アンネマリーのお産
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
クルトとアンネマリーに第二子誕生です。
183アンネマリーのお産
「シュネーバル、これは物を温める〈魔法陣〉だ。だから円環の下部にくる精霊の種類は何だ?」
「しゃらまんだー」
「そうだな、火の精霊になる。温める程度の温度で良いから、威力を記す部分には〈弱く〉を意味する図柄か単語を書き込むんだ」
「う」
目の前に広げられた紙に、シュネーバルがイシュカに買って貰ったばかりの、木目の柔らかい色合いの万年筆で〈魔法陣〉を書き込んで行く。インクの色は焦げ茶色だ。
「発動しない様に、円環は繋げずに幾つか途切れさせておくんだぞ」
「う」
「〈魔法陣〉は紙に書いても刺繍をしても発動出来る。ヴァルブルガが刺繍をした布がこれだ。但し正確に縫わなければならない」
エンデュミオンは孝宏が料理を温めるのに使っている、赤い糸で温める〈魔法陣〉が刺繍された布巾をシュネーバルに見せる。
「うー!」
こくこくと頷き、シュネーバルが〈魔法陣〉を描いた余白にエンデュミオンが言った言葉を書き込む。
基本的な文字を覚えたシュネーバルは簡単な単語も直ぐに覚えた。そこで、本格的に魔法の授業を開始したのだ。しかしながら、基本的に孝宏やイシュカの傍にいるシュネーバルが真っ先に興味を持ったのは生活魔法だった。生活魔法は危険度も低いので、エンデュミオンは本人の希望通りに教える事にした。
シュネーバルにしてみれば魔法の授業もエンデュミオンに構って貰っているという認識らしく、いつも楽しそうだった。
魔法はイメージで発動する事も可能だが、据え置き型にする場合などはやはり〈魔法陣〉の知識が必要不可欠になる。その為、生活魔法のみを覚える一般民と違い、〈魔法使い〉と名乗る者は〈魔法陣〉の知識を必ず持っている。上級魔法使い程、高位の〈魔法陣〉の知識があるのだ。
ケットシーは生まれながらに叡智がある種族だが、コボルトは学ぶ種族である。そして学ぶのが好きである。大概のコボルトはどんな事にせよ、知らない知識を教えると喜ぶ。
「しかし、クヌートとクーデルカめ、護身用にシュネーバルに〈電撃〉を教えていたとはなあ」
先日「シュネーバルに〈電撃〉教えておいたから」と南方コボルト兄弟に言われ、目を剥いたエンデュミオンである。初心者に何を教えているんだと思ったのだが、彼らが教えていたのは威力に〈弱く〉が指定された〈魔法陣〉だったので胸を撫で下ろした。シュネーバルが相手を黒焦げにでもしたら洒落にならない。
「今日はここまでにしようか」
「う!」
シュネーバルは〈魔法陣〉を書いた紙の上に吸い取り紙を載せ、〈Schneeball〉と銀箔押しされたミルクティー色の革表紙の間に挟んだ。万年筆の蓋を閉め、まとめて薄い木箱の中に入れる。シュネーバルのお勉強道具入れだ。この木箱にもシュネーバルの名前が焼き付けられている。コボルトが自分専用の魔法書を作ると聞いた大工のクルトが、宝箱を作った時におまけでシュネーバルにくれたのだ。
「今日のお勉強は終わり?」
店の客にお茶とクッキーを出しに行っていた孝宏が木の盆を片手に居間に戻って来た。
「ああ。シュネーバルは物覚えがいい」
「うー」
嬉しそうにシュネーバルが尻尾を振る。
「ん?」
「う?」
エンデュミオンとシュネーバルが居間の一点に目を向ける。
ポンッとグラッフェンが〈転移〉して現れた。
「でぃー!」
エンデュミオンを見付けるなり抱き着く。
「どうした? グラッフェン」
「おかしゃん、うまれる!」
「アンネマリーが産気づいたのか」
「あいっ」
「俺、ヴァル呼んで来る」
孝宏は急いで二階でブローチの仕上げ作業をしている、ヴァルブルガを呼びに行った。ヴァルブルガは魔女なので、以前アンネマリーの出産に立ち会ってくれと薬草魔女のドロテーアとブリギッテに頼まれていた。
「お待たせ」
孝宏がヴァルブルガを抱いて二階から降りて来た。ヴァルブルガが丸腰なのは〈時空鞄〉に荷物は入れてしまっているからだろう。
「ばたばたするだろうから、摘まめそうなご飯作るよ。エンディ、後で取りに来てくれる? ラルスも一人になるだろうから、うちにお昼食べに来て貰ったらいいし」
