ウィルバーの参観日
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ウィルバーの育ての親がやって来ます。
314ウィルバーの参観日
ぐつぐつと煮えるシチュー鍋の鶏肉の煮え具合を確認しながら、カイは「遅いな……」と呟いた。
今日は数日前に鯖虎柄のケットシー、エンデュミオンがもたらした「ハイエルンで鉱山風邪が流行っている筈だ」という情報を、カイの番である人狼のロルフェがハイエルン公爵まで伝えに行ったのだ。
ロルフェは司祭なので、突然の訪問でも無下には出来ないだろうと言っていたが、どうなった事やら。
カイは黒森之國生まれだが、容姿が先祖返りをしていて、華奢な身体つきで黒髪黒目だった。〈異界渡り〉だったと言う先祖は人狼と番になり代々血を繋いできたが、平原族を母に持った子供はカイのように時々先祖返りしていた。
先祖返りした子供は〈異界渡り〉と間違えられる可能性があるので、一人では外を歩かせて貰えない。〈異界渡り〉の先祖返りに多いのだが、カイも一般的な平原族の男より力がなく、魔力も殆どなかった。
カイの一族は人狼の里で暮らしている為、先祖返りした者も早い段階で番が見付かるので、特に問題にならなかったのだが。番に執着する人狼以上の護衛はいないからだ。
カイの場合も幼馴染みのロルフェが子供の時に番の名乗りをあげた。豪奢な金の髪をしたロルフェは聖属性が強く、神学校に行く事が決まっていたが誰も反対しなかった。
実は人狼だけは聖職者であっても独身という規制からは外れるのだ。人狼は番を見付けたら、番を最優先にする種族だからだ。その代り、番の居る人狼の司祭は僻地の教会に派遣されるのだ。
ロルフェの場合は村の司祭があと数年で引退予定だったので、王都の神学校で司祭の位を得たら戻って来ると決めていた。
いざ司祭の叙階を受けた時、見目の良さと人狼の強さを買われて聖騎士にならないかと打診を受けたらしいが、ロルフェはそれをあっさり蹴って里に戻って来た。
里に戻って来た翌日にカイと結婚したのは、早すぎないかと思ったが、ロルフェにしてみれば随分待ったのだそうだ。おかげで一週間、カイは寝室から出られなかった。
ロルフェが居ない間カイが何をしていたかと言うと、教会に住み込みでコボルトの孤児を育てていた。非力なカイが出来る仕事は、この里ではその位だったからだ。
コボルト狩りのせいで親と離れ離れになった幼いコボルトは、誰かが育てなくてはならない。コボルトは小さいので、カイでも充分世話が出来たのだ。コボルトは自立が早く、一定年齢になれば、覚えたい職業の親方の元へ通いだす。大抵は親方の元へ住み込むか、独立するのだ。
そうしてカイは何人ものコボルトを巣立たせた。ウィルバーもその中の一人だった。ただ他のコボルトと違ったのは、ウィルバーはカイがミルクから育てたコボルトだった。
「おのれ、エンデュミオンめ」
恨み言を呟きながら、鍋の中に切ったマッシュルームを追加して蓋を閉める。
まだ子供だったのに、立派な家事コボルトに育っていたウィルバーは、エンデュミオンの「働きたい家事コボルトを捜しているのだが、誰か知らないか?」という言葉に自ら立候補していったのだ。家事コボルトは特に自立が早いのだが、それにしてももう少し一緒にいたかった。
ぺちぺちぺちと言う音で、カイは振り返った。
子供用椅子に座ったまだ幼い北方コボルトが、テーブルを両前肢で叩いていた。何人もコボルトを育て上げたカイならばと、半年前から預かっているヒューだ。カイが振り返ったのを見てヒューが嬉しそうな笑顔になる。
「ヒュー、どうした?」
「……」
ヒューがお腹を小さな前肢でさすった。お腹が空いた時やお腹がいっぱいの時の合図だ。ヒューは生まれつき耳が遠く、人の声は微かに聞こえているようだが、何を言っているかまでは聞き取れなかった。しかし賢い子で、動作で意思疎通出来る。
「お腹空いたか。ロルフェ遅いからご飯にしちゃうか」
