二藍の書(前)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
<遠き國の物語>の本、出来ました。
26二藍の書(前)
パチパチと続いていた、タイプライターの音が止む。
「んー」
孝宏は両腕を上にぐっと上げ、伸びをした。
「良し」
タイプライターに挟まっていた紙を引き抜き、机の傍らに重ねてあった紙束に載せ、とんとんと端を合わせる。
その紙の束を持って、孝宏は居間に向かった。
「イシュカ」
居間ではイシュカとヴァルブルガがソファーに居た。イシュカの太股を枕に、折れ耳のハチワレ妖精猫ヴァルブルガが昼寝をしていた。眠り羊の毛で編んだ紺色の膝掛けを毛布代わりに身体に掛けている。
<Langue de chat>に来たばかりの頃はガリガリに痩せていたヴァルブルガも、毎日きちんと食事を取れる様になり、大分肉付きが戻って来た。
ラグマットの上では鯖虎柄のエンデュミオンが同じ様に、クッションを枕にして膝掛けを身体に掛けて寝ていた。
ケットシー達を起こさないように、孝宏は忍び足でイシュカに近付き、原稿の束を差し出した。
「はい、これ」
「出来たのか?」
「うん」
「紙の色を変えたのか」
「これは〈紫の薄様〉って言う」
孝宏がタイプライターで打ち出した紙は、掌編毎に色を変え、白い紙から濃い紫の紙に移って行っていた。
「表紙も青みがかった紫にして貰うつもり」
去年の終わりから書いていた倭之國風の話が、漸く推敲とエンデュミオンの翻訳が終わり、タイプライターの清書が済んだのだ。
実はイシュカにはエンデュミオンの翻訳の時点で一度読んで貰っている。
「倭之國の地位のある女性の服、十二単の重ねの一つだよ」
「ほう」
「それから版画なんだけど、いっそ人物の姿は影にしちゃって、着ているものや小物は鮮明に描いて欲しいな」
「面白いな。しかし資料が倭之國から来た版画しか無いのが心許ないな」
「それなら……」
孝宏はズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出した。
「何だそれ?」
「俺の居た世界の通信機器。これで離れた所に居る人と会話が出来たりする。他にも機能があって、色々な情報を保存しておけるんだ」
「は!?」
「みゃう……?」
イシュカの身体が動き、ヴァルブルガが目を覚ましてしまった。前肢で緑色の目を擦りながらころりと寝返りを打つ。
「すまん、起きたか」
イシュカがヴァルブルガの頭に掌を乗せる。ヴァルブルガの目が孝宏の手の中のスマートフォンに注がれた。
「それなあに?」
「これはスマートフォンだよ。こうやってね……」
孝宏はスマートフォンを操作して、平安京の資料を呼び出した。
「わぁ」
ヴァルブルガが肉球で画面に触れると、ぱっと画面が切り替わる。
目をキラキラさせて、ヴァルブルガがぷにぷにと画面に触る。
「肉球でも反応するんだ」
ヴァルブルガにスマートフォンを渡すと、嬉々として読み始めた。
「ヴァルブルガ、倭之國の言葉読める?」
「読める」
「じゃあ、イシュカに訳してあげてくれるかな」
「うん」
資料の頁の開き方をヴァルブルガに教えてやれば、肉球で器用に捲って行く。物凄く吸収の速いケットシーである。
以前から思っていたが、ケットシーは知識を得ると言う事が好きなのだ。<Langue de chat>に居るケットシーは、三人ともこの世界の主要言語は話せるらしい。
「読んで疑問に思った衣服とか調度品は、それで調べられるよ。ヴァルブルガに頼んで。画面が見えなくなったから、電池切れだから充電するよ」
「電池切れ?」
「ええと、熱鉱石なんかの力が無くなるのと同じ様なものって考えると良いかな」
「なるほど」
この世界には電気が通常使用されていない。取り敢えず納得して貰えたので、孝宏はほっとした。
「孝宏……」
