チョークとお星様
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ルッツの真心。
189チョークとお星様
ルッツは朝に弱い。特に〈Langue de chat〉に帰ってきている時は。
旅先だと流石に眠りが浅くなるから、エンデュミオンとヴァルブルガ、グリューネヴァルトとミヒェルに護られたこの家に帰ってくると、安心して眠ってしまう。
勿論、よく眠るのはケットシーとしての種族的な事もあると思うけれど。
ベッドが微かに軋んで、テオが起き上がった気配がした。
「顔洗って来るから、寝ていていいよ」
そっとルッツの頭を撫で、テオが部屋から出ていく。
テオはちゃんと何処かへ行く時は、ルッツに伝えていく。目が覚めた時にテオが見当たらなくて、ルッツが何度か泣いてしまったからだ。
ルッツはテオのケットシーなので、テオに何処か知らない所へ行かれたら嫌だった。テオに最初に会った時、ルッツは今より幼かったから。
「にゃう……」
テオの温もりが残る場所へ寝返りを打つ。清潔でいい香りのする敷布。柔らかい毛布。いつ帰ってきても、孝宏は部屋を整えておいてくれる。
静かな足音を立ててテオがバスルームから戻ってきた。
「ルッツ、そろそろ起きようか」
「あいー」
返事をして起き上がるが、目が開かない。ふらふらしている後頭部に掌を添えられ、顔をお湯で絞った手拭いで拭かれる。ついでに身体の毛も軽く拭かれ、さっぱりする。
ルッツの体毛はテオがいつも手入れをしてくれているので、艶々でふわふわだ。
一度バスルームに手拭いを置きにいったテオが戻ってきて着替える頃に、漸くルッツの目が開き始める。
それでもまだきちんと目が覚めなくて、テオに着替えを手伝って貰って、抱っこされて居間に行くのが日常だ。以前、居間へ向かう途中で廊下で寝てしまい、それから居間まで運ばれるようになった。
「おはよう」
「おはよー」
居間にはイシュカとシュネーバル以外の住人が居た。イシュカの外出にシュネーバルがついていったのだろう。今日は陽の日だから、仕事は休みの筈で散歩だろうか。
テオとルッツは昨日帰宅が夜中近くになったので、ゆっくりめに起きた今は普段の朝食の時間をとっくに過ぎている。
「おはよう、テオ、ルッツ。卵焼き、甘いのとチーズ入りどっちがいい?」
「ルッツあまいの」
「俺はチーズで」
「はーい。アハト動き回ってるから気を付けてね」
最近ハイハイを覚えたアハトは、ラグマットの上でグリューネヴァルトを追い掛けていた。近くでエンデュミオンとヴァルブルガが見守っている。
「に」
テオとルッツに気が付いて、アハトがふにゃりと笑う。人見知りをせず、皮膚炎が治った今では大抵機嫌が良い仔ケットシーである。黒白ハチワレの体毛はぽやぽやとした産毛がまだ残っていた。
「アハトー」
「きゃー」
テオに床に下ろして貰い、ルッツは近付いて来たアハトを抱き締めた。配達に行っていたから、三日ぶりだ。一歳になるまで、ケットシーはどんどん成長するので、見るたびに大きくなる気がする。
アハトはシュネーバルより大きくなるだろう。親が育てられなくなって直ぐに孝宏に預けられたから、栄養失調にならなかったからだ。栄養失調になると、シュネーバルのように身体が小さなままになってしまう。
「ご飯出来たよー」
「あーい」
台所から孝宏に呼ばれ、ルッツはアハトの頭を肉球で撫でてヴァルブルガに預けた。
アハトはヴァルブルガと血が近いのか、体型が似ていた。四肢が太めで短いのだ。耳は折れ耳ではないが、全体的に丸い印象がある。とても可愛い。
