火蜥蜴の家出
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火蜥蜴だって家出します。
309火蜥蜴の家出
リグハーヴス公爵領はその昔、地下迷宮から溢れた魔物達のせいで長らく人が安全に住めない土地だった。
古王家の分家として黒森之國の北東の土地を割譲されたリグハーヴス家は、代々少しずつ魔物を地下迷宮に押し返し、遂には封じた。特殊な魔法陣が刻まれた出入り口の扉さえ閉じておけば、魔物達は地上には出られなくなったのだ。
しかし、魔物は滅する事なく地下迷宮で生まれる為、王は冒険者ギルドを立ち上げ、冒険者を募り魔物の間引きを託した。
地下迷宮へ通う冒険者達のテントが小屋となり、集落となったものが、リグハーヴスの街の始まりである。
きちんとした街を形作るにあたり、当時のリグハーヴス公爵は教会を中心に右区と左区を作った。生活に必要な店は左右区共に配置し、王都から職人を呼び寄せた。その子孫が、今もリグハーヴスの街で店を継承している。
「くそっ、また膨らまない!」
窯から膨らみの足りないパンが木べらに乗せられ乱暴に取り出されるのを、火蜥蜴のカルネオールは窯の隅から黄金色の瞳を半眼にして見ていた。
膨らみが足りないのは生地の発酵不足だ。冬は夏と違うのだから、室温を上げるか発酵時間を長くしなければならない。
焦げたり生焼けではないのは、カルネオールが火加減を調節してやっているからだが、それも気付いていないようだ。
溜め息を吐いたカルネオールの口から細く火が噴き出す。
カルネオールはリグハーヴス公爵領左区のパン屋〈麦と花〉の窯に棲み付く火蜥蜴である。
〈麦と花〉の店主は初老の職人ハンスであるが、現在風邪をこじらせて左区の医師の診療所に入院している。肺が弱っているので、細かな粉を吸い込むのは良くないらしい。
パンは領主から認められた職人しか焼いて売る事が許されない物である。ハンスの娘ネレはパン職人ではないのでパンは焼けない。だから、王都に修行に出ていた息子のボリスが一時的に戻って来ていた。左区にはパン屋は〈麦と花〉しかないからだ。右区には〈麦と剣〉があるものの、基本的にはそれぞれのパン屋でそれぞれの区の住人分のパンを焼いている。殆どが、自分が住んでいる区のパン屋のパンを買うからだ。
ボリスはまだ職人では無い。職人に近い徒弟だ。王都の店では生地を捏ねさせてもらったり、発酵の済んだ生地の整形をさせて貰えるようになってはいるようだが、王都とリグハーヴスの気温の差を考慮出来ない位には未熟なのだ。
火蜥蜴は住まわせて貰う代わりに窯の管理をする。だが手を貸すのは、自分の預かる窯を使わせても良い腕の職人か、もしくは手伝ってくれと頼まれた時だけである。
ボリスは一人でパンを焼くのは初めてにも関わらず、カルネオールに挨拶もなく窯に発酵不足の生地を突っ込んだ。おかげでカルネオールは寝起きなのに、朝食も食べずに窯の端に追いやられた。ハンスは絶対にそんな風にカルネオールを扱わない。
ハンスはパン職人としては平凡な男だが、丁寧な仕事をする。店を開いた当初からいるカルネオールには、いつだって和やかに話し掛けて来た。
もしかすると王都にの窯には火の妖精が居ないのだろうか。勿論、職人自身が炎や窯の焼ける色を見て、温度を覚えるのは大事だ。だが、火蜥蜴が棲む窯は火蜥蜴と共にパンを焼くものなのだ。
昨日もボリスは発酵不足のパンを店に出していた。ハンスが少し前から午前中に出すようになった、薄く切ったパンに肉や野菜を挟むサンドウィッチにしてごまかしているが、丸パンではごまかしようがないだろう。
