火蜥蜴の教育的指導
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ルー=フェイ先生がやって来ます。
311火蜥蜴の教育的指導
ボリスは暗く冷えきった工房に溜め息を吐いた。
工房が暗いのも寒いのも火蜥蜴のカルネオールが何処かにいなくなってしまったからだ。
火蜥蜴は窯を持つ工房に取ってなくてはならないものだと、父親のハンスにボリスは子供の頃から耳にタコが出来る程言われてきた。
火蜥蜴は勝手に窯に棲み憑くのだから、出て行く時も勝手に出て行くのだと。引き留めるのは職人次第なのだと。
ボリスは子供の頃は工房に近付かなかった。本当は魔法使いになりたかったからだ。しかしボリスの魔力は少なく、魔法使いにはなれなかった。家業のパンの修行に王都に出してもらったのは、一度は王都で暮らしてみたかったからだった。リグハーヴスでパン職人をしていたら、旅行など出来ない。
王都のパン屋は大きくて、何人もの徒弟がいた。ボリスはその徒弟の中の一人で、何年も徒弟のままだった。王都のパン屋ではほぼ分業制で、窯に触れられるのは一握りの職人だけだったのだ。
ボリスは父親が平凡なパン屋だと思っていたが、自分自身も平凡な技術しかないと漸く思い知ったのだった。
ハンスが入院したと姉のネレから連絡があって休みを貰った時、ボリスは王都の店に未練はないのに気が付いた。この店では、ボリスは下働きで終わるだろう。そう、解ってしまったからだ。ボリスの代わりは幾らでも居る。
リグハーヴスに戻ってきても、一人きりでのパン作りは上手くいかなかった。
ボリスの母親は若くして亡くなっていて、ハンスは一人やもめでボリスを育てた。何年もリグハーヴスを離れていたボリスは、手伝って貰える人の当てもなかったのだ。
試すような眼差しで見詰めてくるカルネオールに八つ当たりしたのは否めない。
カチャン。
「え」
ボリスの目の前で勝手に窯の扉にある掛け金が外れた。
キイィー、と扉が開いていく。
「な、なに!?」
「ふん、起床時間は合格だ、小僧。これで寝坊でもしたならルー=フェイは帰っていたぞ」
ふてぶてしい口調で話す火蜥蜴が、窯の中にいた。ただし、カルネオールではない。
「だ、誰だ?」
「我が名はルー=フェイ。カルネオールは休暇中だから頼まれたのだ。小僧を鍛えてくれとな。小僧、随分カルネオールの扱いが悪かったようだな。ん?」
びたんびたんとルー=フェイが尻尾を窯の底に打ち付ける。
「そ、それは」
「まあそれは後で戻ってきたハンスにたっぷり叱られると良い。ハンスの知るところだからな」
「告げ口したのか!?」
「あ?」
ギラリとルー=フェイの瞳が光った。ボッと口から火花が散る。
「火蜥蜴を大切に出来ない者は、窯持ちの資格がないのだぞ、小僧。このままだとカルネオールはお前には力を貸さないだろうな。ルー=フェイを寄越したエンデュミオンに感謝しろ」
「エ、エンデュミオン!?」
「お人好しのケットシーだ。お前にパンの作り方と窯の使い方を教えろと言ってきた。いいか、これが最後の機会だと思え」
「わ、解った」
ごくりとボリスは渇いた喉に唾を飲み込んだ。エンデュミオンは大魔法使いで、現在は右区に住んでいるとは知っていた。
「よし。では、パン作りの先生を喚んでやる。クヌート! クーデルカ!」
ルー=フェイに名前を呼ばれ、工房に二人の南方コボルトが現れた。
「はーい」
「来たよー」
魔石の付いた杖を持っているので、魔法使いだろう。
「何で魔法使いコボルト?」
「お前より料理が出来る。職業は関係ない」
ルー=フェイがピシャリと言う。
その間にクヌートとクーデルカはエプロンを付けて、水の精霊魔法で前肢を洗っていた。何故かクヌートは杖を持ったままだ。
クーデルカがテーブル横にあった三本足の椅子の上に立つ。
「はい、いつもと同じにやってみて。注意するところあったら言うから」
