ギルベルトと靴職人
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
エンデュミオンの面倒見の良さは誰かさんに似ました。
179ギルベルトと靴職人
ギルベルトは元王様ケットシーである。故に身体が大きい。平原族や森林族の成人男性の腰位の高さに頭が来る。
「イシュカが言ってたけど、今度の土曜日は〈Langue de chat〉で久し振りにラング・ド・シャを出すんだってさ。皆で行こうか」
イシュカに店で売って貰う〈王と騎士〉を届けてきたリュディガーがマリアンに話している。イシュカはリュディガーの歳上の甥にあたり、どちらも温厚な二人はリグハーヴスで出会ってから仲良くしている。
二人並べると目元が似ていたりするのだが、リュディガーが森林族でイシュカが平原族なのもあり、余り気付かれないらしい。
ギルベルトはリグハーヴスの店の一般的な昼食後の開業時間になるのを見計らい、口を開いた。
「オイゲンの所に行ってくる」
「ギル、これ一緒に持っていってくれる? アプリコットのタルトよ。おやつにどうぞって」
タルト生地をフィリングの上にぴたりと被せてあり、カスタードの上に乗せられた半分に切ってシロップ煮にされたアプリコットの丸みが、ぽこぽこと浮かんでいるタルトが乗った木皿を、マリアンが持ち手付きの籠に入れる。マリアンが最近孝宏に教えてもらったレシピで、覚えるために続けて作っていたものだ。
ギルベルトが近所に遊びにいくのは珍しくないので、リュディガーもマリアンも慣れている。
「うん。行ってくる、リュディガー」
籠を受け取り、ギルベルトは木工細工の仕上げをしているリュディガーに声を掛けた。
「いってらっしゃい。気を付けてね、ギル」
「うん」
リュディガーは顔を上げ、ギルベルトの耳の間を撫でた。
身体の大きなギルベルトを拐う馬鹿はリグハーヴスには居ないので、時々一人で近所に遊びに行くのだ。それに〈オイゲンの靴屋〉は〈針と紡糸〉の斜め向かいである。
「いってらっしゃい、ギル」
「行ってくる、アデリナ」
店にいたアデリナに見送られ、ギルベルトは店のドアを開けて外に出る。身体が大きいので、自力でドアを開けられるのは便利で良い。
北にあるリグハーヴスでも街中の雪は殆ど姿を消して、風は少し土埃の匂いがする。
そろそろ薬草採取を生業にするリュディガーとギルベルトも、囲壁の外の草原や〈黒き森〉に赴き始める季節だ。
てくてく歩いて靴の形の看板が下がる斜め向かいの店のドアを開ける。
コロコロン。
革製のドアベルが可愛らしく優しい音を立てた。
「いらっしゃいませ──ギル!」
作業場に座っていた、オイゲンの孫娘ゼルマが、ギルベルトを見て笑顔になった。
「こんにちは、ゼルマ。遊びに来た。これ、マリアンがおやつにって」
「わあ、有難う。フラウ・マリアンのお菓子美味しいから大好き」
ギルベルトは店の中にゼルマの気配しかないのに気付いた。
「オイゲンは?」
「今日は革問屋に行ってから、〈Langue de chat〉に本を借りに行ってるの」
「そうか」
暖かくなってきて足元も良くなって来たから、老人も散歩に出る季節だ。しかし、実年齢ではオイゲンはギルベルトより若いのだが。
ゼルマはタルトの入った籠を、店の奥にある簡易台所がある小部屋へ置いて戻ってきた。
「ゼルマ、今日も仕事を見ていて良いか?」
「良いけど、飽きない?」
「ううん、面白い」
作業場の三本脚の椅子に腰を下ろしたゼルマの近くにある、座面が葡萄色の布張りのスツールにギルベルトは座った。背凭れがなく、尻尾が邪魔にならないので、いつもここに来るとこのスツールに座る。
「今日はなにを作っているんだ?」
「〈魔法鞄〉なの。春になって地下迷宮も解放されたから、冒険者の人達増えるでしょう? お祖父ちゃんだけじゃなく、私も作った方が数が出来るし」
「オイゲンもゼルマも闇の精霊と親和性が高いのか」
「うちの家系はそうみたい。父も私と双子のハイノもそうだから」
闇の精霊魔法と付与する技術があれば、〈魔法鞄〉が作れる。付与する技術、というのは〈魔法陣〉を描いたり縫ったりする技能の事だ。
ゼルマは作り掛けの鞄を取り上げた。〈オイゲンの靴屋〉では、靴と同じく二本の針に糸を通して縫い上げていく。
「これは肩掛け鞄になるの。〈魔法陣〉を刺繍するのは物を入れる部分の内側ね。だから最初に縫い込んでから組み立てていくの」
