エッダとカミルとシナモンロール
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
シナモンロールパンはサービスメニューにはございません。
18エッダとカミルとシナモンロール
「暖かくして行くのよ、エッダ」
「はあい」
赤いコートを着て、母親のアンネマリーが編んでくれたオレンジ色のマフラーと手袋をし、若草色の本を抱えてエッダは家を出た。
三日前の大雪で除雪をしに行ったクルトは風邪を引いて寝込み、アンネマリーが看病している。風邪引きが居る家の中に居るよりはと、アンネマリーはエッダが<Langue de chat>に行く事を許してくれた。
仕事をする時音が出る大工や、火を使う鍛冶屋の家や仕事場は街の端にある。どちらも石や煉瓦で作られたしっかりとした作業場があるのが特徴だ。ちなみに革屋や粉屋の作業場は川の水を使うので、街の外にある。
日中であれば、街中をエッダ位の年齢の子供が一人で歩いていても安全だ。エッダは家のある右区しか一人で出歩かないし、街の住民も顔見知りばかりだ。すれ違う時に皆声を掛けてくれる。
「ええと、まずお父さんの往診のお願いしなくちゃ」
魔女の家は市場広場に面している。
黒森之國には医者と魔女が居る。医者は魔法が使えない物が医学と薬草学を修めた物で、薬は処方箋を貰い薬屋へ買いに行かねばならない。医者は男が多い。
魔女は魔法が使える者が医学と薬草学を学んだもので、お産も取り扱う。こちらはその場で薬を処方して貰える。魔女は女性が多い。ちなみに男でも魔女と言う。
リグハーヴスには医者と魔女が一人ずつ居るが、エッダの家の掛かり付けは魔女グレーテルだった。何故かと言うと、医者の家は左区にあって、魔女グレーテルの家が右区にあるからだ。
「ドクトリンデ・グレーテル?」
黒森之國では女性の医者や魔女の敬称として、<ドクトリンデ>が使われる。
ドアを開けてそっと声を掛けると、誰も居ない待合室の奥の扉が開いた。孝宏程では無いが黒に近い色の髪をした二十代半ばの若い女が、エッダを見て微笑む。
「エッダか。クルトの様子はどうだ?」
グレーテルは森林族で、見掛け通りの年齢では無い。クルトの親より歳を重ねていると言う。くるぶしまである黒いスカートに、白いシャツ、葡萄色のカーディガンを羽織っていた。森林族にしては珍しい黒髪は、平原族だった父親に似たのだと言う。
「お父さんは、まだ熱があるの。後で診に来て下さいって」
「そうか。雪掻きをした後、汗を冷やしてしまったんだろう。解った、往診に行くよ。エッダは<Langue de chat>かい?」
「うん」
「気を付けておいき」
「うん。有難う、ドクトリンデ」
手を振ってエッダはグレーテルの家を出た。
「きゃっ」
広場を<Langue de chat>のある路地に入る手前で、エッダの頭に雪玉がぶつかって来た。
「本の虫エッダ!」
「カミル……」
そこに居たのはパン屋の息子カミルだった。エッダと幼馴染なのだが、何かと突っかかって来るのだ。色々と意地悪をされるので、エッダはカミルを避けていた。
「また本を読んでいるのかよ。何が面白いんだ?」
「面白いよ。知らない事が書いてあるんだもの」
「ふん、そうかよ」
カミルは足元の雪を蹴飛ばした。
「カミルも読んでみたら良いよ」
「金が掛かるんだろ」
「<Langue de chat>で読むなら掛からないよ」
「俺、字読めないもん」
「覚えればいいじゃない。私も覚えたもの、カミルにも覚えられるよ」
「じゃあ、これで覚えるよ」
カミルはエッダの手から若草色の本を奪って走り出した。足の速いカミルはあっという間に離れて行く。
「カミル!返して!」
エッダは慌ててカミルを追い掛けた。
「エッダ来ないねえ」
<Langue de chat>の午後、いつもならエッダが来る時間なのだがまだ来ない。昨日来た時、クルトが風邪を引いたと言っていたから、今日は来ないかもしれないなと、孝宏は思った。
「ん?」
誰も座っていない緑色のソファーをチラチラと見ていたエンデュミオンが、いきなり動きを止めた。耳がピンと立っている。
『どうしたの?エンデュミオン』
『エッダの持っている本が、別の人間の手に渡った。少し行って来る』
『え!?』
孝宏の目の前で、エンデュミオンはぱっと姿を消した。
一寸からかうつもりで本を盗って走り出したカミルだが、エッダが泣きながら追いかけて来るので、止め時が解らないまま走り続けていた。
(こんなものに何だって言うんだ)
苛々しながら路地の角を曲がる。
「おい、小僧」
「うぎゃあっ」
ずし、と突然頭の後ろが重くなり、低い子供の声が耳元で聞こえた。背筋がぞっとして、思わずカミルは叫び声を上げて立ち止まる。
「何?何!?」
後頭部に何か柔らかい物がへばり付いている。何だか解らないので物凄く怖い。
「エンディ!」
追いついて来たエッダが、はあはあと息を切らせながら、カミルの頭の上のモノに話し掛けた。
「小僧、エッダに本を返せ」
「う、うん」
カミルはエッダに若草色の本を渡した。素直に渡さないと怖い事が起こる気がした。
カミルが本能的に感じ取った恐怖は正解だった。<Langue de chat>の物に手を出せば、エンデュミオンは許さない。