「んしょ」
ケットシー用の椅子によじ登って座る。テオもルッツの隣の椅子に腰を下ろす。
今日のご飯は、卵焼きに骨を取って軽く解した焼き鮭、ほうれん草の胡桃和え、おむすびと味噌汁だった。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
「今日の恵みにっ」
あぐ、とルッツが海苔を巻かれたおむすびを齧ると、中身はおかかを混ぜたご飯だった。
「おかかー」
おかかは美味しい。今ではケットシー達の好物だが、孝宏が教えてくれるまで黒森之國でも食べられるなんて知らなかった。
「たまごあまーい」
甘い卵焼きも美味しい。一切れだけテオのチーズ入りと交換してもらう。こちらも美味しい。
孝宏のご飯はいつも美味しい。食べるとおうちに帰って来たなあと思うのだ。
ご飯を食べ終え、孝宏に淹れて貰ったミルクティーを飲んでいると、イシュカとシュネーバルが帰って来た。やはり、シュネーバルはスリングに入ってイシュカについていっていた。
「ただいまー」
「ただいま。ルッツ、これあげるよ」
イシュカがルッツにくれたのは、紺色の小さな紙箱だった。〈チョーク〉と書いてある。
「商業ギルドに行ってきたんだけど、ギルド長が使い掛けのチョークをくれたんだ。小さい子がいるから遊ぶだろうって」
「〈チョーク〉? 何?」
『白墨だ、孝宏』
黒森之國語で聞きなれない単語に首を捻った孝宏に、エンデュミオンが倭之國語で教える。
『ああ、チョークか』
孝宏が手を打つ。
「お祭りの屋台の場所決めに使った物の残りだそうだ」
「道にチョークで絵描いたりしていいの?」
イシュカに孝宏が疑問を投げ掛ける。
「誹謗中傷したり、広告を描くのは禁止されている。子供の悪戯書き程度なら、数日で消えるし問題ないかな。それか、裏庭の煉瓦道に書けばいい」
裏庭も〈Langue de chat〉の敷地なので、問題はない。
ルッツは紙箱の蓋を開けてみた。まだ長い白いチョークが沢山入っていた。だが、半分は少し変わっていた。
「キラキラしてる」
「これは蓄光チョークだよ、ルッツ」
テオが横からチョークを指先でトンとつついた。
「〈蓄光〉?」
『〈蓄光〉だ。光を当てたら暗い所で光るチョークだ』
『今日は知らない単語が出てくるなあ』
孝宏が唸る。それから「俺、前に星型の蓄光シール持っていてね。シールって、裏に糊が付いた型抜きされた紙の事なんだけど。部屋の天井に貼って天の川作ったりしたよ」と言った。
「〈あまのがわ〉?」
「俺の居た所ではね、星が密集して夜空に川みたいに見えたんだよ」
こっちでは星座違うんだよね、と孝宏は笑った。
「皆で遊んでくると良いよ。ちゃんと帽子被ってね。今日は晴れているから」
「あい」
ルッツは砂漠蚕で織られた布で作ったフード付きケープを着て、シュネーバルとヨナタンは麦藁帽子を被る。ルッツは耳が大きいので、麦藁帽子の中に耳を入れるのは窮屈なのだ。このケープに付いてるフードは、耳の形に立体的に縫製されている優れものだ。勿論〈針と紡糸〉製である。
「ちょーく」
「あい」
裏庭に出て、まずは普通のチョークで煉瓦に試し書きする。さりさりと音を立てて、赤茶色の煉瓦に白い線が走る。
「アプフェル」
ルッツは兎林檎の絵を描いてみた。
「ギルベルト」
ヨナタンはギルベルトの顔を描いていた。
「う!」
シュネーバルは何やら〈魔法陣〉を描いていた。全ての記号を書き終えたシュネーバルの、首飾りに通してある魔石の指輪が光る。
シュッ!
