ハンスの退院
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ハンスが退院します。
313ハンスの退院
今日はハンスの退院日である。昼頃に退院出来るので、迎えに来るようにと昨日診療所からボリスの元に精霊便が届いた。感染力が強い風邪だったらしく、ボリスは見舞い禁止にされていたので、久し振りにハンスに会う。
「ウィルバーはどうする? 一緒に行く?」
「ウィルバー、お昼御飯作ってるよ!」
「そう?」
「熱の魔法陣の鍋敷き使うから大丈夫。ルー=フェイいるし」
火を使わないなら大丈夫だろう。
ボリスは午前の販売を終えてから、窓口に〈休憩中〉の札を立て掛け、留守をウィルバーとルー=フェイに任せて診療所に出掛けた。
診療所まで歩き、ボリスはドアを開けた。お昼だからか待合室には患者はおらず、奥の方で鈴の音が聞こえた。
「はーい」
奥から出て来たのは医師のマテウスだった。
「こんにちは。ハンスの息子のボリスです。父の迎えに来ました」
「こんにちは。今お呼びしますね」
「あ、先に入院費の支払いをします」
昨日の精霊便に入院費も書いてあったのだ。リグハーヴスは医療費が安いが、入院となると毎日の治療費と食事代、薬代なども含むのでそれなりの金額になる。それでも火蜥蜴のルー=フェイと北方コボルトのウィルバーのおかげでここ数日は売り上げが戻り、商業ギルドで金庫から下ろしてこなくても支払えるだけのお金があった。
受付で入院費を支払い、領収書を貰う。それからマテウスは病棟にハンスを呼びに行ってくれた。
「やあ、すまんな」
待合室に現れたハンスは、ボリスが知っている姿よりも痩せていたが、顔色は良かった。ハンスの肩には火蜥蜴のカルネオールが乗っていた。
「父さん、もう大丈夫なの?」
「ああ。まあもう暫くは家で身体を慣らさんといけないが」
「急に今まで同じように働くのはいけませんよ。最初は暖かい時間に家の周りの散歩からですよ」
ハンスにマテウスが釘を刺す。暫くベッドの上の住人になると、脚の筋力が落ちてしまうのだそうだ。転びやすくなるので、筋力を戻す為に散歩を勧められたらしい。
「咳がぶり返すようであれば、すぐに診療所に来てくださいね」
「はい。お世話になりました」
マテウスが持っていた荷物を受け取り、ボリスはハンスと診療所を後にした。
「……」
ゆっくり歩くハンスに合わせて歩くボリスに、カルネオールの視線がチクチク刺さる。
「あのさ、カルネオール」
「何だ」
ぶっきらぼうな返しがくる。
「その、ごめんな、八つ当たりして。解らない事はカルネオールに訊いたら良かったんだよな。ルー=フェイとクヌートとクーデルカに物凄く怒られたよ」
「……解ったんなら良い」
カルネオールがハンスの肩の上で、尻尾を振る。謝ったらそれだけで機嫌が直ったらしい。
「俺はまだ窯の温度見極められないし、焼き時間も甘いんだ。色々教えて欲しい」
「ボリスは王都には帰らないのか?」
「王都に帰っても、一生生地捏ねだけさせられてる気がするんだよな」
「ああ、確かにボリスは生地捏ねは上手いな。店として手放すには惜しいだろう」
生地捏ねだけはカルネオールに認められていたようだ。
「リグハーヴスで父さんとカルネオールに鍛えて貰った方が良いと思うから、王都の店は辞めるよ。父さんも心配だし」
「私はまだまだ現役で出来るぞ」
「解ってるけど、今回みたいに急病とか怪我とかあるかもしれないだろ。左区のパン屋うちだけだし、もう一人いた方がいいって。ウィルバーが来てくれたから、かなり楽になるとは思うけど」
あの可愛い家事コボルトは、物凄く優秀だった。ほぼ数日のうちに家中を磨き上げたのだ。おまけに料理も上手で、店番も出来ると言う。勿論子供なので睡眠を多く取らせ、ボリスと一緒に昼寝もさせているのだが。
「あの子はどうだね」