「小僧、エッダと一緒にこのまま<Langue de chat>まで行け」
後頭部にいるモノに、ぱしぱしと頭を叩かれる。
「逃げたら許さん」
心の中を見透かされた様な言葉にびくびくしながら、カミルはエッダと正体不明のモノに<Langue de chat>まで連行されたのだった。
ちりりりん、りん。
「いらっしゃい。エッダ、紅い顔しているけど大丈夫?」
「さっき走ったの」
「喉冷やすと風邪引くよ。熱いお茶入れるからね。膝掛も使ってね」
「有難う、ヒロ」
本を持って緑色のソファーに向かうエッダ。そしてその場にエンデュミオンを後頭部に張り付かせたカミルが残された。
「どうしたの?この子」
「エッダの持っていた本を盗った」
「お、俺は悪戯で……」
「人によっては悪戯にならない事もある。黒森之國で盗人への罰は何だ?知っているか?小僧」
「し、知らない」
「利き手の手首を切り落とされる」
「ぎゃーっ!」
「……國もあるそうだ」
カミルの頭頂部に顎を載せ、意地悪くエンデュミオンが笑った。少年が半泣きになっている。
「うう、酷い」
「人の大切にしている物に手を出そうとするからだ。反省したか?」
「うん」
「なら、良し。孝宏」
「はいはい」
前肢を伸ばして来たエンデュミオンを孝宏は少年の後頭部から抱き取った。自分の後頭部に居たモノの正体を見て、カミルが目を丸くする。
「ケットシー!?」
「エンデュミオンだ。お前の名前は?親は誰だ?」
「……カミル。パン屋のカールの息子」
「次に何かしたら、カールに言うからな。ほら、さっさとエッダに謝って来い」
「うん……」
とぼとぼとカミルは閲覧スペースに行き、エッダの座るソファーの横に立った。本を読んでいたエッダがカミルを見上げる。
「ごめん、エッダ」
「良いよ。カミルも座りなよ」
カミルはテーブルを挟み、エッダの前にあった椅子におずおずと座る。ぐるりと店内を見回すが、閲覧スペースには彼らしか居なかった。
「ここ、何の店なの?」
「本を作ったり、直してくれたりするところ。あと、本を貸してくれるの。エンディは字を教えてくれるよ」
「エンディってさっきのケットシー?」
「うん。いつも教えて貰っているの」
さっきの少し意地悪そうなケットシーが、本当に教えてくれるのだろうか。帰る切っ掛けを失ったカミルが本を読むエッダをぼんやりと眺めていると、お盆を持った孝宏と一緒にエンデュミオンがやって来た。
エンデュミオンはエッダのソファーの隣によじ登る。
「はい、お茶だよ。あと今日は特別ね」
「わあ……」
紅茶の入ったお茶のカップと共に置かれたのは、白いクリームの様な物が掛けられた、渦巻き型の菓子だった。高さと直径が五センチ程ある。菓子からはツン、とした香りがした。
「こ、これ、パン?」
「これはシナモンロールパンだよ。パン屋さんに食べて貰うのは少し恥ずかしいなあ」
賄い用のおやつに作ったのだが、エッダとカミルの仲直りに出してみたのだ。
「どうぞごゆっくり。お茶はお代りをあげるからね」
孝宏はカウンターに戻って行った。
「美味しそうー」
エッダは一緒に運ばれて来た白い布で手を拭いてから、シナモンロールパンを両手で持って齧った。途端に「んー」と身悶える。
「美味しい!」
その反応に、カミルも濡れた布で手を拭いてから、シナモンロールパンに齧りついた。そして目を瞠る。
「うわ……」
上に掛けられていた白い物は砂糖だった。砂糖の他に何か混ぜてクリーム状にしてあるのだ。そしてパンは白パンだ。伸ばした白パンに蜜に絡めた胡桃や干し葡萄などを散らして巻いてあるのだ。
(それにこの香り。肉桂の粉だ)
ワインに入れて温めたり、年末に作る酒精をたっぷり含ませるケーキに入れたりする香辛料だ。それを贅沢に生地に振り、木の実と共に巻き込んである。
(こんなパンがあるなんて)
カミルには衝撃だった。黒森之國のパンはあくまで主食であり、菓子では無い。甘いパンなど想像もしていなかった。
エッダもカミルもあっという間にシナモンロールパンを食べ、ミルクティーを飲んだ。
「どうだったかな?」
お茶のお代りを持って来た孝宏に、エッダは「お父さんに持って行きたい」と頼んだ。
「ヘア・クルトはまだ寝込んでいるんだね。じゃあお見舞いですって、渡してくれる?」
「包んでおくからね」と言う孝宏に、カミルもつい頼んでしまった。
「あの、俺にも一つ貰って良い?」
「え?良いよ」
でも恥ずかしいなあ、と言いながらシナモンロールパンを蝋紙で包んで持って来た孝宏に、カミルは「何でこの人パン職人じゃないんだろう」と思っていた。
カミルは次の日からエッダと共に<Langue de chat>に来て、エンデュミオンに文字を習い始めた。
少年がサービスのクッキーにも衝撃を受けていたのは、エンデュミオンしか知らない。
そして、カミルが持って帰ったシナモンロールパンを食べ、少年よりも激しい衝撃を受けた父親が居た事は、エンデュミオンも知り得なかった。
好きな子には意地悪しちゃう悪循環、カミル。
エンデュミオンに目を付けられたので、素直になるしかなくなります。
そして、エンデュミオンの新たな弟子に追加です。