孝宏とヒューの診察
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ヒューの診察です。
316孝宏とヒューの診察
自分の親族が定期的に何処かに神隠しに遭うと教えられていた孝宏だったが、同じ國でその子孫に会えるとは思ってもいなかった。
先日エンデュミオンが、左区のパン屋〈麦と花〉の家事コボルトにと連れて来たウィルバーの養い親だったのも、昨日知った。
カイと言う名前の孝宏の遠い親戚の青年は、人狼の司祭ロルフェの番だった。黒森之國ではパートナーの性別は問われないのだが、司祭は独身だった気がして首を捻っていたら、人狼だけは結婚が許可されているのだそうだ。人狼は番至上主義なので、どちらか選べと言われれば番を選んでしまうかららしい。魔力の高い聖属性持ちは貴重なので、教会が妥協した結果である。
「人狼は黒森之國の種の保存にも関わっているんだ」とエンデュミオンが昨夜寝る前に説明してくれたが、もっと詳しく聞く前にエンデュミオンが眠ってしまった。ケットシーなので、布団には抗えないのだ。健康的な生活をしているので、エンデュミオンも夜は孝宏と一緒にベッドに入る。
カイとロルフェの養い子のヒューは耳が遠いらしい。ある程度は簡単な手話のような物で意思疎通出来るので、孝宏はカイが使う手話を幾つか教えて貰った。大体は孝宏が知っている手話に近かった。
ヒューはまだ一歳になったばかりで、ルッツより少し小さい。これからもう少し大きくなるだろうと、エンデュミオンが頭を撫でていた。
朝食を作るので、平日の〈Langue de chat〉では孝宏とエンデュミオンは起きるのが早い方だが、ほぼ同時に客室からロルフェが起き出して来た。
「お早うございます。司祭ロルフェ」
「お早うごさいます。孝宏、エンデュミオン」
まだ司祭服の上着を手に持ち、ロルフェはバスルームに顔を洗いに行った。孝宏とエンデュミオンは一足先に顔を洗っていたので、台所に行く。朝御飯は二階の台所で作る事が多い。
「黒パンと、俺が焼いた葡萄パンがあるな」
〈麦と剣〉のパンも買うが、自分でもパンを焼く孝宏だ。カールのパンは甘くない物を買うので、自分で作るのは味が付いていたり甘い物が多い。
鍋を焜炉に置いて、野菜をたっぷり切って入れ、殻を剥いて冷凍しておいた貝も追加する。今日の朝のスープはクラムチャウダー風のミルクスープだ。この貝はフィッツェンドルフから送られてきたものだ。
「孝宏、腸詰肉だ」
「有難う」
エンデュミオンが保冷庫から腸詰肉をボウルに入れてくれた。家族数が多いので、この家の保冷庫は〈魔法箱〉になっていた。初めはただの保冷庫だったのだが、家族が増えていったのを機に、エンデュミオンが容量を拡張した。手を入れると何が入っているのか頭に浮かぶ、不思議な箱である。
繋がったままの腸詰肉を、ナイフで切り離す。一度軽く茹でてから焼くと皮がパリパリになる。肉屋アロイスの腸詰肉は絶品だ。
エンデュミオンに卵も人数分取り出して貰い、朝食の準備は進む。皆が起き出してきてから卵は焼いた方がいいだろう。スープは出来上がったら、ヴァルブルガが作ってくれた、保温の魔法陣が刺繍された鍋敷きの上に乗せておけば冷めない。この魔法陣の刺繍は裁縫スキルがないと作れないらしい。エンデュミオンなら縫えないので描くのだそうだ。
ヴァルブルガから医術を学んでいるシュネーバルは裁縫も習っていて、先日自分の得意属性である氷の魔法文字が縫い込まれた冷凍の魔法陣のある布を作ってくれた。近くにエンデュミオンやヴァルブルガが居ない時に調理する場合の冷却に大変助かる。