〈魔法陣〉から真上に光が走り、ポーンと上空で弾けた。キラキラとした光が辺りに散る。
「こら、シュネーバル!」
台所のドアからエンデュミオンが飛び出してきた。
「う?」
「緊急時とお祭りの時以外は、街中で打ち上げ魔法を使ってはいけないんだ」
「うー」
「クヌートとクーデルカに習ったんだな?」
「う」
どうやら、あのコボルトの双子はシュネーバルに、街中で使ってはいけないと教え忘れたらしい。
「でも〈魔法陣〉は正しく描けていたようだな。偉いぞ」
エンデュミオンはシュネーバルの頭を撫でてから、母屋に戻っていった。「クロエかフィリーネが来るかな……」と呟いているのがルッツの耳には聞こえていたが。
エンデュミオンが家の中に入ったのを見て、ルッツは蓄光チョークを取り出した。白い白墨の中にキラキラと光る粒子が混ざっている。
とてとてと煉瓦道の端まで行ってしゃがみこみ、蓄光チョークで五つの尖りのある星を描いていく。大きさはルッツの肉球大からギルベルトの肉球大と大小取り合わせて。
ててて、とヨナタンとシュネーバルがやってきて、ルッツの隣にしゃがむ。
「ルッツ、それなあに?」
「おほしさま」
「おほししゃま?」
「ここにいっぱいかいたら、かわみたいになるかなーって」
「あまのがわ?」
「あい。こっちのチョークでかく」
「う!」
「……」
三人は蓄光チョークで、裏庭を通る煉瓦道に星を書き始めた。段々と後頭部が、太陽の熱でジリジリ暑くなる。砂漠蚕を被っているルッツは兎も角、麦藁帽子のコボルト二人は一寸暑い。六の月のリグハーヴスは気温はそれほど高くはないが、黙って太陽に炙られていればやはり暑いのだ。
「あちゅい」
「……」
「ちょっときゅうけい」
三人は温室に入り、精霊水を飲んで木陰で休んだ。
「ぼうしとって」
「……」
「う!」
麦藁帽子を取ったヨナタンとシュネーバルにルッツは風の精霊魔法で微風を送り、〈時空鞄〉から棒付きのアイスキャンディが入った器を取り出した。果物の果汁を凍らせた、〈暁の砂漠〉の菓子だ。
皆で水の精霊魔法で前肢を洗ってから、ルッツがヨナタンとシュネーバルに渡したのは鮮やかなオレンジ色のアイスキャンディだった。
「オレンジ?」
「マンゴーだよ」
「うー、まんごー!」
マンゴーの果汁と角切りマンゴーが入った、ちょっぴり豪華なアイスキャンディだ。
さわさわと葉擦れが聞こえる中、冷たいアイスキャンディを舐める。
「おいちー」
シュネーバルが尻尾をブンブン振る。
フス、とヨナタンも満足気に鼻を鳴らした。
孝宏も冷たい物としてアイスクリームやシャーベットを作ってくれるが、南のヴァイツェアや〈暁の砂漠〉から運ばれてくるマンゴーは数も少なく値段が高めなので、頻繁には買えない。
しかし、地元である〈暁の砂漠〉では、手頃な値段で手に入るのだ。
一度行った場所には〈転移〉出来るので、テオとルッツは時々顔を出すようになっていた。そうでないと、またテオの養父ロルツィングがやって来そうだからだったりする。
族長であるロルツィングが他領に行くのは、色々と物議を醸し出すので、ロルツィングの弟のアレンスや、馬型の水の妖精レヴィンと兎型の木の妖精ティルピッツに「たまに帰ってこい」と頼まれていたりする。
そんな訳で、最近は〈暁の砂漠〉の特産物も買って来ては、孝宏に渡しておやつに出して貰っている。
アイスキャンディで身体を冷ました三人は、再び煉瓦道に星を描きに戻るのだった。
「今日は三人とも外で遊んで疲れたのかな」
お昼を挟んで午後まで裏庭に出ていたルッツとヨナタン、シュネーバルは晩御飯を食べてお風呂に入ると、直ぐに眠ってしまった。アハトの方が遅くまで起きていた位だ。
