会いたくないお客様
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
場合によっては出入り禁止もございます。
29会いたくないお客様
「ただいま」
「シスター・グレーテル!あの子の様子はどうだったの?」
「典型的な妖精猫風邪だったよ。幼体では無い上に発症して間もない。主が診ているから大丈夫だ」
<Langue de chat>から戻って来たグレーテルを診療所で出迎えたのは、淡い金髪の森林族の娘だった。
グレーテルは診療鞄と、薬草の瓶が入った籠を診察室の棚に置き、奥にあるドアを開く。診察室の奥にあるドアを開ければ、そこはグレーテルの台所付きの居間だ。居間のドアを開けていれば、患者が来て声を掛けて貰えれば気付ける。
フード付きの黒いマントを脱いで壁の鳥の形をした真鍮のフックに掛け、グレーテルは台所で手を洗った。薬缶に水を汲み、焜炉に掛けてレバーを動かす。焜炉の中で熱鉱石が赤みを増した。
ティーポットと茶葉を用意しながら、グレーテルは居間の布張りソファーに座った娘に目をやる。森林族なので、平原族の娘の基準よりは歳を重ねているが。グレーテルは娘の名を呼ぶ。
「ウルリーケ」
「なあに?」
「ハイエルンの診療所を継いだばかりだろう。さっさと戻れ」
「だって……」
ぷうっとウルリーケは頬を膨らませた。
「魔法使いギルドに厳重注意を受けたのがお前だとは思わなかったぞ。ケットシーを引き継げない事位知っていただろうに」
「ヴァルブルガは違うと思っていたのよ。ずっと一緒に居たし」
「それはお前が魔女アガーテの弟子だったからだろう」
徒弟と同居するのは当たり前だ。
グレーテルとアガーテは姉妹弟子だった。アガーテの弟子と言う事で、グレーテルはウルリーケとも面識があった。
「ケットシーに魔法封じの首輪を付けた上、出て行ったのを冒険者に追い掛けさせたのはやり過ぎだ。<Langue de chat>で保護されるまで、殆ど食事も摂れていなかったと聞いたぞ」
「だって、話し合おうにも<転移>されたらそれまででしょう?」
「ケットシーは主が亡くなったら、<黒き森>に帰るものだ。お前がヴァルブルガに与えたのは虐待だ、馬鹿者め」
<Langue de chat>で保護されていなかったとしたらと思うとぞっとする。
グレーテルは沸いたお湯をティーポットに注ぎ、カップと共に居間に運んだ。
「何をしにリグハーヴスに来たのだ?」
「……ヴァルブルガに謝ろうと思って」
グレーテルはウルリーケの世迷言を一言で切って捨てた。
「帰れ」
妖精猫風邪が良くなったエンデュミオン達は、<Langue de chat>に出る様になった。
テオは暫く配達の仕事を一人で行ける日帰りの依頼のみにし、ルッツに留守番をさせる事に決めたらしい。泊りがけの仕事を一人でやろうとしたら、ルッツに泣かれたらしいのと、療養中に様子を見に来た魔女グレーテルに、一カ月ほどは肺機能が低下すると教えられたからだ。
(インフルエンザみたいなものなんだな、妖精猫風邪は)
一か月は無理をさせられないので、ケットシー三人には疲れたら休む様に言い聞かせてある。
今日はイシュカが工房に入っている。テオは指名依頼が入っていないか確認しに、冒険者ギルドへ顔を出していた。
ケットシー三人は、カウンターの内側に並べた三本脚の椅子の上に立って、客が来るのを待っていた。午前中という事もあり、閲覧スペースには領主館のキッチンメイドのエルゼが居るだけだ。
エルゼは休日の午前中を<Langue de chat>で読書をして過ごす。お茶とクッキーを出した後は、お代りを注ぐ以外は邪魔をしない方が良い客だ。
ケットシーは三人だけで居る時は、孝宏もイシュカも解らない精霊言語で話す。今も三人仲良く何やら会話をしている。色柄違いの丸みを帯びた後頭部が可愛らしい。耳の大きさが違うので、影でも地味に区別はつく。エンデュミオンよりルッツの方が耳が大きく、ヴァルブルガは折れ耳だ。
(ヴァルブルガ、随分毛艶良くなって来たな)
<Langue de chat>に来たばかりの頃は、艶も無くぱさぱさだったが、きちんと食事を摂り、イシュカに良く撫でられているので、今は黒い毛の部分などは艶々している。
「お盆置いて来るね」
「ん」
エンデュミオンに声を掛け、孝宏は一階の台所に入った。お客に出すお茶は一階の台所で淹れる。ちなみに仕事中の休憩に使うのもここだ。
作業台に盆を置いて戻り掛けた孝宏の耳に、ドアベルが聞こえた。
「みゃっ!」
そして叫び声が。ぼとりと何かが床に落ちる音もした。
「どうしたの!?」
顔を出した廊下に、店側からヴァルブルガが走って来て、とたとたとイシュカの居る奥の工房へと逃げて行く。孝宏は慌てて店に顔を出した。
