妖精猫風邪
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ケットシーも風邪を引きます。
28妖精猫風邪
テオと出掛けていて配達から帰ったルッツが、頻りにくしゃみをしていたと思ったのが昨夜。
眠る頃になり、エンデュミオンとヴァルブルガも「へぷちっ」とくしゃみをし始めていたのが気になってはいたのだが。
翌朝、<Langue de chat>のケットシー三人は見事に風邪を引いていた。
「孝宏、孝宏」
肉球でぷにぷにと頬を押されて、孝宏が目を覚ますと、涙目のエンデュミオンがそこに居た。
『エンディ?』
『寒い。頭も痛い』
『え?』
嫌な予感に自分のカーディガンでエンデュミオンを包んで抱き上げ、孝宏はイシュカの部屋のドアを叩いた。
「イシュカ、起きてる?」
いつも起きるよりは早い時間だったが、すぐにドアが開いた。
「孝宏」
イシュカもヴァルブルガを抱いていた。エンデュミオンと同様にヴァルブルガも目を潤ませている。
「あ、ヴァルもか。って事は」
ルッツの泣き声が聞こえ始め、テオの部屋のドアが開いた。イシュカと孝宏の顔を見て、状況を悟った様だ。
「ごめん、ルッツの風邪移ったみたいだな」
「妖精猫風邪だ。テオとルッツは今回の配達で〈黒き森〉に行ったろう」
「うん。管理小屋に乾物類届けに」
「今の時期、〈黒き森〉では妖精猫風邪が流行するんだ。妖精猫以外には移らないから、余り有名じゃないが」
ぐすぐすとした声で、エンデュミオンが説明する。
「エンディ、薬は?」
「ミントティーが効く。飲んで寝ていれば治る」
「俺が買いに行ってくるよ。ドクトリンデ・グレーテルに知らせておいた方が良いかな」
ぐずりながら首の付け根に頭をぐりぐり押し付けるルッツの後頭部をテオが撫でる。
「一応、妖精猫風邪を街に持ち込んじゃったって、言っておいた方が良いかも」
「じゃあ、診療所開く頃に行ってくるよ」
孝宏達はケットシー三人をイシュカのベッドに並べて寝かせた。症状が同じなので、これ以上移り様がない。
人間三人は身支度を調え、イシュカはケットシーに付き、孝宏はお粥を作り、テオは魔女グレーテルの診療所へと出掛けて行った。
雪が踏み固められた路地をテオは走り、魔女グレーテルの診療所へと急いだ。市場広場に面してある診療所のドアを叩き開いた先には、まだ患者の姿は無かった。
「ドクトリンデ!」
「どうしたね」
待合室の奥の診察室のドアが開き、グレーテルが現れた。黒く長いスカートに、紫色のカーディガンと言う、いつもの格好だ。黒く長い髪は緑色の組紐を使って、うなじで一つに結んでいる。見た目は二十代だが、テオの何倍も生きている森林族だ。
「ルッツが妖精猫風邪を<黒き森>で拾って来ちゃって。<Langue de chat>にいるケットシー皆に移っちゃったんだよ。一応ケットシーにしか移らないみたいだけど、知らせておこうと思って」
「そうかい。往診に行くから待っておいで。薬を用意するから」
「え、良いの?」
「長く生きていれば、ケットシーも診た事があるんだよ」
グレーテルは診察室に戻り、誰かに話し掛けてから、往診鞄と硝子瓶が入った籠を持って来た。緑色がかった黒いフード付きのマントを着ている。
「患者さんが居たんじゃないの?」
「いや、客さ。昔馴染だから気にしなくて良い。留守番をさせておくさ」
硬く締まった雪をギシギシと鳴らしながら、テオとグレーテルが<Langue de chat>に戻る。玄関のドアを開けた奥で、ルッツの泣き声が聞こえていた。
「うわ、まだ泣いているのか」