「解った。まずはヴァルブルガ達を送って来る」
「行ってらっしゃい」
エンデュミオンは床に銀色の〈魔法陣〉を浮かび上がらせ、あっと言う間に〈転移〉して行った。
「おー」
シュネーバルがぺちぺちと前肢を叩く。エンデュミオンの〈魔法陣〉は素晴らしいらしい。
孝宏はそんな白いコボルトの頭を撫でる。
「シュネー、頑張るアンネマリー達の為にご飯作ろうか」
「う!」
クルトやエッダは簡単な料理は出来るらしいが、無事に赤ん坊が生まれるまで落ち着かないだろう。二人目の出産とはいえ、エッダが産まれてから数年が経っているのだ。
「横になっていても摘まめるサンドイッチ作ろうか。厚い卵焼きのと、フルーツサンド。それとスープ」
「う!」
スープは昨夜から仕込んでいるのがある。アロイスの肉屋で絶叫鶏の骨があるのを見付けて譲って貰ったのだ。太いその骨を自力で割ろうと考えていた孝宏だったが、話を聞いたアロイスが血相を変えて「怪我をするから割ってやる」と割ってくれた。
魔物らしく頑丈な絶叫鳥の骨は、出汁を取るには良いが、割るのには慣れた者でないと苦労するらしい。そして普通は宿屋の厨房位でしか扱わないらしい。
昨日からぐつぐつヴァルブルガの煮込み用〈魔法陣〉が刺繍された布巾の上で、大鍋で煮込まれている。ネギや玉葱、人参といった野菜や香草と一緒に煮込まれた絶叫鳥の骨は、白濁し少しとろみのついたスープになって見るからに美味しそうだ。味を調えて野菜や鶏肉を追加すれば滋味あふれる一品になるだろう。
買って来たばかりの卵を溶いて味付けし、四角い器に流し込んで蒸し上げる。それをバターを塗った白パンに挟んでひと口大に切り分ける。
フルーツサンドはシュネーバルが摘んで来た苺を半分に切り、シロップ煮にしていた桃などの果物も切って、水気を取る。クリームを泡立てて白パンに塗り付け、果物を挟み込む。こちらも切り分けると断面から鮮やかな果物がクリームの間から顔を覗かせる。
蝋紙にきっちり包んで落ち着かせる間に、大鍋から中型の鍋二つにスープを掬い、カブや人参、玉葱、絶叫鳥のもも肉を煮込む。片方は孝宏達のお昼御飯用だ。塩胡椒で味を調え、隠し味に醤油をひと垂らし。
「はい、シュネー味見」
「うー! おいちー!」
小皿のスープを舐めたシュネーバルの尻尾がブンブン凄い勢いで左右に振られる。
「良かった」
焜炉のレバーを戻して熱量を落とし、孝宏はシュネーバルを膝に乗せて椅子に腰を下ろした。
「無事に生まれるといいね」
「う!」
出産は命懸けだ。エンデュミオンが戻って来るまで、そわそわしてしまう孝宏だった。
エンデュミオン達は〈薬草と飴玉〉に行って、薬草魔女のドロテーアとブリギッテにアンネマリーが産気づいたのを伝えた。二人が準備している間に、ラルスに「腹が減ったら〈Langue de chat〉に食事をしに行け」と伝える。ラルスとエンデュミオンは兄弟同様にギルベルトに育てられたので、気心が知れている。
「準備出来ました!」
「よし、行くぞ」
籠に荷物を詰めた薬草魔女二人を追加して、エンデュミオンは大工のクルトの家へと〈転移〉した。
「えっだー」
クルトの家の居間に出るなり、グラッフェンはエッダの元へと前肢を伸ばして駆けていった。
「クルト、アンネマリーは?」
「寝室に」
クルトがドロテーアとブリギッテ、ヴァルブルガを寝室へと案内する。
「大丈夫だ、エッダ。薬草魔女が二人に魔女も付いているんだからな」
エンデュミオンはグラッフェンを不安そうに抱き締めるエッダの脚を、ポンと肉球で叩いた。
「うん」
そこへドロテーア達を寝室に残し、クルトが居間に戻ってきた。
「有難う、エンデュミオン」
「何、大した事はない」
ヴァルブルガはクルトの家に一度来た事があるが、人見知りなのでエンデュミオンが送ってきたのだ。魔力は有り余っているエンデュミオンだから、数回の〈転移〉は負担ではない。
「じゃあエンデュミオンは、にあ?」
帰る、といい掛けたエンデュミオンはクルトに抱き上げられていた。クルトはエンデュミオンを抱えたまま、グラッフェンを膝に乗せてソファーに座るエッダの隣に腰掛けた。
「……」
ふにふにとクルトに前肢の先を握られる。普段クルトは決してそんな事はしない。以前酔っぱらったクルトにされて以来だ。
