シュネーバルとチョコレート
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
チョコレートと言えばつきものの。
167シュネーバルとチョコレート
ザクザクザク。
生板の上で胡桃を包丁で大まかに刻む。干し葡萄はそのままで良いだろう。
今朝はシュネーバルのトイレで早目に起きたので、孝宏は朝から胡桃と干し葡萄たっぷりのスコーンを焼くつもりだった。これは人も妖精も好きなのだ。
コンコロリン。
「あ」
包丁で弾かれた胡桃の欠片がテーブルを転がった。
「……」
ひょい、ぱく。
妖精用の椅子に座っていたシュネーバルが、転がってきた胡桃を掴むなり口に入れる。
エンデュミオンはイシュカ達と一緒に店に降りて、卓上ランプの火屋を磨いている。卓上ランプは小振りなので、ケットシーの前肢が火屋を磨くのに丁度良いのだ。カチヤとヨナタンは一階の台所の準備をしてくれている。
次に孝宏は干し葡萄を、大まかに量る時に使っている小鉢に茶色い紙袋からザラザラと開けた。
コンコロリン。
小鉢の縁に当たって跳ねた茶色い干し葡萄が一つ、シュネーバルの前に転がる。
ひょい、ぱく。
すかさずシュネーバルが拾って口に入れた。
胡桃も干し葡萄も、森に居た時にも食べていたのだろうし、孝宏も既に食べさせてみている。シュネーバルは胡桃も干し葡萄も好きだった。小腹が空いた時の虫養いにもあげている。特に干し葡萄は甘いからかお気に入りで、孝宏は茶色や紫色や黄緑色の干し葡萄を幾つか買い求めていた。
砂糖と塩、ベーキングパウダー等を混ぜた小麦粉に冷たいバターを切り混ぜてから手で擦り混ぜ、しっとりした粉状にしてから胡桃と干し葡萄を追加し、牛乳を入れてまとめる。生地を伸ばしてたたみ、方向を変えて伸ばしてたたむ。
それから二センチ程の厚みに伸ばしてコップで抜いて、蝋紙を敷いた天板に並べた。
「ミヒェル、お願いね」
「はーい」
火蜥蜴のミヒェルがいるオーブンに天板を入れて、焦げないよう見て貰う。
使ったボウルや麺棒を一度洗い、布巾の上で水気を切る間に、孝宏は店で出すチョコレートクッキーに使うチョコレートを刻む事にした。
今日はバレンタインデーなので、お店でもチョコレートクッキーだ。ココア生地にチョコレートチップを入れたい。
しかし、黒森之國ではチョコレートチップは売っていない。しかもチョコレートは基本ブラックなので、一度溶かして砂糖を混ぜて甘くして固め直している孝宏である。
「う、まだ固いかな」
保冷庫から少し前に出していたのだが、まだ早かったかもしれない。包丁で端を叩いてみたら、小指の爪位の大きさのチョコレートがシュネーバルの目の前に飛んで行った。
ひょい、ぱく。
シュネーバルが拾って口に放り込むのが見えた。
「あ」
チョコレートは初めて食べさせた気がする。
「……」
ポタリ。
テーブルに何かが落ちた。一瞬何か解らなかった孝宏だが。
「うわあっ」
声を上げるなり、キッチンタオルを掴んでシュネーバルの鼻に押し当てていた。
「シュネー、口で息して!」
しゅっとシュネーバルの右前肢が挙がる。
「エンディ! ヴァル! 助けて!」
ポポンッ、と音を立ててエンデュミオンとヴァルブルガが台所に出現した。
「どうした孝宏!」
「鼻血っ、シュネーがチョコレート食べたら鼻血出たっ」
「は、鼻血!?」
呆気に取られたエンデュミオンだったが、すぐにシュネーバルの隣に椅子をもう一つ寄せてヴァルブルガを登らせた。
「チョコレート、どの位食べたの?」
「俺の小指の爪位の大きさかな。ほんの少しだったんだけど。その前に胡桃と干し葡萄食べてる。でもこっちは前にも食べさせているし」
「うん。シュネーバル、良い子良い子」
ヴァルブルガはシュネーバルの頭を肉球で撫でつつ、鼻柱をもう片方の前肢の先で撫でた。ぽわりと澄んだ緑色の光が広がる。
「……血が出た所治して、チョコレートの成分抜いたの。鼻血止まったの」
「有難うヴァル。うう、驚いた。シュネー、今顔を拭いてあげるね」
新しいキッチンタオルを出して水で濡らして絞り、汚れた鼻と顔の毛を綺麗に拭ってやる。
「エンディとヴァルが慌てて消えたけど、どうしたんだ?」
店からイシュカが上がって来て、テーブルの上にあった血で汚れたキッチンタオルにぎょっとした顔になった。
「怪我をしたのか?」
