イシュカと幸運妖精の散歩
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
シュネーバルの父親代理はイシュカです。
178イシュカと幸運妖精の散歩
黒森之國の朝食は、パンとチーズとハムと卵、お茶と果物と言った物が日常的だ。孝宏の場合は温かなスープも付くけれど。
今朝は牛乳を少し入れた軟らかなプレーンオムレツに櫛切りにした真っ赤なトマト。サイコロ状の根野菜たっぷりのコンソメスープ。櫛切り林檎は少しの砂糖で火を通し、ヨーグルトに乗せてある。少し薄目に切った黒パンとチーズとハムはお好みで。
黒森之國のパンは黒パン系でも結構種類があるが、主食として一番多く売られているのはクープが十字に入っていて同心円の笊の模様が付いている物だ。他の種類のパンは数量限定、と言った趣だった。おやつにも食べられるプレッツェルは毎日売られていたけれど。
だから〈麦と剣〉においては、カミルとエッダが午後から売り出す〈日変わりパン〉が異色だった。王都にもないパンを売っているのだから。
冒険者を通して少しずつ他の領にも噂になり始めている様だが、カミルとエッダは婚約しているし、〈麦と剣〉の跡継ぎである。それにパン屋は領主が指名している職人しか開業出来ない。つまり、他の領主が引き抜こうとすれば、現地の領主に喧嘩を売る事に他ならない。
おまけに常連客に妖精達が居るとなれば──大人しく買いに来るのが賢明だと判断されるのだった。
「ん、んー」
機嫌良さげにシュネーバルが一口大に切られた黒パンに入れられた切れ込みに、チーズとハムを挟んで「あー」と口に入れる。
まずは一口で食べられるか試すので、孝宏が予めシュネーバルのパンもチーズもハムも一口大に切ってあるのだ。
コボルトはチーズが好きである。確か犬もチーズが好きなので、犬型のコボルトがチーズ好きでも不思議はないと孝宏は納得したものである。
「孝宏、これでチーズ終わりか?」
「うん、買って来なきゃ。食べちゃって良いよ、それ」
「うん。ヨナタンとシュネーも要るか?」
「……」
「う!」
小さくなったチーズの塊をナイフで切っていたイシュカに、ヨナタンとシュネーバルが揃って前肢を差し出した。
「パンもないな。後で革問屋に行くから、買ってくるよ」
「革問屋って左区だよね。遠回りじゃないの?」
「散歩がてら行くから」
「しゅねーばるも!」
散歩と聞いて、シュネーバルが紅茶色の瞳を輝かせる。
「一緒に行くか、シュネー」
「う!」
自分一人で街に出る訳にはいかないシュネーバルは、誰かが外出する時に一緒に連れていって貰うのを楽しみにしていた。
林檎の砂糖煮をヨーグルトごとスプーンで掬って口に入れ、緑色の大きな瞳を細めるヴァルブルガにイシュカは訊ねる。
「ヴァルはブローチ作ってるか?」
「うん。もう少し作っておきたいの」
春光祭が近いのもあり、ヴァルブルガはレース編みのブローチ作りに忙しい。隠れたブランド〈Walburga〉の人気は相変わらずで、〈針と紡糸〉を通した客が時々訪れるのだ。
主契約している妖精は主に喚ばれれば直ぐに近くへと行けるので、ヴァルブルガは革問屋へ行くイシュカに付いていかない事もある。革問屋に籠る革の強い匂いが苦手なのだ。イシュカもそれを知っているので、強要しない。
「んっんー」
イシュカが肩から吊った青いスリングの中から、シュネーバルの鼻唄が聞こえる。時折スリングから顔を出しては通りを見渡し、またスリングに潜る。
「ご機嫌だな、シュネー」
「うー!」
返事と共にスリングの中から、シュネーバルがイシュカのお腹をぺしぺし叩く。
リグハーヴスには幾つか問屋がある。各ギルドでも革や布等を扱うが、ギルドで扱うのは地元リグハーヴスで採集された物が殆どだが、問屋は黒森之國全土からの品物が集められているのが違いだ。そして、問屋に関しては商店とは違い、左右区で一つしか無い物もあった。問屋の方がギルドより高級な品物を扱うので、領主家族や騎士以外は平民の住人か冒険者しかいないリグハーヴスでは、需要が少ないのだ。
どちらかと言えば、地下迷宮から手に入る上質な魔物の革狙いだ。囲壁の外にある鞣し工場で鞣した上質な革を買い付け、王都へと流す。それが、リグハーヴスの革問屋の主な仕事だった。
だからと言って、全ての上質な革を王都へと運んでしまう訳ではない。上質な革で上着や鎧を作りたいと言う冒険者もいるし、リグハーヴスには靴屋もルリユールもあるからだ。
