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リグハーヴスのパン屋さん

ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。

愚直に前へ。

19リグハーヴスのパン屋さん


 初めて<Langueラング de chatシャ>に行った日、カミルはエッダを家まで送ってから、パン屋である自分の家まで帰って来た。

 エンデュミオンに「エッダを家まで送って行け」と言われたからなのだが、ドアを開けたエッダの母親にお礼を言われ、少し気恥ずかしかった。でも、悪い気はしなかった。

「ただいま」

「カミル、あんたお昼にも帰って来ないで何処行っていたの」

 夕食の準備をしていた母親のベティーナが、尖った声を出した。

 昼御飯に帰ろうとしていた所でエッダにあって、カミルはそのまま<Langue de chat>に行ったのだった。

「エッダと<Langue de chat>に行ってたんだ」

「あら、あそこに行ったの?」

 ベティーナの声の調子が変わった。

「母さん知ってたの?」

「ええ。この間エッダのお母さんのアンネマリーに会った時に聞いたわ。あそこのケットシーが文字や読めない単語を教えてくれるんだって。エッダは本が読める様になったそうよ。カミルも習いに行って来なさいよ」

「えーっ」

 ベティーナは木べらで鍋を掻き回していた手を止め、カミルを振り返った。ベティーナは真面目な顔をしていた。

「あんた、父さんの後を継いでパン屋になる気がある?」

「うん。勿論」 

「じゃあ、文字は読める様になりなさい。お祖父ちゃんや父さんの研究帳、読めないわよ?」

「う……」

 カミルの祖父や父親は美味しいパンを作る為に、日々研究を重ねていた。それを受け継ぐ為には、文字が読めないといけないらしい。

「<Langue de chat>に行くと、お茶とお菓子がサービスなんですって。本も子供が蜂蜜色や若草色の本を借りるのは一回銅貨一枚だそうよ。それ位なら出してあげるから、おやつ食べさせて貰う分、真面目に勉強して来なさいな」

 ごくりとカミルの喉が鳴った。今日食べたシナモンロールパンの味を思い出したのだ。きっと、他のお菓子だって美味しいだろう。

「解った。……そうだ、これ」

 カミルは蝋紙で包まれたシナモンロールパンをベティーナに差し出した。

「父さんと半分こして食べて」

「あら、なあに?」

「今日<Langue de chat>で貰ったんだ。俺は食べたから」

「有難う、後で父さんと食べるわね」

 ベティーナは蝋紙のまま皿に乗せ、戸棚に入れた。ベティーナは夕飯の支度をしているし、カールは明日のパンの仕込みをしている。食べるのはカミルが寝室に戻った後になるだろう。


 家族揃っての夕食後、カミルが風呂に入って寝室に引き上げてから、カールとベティーナは二人だけの時間を作る事にしている。

 一日の仕事を終え、ソファーに深く座るカールに、ベティーナは声を掛けた。

「カール、何か飲む?」

「白ワインを炭酸で割ってくれるか?」

 カールはそれ程酒が強くないが、嫌いでは無い。

「ええ。……あら、忘れていたわ」

 戸棚からコップを出そうとしたベティーナは、カミルから貰った蝋紙で包まれた物を見付けた。

 白ワインを炭酸で割ったものを二つ作り、皿に乗った蝋紙の包みとナイフを盆に乗せて、カールの待つ居間に戻る。

「何だい?それ」

「カミルがくれたのよ。今日貰って来たんだって」

 ベティーナは盆をソファーの前のテーブルに置き、蝋紙を開いた。二人の鼻先に肉桂シナモンの香りがツンと届く。

「……これ、パンかしら」

「何だって?」

 パン、と聞いてカールがソファーから勢い良く背中を起こす。

 蝋紙の包みの中には、五センチ程の高さの渦巻きになったパン(シュネッケンヌーデル)らしき物があった。上には白いクリームが掛かっている。

「切るわね」

「ああ」

 良く研いであるナイフは、パンをそれ程潰す事無く半分に分けた。カールは切り分けられたパンの半分を手に取り、じっくりと見る。

「蜜に絡めた胡桃と干し葡萄、松の実か。それに肉桂を生地に振って巻いているだと?」

「これ、白パンよね」

 二人でほぼ同時にパンを口に運ぶ。パン自体は甘い訳では無いが、甘い蜜に絡められた木の実と肉桂が振られている部分の舌への鮮烈な刺激、とろりと甘いクリームが掛かっている場所とで味わいが変わる。

「何これ……」

 美味しい、という言葉はパン職人であるカールの手前飲み込んだが、ベティーナは驚いていた。

「これはどこのパンだ?まさか左区リンクスのパン屋のじゃないだろうな」

「いえ、<Langue de chat>で貰って来たってあの子は言ってたけど……」

 ベティーナは言葉を濁す。言われてみれば、有り得ないと思ったのだ。

 黒森之國くろもりのくにではパンはパン屋でしか売ってはいけない決まりだ。親から子へ親方マイスターから弟子へと受け継がれる昔からの専売特許なのだ。だからどんな小さな集落でもパン屋はある。