左掌を皿のように上に向け、右手で食べ物を口に運ぶ動作をするカイに、ヒューが前肢を打ち合わせる。賛成のようだ。
今は預かっているのはヒューだけなので、司祭館に住んでいるのはカイとロルフェとヒューの三人だ。
カイがどっしりとした黒パンの塊を手に取り、ナイフで切り出し始めるのに合わせたかのように、玄関のドアが開く音がして台所にロルフェが入ってきた。
「ただいま、カイ、ヒュー」
ロルフェはまずは近くにいたヒューの額にキスをしてから、カイに屈んでキスをした。頭半分以上、ロルフェはカイより身長が高い。輝く金髪に翡翠色の瞳をしている美丈夫だが、なぜか素朴な顔立ちのカイ以外に興味を持たなかった不思議な男である。平原族のカイには人狼の番を選ぶ基準が解らない。
「お帰り、ロルフェ。遅かったね」
「鉱山の責任者を呼んで報告させるまで付き合わされた。鉱山で働いているのは大体免疫を持っている奴らだから、リグハーヴスで感染が広まっているのは知らなかったらしい。ハイエルン公爵がリグハーヴス公爵に経過の確認するそうだ」
「そう」
「あと、患者の家にウィルバーが家事手伝いに行ったと言わざるをえなかったから、私が視察に行く事になった」
「リグハーヴスに?」
「ああ」
「俺も行きたい!」
思わずカイは手を上げていた。
外套を脱いで、台所を一度出ようとしていたロルフェがぴたりと止まった。じろりとカイを見下ろす。
「遊びじゃないんだぞ」
「解ってるけど、ウィルバーの所に行くよね? 働き先の店を見たい!」
「……解った。カイとヒューも一緒に行こう」
「やった!」
番には甘い人狼である。カイも普段は我儘を言わないが、ここぞと言う時だけはおねだりするのだ。
その晩は鶏肉を骨から外れるまで軟らかく煮たシチューを、ロルフェの器にたっぷり注いでやったカイだった。
翌日は朝から鼻歌交じりで朝食を用意したカイだった。何しろ、住んでいる里から出た事がなかったのだ。
カイの一族は先祖の〈異界渡り〉から〈浄化〉という〈天恵〉を受け継いでいた。この〈天恵〉は邪気を払うと言われていたが、それは人にも作用するらしく、カイの一族が棲む里にはコボルト狩りも盗賊も来なかった。だからこそ、身寄りのなくなったコボルトの子供達がカイの元に預けられたのである。
そもそも人狼の里なので、常に里を囲む塀には見張りが居る。カイは自分の〈天恵〉よりそっちの方が強いだろうと思っている。
「……?」
朝食の後、フード付きの外套を着せられながらヒューが不思議そうな顔になる。いつもの散歩の時間と違うと思っているのだろう。
説明していなかったな、とカイは右手の人差し指と中指を下に向け、ぱたぱたと交互に動かして歩く動作をしてみせた。
「お出掛けだよ」
「……!」
散歩が好きなヒューが尻尾を振った。
「ロルフェ、リグハーヴスまでどうやって行くの?」
「転移陣で行こうか。魔法使いコボルトに渡す菓子はあるか?」
「チェリーケーキで良いかな」
チョコレート生地にチェリーのシロップ煮を混ぜて天板一枚で焼き上げた、ロルフェの好物のケーキだ。今はヒューも食べるのでココア生地で作っている。
「ああ、それで大丈夫だ」
焦げ茶色のチェリーケーキに白いアイシングを細い筋状に掛けたものを、適当な大きさに切り分け、紙袋に詰める。
コボルトは専ら物々交換なので、魔法使いコボルトだとお菓子を渡すと喜ばれる。
紙袋をロルフェが持ち、カイはヒューを抱いて司祭館を出る。途中で会った顔馴染みの魔法使いコボルトに転移陣に誰か居るか尋ねたら、そのまま一緒に付いて来てくれた。
里外れの転移陣の周りで魔法使いコボルトが数人日向ぼっこしていたので、チェリーケーキの紙袋を渡してリグハーヴスの魔法使いギルドまで〈転移〉をお願いする。
「転移陣の中に入ってー」
「初めてだと転移酔いするかもしれないから、向こうに着いた後すぐに動かないでね」
「ロルフェいるから大丈夫だよね」
「じゃあ送るよー」