「シュネーバルが鼻血を出したんだ。もうヴァルブルガが治してくれたぞ」
エンデュミオンがキッチンタオルを回収して、水の精霊魔法で洗い始める。
「鼻血?」
「チョコレートの欠片食べちゃって。シュネーには強かったみたい。袋に入れて麺棒で叩いた方が良さそう」
またうっかり食べたらと思うと危険すぎる。さっきは孝宏の心臓がきゅっとなった。
「シュネーバルは身体が小さいからな。シュヴァルツシルトにも注意した方が良さそうだ」
教会にいるのでチョコレートを食べる機会は〈Langue de chat〉に来た時位だろうが、司祭イージドールにも伝えておこうとエンデュミオンは言った。
「シュネー、気分悪くないか?」
イシュカがシュネーバルを椅子から抱き上げる。
「いしゅかー」
ぎゅっとシュネーバルはイシュカの首に抱き付いた。尻尾を機嫌良く振っているので大丈夫そうだ。
「シュネーバルは、今日は走り回らないの」
しかし、ヴァルブルガの行動制限通告には、へにょりと尻尾が垂れたのだった。
ちりりりん。
「いらっしゃいませ、ドクトリンデ・グレーテル、マーヤ」
「こんにちは!」
「こんにちは。又往診の間マーヤをいさせておくれ」
「ええ、どうぞ」
魔女グレーテルは複数の往診がある日は、マーヤを〈Langue de chat〉に預けていく。マーヤはその間本を読んだり、おやつを食べたりしているのだ。
「そこに入っているのはシュネーバルかい?」
「ええ」
グレーテルが指差した先にはイシュカが肩から吊り下げている青いスリングがあった。もこっと膨らんでいる大きさと、閲覧スペースのいつもの場所にヴァルブルガが居るから見当をつけたのだろう。
「今朝チョコレートの欠片を食べて鼻血を出しましてね。ヴァルが治してくれたんですけど、走り回れないのでふて寝してます」
孝宏は台所にいて作業をしているので、イシュカが預かったのだ。
「おやおや。どれ顔をお見せ」
スリングの布を広げ、グレーテルがシュネーバルを覗き込む。ふて寝と言う割には、白いコボルトは気持ち良さそうに眠っていた。
そっとシュネーバルの鼻筋に指を走らせると、プシッとくしゃみをする。
「綺麗に治しているね。チョコレートの成分も抜けている」
スリングを戻し、グレーテルはいつもの席で編み物をしているヴァルブルガの元へと向かった。マーヤは一足先にヴァルブルガの向かい側の椅子に腰掛けて、ヴァルブルガの編んだ物を見せて貰っていた。今回は焦げ茶色の毛糸で手袋を編んでいるらしい。特に今編んでいるのは小さなミトンで、シュネーバル用だろう。
「ヴァルブルガ」
「?」
名前を呼ばれ、ヴァルブルガが顔を上げた。緑色の潤みがちな大きな瞳が、グレーテルを映している。
「お前さん、魔女の免許を持っているね?」
「……うん」
ヴァルブルガは編み物を一端籠に置き、〈時空鞄〉から〈盾に十字〉が入った魔銀製のメダルを取り出した。成人の掌大で、赤いリボンが付いている。
メダルを受け取ったグレーテルはそれを裏返した。裏には師匠であるアガーテの名前の下にヴァルブルガの名前がきちんと刻まれていた。
「ヴァルは魔女なんですか?」
カウンターから問うイシュカにグレーテルが答える。
「正真正銘の魔女さ。免許があれば開業出来るんだからね。ちゃんと診療してお金を貰う事が出来るんだよ。エンデュミオンは独学だからと、治せるけれど大っぴらに治さないだろう? あれは免許がある医師や魔女を立てているのさ」
そして、免許を持たない者は治療しても代金を貰ってはならないのだ。
エンデュミオンが大々的に治癒魔法を使えるのは、災害時だろうとグレーテルは考えている。患者が死んでさえいなければエンデュミオンは、千切れた手足でも繋げられるだろう。つまり、規格外なのだ。
「妖精でも魔女になれるんですね」
「知識を相応しい者に継承させるのが重要だからね。相手は人でも妖精でも構わないのさ。ヴァルはハイエルンでは診ていたのかい?」
「子供だけ診てたの」
確かに子供は嫌がらずにヴァルブルガに診せただろう。靴屋オイゲンの孫のゼルマも診てもらっていたに違いない。
ヴァルブルガは人見知りなので身体の大きな大人は苦手なのだ。
「ヴァル、魔女の免許を持っている者なら、弟子を作らねばならないよ?」
「うん。解ってるの」
「シュネーバルかい?」
「シュネーバルがもう少し大きくなって、やりたいって言ったら」
