ギルベルトの巣
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ギルベルトのおねだりの正体です。
322ギルベルトの巣
ギルベルトはリグハーヴスではとくに目立つケットシーである。
元王様ケットシーのギルベルトは大きく、成人男性の腰辺りまで身長がある。更に毛並みも豊かなのでより大きく見えた。おまけにギルベルトは〈針と紡糸〉の店先を箒で掃いていたり、一人で歩いて近所に遊びに行くので、街の住人に良く目撃されたからである。
そして知る人ぞ知る事実だが、ギルベルトはエンデュミオンの育ての親であり、唯一エンデュミオンを子供扱い出来るのだった。
王様ケットシーは〈黒き森〉の里にいる間は、里に居るケットシー達を守護する存在だが、次代を育て上げ王としての任期を終えれば余生に入る。ギルベルトは余生を送る場所として、森林族のリュディガーを主と決めてリグハーヴスにやって来たのだった。
近所にエンデュミオンやラルスが暮らしているのは偶然だが、ギルベルトにとっても住みよい環境だった。
〈黒き森〉で生まれ育ったギルベルトは叡智をもってしても少々世間知らずではあったのだが、リュディガーをはじめとして、リュディガーの番のマリアン達に見守られ楽しく暮らしていた。
今日も朝から天気が良かったので、ギルベルトは朝御飯のあと散歩に出かけた。昨日リュディガーと薬草採取に行って来たばかりなので、今日はお休みなのだ。散歩と言っても、〈針と紡糸〉があるブロックと隣のブロックをぐるりと回って来る位だ。
「ギルベルト」
「ん? 坊やか」
〈Langue de chat〉の裏庭に通り掛かった所で、錬鉄の柵の向こうからエンデュミオンに声を掛けられた。土を盛って高くしてある畑に居る鯖虎柄のケットシーが手招きしていた。
「ギルベルトに用事か? 坊や」
「ああ」
ギルベルトは大きいので、自分で錬鉄の柵にあるドアを開けられる。エンデュミオンのお眼鏡に適った者しか開けられない庭を囲む柵だが、当然ギルベルトは認識されている。庭に入り、柵のドアをきちんと閉める。
〈Langue de chat〉の裏庭は家一軒分の広さがあって、畑とエンデュミオンの温室が建っている。畑にはエンデュミオンの他に白い北方コボルトのシュネーバルと、マンドラゴラのレイクがアスパラガスを収穫していた。黒い覆いの下に潜っている白いお尻が見える。汚れるので、畑仕事は服を脱いでしているのだ。レイクは収穫されたアスパラガスを籠にせっせと運んでいた。
「ギルベルト、シュネーバルがアスパラガスをくれるそうだぞ」
「ん、それは嬉しい」
アスパラガスは春の味だ。ギルベルトは勿論、リュディガーもマリアンもアデリナもビーネも好きなのだ。
エンデュミオンがアスパラガスの入った籠から緑色と白色のアスパラガスを掴んで紙袋に移し、ギルベルトに渡してくれた。
「有難う、シュネーバル、レイク」
「う」
「キャン」
覆いの下から顔を出したシュネーバルとレイクが、満足そうな返事をした。シュネーバルとレイクの鼻の頭に付いている土を、エンデュミオンが首にかけていた手拭いで払ってやる。
「それとこの間頼まれていた奴を作ったから、そこへ行ける魔法陣だ」
エンデュミオンが〈時空鞄〉に前肢を突っ込んで、二つ折りにされた紙を取り出した。
「あれか」
「うん。寝心地がいい方がいいのだろう? 床は苔にした。あと小さいが聖水の泉があるぞ。改良して欲しかったらあとで言ってくれ」
「解った」
「それと場所はよく考えて魔法陣を描け。マリアンを困らせないようにな」
「大丈夫、寝室に描く」
ギルベルトは魔法陣の書かれた紙を〈時空鞄〉にしまった。エンデュミオンが「リュディガーが驚かない場所にしろよ」と言っていたが、大丈夫だろう。
散歩は切り上げて、ギルベルトは〈針と紡糸〉に戻る事にした。面白い物を貰ったのだから、試さない手はない。
鼻歌を歌いながら来た道を戻り、〈針と紡糸〉のドアを開ける。
「あら、ギル早いのね」
カウンターにいたマリアンに驚かれた。確かに出て行ったばかりで戻って来たのだから、そう言われてもおかしくない。
「うん。シュネーバルにアスパラガスを貰った」
「まあ今年も立派なのが取れたのね。保冷庫に入れておいてくれる?」