いつの間にかエンデュミオンが起きていた。「あれ」とヴァルブルガが持っているスマートフォンを前肢で差す。そう言えばエンデュミオンに触らせた事が無かった。
「エンデュミオンも見たい」
「ごめん。イシュカの仕事が終わってからでも良いかな」
「うん」
こくりと頷いてくれたので、お詫びに孝宏はエンデュミオンの隣に腰を下ろし、膝の上に乗せてやった。原稿中は邪魔しない様に、エンデュミオンは書斎に入って来ないのだ。
他のケットシーに比べて大人びているエンデュミオンだが、甘えたがる時もある。
休日の残りの時間、孝宏はエンデュミオンをちょっぴり甘やかしたのだった。
一週間後、<Langue de chat>の棚に青紫色の本が増えた。〈竜胆物語〉と言うタイトルのその本は、〈遠き國の物語〉である事から、特にイシュカも孝宏も誰かに勧める事はなかった。
一冊は領主館のキッチンメイドのエルゼが借りて行き、もう一冊は。
「お、レオンハルトからの返却だ」
カウンターが光り、自動返却された本が現れる。王都に居る王太子レオンハルトの場合は、返却されている本に手紙が付いていて、次の本を選んで送ってくれる様に書いてある事が多い。料金はギルド振込みだ。
今回も中に二つ折りの用箋が挟んであり、「次の本を送って欲しい」と書いてあった。
レオンハルトは流石に王族の教育を受けているだけあって、宵闇の書位までは読める。どの本を送るかはエンデュミオンに一任されているので、レオンハルトはジャンル関係無く読まされている。
「ふむ。今度は<遠き國の物語>でも読んで貰おうか。孝宏、<竜胆物語>を取ってくれ」
「はい。革袋入れて良いんだね?」
「うん」
<Langue de chat>の空押しがある明るい茶色の革で作られた革袋に<竜胆物語>を入れ、孝宏は針金の付いた荷札にレオンハルトの名前を万年筆で書いた。
「<転移陣。王都は魔法使いの塔行き>」
エンデュミオンはカウンターの上に本が載る大きさの銀色に光る転移陣を呼び出した。そこに孝宏が本の入った革袋とクッキーの入った蝋紙の袋を乗せると、転移陣は一瞬強く光った後革袋と共に消え失せた。
本を<Langue de chat>に返却した翌日、レオンハルトは王宮の敷地内にある魔法使いの塔に向かった。供は専属護衛騎士のハインリヒと専属メイドのティアナだけだ。王宮内には敷地内を警備する騎士も居る。
第一王子ローデリヒ派の者達に狙われる事も充分考えられはするのだが、歳の近い王子が二人の黒森之國では、第二王子で王太子のレオンハルトが狙われれば、犯人はまず第一王子派と見做されるだろう。レオンハルトの実弟になる正妃腹の第三王子エトヴィンはまだ一歳だ。
レオンハルトが王太子に指名された時、第一王子ローデリヒはレオンハルトを支える様にと現王マクシミリアンから命じられている。つまり、ローデリヒ派に第一王子を王太子にする気は無く、余計な事をすれば、全てお前達の仕業と見做すと牽制を掛けたのだ。レオンハルトが襲われる様な事があれば、ローデリヒは王族籍から外され、臣籍に落とされるだろう。
そうでもしなければならない理由は、ローデリヒでは無く、彼の母親カサンドラにあるのだが。ローデリヒが王になれば、確実に彼女や彼女の家が政治に口を挟んで来るだろう。
黒森之國に傀儡の王は不要だ。現王マクシミリアンの目は曇っていない。
王宮の外れにある魔法使いの塔は、長らく王宮魔法使いが住んでいた。しかし、前任の王宮魔法使いが五十年前に亡くなった後、魔法使い達は誰も王宮魔法使いになろうとしなかった。
王命で任命しようとするも、「ならば黒森之國を出る」とまで言われれば、国内で研究されている方がマシだ。黒森之國の魔法使いを他國に流出させる訳にはいかない。
それでも無人となれば建物は傷む為、現在は魔法使いジークヴァルトが住んで塔を管理している。
円筒形の灰色かかった白い石積みの塔は、恐らく五階か六階建てだ。長くここに住んでいた大魔法使いエンデュミオンが暇つぶしに改造していたので、中がどうなっているのかは弟子の大魔法使いフィリーネと、現在の居住者ジークヴァルト位しか把握していないのだ。