台所回りでふんだんに魔法陣が組み込まれた物を使っているのは、相当珍しいらしい。買うと高いんだよと、テオに教えて貰った。やはり、妖精が居る家の特権なのだそうだ。
ロルフェは司祭の上着を着て台所に顔を出し、「温室の祠で礼拝をしてきます」と再び出て行った。朝の聖務をしに行ったようだ。
「キルシュネライトの御飯持って行かないとね」
「エンデュミオンが持って行こう」
スープボウルにクラムチャウダーを注ぎ、パンを食べやすい大きさに切って、小さいオムレツとキルシュネライトが好きなベリーを付ける。幼体化している竜は大量に食べる訳ではないので、子供サイズだ。お盆に器を並べて、エンデュミオンにデリバリーして貰う。
来たばかりの頃は鱗がくすんでいた水竜キルシュネライトだが、孝宏達が毎日食事を捧げ、礼拝するようになって、みるみる元気になった。良く遊びに行っている〈薬草と飴玉〉のラルスの所でも、薬湯浴させてもらったりしているらしい。
そのうちイシュカとヴァルブルガ、カチヤとヨナタンも起きて来て、テーブルに食器を並べてくれた。テオとルッツは家に居る時は朝が遅めだ。ルッツの寝起きが悪いからである。
だからテオ達よりカイとヒューの方が先に起きて来ても、孝宏は驚かなかった。
「お早うございます」
「お早うございます。カイ、ヒュー」
「……!」
カイの前をよちよち歩いてきたヒューが、しゃがんで腕を広げた孝宏の胸にすぽっと納まる。この体勢は「おいで」の合図で、やるとヒューが来てくれるのだ。軽くヒューを抱き締めて頭を撫でてやる。
「人見知りする時もあるんだけど、ここの人達には懐いてるなあ、ヒュー」
「まあ、孝宏とイシュカは妖精と親和性が高いし、カチヤはコボルト自体と親和性が高いんだ。テオは〈暁の旅団〉の継承者だから、そもそも妖精に好かれるしな」
エンデュミオンも抱き着いて挨拶して来たヒューを撫でる。ヒューはそこにいた全員に抱き着いて挨拶した。
「ロルフェは? 教会まで行ったのかな」
「いや、温室の祠だぞ。マヌエルとシュトラールと朝の聖務をした後喋っているんだろう」
先程キルシュネライトの朝食を置いてきたエンデュミオンが、カイに教える。
「教会には後で寄るんだろう? あそこにもモンデンキントというコボルトがいるぞ。ベネディクトと一緒にいる筈だから会えるだろう」
〈豊穣の瞳〉をもつモンデンキントはベネディクトとイージドールが育てているが、冬の間は教会に居る事が多いベネディクトが主に世話をしている。身体が弱いベネディクトに変わり、冬場の外に出る聖務はイージドールがしていた。見習い修道士が一人増えた事もあり、以前よりは雑務が分散出来ているらしい。
「お待たせしました」
「わ、有難うございます」
ロルフェがキルシュネライトの食器が乗った盆を片手に戻ってきた。孝宏は礼を言って盆を受け取る。
「……!」
「おはよう、ヒュー」
よちよち足元へ来たヒューを抱き上げ、ロルフェが頬ずりする。
孝宏はキルシュネライトの食器を流しに置いた。
「じゃあ朝御飯にしましょうか」
元々大家族だったこの家に残された台所のテーブルは結構大きい。普段から家族全員が座れる位である。ルッツがまだ来ていないので、ヒューにも子供用の椅子に座って貰う。服を汚さないように膝に手拭いと首にはスタイを着ける。
「俺はテオ達と食べるので、ヒューの手伝いしましょうか? ヒュー、もう自分で食べられます?」
「いいの? 手掴みなら好きな物食べるよ」