賑やかに喋りながら、魔法使いコボルト達が杖の石突を転移陣に乗せる。地面に刻まれた転移陣に魔力が注がれ、銀色に輝いた。
「わ、眩しい……」
思わずぎゅっと目を瞑ったカイの瞼の向こうで、眩しい光はすぐに消える。
「いらっしゃーい!」
「ここはリグハーヴスだよ!」
「へ?」
屋外にいた筈なのに、目を開ければ石造りの部屋の中だった。転移陣の外には魔石の嵌った杖を持つ、良く似た南方コボルトが二人立っている。
「わ」
足を踏み出した途端くらっとしたカイの腰を、ロルフェの力強い腕が支えた。
「転移酔い? 気分は悪くない?」
耳の先の白い南方コボルトが、カイを心配そうに見上げた。
「一寸くらっとしたけど、大丈夫。ヒューは大丈夫か?」
「……!」
カイの腕の中でヒューがぺちぺちと前肢を打ち合わせる。ご機嫌な時の動きだ。
「司祭? 教会ならこの建物の裏だけど鐘楼を目印にしてね」
ロルフェは司祭服だったので、コボルト達は教会の場所を教えてくれた。
「有難う」
ロルフェはこちらのコボルトには、楓の樹蜜の小瓶を渡した。
「わあ、良いの?」
「これ美味しい奴だ!」
大喜びするコボルトに見送られ、転移部屋から階段を上がりギルドのロビーに出た。出口を示す矢印付きの札に従い、魔法使いギルドから冒険者ギルドのロビーへと移動する。リグハーヴスでは、冒険者ギルドの別棟に魔法使いギルドがあった。
滑らかに動く扉を開けて、外に出る。ハイエルンとリグハーヴスでは気候は殆ど変わらないので、幾分暖かくなったとはいえ風はまだ冷たい。大分雪は解けているようだが、広場の端にはまだ氷混じりの雪が残っていた。
「まずどこ行くの?」
「リグハーヴスの教会の司祭に挨拶だな」
他の公爵領の司祭が動くので、挨拶は必要だ。
冒険者ギルドの建物を回り込むように進めば、転移部屋に居たコボルト達が言っていた通り、教会の鐘楼とその下に司祭館付きの礼拝堂が見えた。リグハーヴス女神教会では主に人族の孤児達を預かっているので、併設されている孤児院の建物も大きい。
だれでも自由に入れる礼拝堂から中に入る。礼拝堂の中では、蜜蝋色の髪をした背の高い青年司祭が、祭壇にある花瓶に花を活けていた。
「おはようございます」
振り向いた司祭がカイ達に微笑む。
「おはよ」
司祭の肩にいた黒いケットシーも挨拶して来る。
「当代の〈女神の貢ぎ物〉にはお初にお目に掛かる」
ロルフェが頭を深く下げたので、慌ててカイも頭を下げた。
「お気を使わないでください、兄弟。僕はイージドールです。この子はシュヴァルツシルト」
「私はロルフェです。こちらは私の番のカイと息子のヒューです」
「お会い出来て嬉しいです。あれ……?」
イージドールはカイの顔を見て真顔になった。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、ヘア・カイのお顔が知り合いに似ていましたので」
「ひろとにてる」
シュヴァルツシルトも尻尾をぴんと伸ばしてイージドールに同意した。
「ヒロ?」
「リグハーヴスの〈異界渡り〉の少年ですよ。失礼ですが、昔に人狼と番われた〈異界渡り〉の御子孫ですか?」
「そうです」
「もし、ヒロにお会いになりたいのでしたら、右区の〈Langue de chat〉に行かれるといいですよ」
街の中に〈異界渡り〉が居る事に、カイは驚いた。
「リグハーヴスでも領主や教会が保護していないんですか?」
「無理ですね、エンデュミオンの主ですから」
「……あれの」
「あれのです。安全面に関しては僕の甥も下宿しているの大丈夫ですよ。街の案内が必要でしたら、お手伝いしますよ」
「出来ればお願いします。リグハーヴスの街は初めてで」
「少しお待ち下さい」
イージドールは花瓶に花を手早く活け、花を包んでいた紙と花鋏を持って司祭館に繋がるドアを開けて奥に入り、直ぐに外套を持って戻ってきた。
「頼んでおいてなんですが、教会を空けても大丈夫ですか?」
「主席司祭ベネディクトがおりますから」
