名持ち妖精猫と〈Langue de chat〉
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ケットシーにとって、主は自慢なのです。
174名持ち妖精猫と〈Langue de chat〉
鼻歌を歌いながら孝宏は鍋の前に立っていた。鍋からは爽やかな薬草の香りのする湯気が上がり、台所と続きの居間にまで香気が漂っている。
「そろそろ良いかな」
孝宏が鍋で煮ているのは料理ではない。これは煎じ薬なのだ。そして飲むのではなく、入浴剤だった。
出来上がった煎じ薬を笊を通して別の鍋に濾す。すると薄い緑色の液体が出来上がる。鍋に蓋をして、孝宏は居間に顔を出した。
「イシュカ、煎じ薬出来たよ」
「うん。じゃあアハトをお風呂に入れようか」
ソファーから立ち上がり、イシュカは揺り籠からアハトを抱き上げた。
「お風呂だぞ、アハト」
「にゃ」
ラグマットの上に広げた浴布の上で、おしめや掻きむしり予防のガーゼの手袋を脱がす。ここ数日だけでもアハトの皮膚状態はかなり改善された。
煎じ薬で入浴すると痒みが治まるらしく、アハトはお風呂の時間になると嬉しそうだ。
〈Langue de chat〉に預けられたばかりの頃は目が開いてなかったが今はもう開いていて、中心が濃い緑色で縁にいく程琥珀色という瞳でじっと物を見る。イシュカや孝宏なども見分けが付く位には既に見えている様だ。
孝宏はアハトの入浴はイシュカかテオに頼んでいた。二人の方が手も大きい。そして何よりエンデュミオンがお風呂で挙動不審になるためだ。
本来は洗濯用だった白いホウロウの盥に熱い煎じ薬を水でうめて適温にする。そこに肢先からアハトを浸けていく。
「にゃうー」
満足げな赤ん坊ケットシーの声に吹き出しそうになりつつ、イシュカは湯の中でアハトを支える。向かいからヴァルブルガが慣れた手つきで、煎じ薬が毛の奥に届く様にアハトを揉む。皮膚が弱いので石鹸は使わない。煎じ薬で充分なのだ。途中でお湯を代えて温まれば、アハトの入浴はおしまいだ。ふかふかの浴布に包まれて孝宏に渡される。
「はい、お疲れ様。エンディ、乾かしてあげて」
「うん」
居間で浴布の上から風の精霊に頼んで乾かして貰う。櫛で毛をとかし、おしめを着けて貰ったアハトは、浴布の上で仰向けのままもぞもぞ四肢を動かした。
「動くようになってきたな。そろそろ寝返りするかな」
ケットシーの成長は早い。一年で成体になる。但し精神年齢に関しては個体に差がある。やはり最低でも二十年を超えなければ子供扱いだ。
アハトは孝宏曰く、タキシード柄のケットシーである。黒白のハチワレで口元と胸からお腹に掛けてと四肢の先が白い。
エンデュミオンにアハトを見ていて貰い、孝宏は夜に飲むお茶をティーポットにたっぷり作った。そろそろ一階のバスルームを使っているテオ達も戻ってくる。
用意していた絞りたての林檎果汁を入れた哺乳瓶を持ち、居間に戻る。
「アハト、おやつが来たぞ」
「にゃー」
エンデュミオンがアハトを膝に抱き上げ、孝宏が渡した哺乳瓶を咥えさせる。アハトは林檎果汁を美味しそうに飲み始めた。
グラッフェンの面倒もみていたので、エンデュミオンも手慣れている。横からグリューネヴァルトが鼻先でアハトの頭を擦る。撫でているのだろう。
「きゅっきゅー」
「うん、可愛いな」
ケットシーは可愛がられるのを好む妖精だ。だから幼い頃はうんと可愛がって育てる。
「アハトの皮膚、大分良くなってきたな」
捲り上げていたシャツの袖を下ろしながら、イシュカとヴァルブルガがバスルームから戻ってきた。