スプーンやフォークは練習中らしい。シュネーバルも最初は手掴みだったし、今もカトラリーと手掴みの併用である。食べ物に困っていたシュネーバルは遊び食べはしないのだ。ご機嫌でサンドウィッチを作る位である。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
「きょうのめぐみに!」
「頂きます」
それぞれに食前の祈りを唱える。カイは「頂きます」だった。
「ヒュー、パン好きなのどうぞ」
孝宏がスライスした黒パンと葡萄パンの入った籠をヒューの前に出す。ヒューはヨナタンが葡萄パンを千切って口に入れるのを見てから、葡萄パンを取った。スンスンと匂いを嗅ぐのはコボルトの習性なので孝宏も気にしない。
「……!」
はぷりと葡萄パンに齧り付いたヒューが動きを止める。五秒程してからもぐもぐと口を動かし始め、時間を掛けて咀嚼して飲み込んだ。
「ヒュー、スープ食べる?」
孝宏がスープカップとスプーンを見せると、ヒューが口を開けた。火傷しない温度にしてあるミルクスープを貝と一緒に掬って口に入れてやる。
「……」
もぐもぐごっくん、と飲み込んですぐにヒューは口を開けた。
「次は卵ね。コボルト大好きチーズオムレツだぞ」
白い角切りチーズがとろりと溶けた、ヨナタンとシュネーバルもお気に入りのオムレツだ。
「はい、あーん」
「……!」
ぱあっとヒューの目が輝いた。お尻で尻尾が物凄い動きをしている。それにしても、先程からヒューは前肢に持った葡萄パンを離さない。時々齧っているのだが、両前肢から手放さずに孝宏がオムレツやスープをくれるのを待っているのだ。
何でだろうとカイとロルフェを見れば、二人共笑うのを堪えるように口元を押さえていた。
「えーと?」
「いや、ヒューは余程そのパン気に入ったんだなあって思って」
堪え切れずにカイが笑いながら言った。
「柔らかいし美味しいもんね。こんなパン、リグハーヴスでは売ってるのか?」
「葡萄パンは時々出るかもしれないが、このパンは売っていないな。孝宏が作った物だから」
ヒューに腸詰肉を食べさせている孝宏に代わり、エンデュミオンが答える。
「え!? これ孝宏が作ったの?」
「カイのご先祖のレシピ伝わっていませんか? 塔ノ守なら何かしら覚えていたと思うんですけど」
「レシピは俺が引き継いだんだけど、間に人狼を挟むと正確な作り方が途絶えるんだよね。書いてあっても実際見ないとコツって解らないというか。平原族に生まれると料理に興味持つんだけど、人狼に生まれると武術の方に行っちゃうんだよね」
血の濃さで変わるみたい、とカイが苦笑いした。
「酵母作りからですもんね。しかもこの國はパンはパン屋さんで焼くし」
「そうそう」
「この葡萄パンは米粉も使っているので、このもっちり感が出ます」
「へえー」
「孝宏、孝宏」
「ん?」
隣にいたエンデュミオンに袖を引かれる。
「ヒューが待ってるぞ」
「あっごめん!」
「……」
ヒューが涎を垂らして孝宏を見上げていた。手に持っていた葡萄パンは食べてしまったらしい。新しい葡萄パンを渡し、孝宏はヒューの食事を再開したのだった。
食事が終わったら、ヒューの診察の時間になった。テオとルッツも起きて来たので、イシュカとカチヤは店に下りた。ルッツは相変わらず休みの日の朝は、朝御飯を食べるまでは覚醒しない。今朝もスープボウルに顔を突っ込みそうになって、テオに受け止められていた。
「ヒューは今は一歳になったばっかり位?」
ヴァルブルガがカルテを取り出しながら、カイとロルフェに問う。ヒューは苺の形をした編みぐるみをヴァルブルガに貰って、嬉しそうにしている。鈴が入っているのでヒューが降るとチリチリと音が鳴った。
