Valentinstag kuss
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
バレンタインチョコレートを作ります。
30Valentinstag kuss
孝宏は夕食の後片付けの後、壁のフックに掛けてあるカレンダーを見ていて気が付いた。
「バレンタインデーって陽の日なんだな。安息日かー」
陽の日とは日曜日の事だ。月火水木金土と来て、陽の日なのだ。
「本当だな」
孝宏の後ろからカレンダーを覗き込んだイシュカだが、反応が薄い声を出した。
「昔そういう名前の聖女が殉死した日らしい。今は恋人同士や家族に花や贈り物をしたりするらしいな」
「イシュカは?」
「俺は今まで家族も恋人も居なかったから無縁だ」
赤毛の青年はそれについて何も思うところは無いらしい。
「そっかー。まあ日本でもチョコレートを好きな相手に贈る日になってたしなあ」
元々は全く違う意味合いの日だと言うのに。日本人の順応力たるや、である。
「ちょこ?」
「あ」
幼い子供の声に振り返ると台所の床にルッツが立って居た。これから風呂に入るのか、白いトランクス型の下着姿だ。琥珀色の目がキラキラしているのは気のせいではないだろう。
「ちょこ。ルッツたべたい」
「今は無いんだよ、ルッツ。まだ作って無いからね」
「いつ?」
こて、と首を傾げる。
(何だろう、この作らなければいけない感)
錆柄のルッツは三人のケットシーの中で特に幼い。無邪気で可愛い。
「うーんと、バレンタインデーかな」
「ルッツもつくる」
「じゃあ、手伝って貰おうかな?」
「あい」
両前肢を上げて、ルッツが良い返事をする。そこにセーターを脱いで白いシャツとジーパン姿のテオがやって来た。
「あれ?ルッツ水飲んだのか?」
「まだー」
「お風呂、お湯溜まったよ」
「あい」
孝宏がコップに水を汲みストローを挿して、ルッツに渡してやる。チューと音を立てて水を飲むルッツの頭上で、孝宏はテオを手招きした。
「テオ、バレンタインデーに仕事入れないでね」
「へ?何で?」
「ルッツとチョコレート作る約束した」
「解った」
テオは破顔すると、水を飲んだルッツを抱き上げ、風呂に入りにバスルームに向かって行った。
そしてバレンタインデー。
イシュカは工房で道具類の手入れ、テオも部屋で本を読んでいる。台所には孝宏とケットシーが三人居た。
「まずこの小さな鍋にチョコレートを割ってね」
ざら紙の上に乗せた板チョコレートを小鍋と共にケットシー達の前に出す。
「それはまだ苦いからね」
「にがい」
ざら紙の上に散っていたチョコレートの粉を、早速舐めたルッツがぶるりと震える。良く見るとエンデュミオンとヴァルブルガも震えている。
「今言ったのに」と言っても無駄なので、ケットシー達に先日の残りの霊峰蜂蜜を匙の先に掬って少しずつ舐めさせてから、チョコレートを割って貰う。
小鍋より大きな鍋でお湯を沸かし、小鍋にチョコレートと砂糖、生クリームを入れて湯煎で溶かす。ケットシーも食べるのでリキュールは抜きだ。作ろうとしているのはトリュフだ。なので、主体のガナッシュを作る。
孝宏がチョコレートを溶かしている間に、ケットシー達には乾煎りしておいた胡桃の実を割って貰う。つまみ食いされても平気な様に多めに渡しておく。ちらりと見ると、三人の顎が動いている。つまみ食いした様だ。
乾煎りアーモンドは硬いので孝宏が包丁で刻んだ。マシュマロも刻む。南瓜の種はそのままでも良いだろう。
出来上がったガナッシュに木の実とマシュマロを合わせる。それをエンデュミオンに冷気の魔法で冷まして貰ってから、ココアパウダーを広げた皿の上にスプーン二つで丸めて落とす。