「痒がらなくなってきたもんね。お疲れ様、ミルクティー飲む?」
「ああ、頼む」
「ヴァルブルガも」
「はーい」
孝宏は台所にいって、マグカップにミルクティーを作り、蜂蜜を少し垂らしてイシュカとヴァルブルガに運んだ。
〈薬草と飴玉〉で実際に薬草を処方するのは、ドロテーアに憑いているケットシーのラルスなのだ。幼いケットシーへの処方という事で、ラルスはアハトの皮膚を一度見に来てから薬草を処方してくれた。
今のところ、アハトにはケットシーの乳以外のアレルギーは出ていない。しかし飲んでも平気な牛乳以外の乳には気を付けた方が良さそうだ。
「おふろ、でたー」
「う!」
居間の入口からルッツとシュネーバルが走ってきた。階段を上がったところで、テオに下ろして貰ったのだろう。後ろから、テオとヨナタンを抱いたカチヤが付いてくる。カチヤとヨナタンは一階に置いていた絵本を取りに行っていたのだが、丁度廊下で会ったのだろう。
「ミルクティー飲む人は?」
「あい」
「う!」
「……」
カチヤに床に下ろして貰ったヨナタンも前肢を挙げる。
「皆だね」
ミルクたっぷりのミルクティーを作り、ストローを挿して渡していく。
テオとカチヤは林檎果汁を飲むアハトを見ていた。当初は掌に乗るほどの小さな赤ん坊だったが、一回り大きくなった。幼児期の栄養次第で妖精の成長には大きな差が出るのだ。
「よし、全部飲んだな」
「じゃあ、白湯も飲んでね」
まだ歯が生えていないが、孝宏はアハトに木匙で冷ました白湯を飲ませた。それから口元を布で拭ってやる。
エンデュミオンはアハトを縦抱きにして、背中を肉球で擦る。けぷっと空気を吐き出してから、アハトはエンデュミオンの肩に額を擦り付けた。
「みゃう」
甘えた声を出し、くあーとあくびをした。
「アハト、もう寝るか? カチヤ、揺り籠に寝かせてやってくれ」
「はい」
カチヤがアハトを抱き取り、揺り籠に敷き込んだ布団に寝かせる。柔らかい水色の布地でヴァルブルガが作った魚の形の抱き枕にしがみつき、アハトはカチヤが絶叫鶏の羽毛を詰めた掛け布団を掛ける前に寝息を立てていた。
「眠るの早いですね……」
「赤ん坊はこんなもんだ」
起きている間は皆に遊んで貰えるので、アハトの寝付きはとても良いのだ。
アハトの揺り籠は、孝宏とエンデュミオンの部屋に夜の間は置かれている。
「……」
ぴとり、とシュネーバルが孝宏の脹ら脛に身体を押し付けた。ミルクティーのコップを両手で持ったまま見上げてくる。何かを期待する眼差しに、孝宏は笑みを返した。
「シュネー、座って飲もうか?」
「う」
抱き上げて椅子に座った孝宏の膝の上に座らせる。
「う!」
白い巻き尻尾が左右にぶんぶんと振られた。エンデュミオンに抱っこされていたアハトを見て、甘えたくなったのだろう。ルッツとヨナタンもそれぞれテオとカチヤの膝の上に座って、ミルクティーを飲んでいた。
エンデュミオンは眠ったアハトの揺り籠から離れ、台所に来て椅子によじ登った。
孝宏はエンデュミオンにもミルクティーを作ってテーブルにコップを置いた。
「有難う。アハトの肌の状態が良くなってきたから、もう一度ラルス達に診て貰おうか」
「この間はフラウ・ドロテーアとフラウ・ブリギッテが往診行ってたんだっけ」
そろそろ大工のクルトの妻アンネマリーの出産が近いのだ。先日はヴァルブルガとラルスの見立てで入浴剤を処方したが、ドロテーアとブリギッテは妊婦と赤ん坊の専門家だ。例えそれが妖精の赤ん坊だとしても、診てもらうに越した事はない。
「明日都合がよければ温室にお茶に来て貰おうか。良いか? イシュカ」
