漆黒の書
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ミステリはお好き?
24漆黒の書
「私が気になったのは、あの部屋にあったゴブレットの水滴なのでございます」
「水滴だと?」
「はい、御前様。あれはゴブレットの中に入っていた飲み物が随分と冷えていた証し。ですが今は冬、氷を使う事は少ないでしょう。現に食事を運んだメイドは氷を持って行かなかった。これは料理長も通り掛かった他のメイドも証言しています。そして、被害者は必ず食事を運んで来るメイドに目の前で毒味をさせていたそうです」
「では氷は何処から来たのだね」
「飲物の一部を凍らせれば宜しいではありませんか、この様に」
カラリと音を立てて、ベルンハルトの持っていたゴブレットに四角い氷が浮かんだ。
「この中に毒物を入れる事は、魔法が使える者なら可能でしょう。飲み物が温かったとでも言えば、不自然ではありません。そして氷は溶けるのです」
「毒味のメイドがゴブレットの中身を口にした時はまだ毒が溶け出していなかったと?」
「はい。メイドが退室した時は被害者はまだ生きていた。だから、あなたはそう証言した」
ベルンハルトはお仕着せの白いエプロンを握り締めるメイドに目を向けた。
「あなたがあの晩生きている被害者に最後に会ったのですよね?」
「……あんな奴は被害者なんかじゃないわ!あいつこそ人殺しよ!」
〈冷たい殺意〉を読み終わった魔女グレーテルは、ほうっと息を吐き、思い出した様に冷めた紅茶を飲んだ。
(何だこれは)
ミステリと言う謎解きの本だと借りたのは、黒森之國に似た架空の世界の殺人事件の話だった。それを領主の執事が解決して行く。
犯人は、高位聖職者に仕えていたメイド。聖職者が新婚の妻に形式的に行う初夜権で、暴行され自殺した姉の仇を討った妹だった。
(毒は黒森之國でも知られている物だが、瞳孔の拡散に死後硬直……これは医者か魔女が書いた物なのか?)
架空の物語である、と註釈がついているが、高位聖職者の鼻持ちならなさはたまに聞く話だ。腐っている聖職者が読めば、さぞや肝が冷える事だろう。
ちなみに領主や聖職者の初夜権は、現在は御付きの女性と一晩個室の礼拝堂で月の女神シルヴァーナに祈りを捧げる、と言う形式に変わっている。
領主だろうと聖職者だろうと、結婚が決まっている女性を襲えば強姦罪だ。
なので、黒森之國の話だとしても、〈冷たい殺意〉はかなり昔の話なのだった。
冒険物に、ハーレクインロマンスに、ブロマンス。異國ものと来たら、次はミステリだろうと孝宏が書き上げた〈冷たい殺意〉。
孝宏から預かり読み終えたイシュカは、原稿をテオに無言で差し出した。
「何?ヒロの新作?」
「ああ。これを<Langue de chat>の棚に置いても良いかどうか迷ってる」
「読んで良いの?」
「ああ」
「じゃあ、今晩読んでみるね」
この時、イシュカからテオに原稿が渡ったのを見た孝宏が、『え!?発禁の危機!?』と焦ったのを二人は知らない。
翌朝起きて来たテオは「良いんじゃないかな、昔の話だし」と結論付けた。又もやルッツにも音読していたのか、小さなケットシーは「しきょう、もげればいい」と感想を言っていた。その言葉にエンデュミオンも頷く。過激なケットシー達である。
「表紙の色はどうする?孝宏」
台所で朝食の用意をしていた孝宏にイシュカが原稿を振ると、ほっとした顔を見せた。
『発禁にならなかったんだ』
「発禁?」
「発売禁止の事」
「テオとも話したんだが、今の黒森之國では既に禁止になっている事だしな。教会も煩く言って来ないと思う」
何しろ、物語の中の司教は既に形式的になっていた初夜権を使い、新婦を強姦している犯罪者だ。
「んーと、黒にしようかな。漆黒の書って事で」
人の心の何処か暗い部分を書くのが、多くのミステリだ。
「で、箔押しは銀でお願い」
「解った」
そうして棚に並んだ〈冷たい殺意〉。
殺人事件を扱う本なので、イシュカも孝宏も特に客に宣伝しなかった。
タイトルからして物騒なその本に最初に手を伸ばしたのは、魔女グレーテルだった。
グレーテルは診療所から比較的近い<Langue de chat>に、最近良く休憩に来る。どうやら、大工の娘エッダから話を聞き、興味を持ったらしい。
大概の女性達と同様に、薔薇の書から読んでいたグレーテルだったが、今日は何故か棚の端に置かれた影の様な本が目についたのだった。
「これは……」
「それ、新しい本なんですよ。ミステリって言う種類の、謎解き……でしょうか」
孝宏がカウンターからグレーテルに声を掛ける。
「ほう」
魔女などと言う知識を求める仕事をしているグレーテルは、新しい知識はどんなものであれ大好物だ。
丁度棚に並んでいる薔薇の書は、一度読んだものばかりだったので、グレーテルはその〈冷たい殺意〉を借りたのだった。
