ルリユールの同居人
この場所にはルリユールが開業予定です。開業準備の為、物音などご迷惑をお掛け致します。
まだ準備中です。
2ルリユールの同居人
遠くから聞こえる鳥の声に瞼を開けた孝宏の目に、カーテンの無い窓から差し込む光が部屋いっぱいに広がっているのが見えた。
八畳ほどの板張りの部屋に、ベッドとその脇にある小物箪笥、衣装箪笥に書き物机と椅子程度の家具しかない。きちんと掃除されてはいるが、誰かが常に使っている部屋では無さそうだ。
寝返りを打った孝宏の額から、温くなった手拭いが落ちた。手拭いを掴んで、小物箪笥の上に置いてあった白い琺瑯の洗面器の中に入れる。
「うにゃ……」
隣で寝ていたエンデュミオンが身じろぎし、黄緑色の瞳をぱちりと開いた。孝宏と目が合う。
『具合はどうだ?孝宏』
『熱は下がったみたい』
『どれ』
黒い肉球の付いた前肢で、エンデュミオンが孝宏の額に触れる。ぷにっとした感触に、思わず笑みが零れる。
『大丈夫みたいだな』
『うん』
孝宏はベッドの上で半身を起こし、顔を顰めた。
『俺達あんまり綺麗じゃないね』
リグハーヴスに着くまで、着替えも出来ず野宿の様な事をしていたので、白いシーツが汚れていた。シーツとシーツの間で寝ていたので、マットレスや毛布は汚れていないのが幸いだ。
『バスルームを使って良いと言っていたから、風呂に入ろう。ついでに服とシーツを洗おう』
『うん』
ベッドからシーツを剥がし、抱えてエンデュミオンが案内するバスルームに向かう。
『おお、猫肢バスタブ』
白いタイルのバスルームは白い猫肢バスタブでシャワー付きだった。エンデュミオンは慣れた様子で水が入っているらしきタンクのレバーを上下に動かした。するとこぽこぽとタンクに水が上がって来る音が微かに聞こえた。
『熱鉱石はどうかな。孝宏、エンデュミオンを持ち上げてくれ』
『こう?』
両脇に手を差し入れ抱き上げてやる。エンデュミオンはタンクの蓋を半分持ち上げ、中に下がっている細い鎖を引き上げた。鎖の先には金物の網に入った赤い鉱石があった。
『少し弱くなっているかな。暫く使っていなかったみたいだ。……良い子良い子』
エンデュミオンは熱鉱石に撫でる様な仕草をしてから、タンクの中に戻した。元通りに蓋をして、孝宏に床に下ろさせる。
間も無くリンッと鈴の音が鳴った。
『これがタンクに水が入って、お湯になった合図だよ』
『へえー』
タンクは半分が水、半分がお湯になる仕掛けらしい。蛇口でお湯の温度を調整し、バスタブに溜める。エンデュミオンはバスルームの棚に、広口のガラス瓶に入れて置いてあった、薄紫色の紙に包まれた五センチ四方のキューブを孝宏に取らせ、紙を剥いてバスタブに放り込んだ。直ぐにぶくぶくと泡立ち始めラベンダーの花の香りがバスルームに広がる。
適度にお湯が溜まったので一度お湯を止め、服を脱いで孝宏はエンデュミオンとバスタブに浸かった。立っていればエンデュミオンも沈まない深さだ。
シャワーで髪を濡らし、バスタブの泡を掬って頭の先から爪先まで洗う。棚にあった手拭いを拝借し、三日ぶりの汚れを落とした。髪の泡を流した後、微妙な表情で湯に浸かっていたエンデュミオンも綺麗に洗った。妖精猫だけに風呂が大好き、とまではいかない様だ。
バスタブのお湯を抜きながらシャワーで泡を洗い流し、孝宏は満足気な息を漏らす。
『お風呂は生き返るなー』
『……ぶるぶるしたい』
『ぶるぶるしないで。今拭くから』
濡れたままエンデュミオンに身震いされたらバスルームが水浸しになる。棚からバスタオルらしい大きめの布を取り、まずはエンデュミオンを拭いてやった。肢先も包む様に拭いてから、床の上に下ろしてやる。それから自分の髪や身体を拭いた。
『あ、しまった。着る物ないや』