「可愛くていい子だよ、父さん。一緒にいると和むというか」
ウィルバーは、風呂は一緒に入ってやる必要があるし、寝る時も一緒にベッドに入って来る。お世話されているがお世話もする、という感じだ。
「ふん、ウィルバーはお前に憑いているんだから、お前が世話をするのは当然だぞ」
カルネオールが小さく口から煙を吹いた。
「そうなの!?」
「お前の為にエンデュミオンが連れて来てくれたんだ。かなり特別なんだぞ」
通常コボルトやケットシーは、里に行かないと遭遇しないものらしい。
「大切にしろよ」
「うん。解ってる」
ボリスは事前にエンデュミオンに色々と脅されているのだ。コボルトを大切にしないと呪われると。だがあんなに一生懸命働いてくれるウィルバーを見ると、可愛くて仕方がない。
「ウィルバーは着替えを持って来ているけど、その内誂えてあげなくちゃ」
エンデュミオンのくれた紙に、コボルトの服は〈針と紡糸〉で縫い賃だけで仕立てられると書いてあった。布は店に預けてあるのを使えと。
「エンデュミオンには随分世話になってしまったね。本当だったら、払いきれない薬代だったよ」
「え?」
「家に帰ったら話すよ」
不穏な言葉に訊き返したボリスの背中を軽く叩き、ハンスは見えて来た久し振りの我が家に目を細めた。
「ただいまー」
ドアを開けて台所にいるであろうウィルバーに声を掛け、ボリスは診療所から持って来た荷物を暖炉前の安楽椅子に乗せて外套を脱いだ。自分とハンスの外套を壁のフックに引っ掛ける。
「父さん、荷物どこに置くの?」
「殆どが着替えだから、バスルームでいいよ。後で洗うから」
「解った。下のバスルームに置いておく」
この家には二階にもバスルームはある。
「お帰りなさーい」
台所からウィルバーが顔を覗かせた。だが「お昼御飯もうすぐ出来るから、手洗ってね」とすぐに引っ込んでしまう。
「はは、何だかいいな。迎えてくれる者がいるというのは」
ハンスは笑ってバスルームに手を洗いに向かう。ボリスも荷物を持って後を追った。バスルームへの通りがかりに覗いた台所では、オーブンから漂う香ばしく甘い香りの中、ウィルバーがテーブルに置いた鍋にディルを千切って入れていた。
ハンスとボリスは手を洗って台所に入った。カルネオールをハンスがテーブルの上に乗せる。
「焼けたぞー」
オーブンからルー=フェイの声が聞こえた。
「俺が出そうか」
ボリスが耐熱ミトンを嵌めて、オーブンの扉を開けた。熱気を孕むオーブンの中には天板が入っていて、その上に中に詰め物をされた掌大のパイ生地が幾つも並んでいた。このパイ生地は、昨日ボリスがウィルバーに頼まれて作り、保冷庫で冷やしておいたものだ。王都で生地捏ね専門と化していたボリスは様々な生地を作成可能だった。
「これ、林檎のパイ?」
「そうだよ。おやつなの」
ウィルバーは紙袋の中に、林檎のパイを数個入れた。オーブンの上にあったもう一つの紙袋には肉のパイが入っているらしい。それをオーブンから出て来たルー=フェイにウィルバーは渡した。
「お手伝い有難う。これ、おうちで皆で食べて」
「おお、有難うな。ハンスとカルネオールが戻って来たから、ルー=フェイは帰るぞ。礼はエンデュミオンから貰うから気にしないで良い。おやつも貰ったしな。ルー=フェイは召喚師スヴェンの所にいるから、もし用事があれば声を掛けると良い」
ではな、と軽く言って、ルー=フェイは姿を消した。
「消えるの速いよ! 俺、お礼言う暇もなかったんだけど!」
「召喚師スヴェンの元にいると言っていたのだから、今度お礼を言いに行こう。召喚師は右区に居る筈だから、それこそエンデュミオンに訊けば教えて貰えるだろう」
ハンスが苦笑を浮かべながら、椅子に座る。
「ルー=フェイの住まいは、カルネオールが場所解るから大丈夫だ。これは美味そうだな」