ポケット部分を被せるので、〈魔法陣〉自体は外からは見えない。
「ふむ。細かく縫い込まれているな。ヴァルブルガの刺繍も素晴らしいが、ゼルマの手も素晴らしい」
「お祖父ちゃんにはまだまだ敵わないわ。それに私の場合は〈魔法陣〉専門だけどね。ヴァルみたいに花とか鳥とかは刺繍出来ないのよ」
ヴァルブルガは趣味なのと、とことん満足するまでやり込む気質だからだ。仕事として魔力を通せる〈魔法陣〉を縫える者は少ない。
ついー、ついー、とゼルマの針が動き革に糸を通していく。事前に針穴の目安が打ってあるのだが、迷わずに刺して行けるのは何度も繰り返して来たからだ。
「全部縫い上げてから、魔力を通すのか」
「そうよ。じゃないと失敗するの」
「ほう」
ケットシーや魔法使いコボルトは〈時空鞄〉が作れるので、〈魔法鞄〉を持つのは職人型コボルト等だ。ヴァルブルガはヨナタンが欲しがれば、〈魔法鞄〉を作って与えそうだ。
暫くするとゼルマが集中して口数が減り始め、会話が途切れたまま革に糸が通る音だけが聞こえ始める。
ギルベルトは大きな耳を動かし、ゆらりと毛足の長い尻尾を揺らした。
無心に仕事をする職人が好きなのだ。人族は妖精より遥かに寿命が短い。その時間の中で根を詰め、物を作り出していく。作り出されたものは、彼らの人生よりも長く世に残る場合もある。そう言った事が、ギルベルトには酷く愛しいのだ。
「……」
一時間程ゼルマの仕事を眺めていたギルベルトは、そっとスツールから立ち上がった。
ほとほとと足音を抑えてギルベルトは台所のある小部屋へ向かった。こじんまりとした台所に、小さな磨き込まれたテーブル。好ましい、と思う。
長く使われて来たらしい琺瑯の白い薬缶にタンクの蛇口から水を汲み、コンロに掛ける。レバーを動かすと、熱鉱石が赤く燃え出す。
薬缶の水が沸くまでに、ギルベルトはポットとマグカップを用意した。棚にあったお茶の缶には、茶葉がたっぷり入っていた。
(濃く出るお茶、かな?)
ミルクを入れて飲むとより美味しい茶葉だ。オイゲンの好みなのだろう。
沸いたお湯でポットとカップを温め、ポットのお湯を捨てて茶葉を入れてお湯を注ぎ入れる。
(良い香り)
ティーコージーをポットに被せて、アプリコットタルトを引き出しから見付けたナイフで切り分けて皿に乗せる。
ギルベルトはほとほととゼルマの元に戻った。
「ゼルマ、お茶にしよう」
「え? あらもうお茶の時間?」
縫い掛けの革を作業机に載せ、ゼルマは三本脚の椅子から立ち上がった。そして小部屋に入って目を丸くする。
「ギル、お茶を淹れてくれたの?」
「うむ。ギルベルトはお茶の淹れ方をリュディガーとマリアンに習った。家でもたまに淹れるのだ。ゼルマ、ミルクはどこだ?」
「保冷庫よ」
ゼルマは台所の端にあった保冷庫からピッチャーに入った牛乳を取り出した。
「ギルはどの位?」
「たっぷり」
牛乳の入ったカップに蒸らし終えた濃い水色の紅茶を注ぐ。
「お砂糖? 蜂蜜?」
「蜂蜜が良い」
カップにスプーンで一杯蜂蜜を垂らし、ぐるぐるとかき混ぜる。
「このタルト、アプリコットのオレンジが鮮やかね。クリームはカスタード……だったかしら?」
「うむ。孝宏のレシピでマリアンが焼いたんだ」
「うー、お祖父ちゃんを待ちたいところだけどっ」
くっ、とゼルマがフォークを握り締める。ギルベルトがふくりと口元を膨らませた。
「〈Langue de chat〉に寄るなら、オイゲンもお茶をしてくるだろう」
「そうよね! お祖父ちゃんもお茶してるわよね! ちゃんと残しておけば良いわよね!」
こんな美味しそうな物を前にしてお預けはないわよねー、とゼルマは「今日の恵みに、月の女神シルヴァーナに感謝を」と食前の祈りを唱えた。
さく、とタルト生地とアプリコットをフォークで切り取り、ゼルマが口に運んだ。
「んーっ、美味しいっ」
ふにゃりと笑顔になったゼルマのフォークが、再びタルトに伸びる。ギルベルトも一切れ貰い、少しぎこちなくフォークを使う。
「美味い」
ギルベルトのふさふさで長い尻尾がピンと立ってふるふると揺れる。
ミルクがたっぷりと入った紅茶を桃色の舌で舐める。濃い割りには渋くない紅茶だ。
ギルベルトが遊びに来るようになってから、オイゲンが淹れてくれていた紅茶は、最近はゼルマが淹れてくれる事が多かった。どちらも美味しいので、ギルベルトは好きだった。