「勿論。アハトも痒みがないと機嫌が良いしな」
初日などは、起きている間中ぐずっていて可哀想だったのだ。眠りも浅くて、夜中に何度も起きて泣いたので、アハトに合わせて起きた孝宏の目の下に隈が出来ていた。
今は入浴剤が効いて、アハトは夜中寝てくれるようになった。数日だけだったとはいえ、子育ては大変だと実感した孝宏だった。
翌日のお昼にドロテーア達を温室に招待した。
黒森之國では、お昼の時間は宿屋の食堂以外は基本的に店を閉めるのだ。
エンデュミオンの温室はいつも春の陽気だ。だから、アハトもおむつ姿で敷物の上に広げた浴布の上に寝かせておける。
現在のところアハトは寝返りをしたり、ハイハイは出来ないので、シュネーバルに遊んで貰っている間に、孝宏はエンデュミオンの〈時空鞄〉からバスケットを取り出して貰う。
「にゃっにゃっ」
「う」
「……孝宏、何だかアハトが釣られている様に見えるんだが」
重ねた木皿を手に、イシュカが遊んでいるアハトとシュネーバルに目を向ける。
現在、シュネーバルは玩具の釣竿の先から垂れる紐にヴァルブルガが編んだ苺の編みぐるみを着け、それをアハトの上に吊って上下に動かしていた。アハトは寝たままで前肢を伸ばし、時々苺の編みぐるみを掴まえては楽しげな声を上げていた。
「駄目だったかな」
「楽しそうだから良いんじゃないかとは思うが」
なにしろシュネーバルは身体が小さいので、アハトを抱いたら転がりかねない。しかしエンデュミオンやヴァルブルガがアハトをお世話しているのを見て、少し羨ましそうだったので、あやして貰う事にしたのだ。
『モビールも考えたけど、ここ吊るすところないしなー』
木の枝に吊るしても遠い。アハトもシュネーバルも双方楽しそうだから良いよね、と独り言ちる。
「こんにちは」
「こんちはー」
広場に入ってきたドロテーア達を、近くでブルーベリーを摘んでいたルッツが出迎える。
「まあまあ、素敵な温室だこと」
ドロテーアが上品な仕草で両手を合わせ、くるりとその場で一回りした。
「でしょう?」
ブリギッテもルッツを撫でながら、追従する。ブリギッテとラルスは温室に来ていたが、ドロテーアは今まで来た事がなかったのだ。
「エンデュミオン、家からのケーキだ」
ラルスが〈時空鞄〉から白い布巾に包まれた物を取り出した。丸い形で焼いたケーキはどっしりとしていて、香りからたっぷりと胡桃や干した果物を使った物だと解った。明らかに、美味しいと解る香り。エンデュミオンの縞々尻尾がピンと立ち、ラルスが満足そうな顔になる。
「有難う。美味しそうだ。食事のあとで皆で頂こう」
「ドロテーアの菓子も美味しいんだ」
昔ながらのレシピのケーキだが、ラルスの好物らしかった。
食事を並べ始めている布の上にケーキを置き、エンデュミオンとラルスはアハトの居る場所へ向かう。
「アハトの調子はどうだ?」
「殆ど痒がらなくなったな」
「ところであれは、釣りなのか?」
「いや、遊んでやってるんだが……」
釣竿の先の苺の編みぐるみを掴まえ、「にゃーっ」と喜ぶアハト。元気な魚である。
「ドロテーア、ブリギッテ」
ラルスが二人を呼び、アハトの診察をして貰う。
「あら、手袋をしているのね」
「最初の頃は自分で掻いていたから、爪を切って手袋をするしかなかったんだ。治ったら外しても良さそうだ」
「そうね。ラルスに聞いていたのと比べて随分良くなっているわ。このまま薬湯での沐浴を続けてあげて。栄養状態も良さそうね」
指先でお腹をドロテーアにくすぐられ、「きゃー」とアハトが笑う。預けられた当初に比べ格段に動き、笑う様になった。