光鉱石のランプの明かりを落とし、シュネーバルとアハトを寝かしつけた孝宏は、エンデュミオンを連れてバスルームへと向かった。
大量の水がある場所が苦手なエンデュミオンだが綺麗好きと言う矛盾した所があるので、毎回孝宏に抱えられてバスルームへ行く。ちなみに孝宏は普通に風呂好きだ。
「ふー」
ラベンダーの香りのお湯に浸かりながら、膝の上のエンデュミオンの頭に軽く顎を乗せる。
『ルッツ達が何を描いたのか見せて貰わなかったなあ』
『明日も残っていると思うぞ』
孝宏に胴体を支えてもらっているので、落ち着いているエンデュミオンがむにむにと肉球で顔を洗う。
『そっか。じゃあ明日見せて貰おうかな』
『シュネーバルがいきなり〈魔法陣〉を描くとは思わなかったがな……』
はふーとエンデュミオンが溜め息を吐いた。
実はシュネーバルに注意した後で、騎士団と魔法使いギルドと冒険者ギルドと商業ギルドに「さっきのは誤発だ」と知らせに行ったエンデュミオンである。
黙っていたら確実に小言付きでフィリーネがやって来る。実際もう少しで騎士団が調査に来るところだった。
『あの魔法、クヌートとクーデルカにとっては遊びだもんね』
『ケットシーの里でしか遊べないと、シュネーバルに教えてなかったらしいがな』
そもそも妖精と人間とでは理が違う。特に南方コボルトは陽気で楽しいことが好きだ。
『泡流すよー』
『うむ』
顔を伏せて肉球で目を押さえる。バスタブのお湯を抜きながらシャワーで泡を流していく。バスタブからお湯が無くなれば、エンデュミオンも少し落ち着く。
浴布で身体の水気を拭いてから、エンデュミオンが自分と孝宏の毛髪を魔法で乾かす。
パジャマに着替え、孝宏とエンデュミオンは台所で水を飲んでから部屋に戻った。既にイシュカ達も部屋に引き上げている。アハトの隣の揺り籠では、グリューネヴァルトとミヒェルも寝息を立てていた。
『ありゃ、カーテン閉めてなかった』
孝宏は窓辺に行ってカーテンを引き掛け、そのまま動きを止めた。
『孝宏?』
『……』
黙って孝宏は足元に立っていたエンデュミオンを抱き上げた。
『なんだ?』
『裏庭見て』
『お? おお……』
リグハーヴスの街には街灯はない。だから、陽が落ちてしまうと家々の玄関灯の明かりしかない。それでも月があればそこそこ明るいのだが、今晩は新月に近かった。
『綺麗だね』
深い闇に沈む裏庭に、一本の光る帯が出来ていた。ぼんやりと白く光っているのは、煉瓦道に描かれた無数の星だ。
『ルッツ達はこれをずっと描いていたのか』
『俺が天の川の話をしたからだよね』
今日は晴れていたから暑かったろうに。
『天の川がまた見られるなんて思わなかったなあ……』
『良かったな、孝宏』
『うん』
孝宏とエンデュミオンは暫くの間、仄白く輝く星の川から目が離せなかった。
ルッツ達が描いた天の川は、孝宏とエンデュミオン以外の、酒場通りで一杯引っ掛けてから帰宅途中の街人にも目撃され、数日の間密かに観光名所となった。
その話題が商業ギルドへと伝わり、蓄光チョークが星祭りの演出に使われるようになるのだが、それはまた別のお話。
〈Langue de chat〉が〈おうち〉のルッツです。
ケットシーなど妖精の精神年齢には個体差があるので、ルッツは子供のままあまり変わらなかったり。
朝に弱く、テオにお世話される事が多いです。
ルッツの〈時空鞄〉には、野宿用の道具の他に、当然おやつも入っているのでした。
マリアンとアデリナが作る、妖精用のフード付きケープはオーダーメイド。
耳の部分が立体裁断で、フードを被っても耳が窮屈にはなりません。
シュネーバルとヨナタンの麦藁帽子は日除け目的なので、耳を中に入れています。