カルネオールが伸びあがって鍋の縁に掴まり、中を覗き込みながら言った。火蜥蜴なので熱い鍋に触れても平気なのだ。
「はい、ご飯だよー」
子供用の椅子に座ったウィルバーが、〈時空鞄〉からまだ暖かくとろりと柔らかい潰した馬鈴薯や、冷たい花茶の入った水差しを取り出してテーブルの上に置く。既にテーブルの上には肉のパイと林檎のパイが盛られた籠や、鮭のミルクスープの鍋、若菜のサラダの器で賑やかだ。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
皆で食前の祈りを唱え、昼食を始める。カルネオールの分は、ハンスが切り分けて皿に乗せている。小さなスープボウルには、きちんと小さくした鮭の身を入れて、ウィルバーがたっぷりと注いだ。
ボリスはこんがりサクサクに焼けたパイにナイフを入れる。中には合い挽き肉に玉葱や人参を刻んで入れて、トマトと香辛料で味付けした物が詰められていた。真ん中に茹で卵も入っている。風味が絶妙で、潰した馬鈴薯と合わせても美味しい。
「これ、美味しい……」
「ボリスのパイ生地が美味しいからだよ」
「いや、中の具が」
「うん、両方良く出来ているね」
ボリスとウィルバーが言い合いになる前に、ハンスが決着を付けた。カルネオールは無心でパイにがっついている。
「うーん、うちでもこういうパイとか店に出す?」
「そうだねえ。王都と違って菓子屋はないから、やるならパン屋のうちになるだろうね。〈麦と剣〉では出しているようだし」
黒森之國では基本菓子は家庭で作るものなのだ。王都であれば菓子とお茶を楽しむ専門の店があると言うが、辺境であるリグハーヴスではそこまで需要は無い。
「菓子を食べたければ、〈Langue de chat〉に行けば食えなくもないぞ」
カルネオールがパイ屑を顔に付けたまま言った。
「あそこはルリユールで、本を借りる人へのサービスだからね」
ハンスがカルネオールの顔からパイ屑を取ってやる。〈Langue de chat〉にいる少年は料理人並みの腕があるとハンスは知っているが、彼が店に出すのはクッキーだけである。
「ウィルバー作るよ!」
「ウィルバーがレシピを知っているなら一緒に作れるけど……午後から一種類につき天板一枚位かな? 父さん」
「そうだね。負担になってもいけないから、シートケーキかこう言ったパイのような物を天板一枚か二枚で出してみようか。おやつに食べられそうな物をね」
菓子を作るには小麦粉も砂糖なども必要になる。自分で材料をわざわざ用意するよりは買った方が安いかもしれない。
「ウィルバー、今日の午後から出せるシートケーキってある?」
「ジンジャーブレッドなら、材料あるから作れる」
「じゃあ、一緒に作ろうか」
「あい!」
「その間、私が店番をしていよう」
「窓口の下に台入れたから、父さん座れていいかも」
客が来た時は一寸膝立ちになってしまうが、待っている間は座っていられる。
「他にもエンデュミオンが〈保冷魔法箱〉くれたし」
「あれは……高いだろう」
ハンスが真顔になった。
「習作だからお金要らないって。右区の大工親方クルトの所で作ってくれたんだけど、見習い大工がエンデュミオンの弟なんだって」
「多分エンデュミオンが、ヘア・クルトにお礼を渡してくれているよ。全く、今回は随分エンデュミオンに助けられてしまったよ。私が治ったのもエンデュミオン達のおかげだからね」
「どういう事?」
「エンデュミオンがカルネオールをつれて見舞いに来てくれた時に、魔女に診せる必要があると魔女ヴァルブルガを呼んでくれたんだよ。〈治癒〉をしてくれた上に、〈蘇生薬〉をくれたんだ。〈蘇生薬〉は買うとしたら金貨が何枚要る事か」
「え、代金は!?」
「エンデュミオンは魔女じゃないからお金は貰えないんだと、ヴァルブルガの診察代だけだよ」
そんな話があるのか。〈蘇生薬〉は存在するが幻と称されるような高価な薬なのだ。