ハンスが戻るのは一週間後だとネレから聞いているが、病み上がりでパンを焼くのは無理だろう。場合によっては右区の魔女にハンスを診て貰った方がいいかもしれない。もしくは、〈薬草と飴玉〉で薬湯を処方してもらうかだ。あそこにはケットシーが居ると聞いているから、良く効くに違いない。
ガシャリ! と乱暴に窯の扉が開き、パン生地が乗った木べらが突っ込まれる。木べらの端が脇腹に掠って、カルネオールは跳び上がった。それなりに広い窯なのに、わざわざカルネオールを狙って入れるとは。精霊と違って、妖精は姿を見せているというのに。
流石のカルネオールもムッとした。
こんな扱いを受けるのなら、ハンスが戻って来るまで何処かに遊びに行こう。ハンスの見舞いにも行きたい。
こうして鼻息荒く、〈麦と花〉の火蜥蜴カルネオールは家出したのだった。
パン職人カールの朝は早い。まだ街が寝静まっているうちに起き出し、天然酵母で一晩かけて発酵させた生地を整形して焼いていくのだ。
パンの種類によってはそれほど長く発酵時間を要しないものもあるが、冬の寒い時季はじっくりと発酵させる。夏は暖かいので発酵時間は短くなる。
妻のベティーナが午前に売るサンドウィッチの具材を作るのはもっと後でいいので、カールはこの時間は一人で起き出す。
台所で魔法瓶に熱くて甘いミルクティーを作り、工房で一杯飲んでから仕事に取り掛かるのがいつもの流れだ。
マグカップは工房に幾つか置いてあるので、ミルクティーの入った魔法瓶だけを持っていく。
火蜥蜴のルビンが窯にいるので、ほんわりと暖かい工房に入り、カールは窯の扉が熱くないのを掌を翳して確認してから、軽くノックした。
「おはよう、ルビン。あれ?」
カチャリと掛金を外して扉を開け、カールは目を瞬いた。
紅玉のようなルビンに寄り添うように、もう一体火蜥蜴が居た。紅い縞瑪瑙に似た柄をしていて、ルビンと同じ位の大きさの火蜥蜴だ。カールは初めて見る個体だった。エッカルトの所のエルマーとも、孝宏の所のミヒェルとも違う。
「何処の火蜥蜴だ? 遊びに来たのか?」
通常、一つの窯に一体の火蜥蜴なのだ。とは言え、リグハーヴスに居る火蜥蜴は、時々遊びに行ったり遊びに来たりするので、カールも慣れている。
カールは小さなマグカップ二つにミルクティーを注ぎ、窯の中に入れてやった。毎朝ルビンと一服してから、仕事に入るのだ。これはカールの家では代々続いている約束事のようなものだ。
ルビンは美味しい物が好きで、良く食べる。カールもルビンも朝食は朝の仕事の後なので、甘いミルクティーは大事な栄養源なのだ。
ちら、と縞瑪瑙柄の火蜥蜴が上目遣いで金色の瞳をカールに向ける。
「どうぞ」
「……」
ぺこ、と頭を下げてから縞瑪瑙柄の火蜥蜴がぽってりした舌でミルクティーを舐め始める。その隣でルビンも満足げにマグカップに舌を突っ込んでいる。火蜥蜴は火傷はしないのだ。
「ルビン、いつも通りに仕事を頼んで良いのか?」
ルビンはこくこくと頷いた。
「じゃあ、整形が終わったらまた声掛けるからな」
カールはそっと扉を閉めてやった。
ミルクティーを飲み干してマグカップを片付けて手を洗い、エプロンを着けてカールは生地を木箱から粉を打った作業台に出して整形を始める。
同じ大きさに切った生地を丸め籠に入れていく。焼く時にひっくり返すと籠の模様が付くのだ。
カールは再び窯の扉を叩いてから開けた。
「そろそろ温度を上げて良いか?」
チチッとルビンが鳴いた。火蜥蜴は鳥の囀ずりのような声で鳴く。