ミルクティーに息を吹き掛けてから一口飲み、ゼルマが息を吐く。
「職人って作業場に籠りがちだから、ギルが遊びに来てくれるのが嬉しいわ。採掘族の女の子って、リグハーヴスに殆どいないでしょ?」
「確かに居ても冒険者だから、街に長居しないなあ。だが、リグハーヴスは余り種族に拘らないだろう?」
リグハーヴスでは異なる種族同士の結婚も多い。子供は母方の種族になるので、それさえお互いに納得すれば教会も婚姻届を受け取る。
他の領になると、一つの種族の割合が多い地域では、異種族との婚姻はしにくい場合もあるらしい。そういう者達がリグハーヴスに移住したりしているとも言うのだが。〈黒き森〉と地下迷宮があり開拓が遅れたリグハーヴス公爵領は、他の領に比べて定住人口が遥かに少ない。同じ〈黒き森〉を領内に持つものの、魔物が出ない鉱山を持つハイエルンよりも。その為、代々のリグハーヴス公爵は、罪人でさえなければ他領からの移住に寛容である。
「そうなの。私が採掘族にしては大きいのもあるんだけど、リグハーヴスだと目立たないのよね」
平原族としては小柄なのだが、女性なのでそれほど目に付かないのだ。
「ゼルマと同じ年頃なら、平原族だが鍛冶屋のエッカルトの娘のアストリットかな。アストリットは細工職人だから、職人同士気が合うかもしれないぞ」
「ヘア・エッカルトの? うちの金具作って貰っているの、ヘア・エッカルトの所よ。今度お祖父ちゃんについて行ってみるわ」
「アストリットは良い子だぞ。たまに〈針と紡糸〉や〈Langue de chat〉で会う」
「そうなの? 会うの楽しみだわ」
「あとは領主館で働いているエルゼかな。エルゼは一週間に一度位しか丘を降りてこないけれど、休みの日には必ず〈Langue de chat〉に来るから会える筈だぞ。エルゼはヴァルブルガやルッツが懐いているから、穏やかな気性だな」
エルゼは職人ではないが、苦労人だ。だから、たまの休みの日に会える友人が居ても良いだろう。
「オイゲンならエルゼに会った事があるかもな」
「そっか、お祖父ちゃんに聞いてみるわね」
ギルベルトはゼルマとお茶を飲んだ後、〈オイゲンの靴屋〉を後にした。
エルゼは今日も今日とて領主館で真面目に働いていた。
「エルゼ、休憩していいぞ」
「はい!」
料理長のオーラフに返事をして、エルゼは手拭いで手を拭き、ティーポットに賄い用の茶葉を入れて紅茶を作った。紅茶のお供はイェレミアスが作ったロールケーキの端切れだ。今日はホールケーキではなかったので、当たりがあった。週に一度の〈Langue de chat〉以外での甘味なので、素直に嬉しい。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
ポンッ。
「エルゼ」
「まあ、ギルベルト。お祈りと共に現れるから驚いちゃったわ」
突然テーブルの脇に現れたギルベルトに、エルゼは座っていた三本脚の椅子から立ち上がった。地面が均されていなくても使えるこの椅子は、黒森之國で広く使われている。
「すまぬ、休憩中だったな。聞きたいのは一つだけなのだ。次の休みはいつなのだ?」
「土の日よ」
「解った。有難う。今度の土曜日は〈Langue de chat〉で、ラング・ド・シャがお菓子に出るらしいぞ。ではな」
それだけ聞いてギルベルトは〈転移〉していってしまった。
「領主様に用事なかったのかしら……?」
はて、と首を傾げたエルゼだった。
エルゼの休みを聞き出したギルベルトは、時間に融通の利く他の二人の元へと跳んで、「土の日に〈Langue de chat〉に行かないか? 久し振りにラング・ド・シャがお茶請けに出るらしいぞ」とちょっぴりお節介を焼いたのだった。
お仕事をしている職人さんを見るのが好きなギルベルト。
靴屋さんだけではなく、鍛冶屋さんやパン屋さん、ルリユールさんや薬草店さんにも行っている筈です。
ギルベルトは近所なら結構一人で遊びに行くのですが、通りすがりのご近所さんがさり気なく見守っていたりします。
でも、ギルベルトに爪を出して叩かれたらそれだけで重傷になる気がしないでもない……。
ギルベルト、エルゼにあれだけ言う為に、領主館に行きました。たぶん、ビーネのお迎えにあとでもう一回領主館に行ってるのではないかと思われます。
用事がある人の所にしか行かない……。