「私の他にも入院していた患者に渡していたみたいだから、エンデュミオンは〈蘇生薬〉を手に入れられる伝手があるんだろう。ヴァルブルガは何度か往診に来てくれたが、エンデュミオンは魔力がありすぎるから魔女にはならないのだと言っていたよ。魔女ではないからこそ、稀少な薬をエンデュミオンが持っているんだろう」
いわば抜け道にしているのだ。
「エンデュミオンはお人好しだと、ルー=フェイが言ってたけど」
「教会で習ったろう。大魔法使いエンデュミオンが王都に居た頃は、まだ黒森之國は荒れていてあちこちで戦があったんだよ。エンデュミオンはそれを長年見て来たんだ」
平和な治世になっているのに、治る病気で死にそうな者を、見過ごせないお人好しなのだ。
「エンデュミオンが〈異界渡り〉に憑いてリグハーヴスに定住してくれたのは、本当に有難い事だね」
「〈異界渡り〉?」
「ボリスはもう王都に行っていたから知らないか。〈Langue de chat〉にいる黒髪の子がエンデュミオンの主なんだよ。リグハーヴスは〈異界渡り〉とエンデュミオンの恩恵を受けているんだ」
「ヒロ、優しいよ」
ウィルバーも尻尾を振る。
「あれ? 領主様が〈異界渡り〉を保護している訳じゃないの?」
「保護主は親方イシュカだね。エンデュミオンが憑いているから、教会も領主様も手出しは出来ないさ」
「呪われるよー」
笑いながらウィルバーがスープの鮭をスプーンで掬う。笑い事なのか。
昼食を食べて後片付けをした後、ボリスとウィルバー、カルネオールでジンジャーブレッドを作る。ハンスは久し振りの店番に、いそいそと一足先に工房へと向かって行った。午後から来る常連客に会うのが楽しみなのだろう。
シートケーキは基本的に量った材料を混ぜて焼く、というシンプルな物が多い。ボリス達も工房に行き、保存の魔法陣が組み込まれている工房横の倉庫から、小麦粉や膨らし粉、黒い糖蜜や生姜粉などの材料を準備していく。冷やさなくても良い物はこの保存倉庫に入れてある。冷やす物は保冷箱だ。
ウィルバーは自前の分厚いレシピ帳を捲って、ジンジャーブレッドの頁を出し、ボリスに材料の分量を教える。菓子作りは材料をきちんと量るところから始まる。分量を間違えなければ、混ぜて焼くだけの菓子は失敗しにくい物なのだ。
温める前で扉が開けてある窯では、カルネオールがごろごろ転がっていた。
「やっぱりうちの窯は落ち着くなあ」と満足げだ。
「粉砂糖と牛乳もいるよ」
「何に使うの?」
「混ぜてクリーム状にして上から掛けるの。で、生姜の砂糖漬け刻んだの乗せる」
「それ、お洒落だね」
材料を混ぜて油を塗って蝋紙を敷いた天板に生地を流し込み、温めた窯に入れてカルネオールに頼む。その間に粉砂糖と牛乳を量っておく。ウィルバーは薄切りにされて周りに砂糖がまぶされた黄色い生姜の砂糖漬けをナイフで刻む。
「焼けたぞー」
「有難う、カルネオール」
熱々の天板に盛り上がるジンジャーブレッドは生地の色が褐色なので、地味に焼き加減が難しい。串をさして生地が付いてこなければ焼けているのだが、火蜥蜴に任せると、完璧に焼き上げてくれるのが素晴らしい。
「まだ熱いな。少し冷ますか。氷の精霊温度を下げてくれ」
ちらちらとジンジャーブレッドの上に雪の結晶が降る。お礼にボリスは、近くにあった黄緑色の干し葡萄を氷の精霊にやった。
「ボリス、氷の精霊魔法使えるの?」
「風と氷と火を少しな」
氷の素質は珍しいので、王都のパン屋でも重宝がられていた。
「氷使えると冷たいお菓子作れるからいいんだよ」
「確かに」
冷めたジンジャーブレッドを天板から取り出して蝋紙を剥がし、切り分けてから天板の半分の大きさをした木製の盆二つに分けて並べ、上から粉砂糖と牛乳で作ったクリームを塗り広げる。クリームの上に生姜の砂糖漬けをちょこんと乗せて完成だ。
「少ししたらクリーム今より固まるから」