「おはようございます」
「いらっしゃいませ、親方イシュカ」
重厚な飴色に磨かれたドアを開けた途端、ツンとした革の匂いに包まれる。
イシュカはミルクチョコレート色にぴかぴか光るカウンターに近付き、きちんと身形を整えた栗色の巻き毛の青年に話し掛けた。イシュカと同年代だが、彼もこの店の店主だ。
「いつもの革で、赤と青、深い緑はありますか?」
「ございますよ。一巻きずつで宜しいですか?」
「はい。最近冒険者の方が、採取図鑑の装丁を依頼に多くいらっしゃるんです。質が良くて値段が手頃だと、好まれる革なんですよ。発色も綺麗ですから」
「それはそれは、有難うございます。後程お届けに上がりますね。納品書もその時にお持ちします」
「お願いします。他に新色はありますか?」
イシュカの注文を紙に書き付けていた店主がにこりと微笑んだ。
「綺麗な色がありますよ。こんなのはいかがです?」
店主が短冊に切られた革の束をカウンターに乗せた。濃い色が多い染め革の中で、珍しく淡い色ばかりの見本だった。
「淡い色ですか。この青紫色が綺麗ですね。こちらのミルクティーみたいな色も」
桃を想像させる様な淡いピンク色も捨てがたい。
「う!」
スリングからシュネーバルがぴょこんと顔を出した。
「しゅねーばる!」
店主に向かって右前肢を挙げる。挨拶の仕方は先輩妖精達から教わっているので元気が良い。
整った店主の頬が緩む。
「おや、幸運妖精ですか。これは素敵だ、今日は良い事がありそうですよ。私はヒエロニムスですよ、シュネーバル」
「う」
スリングの中でシュネーバルが尻尾を振っているので、ヒエロニムスは善人判定を通過した模様だ。
「シュネーは何色が良いと思う?」
「う!」
迷わずシュネーバルはミルクティー色を選んだ。イシュカはミルクティー色と青紫色の革、淡いピンク色の革を一巻きずつ買った。ピンクは人を選びそうだが、女性が好きそうだ。
イシュカは先に頼んだ革と一緒に配達を頼んで、革問屋を出た。
「シュネー、そろそろ魔法書を作り始めるんだろう? あのミルクティー色の革で表紙を作ろうか?」
コボルトの魔法書は板状の表紙で紙を挟み紐で綴じる。紙が増えても対応出来るのだ。
「うー!」
ひしっとシュネーバルがイシュカの腹に抱き付いた。嬉しかったらしい。
「どんなの作るか決めような」
イシュカはシュネーバルの頭を撫でつつ、右区に戻った。そのまま食品を売っている店が多い通りへと向かう。
「おはようございます」
「はよー」
「あら、いらっしゃい」
〈麦と剣〉では今日も溌剌としたベティーナが売場の窓口にいた。
「今日はまだカミル達のパンはないのよ。だからプレッツェルをどうぞ」
「わうー!」
シュネーバルの小さな両掌に乗る大きさの可愛らしいプレッツェルをベティーナから貰い、シュネーバルが尻尾をスリングの中で盛んに振った。小さいけれど、艶々としたプレッツェルの表面にはしっかりと砕いた岩塩が散らしてある。
「うー」
シュネーバルはしっかりした生地のプレッツェルを頑張って半分に割き、「きょうにょめぐみに」と唱えてから「あーん」と片方を自分の口に入れた。そしてもう片方をイシュカに差し出した。
「俺にくれるの?」
「う!」
「有難う」
シュネーバルの前肢から直接プレッツェルを口にする。弾力のある生地を噛むと香ばしい小麦の味、そして岩塩がじわっと口に広がる。
「美味しいね」
「おいちーねー」
「ふふふ、有難う。カールに伝えるわね」
イシュカはいつもの黒パンと白パンの他におやつにもなるプレッツェルを買った。
「シュネー、籠出してくれる?」
「う」
シュネーバルの〈時空鞄〉に入れてもらっていた手付き籠を受け取る。〈時空鞄〉から取っ手が出てきたところでイシュカが引っ張り出したのだ。何しろ、籠の中にシュネーバルが入ってしまえる大きさなので。
代金を払い籠に買ったパンを入れ、ヴァルブルガの刺繍入りの布巾を被せる。
イシュカとシュネーバルはベティーナに手を振り〈麦と剣〉を後にした。
「次はチーズ屋だな」
「ちーず!」
チーズ屋は囲壁の外にある村で牛や羊を飼い、チーズを作り街の店で販売している。幾つかの家で作ったチーズを一つの店で売っているので、それぞれに個性がある。
「いらっしゃい。今日はどれにします?」