「エンディ?」
「こっちは良いから、ヴァルブルガを頼む。椅子から落ちた」
「ヴァルが?解った」
カウンターの前に居た森林族らしき客に会釈をし、孝宏は工房へ向かった。
黒森之國の書籍は学術書が多い。魔法書や図鑑といった物だ。
書店は一点物から印刷物まで、作られたそういった書籍を表紙が無い紙束の状態で売る。
買い取った客は、自分の好みの表紙をルリユールに装丁させるのだ。
例外としては、平民に知識を与える為の書籍で、こちらは安価な装丁で本の形になった物が店先に並んでいる。
食用に出来る野草や茸の図鑑は、印刷物で平民でも少し金を貯めれば買える値段で売られていた。
大衆向けの本の製本・装丁は、ルリユールギルドからの依頼で、各ルリユールに素材と印刷された紙束が届けられ、分担で作り地元の書店に納品する。
決められた意匠で作る安価な素材での製本の為、大きなルリユールでは徒弟にさせる仕事にしている所もある。
イシュカの場合徒弟も居ないし、親方になったとはいえ、まだまだ修行の身だと思っている。割り当てられた冊数分を、一冊ずつ丁寧に作っていた。
紙束は既に順番を確認し、糸で閉じていた。今は表紙に張る革の処理だ。内側に折り込む革の端を削り、薄くする。読んでいる時に違和感が無い様に、閉じている間に頁を痛めないように等、ルリユールには製本後には見えない仕事が多くある。
専用のナイフで革を削っていたイシュカは、軽い足音に手を止めて、顔を上げた。
とたとたとヴァルブルガが開いていた戸口に現れ、工房に入って来るなりイシュカの脚に抱き付く。
「ヴァル?」
工房では刃物を扱うので戸口で入って良いか聞く様に、と言い聞かせている。ケットシー達は今まできちんとそれを守っていた。
イシュカはナイフに革の鞘を被せ、道具箱に入れた。革の屑の付いた手を払い、屈んでヴァルブルガの丸い頭を撫でる。
「どうしたんだ?」
「イシュカ」
孝宏が戸口に顔を出した。
「ヴァル、何処か痛がってない?椅子から落ちたって」
「え?ヴァル、大丈夫なのか?」
くっついている脹脛から、やんわりと剥がして抱き上げる。イシュカが抱くヴァルブルガの全身を孝宏が撫で、痛がらないのを確認する。
「妖精猫は身体が軟らかいけど……。痛いところ無い?」
「無いの」
「良かった」
イシュカと孝宏はほっとする。
「どうしたの?何か怖い事あった?」
「怖いの来た」
「怖いの?」
店に居たのはケットシー達とエルゼ、それと森林族の初めて見る客だった。常連客エルゼにはケットシー達は懐いているから除外だ。
「……森林族のお客の事かな」
しかし、ヴァルブルガは森林族のグレーテルや、クロエにも平気だった筈だ。ならば、ピンポイントでその客だけが苦手だと、そうなる。
「俺が行って来よう」
イシュカはヴァルブルガを孝宏に渡し、工房を出た。廊下を速足で抜け、開店中は開けているカウンターの裏にある戸口を潜る。
カウンターでは、エンデュミオンとルッツが「うるるるるる」と唸っていた。
「いらっしゃいませ」
取りあえず、カウンターの前に居る森林族の娘に声を掛ける。明るい金髪の少女に見えるが、実年齢は不明だ。
「店主のイシュカです。御用件をお伺いします」
こう聞いたのは、この客がルリユールとしての客では無いと、エンデュミオン達の反応から察したからだ。
森林族の少女は、黒いフード付きのマントを着ていた。魔女の証だ。
「私はハイエルンの魔女ウルリーケ。ヴァルブルガの前主の弟子です」
イシュカは細く息を吐いた。
エンデュミオンとルッツが何故唸っているのかが解った。
「魔女ウルリーケ、御用件は何でしょうか」
「ヴァルブルガに会いたいと思って来たのですが……」
イシュカとしては、すげなく断るしかない。
「申し訳ありませんが、ヴァルブルガが酷く怯えていますので、ご遠慮願います」
「あなたは……?」
「俺が、現在のヴァルブルガの主です。うちのケットシー達は病み上がりですし、負担を掛けたくありません。お帰り頂けますか」
「そう、ですか」
ウルリーケが俯く。その頭をエンデュミオンがカウンターの上に乗り出して、前肢でべしりと叩いた。結構、力強く。
「呪わなかったヴァルブルガの優しさに感謝しろ。エンデュミオンの名に於いて、無期限の出入り禁止とする」
「エ、エンデュミオン……?」
至高の大魔法使いの名前に、ウルリーケは目を丸くする。魔女も魔法使いの端くれだ。彼女達が目指し、追い付けない存在。それがエンデュミオン。
「エンデュミオンはエンデュミオンだ」
ふん、と鼻を鳴らし。
「カウンターの上は駄目」
カウンターの上に登っていたエンデュミオンは、イシュカに抱き下ろされた。