「解った」
ギルベルトは二階に上がり、台所の保冷庫に紙袋ごとアスパラガスをしまった。今日は昼か晩にアスパラガスが料理で出てくるに違いない。マリアンもアデリナも料理が上手なので、楽しみだ。
そのまま台所のシンクで踏み台に乗って前肢を洗い、ギルベルトは寝室に向かった。
マリアンとアデリナは店にいるので、二階には誰もいなかった。リュディガーはビーネと〈薬草と飴玉〉に行っている。
ビーネは本日はお休みなのだ。オレンジ色のケットシーのビーネは、領主館の子息ヴォルフラムに憑いているのだが、通いで主に会いに行っているのだ。
ビーネはまだ幼く親離れが出来ていない。主が大人だったり、親代わりになる者がいればいいのだが、領主館では有事の際、当然ヴォルフラムの方を優先する。幾らケットシーでも幼いビーネの安全が保障されないのに夜間までは置いておけないと、ギルベルトもエンデュミオンも通いを容認している。
幼いビーネが母親のように慕うマリアンに甘えられるように、領主館に行かない日もある。勿論ヴォルフラムに危機が迫れば憑いているビーネには解るので、駆け付けられる。
今日はリュディガーが〈薬草と飴玉〉のラルスに納品に行くのに、ビーネが付いて行ったのだ。一緒に行くと、おやつに飴を買って貰えると知っているからだろう。
「ん、んー」
鼻歌を歌いつつ、ギルベルトはリュディガーと一緒に使っている寝室のドアを開ける。
「んしょ」
いまだに履き慣れない靴を脱いで、ベッドの脇に置く。オイゲンに作って貰った靴は、柔らかく肢にしっくりくるのだが、長年裸足で暮らしていたギルベルトはやっぱり裸足の方が楽なのだ。
「どこにしようかな」
入口のドアを開けてすぐに見える所はいけないだろう。ならばとギルベルトは振り返った。ベッドの足元側の壁なら、入口のドアと同じ面なので、部屋に入って振り返らないと見えない。ここなら良さそうだ。
エンデュミオンに貰った紙を開き書いてある魔法陣を見ながら、魔力を乗せた前肢で壁に書き写して行く。
「……間違ってないな」
合っているかどうか三回確認してから、魔法陣にぽんと右前肢の肉球を押し当てた。
ぱっと魔法陣が銀色に輝き、壁にドアの形に線が走る。ギルベルトの目の前で、何も無かった壁に落ち着いた紺色のドアが出現した。ギルベルトの身長より少し大きいドアの上辺は弧を描いていて、ギルベルトの名前の真鍮のプレートが付いていた。ドアノブの握り玉は、宝石のように丸く整えられた金色の針入りの透明な魔石だった。むに、と握り玉を握って、ドアを引く。紺色のドアは音もなく開いた。
「おお」
中を覗いたギルベルトは思わず弾んだ声を上げてしまった。
紺色のドアの内側には、柔らかな緑色の苔が広がっていた。広さは馴染みのあるギルベルトの洞と同じ位だ。壁部分は乳白色の水晶でつるりと整えられている。物が置けるように窪みがあるのが嬉しい。天井はドーム型で根元が緑色の水晶がぽこぽこと生えていて、ほんわりと光っていた。月の光のようで目に優しい。小部屋の隅には水晶に囲まれた小さな水盤があった。水盤の底には細かい水晶の粒があって、水中で数か所噴き上がっている。ここから湧いているのだ。聖水が湧いているからか、小部屋の中は聖属性の空間になっていた。
王様ケットシーは〈黒き森〉のケットシーの里にある補助〈柱〉の管理をしているので、聖属性も持っている。管理者は月の女神シルヴァーナに祈るので聖属性持ちになるのだ。現在、何故か〈柱〉のエンデュミオンの方が聖属性を持たないという不思議な状況になっているのだが、神殿戦争以降〈柱〉が神殿を離れてしまったのだから仕方がない。
里に居る間、エンデュミオンも補助〈柱〉に魔力を注ぐ儀式に参加していたのだが、聖属性は生えなかったのである。転生前から聖属性はなかったらしいので、そのまま受け継がれたのだろう。エンデュミオンが膨大な魔力で水属性や光属性の〈浄化〉を使い、穢れを片付けているのを見た事があるので、呪い以外は何とかしていたようだ。一応、そういう時は聖属性持ちを呼びなさいと教えたのだが。
「ふふ」
肢の裏に感じる苔の感触がもふもふして気持ち良い。少しひんやりしているが、濡れてはいない。