空になっていたマグカップを片付け、一度扉を閉めてカールは窯のふいごを押して熱鉱石に風を当てる。暫くすると再びチチッとルビンの囀ずりが聞こえた。
「どんなもんかな」
カールは窯の扉を開けて、熱鉱石で熱せられた煉瓦の色を確認した。ルビンも知らせてくれてはいるが、自分でも確かめる。
「よし、生地を入れていくぞ」
ルビンと縞瑪瑙柄の火蜥蜴は、パン生地を置くには相応しくない場所に移動してくれているので、彼らの居る場所とは反対側に柄の長い木べらで置いていく。
第一弾の生地を入れ終わり、窯の扉を閉める。目安になる砂時計をひっくり返し、カールは次の生地を丸め始める。
砂時計の砂が落ちる頃、工房には香ばしい匂いが立ち込め始める。
「そろそろかな」
チチッと窯から囀ずりが聞こえた。ルビンが取り出し頃を教えてくれているのだ。
窯の扉を耐熱布で作られたミトンを嵌めて開けると、むわりとした熱気に顔が焙られる。こんな熱の中で平気な火蜥蜴とはとんでもない妖精だとカールは思う。
早く出せとばかりに、窯の底をルビンが尻尾でピタピタ叩く。縞瑪瑙柄の火蜥蜴はルビンの陰からカールを見ていた。
「よし、取り出すからこっちに寄るなよ」
カールは手早く作業台の籠の上に焼けたパンを取り出していく。空になった窯には新たなパン生地を並べて扉を閉め、砂時計をひっくり返す。
家庭用の大きな丸パンの次は、食べ切り用の掌大のパンや、具材を挟みやすい細長い物も焼いていく。
今日は黒パンと白パン、胡桃を混ぜたパンを焼き上げ、朝のパン焼きは終了だ。
夜が明ける頃、ベティーナと息子のカミルが起きてきて、朝食の支度や販売用にパンの籠を棚に並べる手伝いをしてくれる。
「おはよう、ルビン。あれ? もう一人居る」
カミルが耐熱ミトンを着けた手で窯の扉を開けて、驚いた声を上げる。カールは黒パンの籠を売場の背後にある棚に置いて言った。
「朝から居るぞ。カミルも初めて見るのか?」
「うん。ん? お腹どうしたんだろう」
「どうした?」
「父さん、こっちの火蜥蜴、脇腹擦りむいてない?」
「何!?」
カールは慌てて窯を覗き込んだ。ルビンの隣に居る縞瑪瑙柄の火蜥蜴の右脇腹に赤い線が入っていた。先程はルビンの後ろにいて見えなかったらしい。
「妖精の治療となると、俺達では無理だな。一寸早いが……エンデュミオン!」
一分程経ってから、工房にぽんっとエンデュミオンが現れた。
「……呼んだか……?」
服を着ていないし、耳の下の毛が跳ねている。目付きがいつもより悪いのは、寝起きだからだと思いたい。
「こんな朝早くにすまない、エンデュミオン」
「いや、用があるから喚んだのだろう? どうでも良い事でカールはエンデュミオンを喚ぶまい」
前肢でぎゅっと瞑った目を擦り、エンデュミオンは漸くぱちりと目を開けた。
「で、どうした?」
「うちにルビン以外の火蜥蜴が居たんだが、どうも怪我をしているみたいなんだ」
「ふうん? どれ、見てみよう」
カールは窯の前に三本足の椅子を持ってきて、エンデュミオンを乗せた。
「髭が熱でくるくるしそうだな。ルビン、窯の温度を下げてくれ」
チッチッ。ルビンが囀ずり、窯の温度が下がっていき、同時に火蜥蜴達の身体の色も鮮やかな色から少し暗い色に変わった。
「エンデュミオンに見せてみろ」
縞瑪瑙柄の火蜥蜴が、ルビンをちらりと見る。ルビンが頷いたのを確認してから、エンデュミオンに近付いて来た。
「どれどれ。……何か固いもので擦れたのか」
そっとエンデュミオンが縞瑪瑙柄の火蜥蜴に肉球を翳す。淡く緑色の光が火蜥蜴の身体を包み、すぐに消えた。大した怪我ではなかったようで、カールは安堵した。火蜥蜴は身体が小さいので、小さな怪我でも負担になるだろう。