「その方が聖人ですか」
ロルフェの問いに、ただ微笑む事でイージドールは答えた。
聖人と〈女神の貢ぎ物〉の伝承を正しく知っていれば、イージドールが王都の大聖堂が決めた場所以外に居る理由が解るのだ。〈女神の貢物〉は王都の大聖堂以外では、ヴァイツェアの教会に所属しているのが通例だった。ロルフェは先代司祭からきちんと伝承を聞かされていた。
イージドールが外套を着るのを待って、シュヴァルツシルトが外套のフードに潜り込む。良く見ると、シュヴァルツシルトも黒い修道服を着ていた。
「まずはどちらに向かいますか?」
「左区の医師の診療所へ。お聞きになっているか解りませんが、ハイエルンの風土病である鉱山風邪がリグハーヴスに持ち込まれたようなのです。患者自体はこちらの医師とエンデュミオン達が治療してくれたのですが、その経過をハイエルン公爵に調べるよう依頼されまして」
ハイエルンの採掘族はいかつい者が多いので、話を聞きにくる人選としては不向きだ。それで司祭であるロルフェにお鉢が回って来たのである。
「ああ、聞いています。全員の治療が終わった後、教会に病棟の〈浄化〉を頼まれましたから」
病気の穢れを祓う〈浄化〉は聖職者の仕事だ。もし身体の弱いベネディクトに鉱山風邪が移っては一大事なので、イージドールとシュヴァルツシルトが行ったのである。
「教会からだと右手側が左区ですよ」
説明をしながらイージドールが左区に入って行く。リグハーヴスでは左右区に大体同じように店があると言う。
「右区に魔女と薬草魔女の診療所があって、左区に医師の診療所がありますよ」
右区の魔女の診療所は市場広場に面しているが、医師の診療所は左区の居住区の近くにあった。
イージドールが診療所のドアを開け、中に声を掛ける。すぐに奥からまだ若い医師が出て来た。
「医師マテウス、ハイエルンからのお客様です。先日の鉱山風邪の事でお聞きになりたいと」
「どうぞ、こちらに。今は患者がおりませんので」
診察室と同じ並びにある応接間へと案内される。向かい合わせに布張りのソファーに腰を下ろす。ロルフェは手帳と万年筆を取り出した。
「初めの患者は今月初めにハイエルンに買い付けに行った男性でした。最初は普通の風邪症状だったのですが、数日で肺炎になりました。それから彼の近所に住む住人や、行きつけのパン屋の店主が罹患しました」
「治療はどのように?」
「対処療法しかありませんので、症状にあった薬を処方していたのですが、中々改善しませんでした。医師では改善させるのは難しいと思われます。改善のきっかけは魔女ヴァルブルガの〈治癒〉とエンデュミオンの薬でしたから」
「エンデュミオンの薬?」
「ええと、言っても良い物なのか……」
マテウスの視線が宙を泳ぐ。
「リグハーヴス公爵には報告済みだと思いますよ、エンデュミオンが」
イージドールが苦笑する。マテウスは一つ息を吐いてから口を開いた。
「エンデュミオンが出したのは〈蘇生薬〉です。本来の使用方法とは異なる適応外の使い方ですが、ヴァルブルガも迷いなく患者に飲ませていました。なんでも、機能不全になっている器官を回復させられるのだとか」
「しかし、〈蘇生薬〉はとても高価ですよね。街の住人に払えますか?」
ロルフェにもカイにも信じられない話だ。
「〈蘇生薬〉を渡したのはエンデュミオンなんです。エンデュミオンは魔女ではないので、薬の処方代を受け取れないんです。つまり、無償で〈蘇生薬〉を提供してくれたんです」
「〈蘇生薬〉をですか?」
「ええ。エンデュミオンはケットシーなので……恐らく〈蘇生薬〉を入手出来る伝手があるんでしょう。ですが物が物だけに、私も大っぴらには言えません。言える事は、エンデュミオンなら必要な患者の為には、頼めばくれるでしょうとだけ」
「成程……」
ロルフェは万年筆の尻でこめかみを掻いた。
確か、結果的にコボルト解放令をもぎ取ったのは、エンデュミオンだった気がする。ハイエルン公爵領に協力してくれるかは謎だ。