 それでもパン屋の娘が嫁いだ先で自家用に焼くのは特別に認められてはいるが、売る事は許されない。あくまで自家用なのだ。

 リグハーヴスでは街が出来た時、領主から開業を認められたのは左区リンクス右区レヒツで一軒ずつだった。右区のパン屋がカールの先祖が開いた店だ。それから代々改良を重ねながら、白パンと黒パンを焼き続けて来た。

 <Langue de chat>はパン屋と何の関係も無いルリユールだ。パンが焼ける訳が無いのだ。

「しかし<Langue de chat>なら……」

 先日の大雪の日、昼時になってから同じ組で雪かき作業をしていた仲間に、イシュカが自分の店に食事の用意があるからと誘ったのだ。

 街では食堂や飲み屋で炊き出しをしており、始めカールはそちらに行こうと思っていた。しかし、冒険者で<Langue de chat>の下宿人のテオも、鍛冶屋のエッカルトや大工のクルトも二つ返事でイシュカについて行き、肉屋のアロイスとカールはその流れで彼らについて行ったのだ。

 初めて入るその店は、一見何の店だか解らなかった。店の中を分ける様に棚があり、色とりどりの本が並んでいる。

 イシュカと黒髪の少年の案内で、テーブルと椅子がある場所に行くと、パンと小さな白い粒の塊に黒い紙の様な物が巻かれたものなどが置いてあった。

「テオ!」

 子供の声がして振り返ると、テオがソファーの上に立った、青みのある黒毛にオレンジ色の毛が混じったケットシーに、ぽかぽかと前肢で叩かれていた。

「ごめんごめん。ルッツ、寝ていたからさ。一緒に行ったら、雪で埋まっちゃうだろ」

「ううー」

 膨れているケットシーをなだめていると言う事は、テオはケットシー憑きらしい。

「遠慮せずに食べると良い」

 足元で声がしたので下を向くと、鯖虎柄さばとらがらのケットシーが居た。黄緑色の瞳がきらりと光る。

(何なんだ、ここは!)

 珍しいケットシーが二人も居るとは。エッカルトとクルトは普通にそのケットシーに挨拶をしているので、顔見知りらしい。

 濡らした手拭いで手を拭き、カールはパンに手を伸ばした。パンに残り物を挟んで食べるサンドウィッチは、黒森之國では普通にある。

(これはうちのパンか)

 流石に自分の焼いたパンは解る。それに最近開いた店ならば、まずは近いカールの店で買うだろう。

 然程さほど期待もせずに齧りつき、カールは驚いた。

(何だこれは!)

 それは油漬けらしいモノに酸味のあるソースを混ぜ、胡瓜と玉葱の微塵切りを和えたものだった。辛みの少ない玉葱は塩でもみ、水で晒してある様だ。

(これは肉か?いや、魚か)

 黒森之國ではイワシなどの小魚は油漬けにする事はあっても、マグロはしていなかった。

 冷蔵・冷凍技術はあるので、魚は内陸にも輸送されて来る。魚屋でマグロらしき赤身の魚の切り身を見付けた孝宏たかひろは、それで油漬け(ツナ)を作ったのだ。

(それにこのソース)

 酸味のあるソースはビネガーを使っているのは解るが、他は何だろう。しかも、パンには薄くバターが塗られ、マスタードの粒も見える。具材の水分を染み込みにくくしているのだ。

 隣では肉屋のアロイスも唸っていた。自分の店の生ハムが使われていたからだろう。採掘族らしく頑健な身体つきをしているが、繊細な味覚を持つ男だ。生ハムと一緒に挟まれた薄く切られたチーズは、黒森之國では一番癖のない種類だった筈だ。その組み合わせに唸っているらしい。

 もう一つのパンは先程の酸味のあるソースを混ぜたマッシュポテトだった。しかし、人参や玉葱、腸詰肉ブルストを刻んだ物が入っている。少し甘みがあるので、砂糖が入っているかもしれない。

 兎に角、このパンに挟まれている具材は余り物では無く、挟む為に作られたのだ。

 黒髪の少年が持って来たシチューもまた変わっていた。黒森之國では茶色い色をした物が普通だと言うのに、彼が持って来たのは真っ白なシチューだったのだ。もう一つの薄茶色いスープよりは飲みやすかろうと飲んでみたが、牛乳を使って作られている滑らかな物だった。具には鶏肉とジャガイモ、人参と玉葱が入っていた。

 隣でシチューを飲んだアロイスが再び唸る。「絶叫鶏ぜっきょうどりだ」と言う呟きが聞こえた。

 絶叫鶏は地下迷宮ダンジョン一階に出現する魔物だ。走り回ってるので肉が締まっていて美味い。しかし普通は中に詰め物をして丸焼きなどにする事が多く、シチューには使わない。地味に高級食材なのだ。絶叫鶏などの魔物は強い個体程大きいと言う特徴がある。