午後の診療時間に入りそうだったので、本は読まずお茶と焼き菓子だけを楽しんで帰った。
そうして、本を開いたのは夕食の後だった。
(止め時が解らず一気に読んでしまったな)
誰が犯人なのか、執事のベルンハルトが関係者に聞き込みをして行くのだが、証言により被害者の人となりなども浮かび上がって来る書き方の妙に唸ってしまった。
(それにしても、<Langue de chat>の本は誰が書いているのだろうか)
<Langue de chat>の本には作者名は書いていない。店の名前だけなのだ。
(作者を伏せる理由でもあるのか?これだけの内容だ、知識階級でなければ書けぬ。やはりそれなりの位階がある者が名を伏せて書いているのかもしれぬな)
グレーテルはそんな風に考えていた。
そしてもう一人、漆黒の書を手にした者がいた。
リグハーヴスの教会司祭ベネディクトである。彼は内密に領主アルフォンス・リグハーヴスから、<Langue de chat>にいる黒髪の少年に気を配る様に命じられていた。
その少年は〈異界渡り〉かも知れず、春に聖都から審問の使者が来るだろうと言うのだ。
〈異界渡り〉と言えば、月の女神シルヴァーナの御使いとされる。不当な扱いを受けていれば、領主もしくは教会が保護しなければならない。
しかし、少年はケットシー憑きであり、<Langue de chat>で大事にされている為、余計な介入は無用とも言い付けられていた。
ちりりりん。
「いらっしゃいませ、司祭様」
カウンターに居た孝宏が、入って来た黒衣の僧服のベネディクトに笑い掛ける。
リグハーヴスの司祭は三十代半ばの、灰色の髪をした青年だ。公爵領の街や集落の教会に居るのは司祭までだ。司教や大司教は王都の教会と大聖堂に居ると言う。
ベネディクトが<Langue de chat>に来始めたのは、日曜の朝の説教で使う説話集の修復依頼だった。司祭の説話集だけに勉強の跡があり、新しい物をと言う訳にはいかない様だ。それと、リグハーヴスの教会には修復師が居ないのだそうだ。
修復する程古い文献も、リグハーヴスの教会には所蔵されていないと言う。そう言うものは、王都に集められているらしい。
説話集の修復に来た時に貸本をしていると知ると、ベネディクトは本を借りていく様になった。
月の女神シルヴァーナに生涯を捧げている司祭が、薔薇の書や宵闇の書を読んでも大丈夫なのかと思うのだが、イシュカとエンデュミオンによれば、検閲でもあるのだろうと言う事だった。
國家転覆に繋がりそうな、王家や教会の批判が書かれていないか。
教会は、黒森之國で発行される魔法書なども全て検閲しているのだそうだ。そして、危険過ぎるものは、閉架処置にして一般の目には触れないようにすると言う。
そんな話を聞いていたので、ベネディクトが〈冷たい殺意〉をカウンターに持って来た時には、流石の孝宏も「貸して良いのかしら」と一瞬悩んだ。
とは言え、「誰もが読みたい本を読める(未成年は除く)」と密かに歌う<Langue de chat>だ。そのまま孝宏はベネディクトに貸し出したのだった。
その結果。ベネディクトは懊悩していた。
(何とういう事だ。この様な本が御使い様のお手元近くにあるとは)
聖職者の汚職が犯行の動機と言う本が。確かに昔、実際これに類似した事件が起きた事があったのだが、その聖職者の告白書は閉架扱いになり、王都の図書館地下に保管されている筈だ。
(それが何故公に……。これを書いたのは聖職者なのか?いやそれよりもこれを御使い様が読まれたかもしれないと言う方が問題だ)
王家や教会を頼るべき御使いが、この様な物を読めば教会を忌避するかもしれないではないか。過去には腐れた聖職者が居たのは事実。しかし、ベネディクトは敬虔な月の女神シルヴァーナの司祭なのだ。
助祭や教会に来た街の住民に心配されながら、よろよろとベネディクトは<Langue de chat>に<冷たい殺意>を返却に訪れた。
「司祭様、お顔の色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
「え、ええ。大丈夫です」
カウンターに居た孝宏に心配され、ベネディクトはこの寒さの中来たと言うのにハンカチで額の汗を拭いていた。
(聞かなければ……)
ごくりとベネディクトは渇いた喉に唾を嚥下した。
「ヘア・ヒロはこの本を読まれたのですか?」
「はい。読んでいますよ」
何しろ書いたのは孝宏自身だ。何故かベネディクトは孝宏の返事に衝撃を受けたらしい。ますます顔色が白くなった。
「そ、そうですか。いえ、勘違いなさって欲しくないのですが、このお話の様な聖職者が頻繁に居る訳では無いのですよ」
「勿論ですよ。これは昔の話としていますし、今は禁止されているそうですからね。これは作られた物語ですから」