「お、おう」
ボリスはまず髪を布で覆ってから手を洗った。それから蓋を外した木箱から生地を出そうとした瞬間、尻に衝撃を食らった。痛くはなかったが何事かと思う。振り返るとクヌートが杖でボリスの尻を叩いていた。
「いつもは〈電撃〉だけど、小麦粉あるところでは危ないから、クヌート叩くよ」
「は?」
「一寸」
ペチペチ、とクーデルカがボリスの手を叩いて下から顔を覗き込んでくる。真顔だ。
「工房寒すぎ。どうしてルー=フェイに温めてもらわないの? それにこの生地発酵足りないでしょう?」
「いや、王都ではこの時間で発酵が終わってた」
「王都とリグハーヴスでは気温違うよね。ならどうして火蜥蜴に、王都の気温に室温を合わせてもらわなかったの? そうしたら発酵は上手く出来たかもしれないでしょ?」
正論過ぎてぐうの音もでない。
「はい、ルー=フェイに室温を上げてってお願いして。丁寧に」
「……発酵に適した室温にして下さい」
「うむ」
ふわっと工房の温度が上がり、木箱の回りは更に暖かくなる。
「あと一時間は発酵がいるよ」
「そんなに待ったら焼きが遅くなる!」
「えい」
べしっとクヌートに尻を叩かれる。じろりとクーデルカに睨まれた。
「誰のせいなの? 無理に発酵させたパンを客に出す気?」
「ここ数日そんなパンを出していたのだろう? 客が逃げてなければ良いがな」
扉を開けたままの窯の中で、ルー=フェイが前肢に顎を乗せた。クックックックと笑うのが腹立たしい。
クーデルカが〈時空鞄〉から出した水筒に入っていたお茶を皆で飲みつつ、発酵を待つ。
「そろそろだな」
ルー=フェイの合図で木箱の蓋を開けてみると、木箱一杯まで生地が発酵していた。
「うん、良い出来」
クーデルカが頷いたので、作業台に粉を打ち、生地を出してガス抜きをする。一つずつの大きさに生地を分け、丸めて丸パン用の籠に入れていく。これで二次発酵させる。食べきり用の小型パンも丸めて天板の上に並べ、木箱の中に入れて二次発酵だ。
流石に何年もしている作業だからか、クヌートとクーデルカから駄目出しはなかった。
二次発酵も終わったら、焼いていくのだが、ここからは再びクヌートに叩かれ続けた。
「まだ早い。窯の焼ける色で温度を覚えて」
「急には無理だろ!? 窯担当じゃなかったんだよ!」
「これから覚えるの! 解らなかったら火蜥蜴に聞くの!」
ビシビシと叩かれる。文字通り叩き込まれる。
「丁度良い温度になったら教えて下さい」
「もう少しだ。ゆっくり鞴を動かして風を送れ」
ルー=フェイの指示通りに鞴を動かす。暫くしてチチッと囀りが聞こえた。
「火蜥蜴が囀ったら、合図だ」
「窯の壁の色を良く見ておいて。火蜥蜴に聞けば教えてくれるけど、自分でも覚えてるのが職人」
赤く焼ける壁の色をクーデルカが指差す。
「生地を入れるのは火蜥蜴がいない方だよ。火蜥蜴がいる方は温度が低いか高い場所だから」
「解った」
ボリスが生地を入れる場所が悪いと、ルー=フェイが尻尾を窯の底に打ち付けた。
「第一弾はこれで閉める。焼ける頃また火蜥蜴が教えてくれるけど、自分でも覚えて」
「お、おう」
窯の扉を閉める頃には、ボリスは汗びっしょりになっていた。
「はい、お水飲んで」
檸檬が浮いた水をクーデルカに差し出される。それを一気に飲み干す。
「有難う」
「全部焼けるまで頑張って」
「あのさ、そろそろ朝飯用に買う客が来る頃なんだけど。サンドウィッチ出してるんだよ」
「作れるよ。中に挟む物は?」
「窓口近くの保冷庫に、ハムとチーズとジャム類が入ってる」
「解った」
クヌートが三本足の椅子を引きずって窓口へと行った。売り場の準備をしてくれるようだ。
暫くしてチッチとルー=フェイが囀るのが聞こえた。
「焼けたぞ」
「解った」
ボリスは耐熱手袋を嵌めて窯の扉を開けた。熱気の向こうにこんがりと焼き色の付いたパンが見える。