 ちなみに絶叫鶏も新人冒険者が狩りまくって値崩れしていたのを、孝宏はアロイスの店で安く買っていた。当然、無自覚である。

 イシュカとテオは白い粒の塊と、茶色いスープを選んでいた。二人は他の者がパンとシチューを選ぶだろうと当たりを付けていたので、最初からおにぎりと豚汁ぶたじるを食べていた。

「あ、これ甘辛くて美味い」

 テオがルッツを膝に乗せたままおにぎりを頬張っている。

「それは豚肉を叩いて細かくして、甘味噌にしてみた」

 テオに豚汁のお代りを継ぎながら、黒髪の少年が言う。肉、と聞いてエッカルトとアロイスが手を伸ばす。

「く……っ、これは哀愁豚あいしゅうぶたか」

 アロイスがうめく。これまた新人冒険者が地下迷宮一階で狩りまくった魔物である。肉には良く脂がのり、革は眠り羊などと同様に防御性が高い。柔らかいので冒険者用の鞄やポーチにも使われていた。

 哀愁豚もまた孝宏がアロイスの店で安く買い求めたものだが、普通はこのように叩いて使ったり、薄く切ってスープに入れたりしない。厚切りで食べる物だ。

「この黒い物は何だい?」

 白い粒の塊を持ったクルトに聞かれ、少年が応える。

「海苔って言う海藻ですよ。ちゃんと栄養あるんですよ。髪にも良いんです」

 髪に良い、と聞いて誰の手が伸びたかは名誉の為、秘密だ。

 白い粒の塊は<米>の<おにぎり>と言うらしい。片方は細かく叩いた肉が<味噌>で、片方は薄く削られた物が<醤油>なる物で味付けされ、炒った胡麻と一緒に米に混ぜ合わせされ、握られていた。薄く削られたものは<鰹節>という鰹を加工した物だと言う。

 食事を鱈腹たらふく食べ、「おやつにどうぞ」と言われて無造作に掴んだ焼き菓子(プレッツヒェン)も、食べた事が無かったアロイスとカールを立ち止まらせる味だった。

 さらにこれが売り物では無く、<Langue de chat>に来た客へのサービスらしい。

 誰が作ったのかイシュカに聞けば、孝宏と言う先程の黒髪の少年だと言った。

「料理人か菓子職人の徒弟だったのか?」と聞けば、「違うと思う」と言う返事だった。

 王都に居ると言う菓子職人の徒弟だったのかと思ったのだが違うらしい。確かにそんな晴れがましい職業の徒弟なら、修行途中で投げだしたりしないだろう。腕を磨けば王宮や公爵家、豪商の邸で雇用されるかもしれないのだから。

「明日、カミルに確認してみよう」

 これが本当に素人が作ったパンなのかを。


 翌朝起きて来たカミルに、パンの作り手をカールは問うた。

「シナモンロールパン作ったの?ヒロって言う黒髪の人」

 あっさりとカミルは答えた。「パン屋さんに食べて貰うのは恥ずかしい、って言っていたから間違いないと思う」と聞いたカールは色々な意味で打ちのめされそうになった。

(このパンで恥ずかしいだと!?)

 こんな見た事も無い様な代物を作っておきながら。しかし、「恥ずかしい」と言っているのなら、あの少年はカールの焼いているパンを不味いとは思っていないのだろう。

(俺は慢心していたのか……)

 美味しいパンの研究をしていたつもりだったが、新しいパンを作り出そうとはしていなかった。

(これではいかんな)

「ベティーナ、やりたい事があるんだが手伝ってくれるか?」

「あたしに出来る事なら良いわよ?」

 瞳に決意を浮かべたカールに、ベティーナはにっこりと笑った。


 リグハーヴス右区レヒツにあるパン屋<ヴァイツェンスフィアーツ>。

 元々味には定評のある店だが、最近新商品が出来た。パンに切れ込みを入れスライスした物に、用意されている中で好きな具材を挟んでくれるサンドウィッチだ。

 通いで仕事場に向かう職人達に人気となり、左区リンクスのパン屋<ヴァイツェンブルーメン>や街の食堂でも類似品が販売される様になる。


 <Langue de chat>に通う様になった息子が度々持ち帰る事になる、かつて見た事も無いパンに刺激を受けながら、カールは愚直に研鑽を積むのであった。



<絶叫鶏>

地下迷宮一階に居る魔物。絶叫を受けるとダメージを食らうので、叫ばれる前に叩くのが吉。

完全に仕留めてから首を切らないと、断末の叫びを上げながら首が十数秒跳ねまわるので、注意が必要。

肉は美味く、羽根は布団などに使用出来る。


<哀愁豚>

地下迷宮一階に居る魔物。体当たりを食らうとダメージがある。切ない声で鳴くので、心を強く持つ事が肝心。

肉は美味く、革は防御性が高い。


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