「そう。生まれてすぐに風邪を引いたみたいで。妖精犬風邪かどうかは解らないんだけど。普段も風邪は引きやすいかな」
「そうなの。じゃあ、診察させて貰うの」
「……?」
なあに? という顔で見て来るヒューに、ヴァルブルガはテオの膝の上で絵本を見ていたルッツを呼んだ。
「ルッツ、お手本になって貰って良い?」
「あい?」
「ヒューに診察のお手本見せるの」
「あい」
ルッツはテオの膝から下りて、ヴァルブルガの前に座った。
「ルッツ、飴何が良い?」
「りんご」
好みがぶれない。
ヴァルブルガは林檎の飴が先端に巻き付いた棒付き飴を取り出した。
「はい、あーんして」
「あー」
飴で舌を押さえてルッツの喉を見る。
「赤くなってないの。大丈夫。はい、舐めててね。次はお耳の中見せてね」
「あい」
飴を貰ったルッツの大きな耳を裏返すようにして、ヴァルブルガは光の精霊に頼み耳の中を照らして貰う。
「お耳の中も綺麗」
ついでに〈精霊水〉で湿らせたガーゼで耳の中を拭く。後は胸の音や爪を確認する。
「はい、ルッツは元気」
「あいっ」
「元気なルッツはこっちおいで」
テオがルッツを抱いて回収していく。
ヴァルブルガはラムネ味の棒付き飴を取り出し、カイの膝の上に座るヒューに見せた。
「……」
ぱか、とヒューが口を開ける。賢いヒューは目の前でルッツが診察されるのを見て、次は自分だと理解していた。
「はい、ヒュー喉見せてね。んー、少し赤いの。有難う、飴舐めててね」
ヒューが飴を舐めている間に、ヴァルブルガは耳の診察をする。ぺろりとヒューの耳を裏返したヴァルブルガの鼻の頭に皺が寄る。
「ん、赤い。奥が閉塞している。炎症が慢性化してるの」
「治る?」
「まずは炎症の治療。聞こえはそれからなの」
ヴァルブルガは〈精霊水〉で湿らせたガーゼで丁寧に耳の中を拭いた。
「お耳のお薬は……」
香水のスプレー瓶のような物と〈精霊水〉そして白い小瓶を取り出す。小瓶に〈精霊水〉と白い小瓶の中身を一滴入れて振り、ヒューの耳の中にシュッっと一吹きする。一瞬ヒューがビクッとしたが、痛くないのでそのまま飴を舐めている。
「朝と晩に一吹きしてね」
「ねえ、これ〈蘇生薬〉じゃ……」
「ロルフェの軟膏作ったやつの残りだから。あと飲み薬なんだけど」
「あー、飲み薬が難しいんだよね。子供だと苦いと飲まなくて……」
「……何故美味しく改良しない?」
ひんやりとした声でヴァルブルガが呟いたが、気を取り直したのかすぐに処方箋を取り出して万年筆で書き込んでいく。
「これを〈薬草と飴玉〉のラルスに渡して。ラルスの薬は飲みやすいから大丈夫」
「有難う」
「カイ、ついでに他のお店も寄るなら俺とエンデュミオンも一緒に行きますよ?」
台所の片づけを終えた孝宏が居間に顔を出す。
「助かる」
〈薬草と飴玉〉のほか、輸入食料品店にも教会にも寄りたかったカイは、即座に頷いたのだった。
ヒュー、葡萄パンがお気に入りです。
カイも料理上手なのですが、パンは作っていませんでした。
人狼の里の〈異界渡り〉の子孫は、人狼と平原族とがいます。直系子孫は皆黒髪ですが、人狼になるとそちらの血が強く好戦的になります。平原族だとインドア(と言うか、身体能力が違うので森に出して貰えない)。
レシピは直系子孫の平原族の子が受け継いでいきます。
カイたちが暮らしているのは、シュネーバルの家族がいる村と同じです。
なので、行っている診療所もあそこなのですが、普通はラルスほど改良を重ねる薬草師は稀です。
ラルスの「いかに美味しい薬を作るか」は趣味です。あとギルベルトに一緒に育てられたエンデュミオンの幼馴染みなので似た所があります。