ギルベルトは一度小部屋を出て、ベッドの脇の籠に入れてあった、お気に入りの縁を緑色のステッチで囲ってある明るい灰色の毛布を持って戻る。
まずは寝心地を確かめなければ。
マリアンやリュディガーに許可を取ってから小部屋を作る、という過程をすっとばしたギルベルトは、毛布にくるまり苔の寝心地を確かめるのだった。
「ただいま」
「たらいまー」
リュディガーがビーネを抱いて〈針と紡糸〉に戻って来た時、マリアンとアデリナは作業台に布地を広げて型紙を並べていた。
「お帰りなさい。ギルはもう帰って来てるわよ」
「早かったんだね」
ギルベルトの散歩はゆっくりなのだ。大概〈Langue de chat〉に顔を出して、お茶を飲んで帰ってきたりする。
「散歩に出て直ぐ帰って来たのよ。シュネーバルにアスパラガスを貰ったんですって」
「そうなんだ」
アスパラガスなら〈時空鞄〉に入れれば済みそうなのにとリュディガーは思ったが、ギルベルトの行動は予測出来ないのが常である。興味のある方向にまっしぐらなのだ。
ギルベルトのやらかしたものの後始末に、エンデュミオンが何度か領主館に行っているので、リュディガーとしても頭が痛い。「あれはもう仕方がない」と説明に行くエンデュミオンにはご苦労様と言うしかない。
ビーネを抱いて二階に行き、台所で手を洗う。
「はい、いいよ」
手を洗ったビーネを床に下ろしてやると、そのままソファーのある方へ走って行った。ビーネがソファーの前にあるローテーブルの下を覗く。
「ぎーるぅ、いなーい」
確かに台所と続き間になっている居間にギルベルトの姿はないが、そのローテーブルの下にはギルベルトは入れないと思う。
「部屋にいるんじゃないかな」
「ぎーるぅ」
とてとてと廊下を走って行くビーネの後を、リュディガーも追いかける。
本来なら憑いているヴォルフラムと暮らしている筈のビーネだが、まだマリアンからは離れたくないらしい。預かっているのはギルベルトなのだが、最初からマリアンを母親代わりと認識している。
領主アルフォンスが「ケットシーでも子供を無理矢理親から離す必要はない」と言ってくれて、ビーネの通いを認めて貰っているが、ヴォルフラムが学院に行く頃にはついて行けるのではないかと思っている。
短い尻尾を振りながらビーネがドアが開いているリュディガーとギルベルトの寝室に入って行く。すぐ後にリュディガーも続いた。
「あれ? 居ない?」
部屋の中にギルベルトの姿は無かった。しかし、ベッドの脇に靴が転がっているし、籠からお気に入りの毛布も消えている。
「ん?」
いつの間にか部屋の中を歩き回っていたビーネの足音が消えていた。どこに行ったと振り返ったリュディガーは、壁に開いた穴に目を丸くした。
壁にリュディガーの胸の高さまでのドアが出来ていた。開けっ放しの紺色のドアの向こうに苔の生えた空間が広がっている。本来なら、廊下に突き抜けているだろうに。
(ギルベルトだよな、これ……)
リュディガーはしゃがんで中を覗き込んだ。
「うわ、水晶生えてるし、広いなあ」
寝室の半分位の広さがある。床は青々とした柔らかな苔で覆われ、天井には見覚えのある根元が緑色の水晶がにょきにょき生えていた。コポコポと微かに聞こえる水音は、隅の方にある水晶で囲まれた場所から聞こえる。
苔の上を走り回っていたビーネが戻って来て、リュディガーに抱き着いた。
「ぎるぅ、いた!」
水音が聞こえる場所の反対側にあった、灰色の毛布の塊を前肢で指す。
「ギルベルト」
「……ん?」
毛布の中からギルベルトが顔を出した。
「何だ? リュディガー」
「何だはこっちの台詞だよ。どうしたの、これ」
「坊やに作って貰った。落ち着く」
「あー、あの時の……」
地下神殿を調べに行った時、ギルベルトがエンデュミオンに強請っていたのがこの小部屋らしい。管理者権限でエンデュミオンが小部屋を作り、その場所に直接行ける魔法陣をギルベルトに渡したのだろう。だから散歩からさっさと帰って来たに違いない。
リュディガーは水音が聞こえてくる場所を指す。
「そっち、水湧いているの?」
「聖水だ」
一般家庭で聖水が沸いていて、何に使えばいいのだろうか。リュディガーの疑問は顔に出ていたのか、ギルベルトが「飲めるぞ」と付け加える。
「飲んで平気なの?」
「浄められるだけだな」
「そっか」