リグハーヴス公爵はとんでもない隠し玉を手に入れたものだ。伝説の大魔法使いの存在はまやかしではない。
「お話し頂き有難うございました」
丁度患者も来た事もあり、ロルフェ達は診療所を辞した。
「兄弟ロルフェ、元々はパン屋〈麦と花〉の火蜥蜴が家出したところから始まったと言ったら信じますか?」
「火蜥蜴が家出?」
「ええ。パン屋の店主が鉱山風邪で入院し、パン屋の息子と喧嘩した火蜥蜴が家出した先でエンデュミオンと会い、怒ったエンデュミオンがパン屋に火蜥蜴の長と料理の出来るコボルトを派遣したんです。そして家出した火蜥蜴と一緒にパン屋の店主を見舞いに行ったエンデュミオンが異変に気付き、同居している魔女ヴァルブルガに診察をさせ、傷んでいる肺を回復させるために〈蘇生薬〉を飲ませた、と言うのが一連の流れです」
「はあ」
「途中、家事がままならないパン屋に家事コボルトを連れて来たりしていますし、エンデュミオンのお人好しな性格でかなり救われています」
「大魔法使いエンデュミオンがお人好しですか」
「お人好しでなかったら、黒森之國は焦土と化してますよ」
何百年も苦境を耐えるお人好しなのだから、とイージドールは言った。
「次はどちらに行きますか?」
「その〈麦と花〉に。そのパン屋に雇われた家事コボルトは私達の息子なんです」
「そうなんですか!?」
流石にイージドールも知らなかったらしい。「ここから近いですよ」とすぐに歩き出した。
初めて里から出たカイは片手をロルフェと繋ぎながら、辺りを見回すのに忙しかった。人狼の里は森の中にあったが、リグハーヴスの街は森を切り開いた平地にあり里よりも広い。
抱いているヒューも楽しそうにしている。時々ひくひくと空気の匂いを嗅いでいた。
ふわりと空気に香ばしい香りが混じり始め、カイにもパン屋が近付いているのが解った。
「あ」
路地を出た先にパン屋があった。硝子の嵌った窓を開けた向こうに小麦色のコボルトが居て、客にパンを売っていた。
「いってらっしゃーい」と客を送り出している姿が可愛い。
カイ達が近付くと声を掛ける前に気が付いて、ウィルバーが窓口から顔を出した。
「お母さん! お父さん! ヒュー!」
「元気にしてた?」
「ウィルバー元気だよ!」
カイは他の部分より少し色の濃いウィルバーのおでこを撫でる。
「……! ……!」
ヒューもウィルバーに会えて、盛んに尻尾を振っている。
「ウィルバー、そろそろお昼休みに……あれ、司祭様?」
ひょい、とウィルバーの背後から髪を布で覆った青年が顔を覗かせた。ウィルバーが振り返って説明する。
「ボリス、ウィルバーのお母さんとお父さんと弟だよ!」
「そうなの!? 待って待って、父さんとご挨拶しなきゃ。すみません、向こう側回って貰っていいですか? 家の入口あるので」
慌ててボリスと呼ばれた青年がドアがあるらしき方向を指差した。
「行きましょう」
イージドールが先に立って、住宅のドアがある方へと回りドアのノックする。
「はい、どうぞ」
ドアを開けたのは、初老の男だった。パン屋の店主が彼だろう。
「店主のハンスと申します。ウィルバーにはとても助けられておりますよ」
居間に案内しながら、ハンスが笑う。
工房のある方向の廊下からウィルバーが出て来た。
「お昼御飯食べてく? ウィルバー、サンドウィッチ作ってくるね!」
ウィルバーは一度台所へ行って出て来るや、再び工房へと消えていく。その姿に、ハンスが申し訳なさそうな顔になる。
「私が入院中にエンデュミオンがウィルバーを連れて来てくれたものの、詳しい話を聞かずじまいでして。ご挨拶が遅くなりました」
「コボルトも決めたら即行動するので、私達も「お仕事決まったからリグハーヴス行く!」としか聞いていなかったんです」
「妖精は結構そうですね」
イージドールもシュヴァルツシルトを撫でながら同意する。
「入院されていたと窺っておりますが、体調はいかがですか」
「もうすっかり良くなりました。今は落ちた体力を戻している最中です」