顔馴染みの店員は淡い榛色の毛並みをした人狼の女性レーニだ。冒険者をしていた村出身の男性と最近結婚したと言う。元々は老爺が店主だったが、孫が冒険者を引退して跡を継いだのだ。老爺が店番に居る事もあるが、現在チーズ作りを孫に叩き込んでいるらしく、このところレーニが店番をしている事が多い。
人狼もチーズ好きが多く、レーニが薦めるチーズの味や香りは的確だ。
「ちーず!」
「まあ、可愛らしいコボルトですね」
レーニがシュネーバルの差し出した前肢を軽く握り上下に振る。
「北方コボルトのシュネーバルです。まだ子供なんですよ」
「しゅねーばる!」
「私はレーニ。宜しくね」
「う!」
シュネーバルの挨拶を済ませてから、イシュカはいつも買っているチーズを指差した。
「あのナッツの香りがするチーズと、あちらの白くて中が軟らかい物を。それから、あちらの熔けやすい少し濃い黄色の物を頼みます」
孝宏とヴァルブルガが香りの強いチーズが苦手なので、食べやすいチーズをいつも買っている。中が軟らかくて少し苦味のあるチーズは、イシュカとテオのつまみになる事が多い。ヨナタンとシュネーバルも横から貰うのだが。
頼んだチーズを切り出して蝋紙で各々包み、レーニが渡してくれる。交換で代金を渡し、重くなった籠をイシュカは曲げた肘に掛けた。
「こちらは試食に。燻製肉を混ぜた物ですよ。サンドウィッチやおつまみに良いですよ」
「あー」
開けた口にチーズの欠片を入れてもらい、シュネーバルがあぐあぐと咀嚼する。そして「おいちーねー」と頬を前肢で押さえた。これはルッツとヨナタンを見て覚えた仕草だろう。
イシュカも燻製肉入りのチーズを食べる。燻製の香りが鼻を抜ける。これは酒に合いそうだし、孝宏も好きそうだ。
結局イシュカはそのチーズも買い求め、〈Langue de chat〉に帰ったのだった。
「ただいま」
「ただいまー」
「お帰り」
一階の台所で孝宏に買い物籠を渡す。この家のメインの台所は二階なのだが、営業中の昼食は一階で取る事もある。
「初めてのチーズも買ってきてみたよ。燻製肉が混ぜてあるんだそうだよ」
「細かく刻んでサラダに入れても美味しそう」
「ちーず!」
「シュネー、チーズ好きだもんね。イシュカとお散歩楽しかった?」
「う!」
両前肢を挙げる。「とても」の時にはシュネーバルは両前肢を挙げるのだ。
「そっかー、良かったねえ」
「うー」
ぐりぐりとシュネーバルがイシュカの腹に頭を擦り付ける。この家の主であるイシュカがシュネーバルは大好きなのだ。
「イシュカが父親代わりなんだ」とエンデュミオンが言っていた。コボルトはその群れの主に一目置く性質がある。「そうなんだ」と言ったら、「孝宏は母親代わりだぞ」と言われたが。
〈天恵〉が〈天恵〉だけに、妖精にはなつかれ易い孝宏である。
「イシュカは工房に行くの?」
「ああ。後で革が届くし、注文を受けている装丁の仕上げもあるし」
「最近の新人さんはちゃんと採取図鑑買うんだね」
冒険者ギルドで売っているのは簡単な薄い紙表紙の物なので、皆頑丈な革装丁に変えるのだ。
仕事が増えたのがクーデルカのお料理教室兼新人研修のおかげだとは知らないイシュカ達だった。
孝宏はスリングからシュネーバルを抱き上げ、耳の付け根を掻いてやる。
「シュネーは何するの?」
「しゅねーばる、おんしつ、いちご!」
エンデュミオンの温室に毎日通うシュネーバルは、果実の実りに詳しい。
「苺赤くなってた? 採って来てくれるならお菓子作ろうか」
「う!」
「苺大福とか作れるかなー、冷凍しているあんこあるし」
「……あんこ」
居間で寝返りを打とうと頑張るアハトを見守っていたエンデュミオンが、ぼそりと呟くのが聞こえた。
「今日はシュネーが採って来たいちごで作ったおやつか。楽しみだな」
「う!」
イシュカに顎の下を指先でくすぐられ、きゃっきゃとシュネーバルが声を立てて笑う。
「平和だな、グリューネヴァルト」
エンデュミオンの囁きに、翡翠色の木竜がきゅいと鳴いた。
コボルト的感覚では、〈Langue de chat〉で一番強いのはイシュカなのです。
なので、イシュカから食べ物を分けて貰うのは、一寸特別(主から貰うのとは別腹)。
シュネーバルは毎日温室に行って、食べごろの野菜と果物を収穫して来て孝宏に渡します。
台所横のドアも、妖精達が自分で開けられる二分割ドアに変更されてそうです。