「紙袋で持って帰れるかな」
「振り回さなければ大丈夫」
ウィルバーはジンジャーブレッドを四つ皿に取り分けた。
「皆のおやつ」
「楽しみだ」
出来上がったジンジャーブレッドを持ってハンスの居る窓口に行く。
「父さん、出来たよ」
「おや、綺麗なもんだね。出しておくと乾いてしまうからね、ケーキを入れる箱を出しておいたよ」
カウンターの端に、硝子のケースが出ていた。つまみを持ち上げれば蓋部分がくるりと上に持ちあがるケーキ用の箱だ。客側からも中身が見える。
「盆一つしか入らないね。一つは〈保冷魔法箱〉に入れておくね」
「ああ」
二種類作った時は、盆に半分ずつ並べないとならないだろう。
「ハンス、久し振りだね」
いつも午後にパンを買いに来る常連客がやって来て、窓口に居たハンスに破顔した。
「病み上がりで無理するんじゃないよ」
「息子も居るし、もう暫くはのんびりさせて貰うよ」
「それが良いね」
軽口を叩き合いながら、ハンスが黒パンを客の籠に入れてやる。
「今日はジンジャーブレッドもあるんだけど、どうだね」
「へえ、これがそうかい。二つくれるかい」
「まいどあり」
上品な見た目のジンジャーブレッドは、その後も次々と売れて行った。やはり甘い物を売っている店がないので、あれば買うようだ。宿屋に食堂はあるが食事が主体だし、夕方から開く酒が飲める店も、つまみ系の料理で甘い物はない。
閉店間際にはこれから娼館に行くという男が、土産にとジンジャーブレッドの残りを全部買って行った。気の利いた土産があれば、娼館や娼婦の対応も違うのだと言う。黒森之國では未婚であれば、収入に合った娼館通いは珍しくはない。ボリスの知らない世界であるが。
「こりゃ凄い、全部売れたね」
「おやつの分にウィルバーが四つ取ってたけど」
「なに、正当な取り分さ」
窓口にカーテンを引き店仕舞いをし、ハンスとボリスは母屋に引き上げた。既にウィルバーとカルネオールは母屋で夕食作りだ。
暖炉の前の安楽椅子に座り、灰の中で赤く燃える熱鉱石をハンスとボリスは眺める。こんな風にゆっくりと座っているのは久し振りだった。
台所からはウィルバーの鼻歌が聞こえてくる。時々カルネオールとお喋りしながら料理を作っているようだ。
「ボリス、あの子が来てくれて本当に良かったね」
「うん」
ウィルバーが居るだけで、家の中が明るい気がする。
ハンスの入院とカルネオールの家出から始まった騒動は、エンデュミオンの介入で思いがけない方向に転がった。ボリスにとっては良い方向に。
「明日もウィルバーと何か作るよ」
「そうしておくれ。そうだ、これを」
ハンスはズボンのポケットから、小袋を取り出しボリスに渡した。
「入院中にエンデュミオンから貰ったんだが、これでウィルバーに何か作っておやり。妖精はきらきらした物が好きだろう」
小袋の中には〈火蜥蜴の涙〉が入っていた。
「いいの?」
「カルネオールとウィルバーを大切にしなさい。代わりはいないんだよ」
「……うん」
火蜥蜴もコボルトも他に数多いるが、それはカルネオールでもウィルバーでもないのだ。
とととと、と台所からウィルバーがやってきてボリスの脚に抱き着いた。
「もうすぐご飯だよ!」
「うん、有難う。パン切ろうか?」
ボリスは柔らかい毛で覆われたウィルバーの額を撫でた。ぶぶぶぶ、と勢いよくウィルバーが尻尾を振る。
「あい!」
台所へと戻って行くウィルバーを、ボリスは安楽椅子から立ち上がり追い掛けた。
ハンスが退院しました。
エンデュミオンは自分の前肢が届く範囲でお人好しです。
自分の守備範囲内で簡単に死なれると怒ります。
勘が良い人は、エンデュミオンが大魔法使いであることや、孝宏が〈異界渡り〉であることを知っています(リグハーヴスに居ると公表はされているので)。
これからは、〈麦と花〉でも午後には甘い物や総菜パンが売られるようになります。