『大丈夫、直ぐ洗う。待ってて』
腰にタオルを巻いて、孝宏は着ていた服のポケットが空なのを確かめてから、エンデュミオンに渡す。
エンデュミオンは孝宏の服とシーツを前にして、「<洗って>」と言った。すると洗濯物が浮かび上がり水の球で包まれた。じゃぶじゃぶと水の球の中で洗濯物が撹拌され、ラベンダーの香りが鼻先に再び香る。途中で濁った水が替えられ、濯ぎに入ったのが解った。
『全自動洗濯機……?』
エンデュミオンは魔法が使える。精霊に力を借りて術を行使するのが、ここ黒森之國で言う魔法なのだと聞いている。魔法が使える人は結構多いが、大概はこういった生活術として使うらしい。素質があれば、この程度なら魔法を使える人から習えばすぐに使えるらしい。
濯ぎが終われば水の球から風の球に代わり、風の中で転がされる洗濯物があっという間に乾いて行く。
『おしまい』
ぱさりと床の上に落ちた洗濯物はすっかり乾いていた。
『髪、乾かす』
暖かな風が孝宏とエンデュミオンを包み、濡れた髪と毛を乾かした。
『有難う、エンディ』
孝宏は有難く綺麗になった服を身に着けた。バスルームの小窓を細く開けて換気をし、バスタブに水を掛けながら手拭いで擦ってから、ざっと水気を拭きとった。
使った手拭いとバスタオルは琺瑯の盥があったので、その中に入れておく。洗濯板があったので、洗濯物を入れておく場所だと解ったのだ。
(洗濯板があるって事は、イシュカって魔法使えないのかな?)
ちなみに孝宏も魔法は使えない。
洗ったシーツとエンデュミオンを抱いて客間に戻り、ベッドにシーツを敷き直した。
『これも片付けて良いよね』
額を冷やしていた水の入った洗面器を持って部屋を出ようとした孝宏は、戸口でイシュカと鉢合わせた。
「もう起きても大丈夫なのか?」
「おはようございます」
黒森之國の言葉がまだ殆ど解らない孝宏は、イシュカに朝の挨拶をしてからエンデュミオンを振り返った。
『何て?』
『もう大丈夫なのかって』
『なるほど。はい』
孝宏はイシュカに頷いて見せた。イシュカは起きたばかりらしく、水色のパジャマを着て赤みの強い栗色の髪が寝ぐせで跳ねていた。瞳は鮮やかな緑色だ。
『孝宏、イシュカは料理が出来ない。孝宏が作ると言って良いか?』
『うん』
エンデュミオンとイシュカの間で会話が繰り広げられ、結局ケットシーの言い分を飲んだらしい。イシュカは孝宏の頭を撫でて洗面器を受け取りバスルームへと行った。
『昨日のスープは誰が作ったの?』
『エンデュミオンが作り方を教えた』
『なるほど』
『台所はこっちだ。二階には材料が無いから一階だ』
とことこ歩いて行くケットシーの後を、孝宏は追い掛けた。使っていない部屋も換気の為かドアが開けっ放しになっているが、ものの見事に殺風景だった。どうやらイシュカは引っ越して来たばかりなのかもしれない。
一階に下りて台所への廊下の途中にドアがあった。
『それは店へのドアだ』
『お店なんだ』
『まだやっていない様だ』
昨夜朦朧としている中見たのは、がらんとした空間だった気がする。閉店した店か、開店準備中かどちらかだろう。
台所は風呂と同じ様なタンクに水があり、焜炉は熱鉱石仕様でレバーを動かせば熱量を変えられるらしい。冷鉱石が入れられた内側に金属が張られた木箱は、いわば冷蔵庫だろう。ベーコンと腸詰肉、野菜が入っていた。
エンデュミオンに一通り使い方を教えて貰い、孝宏は朝食作りを開始した。
「スープは昨日のが残ってるから、卵を焼いて、サラダかなあ」
料理を作れない割に調味料は揃えられていた。食料はそのまま食べても大丈夫な物が多いのは、無駄にしない為だろう。
孝宏が目玉焼きとベーコンを焼き、サラダとドレッシングを作り上げ、薄く切った黒パンを焜炉で炙っている頃に、イシュカが二階から降りて来た。