塔の下に立ち、金具で補強をされているドアを一応ノックするが、当然の如く返事は無い。
レオンハルトはドアの丸い引き金に手を掛けて引っ張った。このドアは見た目に鍵穴が無いのに、住人に許可された者しか開けられないのだ。
レオンハルトの場合は、リグハーヴスで会ったケットシーのエンデュミオンから貰った〈鍵〉で入れる。
ギイ、とドアを軋ませて開き、レオンハルトはハインリヒとティアナと共に塔の中に入る。ドアをきちんと閉めて振り返れば、がらんと何もない薄暗い空間が広がっている。ただし、地面には淡く銀色の魔法陣が光っている。ここは主に転移陣の為だけの空間なのらしい。
壁際にある弧を描く階段を上って行くと、二階からは生活空間に変わる。壁際をぐるぐると回る階段の途中にある踊り場のドアを開ければ、二階には居心地の良さそうな台所付きの居間がある。居間から直接行ける三階には寝室やバスルームがあるらしい。三階を飛ばして四階に上がると、そこから上は研究室になっていた。魔法書が詰め込まれた棚がある部屋が幾つか続き、最上階には主の仕事部屋がある。
ジークヴァルトがどの部屋に居るのかは、はっきり言って毎回解らない。居間から一つ一つ確かめて行くのだ。
「ジークヴァルト?」
「おや、レオンハルト様」
今回は居間に居た。ソファーの上で魔法書らしき本を読んでいる、二十代半ばに見える小麦色の髪と耳と尾を持つ人狼は、ヘイゼルの瞳を細めて笑った。
ジークヴァルトは人狼だ。黒森之國では森林族よりも数が少ない。<黒き森>のハイエルン側に集落が幾つかある。大魔法使いフィリーネが集落を訪れた時、フィリーネの弟子になったと言う経歴がある。フィリーネの一番弟子なので、見た目よりは年上の筈だった。
「ジークヴァルト様!」
きりりとティアナの眉が跳ね上がる。居間の中は見事に荒れていた。
「換気は毎日なさいませ!洗濯物は盥に入れておいて毎晩洗いなさいと申しましたでしょう!」
ぷりぷりと怒りながら、ティアナが窓を開け、ソファーの上や床に落ちている洗濯物を拾い集め、三階のバスルームに運んで行く。その間にレオンハルトとハインリヒが床に点在する魔法書を拾い集め、空になっている本棚に並べて行く。何故かジークヴァルトは出した本を棚に戻さない事が多い。
最初にここを訪れた時から、来る度に散らかっている部屋を片付けているレオンハルト達である。
「いつも済みませんねえ」
部屋を荒らした当人は、台所に行く。何故か台所は綺麗なのだ。
薬缶でお湯を沸かし、ジークヴァルトがお茶を淹れる頃、ベッドルームとバスルームを掃除していたティアナが三階から降りて来た。洗濯をして畳んで来たのだろう。
きちんと濡らした布巾で拭いたテーブルにお茶道具の乗った盆を置き、ジークヴァルトが四人分のお茶をカップに注ぐ。白磁に緑色の葉模様の可愛らしいティーセットだ。
「昨日届いていましたよ」
お茶を配った後、ジークヴァルトは居間にある扉付きの飾り箪笥の中から、革袋と蝋紙の袋を取り出してレオンハルトに渡した。流石に預かりものは、特別扱いされている。
「有難う」
レオンハルトは革袋と蝋紙を受け取った後、蝋紙に入っていたクッキーをカップが載っていたソーサーの上に出した。孝宏はいつも十枚近くクッキーを入れて来てくれる。それをレオンハルトはここでのお茶のお菓子にしていた。
ここは王太子としての教育も開始されたレオンハルトの、息抜きの場の一つだった。
倭之國風のお話を書いた孝宏。倭之國について正確に知らないので、華族・樹族という書き方はしていません。なので本来樹族の鳴滝の少将が木の名前では無いのです。
王都に戻ったレオンハルトにも触れてみました。兄弟仲は悪くないのですが、母親同士の仲が宜しくありません。
二藍は蓼藍と呉藍(紅花)で染めたもの。赤系の紫から青系の紫まで範囲の広い色です。