「ココアの上をコロコロしてくれる?」
ケットシー達にはスプーンで、ガナッシュを転がして貰う。出来上がったものはココアを振った琺瑯の蓋付き容器に入れ、保冷庫へと入れる。
「これで少し固めれば出来上がりだよ。って、ルッツ、そのまま手を入れたら駄目だって!」
小鍋の縁についていたガナッシュにルッツが前肢を伸ばした。肉球に着いたガナッシュをぺろぺろ舐める。
「あまい」
「どれ」
「ヴァルブルガも」
エンデュミオンとヴァルブルガも同様に前肢を小鍋に伸ばす。
「あーあ……」
妖精猫の前肢でガナッシュを掬ったら、もう後の祭りだ。三人とも尻尾をぴんと立てたまま、小鍋にこびりついたガナッシュを綺麗に舐め尽した。後にはガナッシュまみれのケットシーが居るだけだ。休日なので、服を着ていないのが救いだが。
(予想してたのに……)
「皆そのまま動かないでね」
「何故だ」
ケットシー用の椅子に立ったまま、エンデュミオンが疑問を浮かべる。口元にガナッシュを付けたまま。ルッツもヴァルブルガも、何故お腹にまでガナッシュが付いているのか解らない。
「チョコレートは布地に着くと落ちにくいんだよ。お風呂入るのが早いよ。そのまま待っててね」
孝宏は廊下に出て、イシュカとテオを呼んだ。まとめて運ばないと、うろちょろしそうだからだ。
「どうした?」
「何?」
階段の下からイシュカが、部屋の戸口からテオが出て来る。
「ごめん、全員お風呂行きになっちゃって。運ぶの手伝ってくれる?」
怪訝そうな顔をしたイシュカとテオも、ケットシー三人の惨状を見て、唖然とする。
「鍋のガナッシュ、舐めちゃって……」
「まあ、止められないよね。うわー甘い匂いするぞ、ルッツ。おわ、手に付いた」
「ちょこ」
「うん。まずはお風呂だ」
テオがルッツの両脇の下に手を入れ、ぶら下げてバスルームに連れて行く。
「ヴァルも派手にやったな」
「美味しかったの」
ヴァルブルガは白い毛の部分があるので、一番汚れが目立つ。茶色い斑が増えている。
「エンディ、何で後頭部にまで付いてるの?」
「知らん」
孝宏もイシュカも、テオと同様にケットシーを運び、三人纏めてバスタブに下ろす。頭を軽く伏せさせて、耳に入らない様にして蓮口からお湯を掛ける。バスルームに甘い香りが広がった。
「お湯、茶色いし……」
毛に着いたチョコレートを流してからお湯を溜め、ケットシーを各自洗った。
「続きはやるから、孝宏は台所を片付けて来ると良い」
「うん。エンディ、泡流せば終わりだからね」
泡だらけで遠い目になっているエンデュミオンをイシュカに託し、孝宏はチョコレートの香り漂う台所を片付けに行った。使った道具を洗い、作業台にしていたテーブルもケットシーの椅子も綺麗に拭く。
薬缶に水を汲み、焜炉に掛ける。身体を乾かしたケットシー達が居間に戻って来た頃には、しゅんしゅんと沸き始めていた。
ミルクティーを淹れ、ソファーで休んでいる労働後の者達に配布する。ケットシー達はラグマットにぺたりと座り、木匙で冷ましながらミルクティーを飲み始めた。
「ちょこ、できた?」
「もう少し固めた方が良いかな。お昼御飯の後でおやつにしよう」
「あい」
軟らかすぎるまま渡すと、もう一度風呂に入れなければならなくなりそうだ。
「あのチョコレートはね、トリュフって言うんだよ」
「とりふ」
「茸のトリュフに似ているからだっけかなー。豚や犬が探す茸ね」
「黒森之國でも森で取れるよ」
トリュフを取る猟師と犬や豚を護衛する依頼が、冒険者ギルドに来ると言う。
黒森之國ではそれほど希少でも無いらしく、時季になれば八百屋や食料品店に並ぶのだそうだ。