白いシャツに明るい茶色のベストにズボンと言った、この國の平民の普段着だ。女性はズボンでは無くワンピースや、スカートが主流の様だ。靴は木靴か革靴だった。イシュカは焦げ茶色の革靴を履いていた。
「凄いな。久し振りのまともな食事だ」
エンデュミオンが訳したイシュカの言葉に、孝宏は笑った。本当に料理が苦手らしい。
炙ったパンを目玉焼きの皿の端に乗せ、孝宏は沸いていた薬缶から温めて茶葉を入れておいたティーポットにお湯を注ぐ。
温め直したスープを添えて、朝食の完成だ。
「今日の恵みに、月の女神シルヴァーナに感謝を」
『頂きます』
「今日の恵みに」
それぞれ食前の祈りを捧げ、食事を始める。
「美味い。これ、なんで塩の味がするんだ?」
何も掛けていない筈の目玉焼きに塩と胡椒の味がする事に、イシュカは驚いた。
『焼く前にフライパンに塩と胡椒を振るんだよ』
「ほう」
エンデュミオンの通訳を挟んでの孝宏の説明に、イシュカが頷く。
「イシュカはこれから店を開くのか?」
「ああ。俺はルリユールなんだ」
ルリユール、と言う単語に孝宏が反応する。どんな職業か知っていたらしい。エンデュミオンは後で孝宏に説明するつもりなのか、黒森之國の言葉でイシュカと会話を続ける。
「ルリユールとは本の製本と修復をする職人か。独立するには若い方だな」
「それでも親方に職人卒業を言い渡されたからには独立だ。元は王都の店で修行していたんだが、リグハーヴスにルリユールが居ないとの事でここに来たんだ」
リグハーヴスの領主からルリユールギルドに開業出来る者が居ないか問い合わせが来ていて、丁度イシュカが親方認定を受けたのと時期が合ったのだ。リグハーヴスの街が大きくなったのは比較的最近なのだ。
「イシュカ、相談なのだが孝宏とエンデュミオンをここに住まわせてくれないか?エンデュミオン達は住む所が無い」
「住む所が無いって、何処から来たんだ?」
「孝宏は<異界渡り>だ。<黒き森>のケットシーの棲み処に現れた。人間は<黒き森>には住めないから、エンデュミオンが憑いて森の外に出た。エンデュミオンは孝宏を信用出来る人間としか一緒に居させたくない」
「ええと、俺は合格なんだな?」
「うん。イシュカは良い人間だ」
きらりとエンデュミオンの黄緑色の瞳が光った。
イシュカはナイフとフォークを置いて、腕を組んだ。とは言え考えてみたところで、答えは決まっているのだが。
「俺は一人暮らしだから、同居人が増えるのは構わないよ。ただし、炉税や人頭税を払わなければならないから、店を手伝って貰うと思うけど」
「勿論だ。イシュカは家事が苦手だろう?家事は孝宏とエンデュミオンが引き受ける。店番も出来ると思う」
「それは物凄く助かる。仕事をしながら家事をするのは厳しいから、通いで家政婦を頼もうかと思ってた位だから」
信用のおける家政婦を選ぶのに時間を費やすより、ケットシー憑きの人間を同居人に選ぶ方が賢明だ。
「詳しい話は食事の後にしよう。冷めるのが勿体無い」
「うん」
二人が何を話しているのか解っていない孝宏が首を傾げる中、イシュカとエンデュミオンは食事を再開するのだった。
炉税は固定資産税(家持ちが支払う)、人頭税は住民税と言った所です。それと所得税が収入の一割取られます。
年度末まで住んでいた街に対して、翌春支払います(農家など現物払いのところは収穫期でも可)。
ちなみに土地は領主が管理しているので、個人所有になりません。新たに建てる時は、領主の許可が必要です。
鉱石には、熱鉱石・冷鉱石・光鉱石などがあります。
黒森之國で輝石(貴石)はダンジョンの魔物から取れる魔石の事です。
鉄や銅などの金属、貴石扱いされない鉱石は、採掘で取れます。