ちらりと横を見ると、エッダもグラッフェンの前肢を無意識にふにふにしていた。似た者親子である。
まあいいか、とエンデュミオンはクルトの胸に後頭部を預けた。エンデュミオンとグラッフェンの肉球をふにふにして落ち着くなら安いものだ。
それから産声が聞こえるまでふにふにされるのだが、賢明なケットシー兄弟は黙ってクルトとエッダに前肢を差し出したのだった。
ふにぁーっと元気な産声が聞こえたのは、それから半時程後だった。二人目の出産の為、初産よりは早かった様だ。
暫くして、ブリギッテが赤ん坊をおくるみに包んで居間に抱いてきた。汚れを綺麗にして貰った赤ん坊は、まだ赤い肌をしていて、ぽやぽやとした明るい茶色の頭髪が生えていた。
「男の子ですよ、ヘア・クルト」
「ほら、クルト」
クルトの膝から下り、エンデュミオンはぺしぺしクルトの腕を叩いた。
「グラウで思い出してたつもりだったけど、久し振りの小ささだなあ」
クルトは赤ん坊をブリギッテから受け取り、きゅっと握られた小さな手を指先で摘まんだ。
「フラウ・アンネマリーもご無事ですよ。お召し替えをされたらお呼びしますね」
「はい」
ブリギッテが寝室へ戻り、クルトはエッダとグラッフェンに赤ん坊を見せた。
「ほら、二人の弟だぞ」
「可愛い」
「ちいさい」
小さいと言っても、グラッフェンの方が少し大きいだけである。グラッフェンが赤ん坊だった時の方が小さかった。
「名前は決まっているのか?」
「デニスにしようと思っているんだ」
デニスとは黒森之國の聖人の名前だ。遥か昔、地下迷宮に魔物達を追い込み、封じる為に殉じた司祭の名前だ。司祭デニスが高位の治癒魔法を使えた事から、名前を頂くと丈夫な子供になると言われている。
キイと寝室のドアが開き、ブリギッテが顔を出した。
「お待たせしました。どうぞ」
デニスを抱いたクルトと、グラッフェンを抱いたエッダが寝室へと向かう。エンデュミオンは自分も行って良いものか良く解らなかったので、後ろからゆっくりと付いていった。
寝室は窓が開けられ、柔らかな風が裾に木綿のレースが付いた木成りのカーテンを揺らしていた。
ヴァルブルガが汚れたリネン類を洗濯したのだろう、薬草の爽やかな香りがした。
流石に疲れた顔をしたアンネマリーが背中に枕を当てて、ヘッドボードに凭れていた。長い髪は綺麗に梳いて緩く編まれ、片方の肩に寄せてあった。
ふむ、とエンデュミオンは思った。薬草魔女はこういった妊婦の扱いにも気を配るらしい。例え家族に会うにしても、女性は身形に気を使うものだ。
「お疲れ様、アンネマリー」
クルトがアンネマリーの頬にキスをして、デニスを彼女の腕に渡す。
「お母さん、大丈夫?」
「おかしゃん」
「ふふ、大丈夫よ」
微笑んで、アンネマリーがエッダとグラッフェンの頭を撫でる。
「……」
すすす、とヴァルブルガが戸口に立っていたエンデュミオンの元へと足音を立てずにやって来た。そしてこっそりと囁く。
「……エンデュミオン、アンネマリーに〈祝福〉してくれてて良かったの」
「どうかしたか?」
「出血が多くなりそうだったの」
「そうか」
ケットシーの〈祝福〉は、〈祝福〉を与えたものを守る。つまり〈祝福〉が〈治癒〉として発動したのだろう。
「エンディ、ヴァル」
「ん?」
クルトが手招きしていた。
「何だ?」
「ケットシーは名着けの儀式が出来るんだろう? デニスにしてもらってもいいかな」
「構わないが、普通後見人がやるものだろう?」
ヴォルフラムの時には領主アルフォンスに頼まれてやったが、一般的には赤ん坊の後見人がやるのだ。後見人とは親に何かあった場合、責任をもって子供を養育する者の事である。
「ケットシーより安心な後見人って、そう居ないよ」
「ふうん? クルトとアンネマリーが良いなら構わないが」
「私からもお願いしたいわ」
「そうか」
エンデュミオンとヴァルブルガは椅子を持ってきて貰い、ベッドの脇に立った。グラッフェンはベッドの端に座ってデニスの頭を肉球で撫でている。
「汝、月の女神シルヴァーナの下に産まれし子よ。<黒き森>のケットシー、エンデュミオンと」
「ヴァルブルガと」
「ぐらっふぇんが」