ふふ、とヴァルブルガが笑う。
「そうだねえ、まだ子供だものね」
「うん」
「ところで魔女ギルドに所在地変更届は出したのかい? 服飾ギルドには出していただろう?」
魔女の免許を所持しているのなら、魔女ギルドに登録されているのだ。なぜなら免許を発行するのが魔女ギルドだからである。
「……まだなの」
人見知りヴァルブルガが自分で行く訳がなかった。
「往診のついでにあたしが届出をしておいてあげよう。リグハーヴスでは魔法使いギルドが代行してくれているんだよ。魔法使いクロエなら顔見知りだろう?」
「うん。有難う、グレーテル」
「人でも流行り風邪があった時には手伝っておくれ。あたしも寝込むかもしれないからね」
「うん」
グレーテルが返してくれたメダルを受け取り、ヴァルブルガはそれに頬擦りしてから〈時空鞄〉にしまった。
夕方になり、昨日から配達に出ていたテオとルッツが帰ってきてから晩御飯になった。
「おいしーねー」
「おいしーねー」
「ちぃーねー」
ルッツとヨナタンとシュネーバルがポトフを食べて笑顔を見せる。流石にポトフはシュネーバルも手掴みではなく、スプーンに挑戦していた。大工のクルトが作った子供用スプーンが大活躍だ。
イシュカにくっついて一日過ごしていたシュネーバルは、再度鼻血を出しもせずたっぷり昼寝をして元気いっぱいだ。
「え、ヴァルって魔女だったの?」
「だからゲルトの診察に連れていっただろう?」
イシュカから話を聞いた孝宏は驚いたが、エンデュミオンは知っていたらしい。流石に免許のないエンデュミオンだけで妖精犬風邪を診察するのは心許ないと、ヴァルブルガを連れていったのだそうだ。
そういえば誰かが具合が悪そうな時は、ヴァルブルガはいつも寄り添っていたなと思い出す。
魔女ギルドに所在地変更届を出しておらず、処方箋の用紙も持っていなかった為、言い出さなかったらしい。
魔女グレーテルが所在地変更届を出して、処方箋用紙も束で貰ってきてくれたので、これからは診察も可能になったヴァルブルガである。薬は〈薬草と飴玉〉で処方して貰える。
「おやつだよ。ミルクティーのロールケーキ」
皆で同じ物を食べようと、孝宏はチョコレートを避けたのだ。ミルクティー味のスポンジ生地に、ミルク風味が強いクリームをたっぷり巻いている。ヴァイツェア産の苺と温室で取れたミントも添えてある。
「いちご!」
「うん、シュネーが好きな苺も付けたよ」
ぴょこぴょことシュネーバルが椅子の上で跳ねる。座ったまま跳ねるのが器用だ。
「あのね、一寸待ってて」
椅子から降りたヴァルブルガが台所を出て行き、間もなく戻ってきた。
「これあげるの」
前肢に持っていた物を各々に渡していく。
「わあ、有難う。可愛い!」
チョコレート色のミトンの甲には皆違うモチーフが付けられていた。孝宏には鯖虎柄、イシュカは三毛柄、テオは錆柄のケットシーで、カチヤは小麦色のコボルトだ。面白いのは右手が顔、左手が後頭部なのだ。各々の憑いている妖精そっくりだ。
「うさぎりんごー」
「いちごー」
妖精達のミトンには右手が兎林檎、左手が苺のモチーフが付いていた。名前の頭文字も付いている。ミトンを落とさない為の紐も付いている親切さだ。
「あとね、シュネーバルにはこれもあげるの」
ヴァルブルガがシュネーバルに渡したのは、チョコレート色のコボルトの編みぐるみだった。青い魔石釦の目が付いた、シュネーバルと同じ大きさのコボルトだ。
ぱああ、とシュネーバルの目が輝き編みぐるみに抱き付く。ぶんぶん尻尾を振って喜ぶ姿に、孝宏はまた鼻血が出ないか心配になった。
手袋をしないグリューネヴァルトとミヒェルは、チョコレート色系でまとめたキルトでベッドカバーを作って貰い大喜びだった。
「編みぐるみがあったらシュネー、エンディ達に抱き付いて寝なくなるのかな」
こっそりテオが孝宏に疑問を囁いたのだが、シュネーバルがコボルトの編みぐるみに抱き付いて寝るのは昼寝のみで、夜はエンデュミオンかヴァルブルガに抱き付いて眠るのは変わらなかったのは、ここだけの話である。
身体が小さい為、チョコレートそのものは強すぎたシュネーバルです。
薄めのココア位なら飲めるかも。適量のチョコレート風味のお菓子を研究しそうな孝宏です。
野性児の為、目の前に食べられる物が転がって来たら、口に入れてしまう……。




