるといい。あれも〈魔法箱〉だから」
「そうする」
エンデュミオンが〈時空鞄〉から次々と出す、柔らかな生地で作られたチュニックや細身のズボン、ふんわりと軽く編まれた丈の長いカーディガンも箪笥の引き出しにしまう。「これば下着だ」と言われた生成りの巾着袋はそのまま引き出しに入れた。あとで本人に整理して貰えば良い。
「これでライヒテントリットを迎えに行けるな」
「そうだな。行って来るか? メテオールはゼクスナーゲルと待っているといい」
「うん」
一度一階に下りてゼクスナーゲルにライヒテントリットを迎えに行くと伝えてから、グラッツェルはエンデュミオンに〈華の館〉の前に〈転移〉して貰った。
開店時間前の歓楽街は相変わらず人がまばらだ。一般の宿屋と娼館は混在して建てられていないからだろう。宿屋があるブロックは食堂があるので、昼間でもそれなりに人通りがある。
〈華の館〉は高級そうな玄関の扉を開けるとちょっとしたホールになっている。チリンとベルの鳴る音が聞こえ、右側の壁にあるドアが開いた。現れたのは、少し色の褪せた金髪をきちんと結い上げ、襟の詰まった紺色の裾の長いワンピースを着た女性だった。〈華の館〉の女将だろう。四十代頃に見えるが、女性の年齢は外見では解らない。
女将はグラッツェルとエンデュミオンを見て微笑んだ。
「いらっしゃいませ。でもまだ開店前ですわ。誰かとお約束をされているかしら?」
〈華の館〉で働く娼婦や男娼の仕事は夕方から始まるが、日中に部屋に友人を招く事もある。それでも玄関から入る者は、必ず女将と顔を合わせなければ部屋に上げて貰えないのだ。高級娼館であればある程、客の確認は厳しくされる。
「先日ラルスが女将に話していたライヒテントリットの引っ越しだ。部屋が用意出来たのでな。こっちがライヒテントリットの同居人になるグラッツェルだ。ケットシーのゼクスナーゲルと暮らしている」
「こんにちは。グラッツェルと申します」
「お初にお目に掛かります」
女将はワンピースを軽く摘まんでグラッツェルに頭を下げた。そして顔を上げてグラッツェルをじっと見つめる。穴が開きそうな強い視線を感じる。
「……失礼ですがお仕事は何を?」
「俺は錬金術師です。冬にリグハーヴスに居を移しました」
隠す事でもないので、グラッツェルは正直に答えた。
「まあ、それでしたら安心ですわ。たまに稼ぎも無いのにうちの子を引き取りたいなんていうろくでなしもいるものですから」
そう言うのは叩き出しますのよ、と女将が笑う。目が笑っていないが。
「ライヒテントリットは淫魔でもこの仕事には余り向いていませんものね。穏やかに暮らせるのならその方がいいですわ」
女将はホールの中央にある凝った手摺の付いた階段を上った先にある、綺麗な飾り金で装飾された飴色のドアの前に行き、透明な魔石の嵌った握り玉に手を乗せる。一瞬魔石が光った気がした。
「ライヒテントリットの部屋に繋ぎましたから、どうぞお上がり下さい」
「有難うございます。多分すぐに下りて来ると思います」
ライヒテントリットは持っている荷物が少ないからだ。
階段を上って、グラッツェルが握り玉を掴んでドアを開ける。その先はドアが一つしかない廊下に繋がっていた。
「特定の部屋にしか繋がらないように、魔法陣が組み込まれているんだ。決まった人の魔力で切り替えるようになっている」
「おお、素晴らしい」
「クヌートとクーデルカに見せたら大喜びしそうだが、連れて来る訳にいかないな」
「そうだね。あの二人に調整させるなら兎も角」
この間グラッツェル達がライヒテントリットの部屋に訪問した時は、ラルスに招かれて直接ゼクスナーゲルが〈転移〉したから行けたのだろう。かなりの反則技だ。
入って来たドアを丁寧に閉めてから、グラッツェルはライヒテントリットの部屋のドアをノックした。