「誕生を祝う。汝の名は〈デニス〉。聖人の名を継ぐ者よ、健やかに育て」
「汝、誠実であれ」
「汝、寛大であれ」
「なんじ、いとしきものをまもれ」
「汝、自由にして人の道を外れるな」
「我らこの祝福を以って、月の女神シルヴァーナに〈デニス〉の名を知らせるものなり」
ポン、と三人のケットシーが肉球を打ち合わせる。
「わあ、綺麗……」
ベッドの上に銀色の光が降り注ぎ、エッダが声を上げた。
「兄弟になるグラッフェンも後見人だからな。グラッフェン、デニスを守ってやるんだぞ」
「あいっ」
しゅっとグラッフェンが前肢を上げる。
「えっだとでにす、ぐらっふぇんがまもりゅ」
「自分だけじゃどうにもならない時は、エンデュミオンやヴァルブルガを呼ぶんだぞ」
「あいっ」
「いい子だ」
黄緑色の瞳を細め、エンデュミオンはグラッフェンの耳の間を撫でた。
「そうだ、孝宏が食事を用意してくれているんだ。ドロテーア達ももう暫くアンネマリーの様子を見ているんだろう? 二人の分もあると思うぞ。貰ってくる」
エンデュミオンは〈Langue de chat〉へと〈転移〉した。
「孝宏、男の子が産まれたぞ。アンネマリーも無事だ」
「良かった。サンドウィッチとスープだよ」
大きな籠に入ったサンドウィッチと、スープの鍋を孝宏はエンデュミオンの前の床に置く。
「う!」
シュネーバルは教会の形をしたフェーブをエンデュミオンに差し出した。
「フェーブ?」
「あかちゃん、みえるとこおく」
「解った。置いて貰う」
良く解らないままエンデュミオンは青い鱗瓦の屋根をした教会のフェーブを受け取った。この教会のフェーブにはちゃんと鐘楼があって、黄色い鐘がある。
「じゃあ行ってくる」
「ヘア・クルト達におめでとうって伝えてね」
「ああ」
エンデュミオンは〈魔法陣〉を展開し、クルトの家へと〈転移〉した。
「クルト、差し入れだぞ。孝宏がおめでとうって伝えてくれと言っていた」
「有難う。スープもあるみたいだけど、アンネマリーも食べられそうかい?」
「ええ、少し頂くわ」
「そうね。栄養を取らなければ、デニスにお乳で持っていかれてしまうわよ」
うふふ、と笑ってデニスを受け取って、ドロテーアがベッドに隣接している子供用ベッドに寝かせる。
「エンデュミオンが見ていよう」
椅子を子供用ベッドの横に付けて貰い、エンデュミオンは柵の間からデニスを眺める。
「エンディもアハトを育てているんでしょう?」
エンデュミオン以外が寝室から出ていった後、アンネマリーが話し掛けてきた。
「孝宏にかなり頼っているがな。シュネーバルもアハトをあやしてくれるし。来た頃より大きくなったぞ」
寝返りを打てる様になったので、ハイハイしだしたら追い掛けるのが大変そうだ。ケットシーも男の子の方が行動が激しい。
「そうだ、シュネーバルがこれを置いてくれと言っていたんだ」
エンデュミオンはフェーブを子供用ベッドの上にある窓台に置いた。
「前にお菓子に入っていたフェーブかしら?」
「教会のフェーブだな。シュネーバルは幸運妖精だから、意味なく渡してこないと思うんだが……」
エンデュミオンとアンネマリーが首を傾げていると、ふにゃっふにゃっとデニスが泣き始めた。
……カラーン、カラーン。
小さいが耳に確りと届く音色が何処からともなく聞こえ始める。
「……デニスが泣くと教会の鐘が鳴るみたいだな」
聖人の名を持つデニスだから、教会とは縁があるが、シュネーバルには名前を教えて居なかった筈なのに。
「シュネーバルもデニスに加護をくれるみたいだぞ、アンネマリー。独立妖精だから、強い加護ではないが」
「気に掛けてくれるだけで有難いわ」
手前の柵を引き下げ、アンネマリーがデニスを抱き上げる。ミルクだな、と察してエンデュミオンは椅子に立ち上がって窓の外に目を向けた。
空は気持ち良く晴れていて、青く澄んでいる。近隣の工房で削る木の香り。遠くで子供達の遊ぶ声が聞こえる。
小さな教会の鐘楼で揺れる黄色い鐘を目の端に感じつつ、エンデュミオンは微風に髭を揺らした。
今日は良い日だ。
ルッツは今回も不在でした。後ほど祝福しにデニスの顔を見に行く事でしょう。
ルッツの場合、配達に行っている事が多いので、喚ばれて困る場合もあり、あえて名前を出していないエンデュミオンです。