木べらを差し入れ、全体に焼き色があるのを確認しながら取り出していく。
「うーん、いい匂い!」
「いい色!」
クヌートとクーデルカが鼻をひくひくさせて空気の匂いを嗅いでいる。
「ボリス、一つ割っていい?」
「ああ、朝飯の分にすればいいから」
「ふふーん」
クーデルカが風の精霊魔法を使ったのか、丸パン一つを触れる程度まで冷まし、焼き立てにも関わらず自前の包丁で綺麗に切ってみせた。
「上出来だねー。はいクヌート、味見」
「あーん」
クーデルカがクヌートを呼んで、口にちぎったパンを入れてやる。
「うん、美味しい」
「はい、ボリスも味見して」
「お、おう」
まだほんのり温かいパンを口に入れ、ボリスは目を瞠った。外側はパリッと焼けていて、中はしっとりとしていて僅かな酸味と噛みごたえのある、美味しい黒パンだった。
「え、美味い……」
「ここの酵母も美味いし、小僧もそこそこ腕があるからな。ちゃんと発酵して焼ければ美味いパンになる。当然だ」
クーデルカにパンを一切れ貰い、もぐもぐ口を動かしながらルー=フェイが言う。
「小僧、味見が終わったら、次を焼くぞ」
「解った」
ボリスは口の中のパンを水で飲み込み、木べらを手に取った。
次のパン生地を窯に入れ、焼けたパンを籠に並べて売り場の棚に持っていく。
クヌートは三本足の椅子を二つ並べて、売場と背後にある棚を移動出来るようにしていた。そうしないと高さが足りないからだろう。
ボリスが焼いているのでパンの種類は黒パンと白パン、ライ麦パンの大きさ違いしかない。それならばとクヌートが届く高さの棚に籠を入れた。パンは作業台の冷却棚に置いておいて、籠の中身がなくなれば、持ってくれば良いだろう。
「んっんー」
クヌートは鼻歌を歌いながら、バターを小鉢に少し移し、バターナイフで柔らかくなるまで混ぜてからジャムの瓶の隣に置いた。蝋紙に包まれたチーズも保冷庫から出してあるが、ハムは傷まないようにか保冷庫に入れたままのようだ。
「サンドウィッチ用のパンは客の好きなパンで作っていいぞ。値段は同じだから」
「解ったー」
ボリスが窯場に戻る背後で、「いらっしゃーい」とクヌートが客に言う声が聞こえた。
「何でコボルト!?」
「今日はお手伝いに来てるんだよ。パン? サンドウィッチ?」
「サンドウィッチを頼む。黒パンでハムとチーズ」
「チーズ二種類あるよ。癖の少ないやつと、青黴チーズ」
「青黴チーズで」
「はーい。青黴チーズが好きなら、蜂蜜と合わせても美味しいよ」
「じゃあ、ハムの方を癖のないチーズで、もう一つをライ麦パンで青黴チーズと蜂蜜で」
「はーい。今作るねー」
クヌートは何故あんなに店番に慣れているのだろうか。エンデュミオンはお人好しだとルー=フェイは言っていたが、ハンスがいない間に落ちた売り上げを取り戻す気なのだろうか。
クーデルカとルー=フェイに教育的指導を受けつつボリスがせっせとパンを焼き売場に運ぶ間に、クヌートはどんどんパンとサンドウィッチを売っていた。恐るべきコボルトである。
昼に一度客足は途絶えるので、皆でクーデルカとクヌートが作ったサンドウィッチとお茶で食事にする。
午後は朝に焼いたパンを、夕食用に買いに来る客に売るだけだ。〈麦と花〉はハンス一人だけなので、〈麦と剣〉のように午後に甘いパン等を売っていない。そもそもハンスはケーキを作らなかった。
「む、来るぞ」
ルー=フェイが呟いた。
「え?」
何の事かと思うボリスの視界に、ポンッと音を立てて鯖虎のケットシーが現れた。
「む、食事中だったか」
「エンデュミオンも食べる?」
「ではおやつにライ麦パンに苺ジャムで」
いそいそとエンデュミオンが、空いていた三本足の椅子を引き寄せて登った。
「どれ、今日の恵みに」
クーデルカが作ったジャムパンをエンデュミオンが食べ、ニヤリと笑った。怖い。何処がお人好しのケットシーだ。
「ふうん? ちゃんと美味いな。ルー=フェイと双子が手伝ってもモノにならなかったら、どうしてくれようかと思ったんだがな」