「エンデュミオンとグラッツェルだぞー」
エンデュミオンがグラッツェルの隣で声を上げた。間も無く掛け金の外れる音がして、ドアが開いた。
「ドアから来たの?」
「普通ドアから来るよね?」
不思議そうな顔でライヒテントリットが言ったので、グラッツェルは聞き返してしまった。どうやらエンデュミオンやラルスは〈転移〉でばかりライヒテントリットの部屋を訪れていたらしい。
「今日家具や寝具が届いたんだよ。もう引っ越せるからエンデュミオンと迎えに来たんだ」
「荷物をエンデュミオンが〈時空鞄〉に入れるぞ」
「え、もう? 早くない?」
「クルトのところは職人が多いからな」
あの規模の工房で職人が三人いるのは珍しいのだ。グラッフェンは見習いだが、鉋掛けのスキルは高いので、板の下削り位は出来る。
「ええと、私物は〈魔法箱〉に入れてあるのが全部。あとはここの備品なの」
「忘れ物がないか、もう一度確認するといい」
「うん。少し待っててくれる?」
ライヒテントリットは決して広くない部屋の中を歩き回って、簡易台所からお茶の缶が幾つも入った籠を持って来て〈魔法箱〉に入れた。
「これくらいかな」
「よし、では〈魔法箱〉をしまおう」
エンデュミオンは〈魔法箱〉の横に立って〈時空鞄〉の中に入れた。
「ゼクスナーゲルは?」
「家にいるよ。お茶の用意をしてる」
ライヒテントリットを迎えに行ってくると伝えた時、喜んでいたのでお茶菓子が増えているかもしれない。
三人で部屋を出てライヒテントリットがドアに鍵を掛ける。ホールへ続くドアを開けると、階段の下で女将が待っていた。
「お待たせしました」
「いいえ、良いんですのよ。忘れ物はないか確認したかしら?」
「はい。鍵をお返しします」
「確かに。もしお掃除の時に何か見付けたら連絡するわね」
「有難うございます」
ライヒテントリットが女将に会釈する。
グラッツェルはふと思い立って、女将に向き直った。
「俺が錬金術師だとさっき言いましたけれど、得意なのは護符作りです。護身用の装身具も作れますので、ご用命があれば魔法使いギルドに連絡してください」
「護身用というと、例えばどんなものかしら」
「軽い〈電撃〉の魔法を組み込んだ指輪あたりですね。女性でも目立たない細身の指輪で作れますよ。部屋に入った後でおかしな行動を取った客にビリッと出来ます。使用者権限も付けられます」
エンデュミオンのおかげで、小さな魔石は各種唸る程工房の〈魔法箱〉に在庫があったりする。
グラッツェルの商品説明に、女将の瞳が真剣みを帯びた。
「それいいですわね」
「魔法使いギルドに見本を納めていますので、魔法使いクロエか魔法使いヨルンか、コボルト達に訊いてみて下さい」
「ええ、そうしますわ」
「よし、では失礼するぞ」
エンデュミオンは三人分の大きさの転移陣を出し、あっと言う間にグラッツェルの家の居間に〈転移〉した。
「ようこそ、俺達の家へ。そんなに広くはないんだけど、新築だから綺麗だよ」
「あっ、らいひてんとりっとだー」
台所から顔を出したゼクスナーゲルとメテオールが居間へと出てきた。
「メテオール!」
ライヒテントリットと初めて会うらしく、メテオールが右前肢を上げた。
「こんにちは、ライヒテントリットだよ」
「メテオールは大工職人で、大工のクルトに憑いているんだよ。さっきエンデュミオンと家具を運んで来てくれたんだ」
「どうも有難う、メテオール」
「わう」
メテオールが尻尾をブンブン振る。
「らいひてんとりっと、かみきっちゃったの?」
ゼクスナーゲルがライヒテントリットの周りをぐるぐる回る。
床に付くほど長かったライヒテントリットの黒髪は、膝丈まで短くなっていた。
「動き回るには少し長すぎるかなと思って。ちゃんと幾つかに束ねて持って来たよ。素材になるんだよね?」