「気分が悪いんだろう。可哀想に」
二階に上がってイシュカの部屋に入ると、泣いているルッツは孝宏に抱かれてあやされ、エンデュミオンとヴァルブルガは涙目でイシュカの太腿の上にそれぞれ座っていた。二人とも、尾がだらりと垂れ下がっている。
グレーテルは診療鞄と籠をベッドの端に置き、水を魔法で呼び出して手を洗った。それから診療鞄から聴診器、籠の広口瓶の一つから細い棒の先に半透明の薄茶色の物質が巻きつけられている物を取り出した。
「ドクトリンデ、それ何?」
「これは薬草のエキスを混ぜた飴だよ。ほら、口を開けてごらん」
孝宏にしがみ付いて泣いていたルッツに優しく声を掛け、グレーテルは薬草飴の棒を持っていない方の手の人差し指に光を灯した。
「ルッツ、喉診て貰おうか。痛くないから」
「みゃう……」
テオの言葉に、ルッツが口を開ける。グレーテルは棒の先の薬草飴で舌を軽く抑え、指先の光で喉の奥を見た。
「赤くなっているね。少し喉が痛むかい?」
「あい」
こくんとルッツが頷く。
「じゃあ、この飴を舐めておいで。楽になるからね」
グレーテルは舌を押さえていた薬草飴の棒をルッツに握らせた。ルッツは泣き止んで、ちゃむちゃむと飴を舐め始めた。大人しくなったところで、グレーテルはルッツの呼吸音を聴診器で確認する。エンデュミオンとヴァルブルガも同様に診察し、三人を見終わった時には薬草飴を舐める、ちゃむちゃむと言う音が重なっていた。
「熱もある様だね。水分も気を付けて摂らせてあげておくれ。薬は……妖精猫風邪の特効薬はミントだね。置いて行くからミントティーにしておくれ。これも入れると効果が上がるから」
籠の中からグレーテルが乾燥ミントの葉が入った広口瓶と、黄金色の液体が入った小さめの瓶を取り出した。
「これは?」
テオが黄金色の液体の瓶を持ち上げる。とろりとした液体は、瓶を傾けるとゆっくりと動く。
「霊峰蜂蜜さ」
「うわ、初めて見た」
霊峰蜂蜜は黒森之國にある<霊峰>と呼ばれる高山の花畑で、春から夏にかけてしか取れない貴重な蜂蜜だ。高山に生える薬草の花から蜜が作られる為、主に薬用として用いられ、一般流通はしない。王族や公爵家の嗜好品として、医師と魔女は薬として手にする事が出来るのだ。
「妖精猫風邪は辛いと聞くからね。様子を見て三日から一週間は安静にさせるんだよ」
喉が辛い様なら舐めさせるように、とグレーテルは薬草飴の瓶も置いて行く。それでグレーテルが請求した診療費は半銀貨三枚だった。
黒森之國の診療費は地域によって変わる。王都よりは四領の方が安い。グレーテルの場合は、基本半銀貨一枚だった。患者の収入や疾患によっては、額が変わる事もある。左区にある医師の診療所も同じ値段だ。
送ると言ったのだが、「さっさと自分のケットシーの元に戻りな」と言い置いて、グレーテルは診療所に帰って行った。
店のドアに掛け金を下ろし、階段を二段飛ばしで、テオは一度自分の部屋に入り、上着を置いてからイシュカの寝室に戻る。
「はい、テオ」
孝宏からいつもよりホカホカしているルッツを受け取る。薬草飴で少し楽になったのか、泣き止んだままだ。
「台所連れて行こう。お粥食べて、ミントティー飲んで貰わなきゃ」
ケットシー三人を各々連れて、台所の椅子に座らせる。
孝宏は白粥を木の椀に少な目に盛った。その上に削った鰹節をふんわりと乗せる。薄い味噌汁と共に、各自ケットシーに食べさせる。
「おかか……」
椅子の背の隙間から出ているエンデュミオンの尾がゆらゆらと揺れる。ケットシーはおかかが好物なのだ。
「はい、どうぞ」