及第点は貰えたようだ。
「カルネオールにちゃんと手伝って貰えば良かっただけだな」
黒パンに青黴チーズと蜂蜜を挟んだものを抱えたルー=フェイが、びたんと窯の底に尻尾を打ち付ける。こちらも怖い。
「で、クヌートとクーデルカは手伝ってみてどうだった?」
エンデュミオンに問われ、良く似たコボルト二人が同じ方向に首を傾げた。
「うーん、お手伝いがいるよ。ボリスだけじゃ朝のパン売れない」
「それにボリス、おうちの事出来てる? ご飯食べて、ちゃんと寝てる?」
「ぐっ」
痛いところを突かれて、ボリスは喉にパンを詰まらせ掛けた。
「お水飲んでお水!」
クーデルカがコップに注いでくれた水で、パンを飲み下す。
「大丈夫?」
「な、なんとか」
確かにボリスはパンを焼くだけで精一杯だった。ハンスは一人でどうやってパンを売っていたのか思い出せない。ハンスが入院中の今、家の中も荒れ始めている。
「やはりな。手伝ってくれそうな者はいるのか?」
「それが、俺は暫く王都にいたし……幼馴染は大体徒弟になっているか、結婚して子育て中なんだ。しかも朝早いからさ。姉さんも嫁いでいてまだ子供が小さいし」
「朝のパンは、朝六時位から売るのか?」
「ああ」
朝食用のパンや、昼食用にサンドウィッチを買いに来る客はそれ位から来る。
「ならなんとかなるかな。場所は取らないが住み込みの、いい働き手がいるんだが」
「なにそれ」
そんな都合の良い使用人などいるのかと、ボリスは耳を疑った。しかし続いたエンデュミオンの台詞はもっと耳を疑うものだった。
「家事コボルトだ。衣食住をちゃんと与えて可愛がれば、お手伝いしてくれるし寂しくない」
「賃金は?」
「衣食住がそれに当たるんだ。コボルトは物々交換だからな。勿論お小遣いをあげるともっといい。リグハーヴスは現金払いが殆どだから。ただし、粗末に扱うと呪われる」
「呪うって……」
怖い。
「一緒に暮らして、一緒にご飯食べて、一緒にお風呂入って、一緒に寝てくれたら呪わないよ」
「撫でてくれたらもっと嬉しい」
「ねー」と双子が顔を合わせて笑う。
エンデュミオンがそんな双子を見て、前肢で頭を掻いた。
「まあ、普通に一緒に暮らせば、コボルトに文句はないんだ。ハンスが戻ってきてもすぐには働けないぞ? 暫くは自宅療養だ」
「う……」
病み上がりのハンスに仕事や家事をさせるつもりは、ボリスにだってない。きちんと治るまで療養してほしいのだ。
「他は何かあったか?」
「飲み物はないのかって聞かれたよ」
クヌートは売場で聞かれたらしい。
「そうは言っても、うちパン屋だからなあ」
「きちんとした料理は宿屋や食堂の分野だったな」
エンデュミオンが張りのある髭を撫でた。
「スープやシチューを売るのは問題かもしれないが、お茶程度なら良いのではないかな。銅貨二枚位で。エンデュミオンが商業ギルドに確認してこよう。コボルトの件もハンスに聞いて受け入れられるのなら、ハイエルンで勧誘してくる。ハンスの病気はハイエルンの風土病だから、コボルトが一人ばかりリグハーヴスに来てもらっても良かろう」
再びニヤリとエンデュミオンが、人の悪い笑みを浮かべる。
「止めても無駄だぞ」
クックックックとルー=フェイも笑う。
ボリスの背中に汗が伝う。
父は一体誰に助力を求めたのか。
悪い事は起きていない筈なのに、何かに巻き込まれているような気がしてならないボリスだった。
ルー=フェイだけではなく、双子もやって来てスパルタ教育です。
ボリスはカルネオールをしょんぼりさせたので、ビシバシ行きます。
ハンスはカール程器用じゃないけど、実直な腕の確かなパン屋さんです。
青カビチーズは、ロックフォールやスティルトンのイメージで。
〈Langue de chat〉では食卓に上がらない青カビチーズです。
次回は〈麦と花〉に家事コボルトがやって来ます。