「なるけど全部俺が持っているとなると拙いかな、エンデュミオン」
「そうだな、貴重な素材だからな。もしグラッツェルが持っていると知られると妬まれるな。少しギルドに売れば他の錬金術師も手に入るだろう」
安全に淫魔素材が手に入れば、文句もないだろう。そもそも誰が素材を売ったかというのは、ギルドは知っていても買い手には知らせないのだ。
「あとライヒテントリットのギルド口座作って、家族登録しないと」
「まあ、その辺は後でエンデュミオンがヨルンに頼んで来てやる」
「いいの?」
「慣れてるんでな」
相変わらず人が良いエンデュミオンである。
くいくいとゼクスナーゲルがグラッツェルのズボンを引っ張った。
「おちゃにしよー」
「そうだね。お茶飲んでからライヒテントリットに部屋を見て貰おうか」
「ねー」
「さ、座って座って」
居間にあるテーブルの椅子を引き、グラッツェルがライヒテントリットを座らせる。エンデュミオンとメテオールは窓側の壁にある作り付けのベンチによじ登った。
「部屋を見て貰ってから、足りないものがあればエンデュミオンでもマリアンでもクルトにでも相談するといい。特にマリアンとアデリナは喜んでいたし」
ちょっぴり綺麗めの服と言う、いつもは余り作る機会の少ない服なので、彼女達はとても張り切ってライヒテントリットの服を作ってくれたのだ。
「寒くなる前に外套も注文しておけよ。冬靴もな。靴はオイゲンの所に頼むといい。多分リュック・グラートが手ぐすねを引いて待っているから」
リュック・グラートは可愛い靴や綺麗な靴を作りたい靴職人コボルトである。同居しているゼルマはアデリナと仲が良いので、きっとライヒテントリットが越して来るともう聞いているだろう。
「おちゃだよー」
最近導入されたらしい茶器とお菓子を乗せた木製ワゴンを、ゼクスナーゲルが押してきた。これもメテオールが作ったものだ。
「有難う、ゼクス」
グラッツェルがゼクスナーゲルを抱き上げて、子供用の椅子に座らせる。エンデュミオンとメテオールはベンチに立てばテーブルに手が伸ばせる。
焼き菓子が得意なゼクスナーゲルの作ったお菓子がテーブルに並ぶ。
「つくりすぎた」
「グラッフェンのお土産に、少し包んでやってくれ」
「いいよー。めておーるにわたすね」
今日はエッダと一緒に〈麦と剣〉に行っているので、グラッフェンは付いてこなかったのだ。
グラッツェルがティーポットからカップにお茶を注ぐ。ふわりと花の香りがテーブル回りに広がった。すん、とライヒテントリットがお茶の香りを嗅ぐ。
「いい香り」
「ふふー、どうぞー」
にこにこ笑いながら、ゼクスナーゲルが皿にベリーとクリームの挟まれたケーキを乗せて皆に配る。スポンジに甘いジャムが塗られているので、クリームが甘さ控えめになっていて美味しいのだ。
「うわあ、美味しい……」
テーブルの下でパタパタと足を動かして、ライヒテントリットがケーキの美味しさに悶える。
「どうしよう、こんなに幸せでいいのかな」
「いいんじゃないのか? 誰も不幸にならないんだから」
フォークで掬ったケーキを口に入れ、エンデュミオンはぴんと立てた縞々尻尾の先を揺らした。誰も不幸にならない。それが一番良い。
こうして小心者の淫魔は、落ち着ける家と家族を見付けたのだった。
やっと落ち着ける家に辿り着いたライヒテントリットです。
淫魔としてはかなり小心者のライヒテントリットは、これからはゼクスナーゲルと一緒に家事をしたり、〈Langue de chat〉の温室に遊びに行ったりします。
基本、無害。
ゼクスナーゲルにするのと同じように、グラッツェルがライヒテントリットにもハグをするので、その時にちょこっと精力を貰うようになります。
錬金術師は体内魔力が濃い(仕事的に魔法使い程放出しない)ので、ライヒテントリットにしても実はいい物件だったりします。