現在でも行われていたら、イシュカもテオも発行を許してくれなかっただろう。教会に告発されてしまう。黒森之國は一神教で、他國出身者以外は産まれた時に洗礼を受けるので、教会に破門されるとかなり拙い立場になるらしい。
流石にそこまでの冒険はしない。
「解って頂ければ宜しいのですが……」
どこか安堵した表情になるベネディクトを脅かした事に、少々罪悪感を覚えた孝宏だった。
「おや」
「これはドクトリンデ」
<Langue de chat>を出た所で、ベネディクトは魔女グレーテルと鉢合わせた。
「その本は……」
グレーテルの手にあったのは〈冷たい殺意〉だった。
「あんたもこれを読んだのかい?調度良い、顔を貸しな」
「えっ、私は教会に……」
「良いから。聞きたい事があるんだよ」
思いの外力強い腕を掴まれ、ベネディクトはグレーテルに診療所まで連行されてしまった。
〈休憩中〉の札がある診療所の診察室で、ベネディクトは患者用の椅子に座らされる。グレーテルは自分の椅子に座り、診察机に乗せた〈冷たい殺意〉の表紙をぽんと叩いた。
「これ、どう思うね?」
「ここに書いてある事は現在では行われていませんよ。ドクトリンデ」
「あたしを幾つだと思ってるんだい、ベネディクト司祭。昔実際にあったことだってのは知ってるさ。それより、あたしが言いたいのはこの医学知識だよ。出鱈目を書いているんじゃないんだよ」
「え?」
黒森之國では、医学知識は一般の民には余り知られていないのだ。医学は医者か魔女が行うものであり、予防医学としては身の回りを清潔にする事位しか知られていない。
「<Langue de chat>の貸本を一体誰が書いているのか、考えた事はあるかい?そもそも物語の本を作ると言う発想自体稀有だよ。最初は知識階級の誰かがお忍びで書いているのかと思ったんだけど、ベネディクト司祭、あんたが出張っている事で煮詰まったよ」
「な、何でしょうか?」
「〈異界渡り〉は黒髪黒目だったね。ヒロは〈異界渡り〉なんだろう?〈異界渡り〉は何かしらの〈贈り物〉を持っていると説話集にもあるが、あの子の〈贈り物〉はこれなんだろう」
「<Langue de chat>の本を全てあの子が書いていると?」
「そうだろうね。あの店の人間が書いているからこそ、作者名を本に記さないのじゃないかねえ」
〈異界渡り〉であれば、黒森之國の一般人が持ち合わせない知識を持っていても不思議は無い。
ベネディクトは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「公爵に知らせないと……!」
「知らせるのは良いが、ヒロを公爵家や教会で保護すべきだとか、王都に連れて行くべき、と言う流れにするのは賛成しないよ」
「何故ですか?貴重な〈異界渡り〉ですよ!?」
「あの子はケットシー憑きだよ。その上<Langue de chat>には、他にも一人ケットシーが居るのをお忘れで無いよ。ケットシーは主の意にそぐわない事は許さないからね。呪われるだけさね。だから公爵もあんたにそれとなく気を配らせているだろう?」
グレーテルは〈本を読むケットシー〉の箔押しがある黒い表紙の本を、指先で撫でた。
「あの子達は何も悪い事はしていない。本を読む人達を楽しませたいだけさ。リグハーヴスで穏やかに暮らしたいなら、そうしてやるべきじゃないかね」
「それは、私には決められない事ですから」
「せめてあの子達に恨まれない様におし。ケットシーの呪いはしつこいらしいから」
「ご忠告有難うございます。では、失礼します」
堅物の司祭をヒラヒラと手を振って見送り、グレーテルは診察机に肘をついた。
(公爵は気付いているのか)
ならば、雪融けが進んだ春にでも、聖都の審問団が来るのだろう。
孝宏が月の女神シルヴァーナの御使いかどうかを決めに。
(どうなる事やら)
そっと溜め息を吐き、グレーテルは椅子から立ち上がった。
途中になっていたが<Langue de chat>に行って本を返却して来なければ。そして、まだ読んでいない本を借りて来よう。
グレーテルの楽しみになって来た<Langue de chat>の貸本を、巫女の託宣などで台無しにはされたくないと思いながら、診療所を出る。
(今日の焼き菓子は何の味だろうね)
自分で淹れるよりも美味しいお茶とお菓子を出してくれる貴重な人材を、王都や聖都に渡す気は魔女グレーテルには更々無かった。
生真面目な司祭ベネディクト。孝宏が<冷たい殺意>を書いたと知り、「これが試練か!」みたいな事になっています。気にし過ぎです。
初夜権は実際にあったり無かったりと言われていますが、初夜の前に新郎が新婦を領主や聖職者に差し出すという慣習です。
魔女のルビはヘクセでも良いのですが、こちらは<鬼婆>という意味もあるのです。なのでウィッチを採用しています。
そしてミステリ部分の穴については、寛大にして生温かいお心でスルーを。
ミステリは書くの難しいですね。