「よし、治ったぞ」
「……」
縞瑪瑙柄の火蜥蜴が、エンデュミオンの前肢に抱き付き頬擦りする。
「ルビンと同じ位の年齢なら、古い窯の火蜥蜴じゃないのか?」
「……」
ぷい、と縞瑪瑙柄の火蜥蜴が顔を背ける。
「まさか家出してきたのか?」
「……」
ささっとエンデュミオンから離れてルビンの後ろに隠れる縞瑪瑙柄の火蜥蜴に、カールは一寸待てと言いたくなった。
「家出?」
「この反応だとそうみたいだな」
「リグハーヴスに火蜥蜴の居る窯は幾つあるんだか」
「そんなに多くないだろう。孝宏のミヒェル、エッカルトのエルマー、カールのルビン、スヴェンのルー=フェイ、イェンシュのグラナトは解ってるからな。通常家庭のオーブンに火蜥蜴が来るのは珍しいから、残るは右区のエッカルト以外の鍛冶屋か、左区の鍛冶屋かパン屋だろう。あとは細工師の所にも居るかもしれないが」
じっと縞瑪瑙柄の火蜥蜴を見ながらエンデュミオンが羅列していく。その中でパン屋の所でピクリと縞瑪瑙柄の火蜥蜴が反応した。
パン屋はリグハーヴスの街には二軒しかない。囲壁の外の村にもパン屋はあるが、ルビンと知り合いになりそうな程近い場所にあるパン屋は〈麦と花〉だけだ。
「まさか〈麦と花〉の火蜥蜴とか……?」
「……」
じわあと縞瑪瑙柄の火蜥蜴の金色の瞳から涙が盛り上がり、ポロポロと落ちた。火蜥蜴から涙が落ちた途端、涙は真珠玉の大きさの石に変わりコロコロと窯の底に落ちる。
「うわ、泣くな。泣かなくていいから。遊びに来たんだろう? ゆっくりさせてもらえば良いだろう。ルビンも怒るな」
ピシピシとルビンが尻尾を窯の床に叩き付ける。エンデュミオンは寝癖のある頭を前肢で掻いた。
「ルビンはその火蜥蜴から話を聞いているんだろう? エンデュミオンの力が必要なら手を貸すのは構わないが、一度家に帰って着替えて、朝御飯を食べてきていいか? 孝宏が心配するから」
「……」
こくりとルビンが頷いた。
「と言う訳でカール、エンデュミオンは着替えに行ってくるから、その火蜥蜴にも朝御飯を食べさせてやってくれ」
「ああ、勿論。ルビンの客だしな」
「では後でまた来る。カールは仮眠を取っていても、カミルは起きてるだろう?」
「うん、起きてるよ」
「では戻るかな。あ、ついでにパンを買っていこう、焼き立てだな。黒パンと胡桃パンをくれ」
エンデュミオンは〈時空鞄〉から財布を取り出し、カールに差し出した。
「いや金を払うのはこちらだろう。治療費は?」
「エンデュミオンは魔女ではないから、治療費は貰えないぞ」
「じゃあ治療費代わりにパンを持っていってくれ」
ざら紙の紙袋に黒パンと胡桃パンの丸パンを入れ、カールはエンデュミオンに渡した。
「有難う。ではまた後でな」
ぽんっとエンデュミオンが〈転移〉していった。
「ねえ、父さん。この石みたいの、どうしよう」
「あ」
縞瑪瑙柄の火蜥蜴が作り出した玉の事を忘れていた。
「集めておいて、エンデュミオンに聞こう。ルビン達おいで。朝御飯を食べよう」
朝の販売はベティーナにお任せなのだ。最近はカミルが朝御飯を用意する日もある。
カールは綺麗なマグカップに縞瑪瑙柄の火蜥蜴が作った玉を集めた。
カミルが火蜥蜴二人を抱いて運ぶ。
何故〈麦と花〉の火蜥蜴がうちに来たのかと内心首を捻りつつ、カールとカミルは台所に向かったのだった。
左区のパン屋さん〈麦と花〉の火蜥蜴カルネオール。
店主ハンスが居ない為、扱いが悪くてぷんぷんです。
街での古株のルビンとカルネオール。夜中に時々お喋りしにいっていたりしていたんじゃないかなと思います。