痩せてはいるが顔色の良いハンスに、病の影はない。
「お待たせー」
ウィルバーがやって来て、皆が居る居間のテーブルにサンドウィッチの盛られた大皿を乗せる。後ろからボリスがスープの鍋を運んで来た。
「ヒューのは小さくしたよ」
半分程の大きさのサンドウィッチが幾つか乗った皿を、カイの膝の上のヒューの前にウィルバーが置く。
「今日のスープはポトフだよ」
馬鈴薯や人参、玉葱と腸詰肉がごろごろと入ったポトフがスープボウルに注がれる。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
「きょうのめぐみに!」
食前の祈りを唱えると、シュヴァルツシルトの周りがきらきらと光った。どうやら聖属性を持っているようだ。しかもかなり上位の〈祈り〉を持っている。しかし、目を瞠ったのはカイとロルフェだけで、イージドールもハンス達も何も言わなかった。リグハーヴスの住人は、司祭やケットシーが祈りの際に上から銀の光が降って来るのには慣れていた。
「ヒュー、あーん」
「……!」
カイにスプーンで小さくして口に入れて貰ったポトフの馬鈴薯や腸詰肉に、ヒューが両前肢を頬に当てる。美味しいの動作だ。
「美味しいね、ヒュー」
カイはヒューに、スモークサーモンとディル入りクリームチーズのサンドイッチを持たせてやった。はむはむとヒューが嬉しそうに食べ始める。
同じように膝の上でシュヴァルツシルトにサンドウィッチを食べさせていたイージドールが、ヒューを見て目を細めて微笑んだ。
「兄弟ロルフェの教会ではコボルトを預かっているんですか?」
「ええ。うちは人狼の里なので、普段は人狼とコボルトしかいませんし」
「古い里なんですね」
〈異界渡り〉の子孫が居る事からも、古い里なのは明白だ。
昼食を食べながらハンス親子と話をし、ウィルバーを連れて時々人狼の里に遊びに来て貰う約束をする。はっきり言って、カイとロルフェにとっては、鉱山風邪の調査よりこちらの方が重要だった。
午後の販売があるので、昼休憩の時間が終わる前にカイたちは〈麦と花〉を出た。
ウィルバーに「また来てねー」と見送られるが、難しいかなとカイはヒューの後頭部に頬を付けた。
「多分、人狼の里とリグハーヴスの直通でしたら安全だと思いますよ」
「えっ」
カイの心の中を読んだようなイージドールの言葉に、驚いて顔を上げる。
「まだ小さいから、ヒューも一緒に連れて来るでしょう? リグハーヴスの住人は妖精に手出しする者がいたら袋叩きにしますよ。領主自ら妖精擁護派ですし、リグハーヴスの住人は妖精達の恩恵に与っていますからね。それにもし何かあれば、エンデュミオンとギルベルトが出てきます」
「ギルベルト?」
「もと王様ケットシーで、エンデュミオンの育ての親です。物凄く子煩悩なんですよ。幼い妖精達を庇護しています」
リグハーヴスでエンデュミオンの知り合いに手を出したら、領内の妖精全員に呪われますよ、とイージドールが笑う。
「兄弟ロルフェとヘア・カイもエンデュミオンの知り合いですから、すでにエンデュミオンの保護範囲に入っているでしょうね」
「本当ですか……」
知らない内に、大魔法使いの保護下にあるとは。
「だからエンデュミオンはお人好しなんですよ。前肢の届く範囲しか守らないって本人は言っているんですけどね」
エンデュミオンの前肢は結構長いですよね、とイージドールは呟いた。
ああそうか、とカイとロルフェは気付く。
聖人と共にいるイージドールもまた、エンデュミオンに救われた一人なのかと。
ならば、リグハーヴスにウィルバーを預けても大丈夫だろう。
ここはあの大魔法使いの前肢が最も近い場所なのだから。
ウィルバーの両親はカイとロルフェという認識です。
人狼と番になった〈異界渡り〉の子孫、カイ。黒森之國の人族と比べると華奢だし、〈異界渡り〉と勘違いされると危ないので、里から出た事がありませんでした。
エンデュミオンの前肢は結構長い。