ちりりりん。
「ウルリーケ!」
ドアの硝子に影が差したと思えば、黒いマントを着たグレーテルだった。
「何故ここに居る。ハイエルンに帰れと言った筈だぞ」
「でも……」
「謝る為だとしても、お前と会うのはヴァルブルガが怖がるだろう。どうしてもと言うなら、伝言だけ言付けろ」
ウルリーケはマントの布地を握り締めた。
「……ヴァルブルガに、ウルリーケがごめんなさいと言っていたと伝えてくれますか?」
「承知しました」
頷いたイシュカにウルリーケは深々と頭を下げた。
「行くよ、ウルリーケ。邪魔したね」
グレーテルがウルリーケの手首を掴み、<Langue de chat>の外に連れ出す。
ちりりりん。
ドアベルの音と共にドアが閉まる。
ウルリーケが振り向いた場所には、陽炎の様に揺らぐ<Langue de chat>が建っていた。最早ドアが何処にあるのかさえ、不確かな。
「シスター・グレーテル。エンデュミオンとは一体……」
「呪いを受けたかい?あの子はエンデュミオンだよ。妖精猫風邪を引く様なケットシーだけどね。エンデュミオンが居る場所にヴァルブルガが居るんだ。安心おし」
「はい……」
「魔法使いギルドまで送ろう。転移陣でハイエルンにお帰り」
もう一度ウルリーケは<Langue de chat>を振り返る。
恐らく二度と入る事の出来ないルリユールを。
「フラウ・エルゼ、お騒がせしました」
閲覧スペースにずっといたエルゼに、イシュカは頭を下げる。エルゼは慌てて両手を振った。
「いいえ!それより、ヴァルは大丈夫ですか?」
「はい。怪我はしていない様ですから」
「イシュカ」
とことことヴァルブルガが奥から出て来て、イシュカの脚に抱き付いた。
「ヴァル、フラウ・エルゼが心配されてるぞ?」
「エルゼ」
ヴァルブルガはエルゼの側まで歩いて行き、ふにゃと笑った。
「ヴァルブルガ、もう大丈夫」
エルゼにハチワレの頭を撫でて貰い、ゆらゆらとヴァルブルガの尾が揺れる。
「皆、おやつだよ」
孝宏が小皿の乗った盆を持って現れた。小皿にはクッキー生地の上にアーモンドや胡桃の飴掛けを乗せて焼いたフロランタンがある。
「ふろらんたんー」
近くのテーブルに乗せた盆に、ルッツが駆け寄る。一度食べさせた事があるので、味を覚えていた様だ。
「イシュカ、手拭いてあげてね」
「解った」
椅子に登りフロランタンに前肢を伸ばすルッツを捕まえ、イシュカがおしぼりで拭いてやる。年長組の二人は自分で前肢を拭いていた。
「お騒がせしたお詫びに」
エルゼにも小皿に乗ったフロランタンを、孝宏は提供する。
「これ、飴ですか?」
「バターと白砂糖と蜂蜜と生クリームで作ります。領主館の菓子職人は作りませんか?」
「はい」
エルゼは苦笑してしまう。領主館には料理人と菓子職人がそれぞれ居るが、作るのは伝統的な菓子ばかりだ。黒森之國の伝統的な菓子は所謂ケーキやタルトだ。パイは最近王都で発明された調理法だと聞く。どちらにせよ、末端使用人のエルゼの口には入らない。
孝宏は店ではクッキーしか出さないが、きっと様々な調理法を知っているのだろう。
異國の方が、菓子の調理法は発達しているのかもしれないとエルゼは思う。
カリカリと音を立ててフロランタンを齧るケットシー達に、ふとエルゼは思い付く。
「あの、このお菓子をヘア・ディルクとヘア・リーンハルトにも頂けませんか?年末にこちらの焼き菓子を持って来て頂いて……」
あの二人にも変わった菓子を食べさせてあげたいと思ってしまった。<Langue de chat>のクッキーは日替わりだし、フロランタンは賄いのおやつらしい。今頼まないと駄目な気がしたのだ。
「ええと、あのお二人は……」
確か後一週間は来ない筈だ。領主館の専属騎士の二人は、二週間毎に<Langue de chat>に来る。
「良いですよ。お得意様サービスです。今包んで来ますね」
孝宏は一階の台所に行き、平たい籠に並べて冷ましていたフロランタンを、蝋紙の袋に二つずつ入れた物を三つ作った。
閲覧スペースに戻り、エルゼに渡す。
「エルゼさんのおやつの分も」
「まあ、有難うございます」
エルゼは大切そうに、ポーチの中へと蝋紙の袋をしまった。
<Langue de chat>は貴賤を選ばず客にする。但し、店と店員に危害を加えた者は客に非ず。
隠世の門番と言われる三つ首の番犬を凌ぐケットシーが、カウンターに待っている。
ヴァルブルガがハイエルンから逃げ出す理由になった、魔女ウルリーケ。エンデュミオンに呪われます。
ヴァルブルガは人見知りをするので、イシュカから離れて客に近付くのは稀です。エルゼとマリアン、アデリナには懐いています。
明日はバレンタインデーのお話です。