お昼御飯にはパン屋カールのパンに肉屋アロイスの腸詰肉を挟んだホットドッグを作った。新年市場で買って食べてから、皆気に入ったらしく、リクエストが来る。孝宏の作るものは、ケチャップとマスタードは好みでかけて貰う。
「今回はカレー風味もあります」
腸詰肉と挟むキャベツをカレー粉で炒めて風味付けた物だ。本格的なカレーはケットシーに食べさせてお腹を壊さないか不安なので、まだ作っていない。隠し味にトマトソースに入れたりしているだけだ。
ケットシー達にはいつものホットドッグとカレー風味の物を半分ずつ皿に乗せてやる。
ヴァルブルガの白い口元がカレー粉で染まらないか不安だが、食事の後拭いてあげれば良いだろう。
「少し辛い」
「食べられる?」
「大丈夫」
カレー味のホットドッグを頬張るエンデュミオンに、人肌に温めた牛乳のコップにストローを挿してやる。
ルッツもヴァルブルガも平気の様だ。
(今度甘口カレー作ってみるかなあ)
辛口は多分ケットシーが震える気がする。
昼食の後、保冷庫からトリュフを取り出す。容器の蓋を開け、デザートフォークをケットシー達に握らせる。
「固まったと思うけど」
「とりふー」
テオの膝の上に移っていたルッツが丸いトリュフにフォークを刺す。
「はい、どうぞー」
それをそのままテオの口元に持って行く。
「くれるの?」
「あい」
「有難う」
ぱくりとトリュフを口に入れる。口内でトリュフを転がし、テオが軽く目を瞠る。
「ん、何かいっぱい入ってる」
「胡桃とアーモンドとマシュマロと南瓜の種が入ってるよ」
「食感が面白いかも。美味しいよ、ルッツ」
「ふふー」
嬉しそうにルッツがテオに額を擦り付ける。
(あ、そうか)
孝宏は納得した。ルッツは孝宏とイシュカの会話をきちんと聞いていたのだ。
(だから作りたがったのか)
大好きなテオにチョコレートをあげたかったらしい。
「んー」
お返しにテオにトリュフを食べさせて貰って、ルッツは両前肢で頬を押さえてご満悦だ。
孝宏はフォークを取り、トリュフに刺してエンデュミオンに差し出した。
「はい、エンディ。俺の国ではね、バレンタインデーには好きな人にチョコレートあげる日なんだよ」
「む……」
ふくり、とエンデュミオンの口元が膨らむ。照れているらしい。ぱくりと孝宏が出したトリュフに齧りついた。
「美味い」
「エンディ達も手伝ってくれたしね」
耳も巻き込んで頭を撫でてやれば、きゅと目を細めるのが可愛い。
「イシュカ、はい」
イシュカもヴァルブルガにトリュフを貰っていた。
「バレンタインデーに何かを貰うのは初めてだな」
家族や恋人が居ない者には、縁のない行事だから。
(そう言えば……)
いつの間にやら随分と家族が増えていた。
思わずイシュカは口元に笑みを浮かべてしまう。
「イシュカ、嬉しい?」
膝の上に座り、胸元から見上げてくるヴァルブルガの頭を、イシュカは両手でわしわしと撫でてやり、額にキスを落としてやる。
「みゃう」
「嬉しいよ、とてもね」
こうして皆で過ごせる事が。
〈異界渡り〉は手に入れた者に富を与えると言う。
イシュカは別に富はそれほど欲しくはない。
だが、孝宏が来てから家族が増えた。店を訪れる常連客が増えた。
(増えたのは、幸福)
それで、充分。
<Langue de chat>のバレンタインデーは、ゆったりと過ぎて行く。
ケットシー達とトリュフ作りです。
ケットシーは幾つになっても子供っぽい所があるので、目の前に美味しそうな物があれば口に入れます(毒など、食べられない物は食べません)。
お休みの日は服を着ないでのんびりするのが、ケットシー。
大好きな主と美味しい物があれば幸せなのです。