ついでにシュネーバルも診察して貰い、痩せてはいるが問題なく、栄養のある食事をしていれば体毛も元気になり増えると言われた。
「うー!」
嬉しかったのか、シュネーバルは孝宏に報告しに走っていった。
「シュネーバルが気にしていたんで、助かった」
「愛情と栄養を貰えば、直ぐにふかふかになるわ。特に子供だとあっという間よ」
うふふ、と笑ってドロテーアはアハトのお腹を撫でる。ブリギッテは「小さーい」と言って、診察の為に脱がしたアハトのおしめを見ていた。
「そろそろクルトとアンネマリーの子が産まれるんだろう?」
ツナサンドとスモークサーモンサンド、フルーツサンドが載った木皿をドロテーアに両前肢で差し出し、エンデュミオンが訊ねる。
「有難う、エンディ。ええ、もうすぐよ。それでヴァルブルガに頼みがあるのだけれど良いかしら」
「なあに?」
フルーツサンドを一口齧り、ヴァルブルガが口元に付いたクリームをペロリと舐めとる。
「出来ればお産の時に一緒に来て欲しいの。私達薬草魔女は魔女の医術は使えないから」
薬草魔女は精霊魔法で怪我の治療をしない。怪我などの治癒と言うよりも、妊婦を落ち着かせる為の精霊魔法なのだ。自然分娩なら問題ないが、出血が多い場合などは魔女や医師の協力が必要だ。
リグハーヴスの右区には魔女グレーテルが居るが通院する患者がいるので、お産の時に長時間拘束出来ない。主にグレーテルが往診に行っている間に患者を診るヴァルブルガなら、お産に付き合っても支障はない。
「良いの。呼んでくれたら行くの」
「クルトには直接〈Langue de chat〉に連絡を貰えば良いのではないか? エンデュミオンがヴァルブルガと一緒に、ドロテーアとブリギッテを迎えに行って、そのままクルトの家に行けばいい」
ヴァルブルガは編みぐるみを届けにこっそりクルトの家に行った事があるが、引っ込み思案なので、その場に慣れるまでエンデュミオンが一緒の方が良いだろう。因みにラルスは薬草師であって、薬草魔女ではない。それに店番があるので、お産には参加しない。
「あかちゃん?」
「おおきさアハトくらい?」
並んでサンドウィッチを食べていたシュネーバルとヨナタンが、浴布の上で編みぐるみの苺をはむはむしているアハトに揃って視線を向けた。
ブリギッテが笑って、両手で赤ん坊の大きさを「これくらいよ」と示して見せる。
「産まれたばかりの赤ちゃんはシュネーバルより少し大きい位かも」
「あかちゃん、おおきい」
「ヨナタンよりちいさい」
多分、直ぐにヨナタンよりも大きくなると思った面々だったが、幼少組には突っ込みをいれなかった。ルッツはヴォルフラムに会っているからか、赤ん坊の大きさに疑問はなかったらしい。テオの隣でフルーツサンドを口一杯に頬張っていたから喋れなかったのもあるだろうが。
「落ち着いた頃に皆に会わせに連れてきてくれると思うよ」
カチヤがシュネーバルとヨナタンの頭を優しく撫でる。
「う!」
「……」
しゅっと二人が前肢を挙げる。
サンドウィッチの昼食の後には、ドロテーアのドライフルーツをたっぷり使ったケーキを皆で食べた。
糖蜜を使った褐色のケーキは上から白いアイシングが掛けられた素朴な見た目だったが、「おいしーねー」と妖精達に絶賛され、ラルスの黒い鍵尻尾が自慢気にピンと立っていたのだった。
お料理上手なドロテーアです。
妊婦さんに食べる物の指導もしたりするので、ブリギッテもお料理上手です。
ラルスは薬草師。勿論ドロテーアたちも調剤出来ますが、普段はラルスがしています。
店のカウンターはラルスの砦。