一口ずつおかか混じりの白粥を食べさせ、味噌汁を飲ませてやる。食欲は三人ともそれ程落ちてはおらず、注いだ分の粥はきちんと食べた。
グレーテルから処方されたミントでお茶を作り、霊峰蜂蜜を一匙入れてケットシー達に飲ませる。
「鼻すーすーするの」
匙でミントティーをイシュカに飲ませて貰いながら、ヴァルブルガが前肢で鼻を押さえる。詰まっていたらしいエンデュミオンの鼻も、開通した様だ。呼吸の音が変わった。
「お昼までゆっくり寝てね。プリン作っておくから」
「プリンー」
ルッツが嬉しそうな声を上げた。食べる気満々だ。
看病するのに楽なので、日中はイシュカの部屋に三人とも寝かせる事にした。
時刻的には店を開ける時間は過ぎていたが、到底開けられそうにない。
熱が高く心配なのもあるが、〈憑く〉と言うだけあって、常よりも傍に居たがるのだ。特に一番幼いルッツは、テオから離れたがらない。
「無理だよね……」
「配達仕事入れて無くて良かった……」
「もう潔く三日休もう」
結局、イシュカはドアに〈三日間休業〉の貼り紙を貼ったのだった。
三日後、ケットシー達の熱が下がったので、イシュカは店を開けた。ただし、ケットシー達は一週間店を休ませる事にした。
「ヒロ、エンディ達は?」
本を返しに来たエッダとカミルは、〈師匠〉の姿が無いのにすぐに気が付いた。
「風邪を引いたんだよ。熱は下がったから、もう何日か休んだら、お店にも出られるよ」
「そうなの?良かったあ」
当然、エッダもカミルも家に帰って、両親にケットシーの不調を話した。
「お買い物行けてたのかしら」
三日休んでいた事はエッダから聞いていたアンネマリーとクルトだったが、ケットシーが三人とも寝込んでいたなら、手が掛かっただろうと思う。
「水臭いわねえ」
翌日、アンネマリーが籠を両手に持って<Langue de chat>に現れた。籠の中にはカールのパンや、アロイスの腸詰肉や、野菜に果物がどっさり入っていた。
「皆から御見舞いよ。もうっ、精霊で知らせてくれれば、代わりにお買い物位するのよ?」
「すみません、有難うございます」
「困った時はお互い様よ。元気な姿を見せてくれたらそれで良いのよ」
お大事にね、とアンネマリーが帰って行く。
貰った物を持って孝宏が二階の居間に上がって行くと、ケットシー達はテオと台所に居た。
「喉渇いたんだって」
ミントティー以外の物を飲みたいと言われたのか、ミルクティーを作ってやっていた。
「これ、どうしたんだ?」
エンデュミオンがざら紙に包まれた白パンをつつく。
「皆がお見舞いですって、くれたんだよ」
「りんご」
ルッツが目敏く籠の中の林檎に気付く。
「ルッツ、林檎食べたいの?」
「りんごー」
「剥いてあげるね」
八等分にして芯と皮を剥き、砂糖水で色止めをして、皿に乗せた林檎を出してやる。テオがフォークで刺して一人ずつに渡すと、シャリシャリと食べ始めた。
「あまーい」
黒森之國の林檎は加熱すると甘くなる酸味のある物が多いのだが、これは蜜入り林檎だった。いつも行く八百屋だろうか。
ヴァルブルガも林檎が好きなのか、嬉しそうに食べている。後でイシュカに教えてやろう。
(タルトタタンとか、好きかなあ?)
手間が掛からず作れるし、作ってみようと心にメモをする。
「夕御飯はポトフにしよう」
「ぽとふー」
孝宏は貰った野菜と腸詰肉で、ポトフを作った。熱が下がりすっかり食欲も戻ったケットシー達も良く食べた。
数日後、ケットシー達は元気に完全復活を遂げる。
ケットシー風邪を引くの巻。
リグハーヴスには彼らしかケットシーが居ないので、流行はしませんでした。
お休みの間は、たっぷり甘えていたエンデュミオン達です。