聖職者や教会なら有難がりそうだが、一般家庭である。お茶を淹れたら美味しいのだろうか。身体に悪くはなさそうだが。
「ラルスの調薬に使えるから、聖水を引いて貰ったんだ」
「ああ、成程」
魔物から穢れを貰って体調を崩した冒険者には、聖水を使った薬を飲ませると効くのだ。調薬や薬草茶を淹れる為に、ラルスがエンデュミオンの温室の〈精霊水〉を汲んでいるのは聞いていたが、そのうち聖水でお茶も淹れそうだ。
「ギル、この小部屋作るのマリアンに言った?」
ギルベルトはきょとんとした顔で首を左右に振った。
「言ってない」
「先に言おうか」
この家の所有者はマリアンなのである。怒られないだろうが、魔改造するなら先に言ってほしい。
「びーね、いってくるぅ」
「あ」
リュディガーの脇をすり抜け、とたとたとビーネが走って部屋から出て行ってしまった。
「まーりぃ! ぎるぅおへやつくったー!」
階段の上から階下に向かって叫んでいるのが聞こえた。間も無くマリアンがここにやって来るだろう。
ケットシーと暮らすのは楽しい。しかしその分、色々とやってくれる。
(うちの倍以上妖精がいるイシュカ達って凄いのかもしれない)
今のところあの家で、壁に穴が開いていたという話は聞いていない。温室は魔改造されているが、それにもギルベルトが絡んでいる。
エンデュミオンはアルフォンスに一応報告していると聞いているが、この小部屋は果たして報告が必要なのだろうか。温室と違って何処にも繋がっていないから、平気な気がする。多分。
「リュディガーどうしたの? お部屋って何?」
ビーネを抱いたマリアンが、廊下から部屋に顔を覗かせた。リュディガーは仕方なく、部屋の壁に開いた小部屋を指差した。
「ギルベルトがエンデュミオンに頼んで作って貰った小部屋」
「あらまあ、凄いわね! 天井綺麗ねえ! この苔本物なの?」
怒らないとは予想していたが、マリアンは想像以上に小部屋に興味を見せた。マリアンは綺麗な物が好きだった。そしてかなり寛大だった。
「ふふ、ギルベルトの巣みたいね。寛ぐのに使うなら、大きめのクッション作りましょうか」
「うん、欲しい」
「あとで布地選びましょうね」
「びーねも!」
「ビーネのクッションもね」
マリアンがビーネの頭を撫でる。マリアンはちょっぴりケットシー達に甘い。リュディガーとしては、マリアンの負担にならないか心配になる。
「マリアンいいの?」
「お部屋が一つ増えた位いいわよ。元々ケットシーって洞で寝起きしているって聞いているし、落ち着くんじゃないかしら」
唐突に部屋が一つ増える事は普通ないと思うのだが。こういう所が、マリアンは格好いい。
「リュディガー、そろそろお昼御飯作るから手伝ってくれる?」
「うん」
ビーネをギルベルトに預け、マリアンとリュディガーは部屋を出る。台所へと歩きながら、マリアンが右手の指先を顎に当てて小首を傾げた。
「……あの小部屋、領主様に知らせないといけないのかしら」
「俺もそれを考えたんだよね……」
聖属性の水晶と聖水があるのだ。物が物だけにどうこうする気はないものの、ここにありますよ、という報告はしないといけないのではないか。アルフォンス・リグハーヴス公爵に限って、それで税金が増えるという事はないだろう。
二人を悩ませた小部屋増築問題は、リュディガーがエンデュミオンに確認したところ、領主館でも酒類貯蔵庫を作って貰ったので、水晶や聖水を販売しなければ不問とするという回答が来たのだった。
ギルベルトは人族の暮らしに対しての世間知らず。余生を楽しんでいる為、かなり自由な性格と行動をしています。
ギルベルトと比べると、エンデュミオンの方がまだ常識的です。
〈浄化〉は聖・水・光属性で出来ますが、呪いは聖属性での浄化になります。
お洗濯などの〈浄化〉は水・木・光属性を混合したりして出来ます。水属性だけでも可。
エンデュミオンは聖属性以外は全部持ってます。なぜ聖属性がないかというと、森林族の頃から幸運とは言えない人生だったので、女神さまに感謝するべきか悩んだからです。
孝宏やイシュカは全属性ありますが、体外に魔力が出ない体質なので魔法は使えません。
精霊便は使えるようになっていますが、孝宏とイシュカは精霊は見えていないので、手紙とお菓子を置いて風の精霊に頼んでいます。